外交官が楽しそうに出席するビュッフェパーティーといっしょ

アプリ「Nintendo Today!」をダウンロードした。SNSという生活道路を使う理由がまたひとつ減る。リズム天国の新作が出るのは来年か。まだちょっと先だ。久々にブレワイでもやり直そうか。マリオワンダーはこないだ子と一緒にクリアしたっけな。そんなことをつらつら考えているときに、某研究会の事務局から、私に理事だか評議員だか就任の連絡が届いて、担当者からのメールを開くと、内容の1/2が「次のニンテンドーダイレクトが楽しみですね」という内容だったので笑う。理事はおまけ。たしかにな。そういう人生のほうがいい。

ちなみにこの担当者との付き合いはそこそこ長い。私がまだ熱心にSNSをやっていたころにツイートを見てゼルダシリーズをそれなりにやり込んでいることを知ったらしく、業務のメールにたまにゲームの話を紛れ込ませてくる。これがじつに実用的で正直ありがたい。ゼノブレ、やる気はなかったんだけど、そう言われるとやりたくなるわなあ。Switch 2の続報は確かに気になるわなあ。


先日インタビューしたとある医者が、「趣味がない」と言っていて、心の底から共感した。家に帰らないと家族に/職場に/世間に/社会に怒られるので帰る、けれど、ほんとうはずっと仕事していたい、というのをかなり気弱に述べており、胸が熱くなった。まったく同感だ。本当にそうなのだ。仕事という言葉は、生活と同じくらい広い。「仕事ばっかりしている」というのは「生活ばっかりしている」と同じくらい、「ん? で具体的には何?」と引っかかるべき表現だ。それでも人に向かってあえて「ずっと仕事していたい」と述べるのは、世間が、仕事を生活のようにとらえている我々に、「そんなに仕事ばっかりしないでちゃんと生活もしなさい」みたいなフォーカスのずれたことを言ってくるから、それに対するエクスキューズというかポーズとして「ほんとうは仕事がいいのに」と言い続けているだけであって、そうしないと容易に社会という実態のない津波に飲み込まれてしまうので、仕方なく言っているにすぎない。その感覚が完全に一緒だったので、私は、もう、嬉しくなって、思わず笑ってしまった。

仕事という大きな概念の中にふくまれる、交流、交渉、交換、交見、そういったものの具体例としての、指導、調整、事務、作業、その実務レベルでの、外来、カンファレンス、会議、処置、手技、沈思、黙考、どれだけあると思っているんだ、充実しすぎてお腹いっぱいでほかにはもう何もいらない。念のため書いておくが、給料がもらえるはたらきのことを仕事と呼んでいるわけではない。そもそも、はたらくから給料がもらえるのではない。仕事の中の一部である、雇用者に対する奉仕という建前的主張が、たまたま認められた場合に金銭が発生しているだけで、つまり仕事をしている時間がすべて金銭になるなんてこと思っていないし望んでもいないのである。それは趣味といっしょだ。趣味なんてものはやればやるだけ金が減っていくのが普通であろう。仕事をすればするだけ金が減ったとしてもそれは別に、生活といっしょで、そういうこともあるだろうなあ、というか、人間が食って出して吸って吐いて生きていく過程で金も入ったり出たりしないとおかしいだろう、くらいにしか思わない。


でもまあそのうちやるよ。ゲーム。ゼルダの新作が出たらね。リズム天国も、やるかもしれない。それは趣味というよりも、仕事の一環として。私が社会と断交しないための、大事な交易として。