万博に行こうかと思っていたのだけれどなかなか情報にたどりつけない。ほんとうは大型連休あたりで行けたらよかったんだけど。今からでは飛行機も宿も厳しいだろう。もう少し世間がすなおに祭りを喜ぶ雰囲気で、各種のメディアでもチケットの取り方とかをやさしく解説してくれれば、今頃はとっくに予定を組めていたかもしれないのだが……などと、若干「人のせい」にし、自分「以外」のところに理由をもとめてみつつも、まあ私はそういう計画を立てることが苦手だからしょうがない、結局は自分のせいなんだよねと、いつもの結論に帰ってくる。伝書鳩並みに帰ってくる。
それにつけても近年は、逆張り勢というか、政府がかかわる事業なんでも殺すマンというか、そういう人間たちがなににつけても吹き上がっている。まあそういうポリシーで誇り高くやっている人たちはそうやって人生を突き抜けていけばいいんじゃないのと思うけれど、中には、そこまで強い信条をもっていないくせに、ネットが吹き上がっていて自分がたまたま手が空いているタイミングなら、とりあえずそこに同調しとけとばかりに、同調圧力どころか同調サーフィン的に空気を瞬間的に悪くするほうにベットしてすぐに立ち去っていく「空気の通り魔」みたいな人間がすごく増えた。その割合が妙に多く感じるのがどうも腑に落ちない。スポーツの国際大会とかにも言えることだが、すぐに文句や反論が満ちみちてしまう。おかげで、あらゆるイベントについて、ポジティブな気持ちのまま情報を得ることがむずかしくなっていて、ふりかえってみるとあれはなんであんなに叩かれていたんだろう、みたいに首を傾げることもけっこう起こる。本当にみんな、なんでもかんでも悪い方向にいっちょかみする、一億総野党みたいな世界になってしまっていて、うーん、本当にみんな、今のこの感じが「望ましい社会」だと思っているのだろうか。
SNSがものを動かしているなんて、今のわたしはあまり思わない。ただ、「SNSによって培養された菌がシャーレの中からしみだして周囲を汚染させてしまうような感じで」、ものが余計に動いてしまっているなあと感じることは、ある。
万博というものは、「学校に楽しさを感じたことがある人」だったら、内容が全くわからなくてもわりとおもしろそうだと感じるのではないかと思う。
あるいは、「昔は学校の良さがわからなかったけれど、こうして経験を積み上げて大人になった今なら、学校的なものについてもおもしろく感じられるかも」という人にはけっこうハマるのではないかと思う。
逆にいえば、学校なんて何がおもしろいのか全くわからない、あるいは、学校というコンセプトや体験自体にうらみを持っているというような人からすると、万博も同じようにいやな気分になるコンテンツかもしれない。
さらには、企業がばんばん金を払うイベントはオートフェアだろうがゲームショウだろうが全部嫌いだという人もいるだろう。
しかし、そういった「好き嫌い」が万人の中でいろいろとずれるのは当然のこととして、「開催したら喜んで出席する人はたぶんそれなりにいる」ということもまた、蓋然ではあるのではなかろうか。
そういうイベント自体をまるごとやるなとかつぶせと声高に言う人がいても、まあ中にはそういう人がいてもおかしくないとは思う。いてもいいと思う。
しかし、いてもいいけれど、やや声高すぎないか。今回の「万博に対して楽しみだと口にすること自体がめちゃくちゃ怒られそうな雰囲気」というのは、どうも複雑系の織りなす社会の姿としては、若干偏りすぎなのではないか。
仮に、私が万博を実際に訪れて、個人的にすごくいやな体験をしたとしても、私はSNSにそのことをたぶん書かない。絶対に書かないとは言わないが、これまでの経験をふりかえっても、まず書かない。なぜかといえば、万博くらいでかいイベントともなると、それはたまにはいやな思いをする人もいて、それは確率的な問題で、それに私があたってしまった、要は、運が悪かったな、という捉え方を私はする。運はいいほうにも悪いほうにも転ぶはずであって、私がいやな思いをした場所で、いい思いをする人もいるのが普通だ。「私はたまたまいやだったけど、それでこれを楽しみにしている人の思いを壊してしまうほどではないかなあ」という判断をする。まあ、信じられないくらいに腹にすえかねて、運営に絶対にいやな気持ちになってもらいたいと願って、SNSにめちゃくちゃに悪口を書く自分が、絶対に登場しないとは言わないが……たぶんしないと思う。これまでもしてこなかった。
このようなふるまいは、そんなに特殊なことでもないと思う。
私と同じような判断をする人は、今でもけっこういるだろう。「しゃべらない」という選択肢をとると、拡散されなくなるから、目に見えなくて、マイナーな感じに思えてしまうが、本当はみんな、人前でべらべらしゃべっていない、あえてしゃべらないことをけっこう選ぶはずだ。「まあ黙っとこう」という選択肢。
わりとみんなそうなはずだ。でも。
私のかんちがいだったのだろうか。
「自分が体験してなくても、誰かがいやなことがありそうだと言ったくらいの段階で、平気でそれに便乗して、いやだいやだと連呼しはじめる人」が、こんなにたくさんいたのか。近頃はけっこう、びっくりする。
このことを、「SNSは悪意を増幅するから」みたいな短い言葉でかんたんに説明していいのだろうか? システムとかネットワークのせいにしていていいのだろうか?
一人ひとりが、ちょっとずつ、雑に、下品になっているから、ということは、ないのだろうか? ちょっとずつでいいから、上品なほうににじりよる、努力くらいはしたほうが、いいのではなかろうか?