生き物地球奇行! 奇行をくりかえす私もまた地球に暮らすひとかけらの断片である。私が世界を語るのではなく世界が私を通して世界を語る。だから、つまり、したがって、奇行は私ではなく地球のしわざなのだ。地球バンザーイッ! 地球をばんざいして持ち上げたら逆立ちになってしまった。アマテ・ユズリハの登場シーンが逆立ちだったのもおそらく私と同じ結論にたどり着いたからなのだ。わからないけど、なんかわかった。隙間の向こうが稲光のように輝いて、私は今日も、世界が世界を語るための声帯として振動を繰り返す。鼓膜が共振する周波数をえらべば、声帯が音を発すると同時に鼓膜も語りだす。それは、音の伝播による聞こえ方とはきっと少し違うんだろうけれど、何が違うかを説明するのはすごく難しいだろう。
こうやって、投げっぱなしジャーマンを連続で放つような文体で、昔のアニメやB級映画の監督は、キャラクタにとつとつと意味がありそうでないことをしゃべらせ続けた。それはクリエイターたちにとっては単なる逢魔が時の手遊び、シナリオ以前のエスキスであったろうのに、一部の視聴者の心のひだをうっかり共振させてしまうくらいには、意味がありそうな無意味、雰囲気だけのクリエイティブではあった。語ることがないのに、ほかにもなにもないばっかりに、せめて語ることで何かをほりだしてこようとたくらむから、こういうことになる。
ある会から、講演をする病理医を探してくれとたのまれて、内容を精査して依頼を出そうと思ったのだが、ふと、これは私がしゃべってもよいのではないかと思い、おずおずと「不躾ながら、小生がお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」とメールを送ったところ、
「先生おんみずからお話しされるなんて、もってのほか、いえ間違えました、願ってもないことでございます。」
というメールが送られてきた。震える。偉いのにウィットがあって毒が効いている。このタイプの人間は全員化け物だ。化け物の相手はしんどい。ところでぜんぜん関係ないけど、『チー付与』で、魔物とモンスターとを区別しているの、あれ、おもしろいと思った。そこは普通はいっしょだと思うじゃん。でもあの世界では違うんだ。そういうことは言葉の壁をちょっと越えるとほんとうにどこにでもある。お米とライスはまるで意味が違うもんな。
講談社学術文庫でわりと最近刊行された、木田元の『メルロ=ポンティの思想』がおもしろい(底本は40年前の発行で、このたび文庫化)。何言ってるのかぜんぜんわかんないところがいくつもあるが、たまに、ものすごくぶっささるような文章が転がっている。すごく時間をかけて読んでいるのだけれどおそらく著者が言いたいことの1%も理解できていない、けれど、その1%が自分をおもしろいところに連れて行ってくれるかもしれない。
終盤付近。
”こうして、問いかけとしての思惟とは、
存在者を所有しようとするのではなく、見ようとし、それをピンセットではさんだり、顕微鏡の対物レンズの下に固定したりしようとするのではなく、それを存在させ、そのやむことのない存在に立ち合い、したがって、存在者が変換を要求するくぼみや自由な空間をそれに返してやり、存在者が求める反響をそれに与え、存在者の固有な運動に従うような、したがってそれ自身も、充実した存在によって充たされる無などではなく、多孔性の存在社へのふさわしい問いかけであり、……それが手に入れるのは答えではなくおのれの驚きの確証である、といったような [VI 138]
知覚そのものだということになる。哲学とは、「おのれ自身に問いかける知覚的信念」 [VI 139] にほかならないのである。”
思惟の対局に顕微鏡を置く。いかにも哲学者のふるまいだ。なにくそ。