最初に説明を受ける。そういえばエンジンのかかりが悪い日があったかもしれない、と、誘導されているかのような問診を終える。エンジニアは「ひとまず開けてみますね」と、人体であったらブラック・ジャック以外にはそう簡単にはできないことを言うのでうらやましい。
電子制御部品の一部がうまく動かなくなっていた。私が見たわけではないが専門家が言うのだからそうなのだろう。部品代が30000円くらいする。車の中に入っている制御機構の値段ということを踏まえるとわりとオトクな値段なのかもしれないが、それはともかく普通に高いのでがっかりする。医療費を払う立場。自分では現象もメカニズムもさほど実感しきれていない(どこか不具合があるということはわかるにせよ)。でも、ここが悪いと言われてここをなおしますかと言われて、そりゃあ、悪いとわかってなおさずにいるわけにはいかないでしょう、と、少し眉根をひそめながら財布を開けるときの感覚。ほんとうに部品が壊れているんだろうな、騙されてるわけじゃないよな、車のほうに警告灯が光るように仕込みをしておけば、私はそれが異常だと信じるしかないわけで、しかし、提示された金額にはいろいろと細かな解説がついていて、その部品名も機能も何一つよくわからないのだけれど、これだけ書かれると、たぶん本当なんだろう、本当だと思わないとこの場はおさまらないのだろうと、強迫されるような感覚で、自分がさわれもしない内部のメンテナンスのために金を払う感覚。
そういえば財布を持ってこなかった。ちかごろはスマホと免許だけ携帯していてあとは何も持ち歩かない。聞くとペイペイでも支払いができるというので助かった。まあ仮に何もなかったとしてもクレジットカードのオンライン決済くらいはできただろうからじつはそこまで気にもしていない。それにしても払うという言葉の「はらい」感が薄れたなあと思う。財布のいりぐちを親指で開けて中からお札なりコインなりを取り出して相手に渡していくところはまさに「はらい」だった。近頃ぜんぜん「はらってない」。スマホを光らせて音を鳴らす。支ピカい。支ピコい。支ペイペイ。
物理的な金銭が必要な場面は限られる。札幌郊外のゴルフコースの脇につくられた打ちっぱなしの、 ボールがガタゴト出てくる機械は100円玉専用だ。電子決済など採用される雰囲気もない。うちの病院の食堂も(職員専用スペースのほうは)現金オンリーだ。券売機に旧札が入らないので食堂のおばちゃんにお金を渡して交換してもらうシステムである。だいたい、私の周りでは、その2箇所くらいだ。今も現金を持っていないと困ってしまう場所。ほかはスマホで行ける。
スマホで払えないのは不便だ。おかげでこれらの場所には人があまりこなくなっていつ行っても空いている。便利だ。でもそのうち潰れる。不便だ。不便、便利、不便、便利、ギザギザに、上下しながら不時着していく水上機。不便と便利を交互に書いていると便秘と下痢を交互に記録しているような錯覚をする。体にいいとは思わない。でも生活とはそういうものだろう。
車の修理をしてもらっている間に太田充胤『踊るのは新しい体』を半分くらい読む。問いかけがおもしろくてぎょっとする。著者は内科医師でありダンス経験が長くて批評をよくやっている。東大の哲学の博士課程にいるのかな。そのへんはよく知らない。ネットにたまにおもしろい文章を載せていて、昔からたまに見ていた。新刊はその、ネットのおもしろい文章を組み替えて全体の流れに整えたもので、私の興味にわりと近いところをずっと走っていく。Mikumikudance (MDD)やVtuberの話、金森修の『人形論』のこと、人と人以外のものの境界、動物、石仏、そして人形、石黒浩の仕事とのかかわり、みたいなところをずっと走っていく。インターネットを見ているとそこそこありがちな切り口だが、その切り口に塗り込む塩が少し特殊で、塗り込まれたほうの悲鳴もその分だけ特殊になるので、全体的におやっと驚かされる感じがあり刺激的である。その中に森山未來の話が出てくる。まあ正確には森山未來の話ではなくて、森山未來が機能していなかったある試みの、森山未來と対置されたある人形の話なのだけれど、私はそのくだりを読んで、そうそう、森山未來ってのは何とコラボしても森山未來のほうにしか利がなくなる、コラボ泣かせ、強すぎる香辛料(例:カレー粉)みたいな存在だよなということを思った。いつだったか、Number GirlだったかZazen boysだったかどっちだったか忘れたが、彼らのアクトの前で森山未來が自分のやりたいようにダンスをするという便秘の後の下痢みたいな垂れ流し動画を見て、なんでそういう余計なことをするんだ、森山未來そのものにはさほど悪感情はないにせよ何かと森山未來をコラボさせる人間のことは全員恨もうと決めたので、今回の、ある人形とのコラボの話も、そりゃあ森山未來とコラボしたら何も起こらないよな、と、見てもいないのに納得してしまった。しかしまあそこは本筋ではない。私が今日、車を直しに来たのも、思った何倍も金がかかったことも、スマホで支払えてしまったことも、ぜんぶ本筋ではないのと同じように、森山未來という文字列を見るだけでなんかちょっと不快になるのは森山未來が悪いわけじゃなくて森山未來で金儲けをしようとする人間が悪いんだと細かいニュアンスを重ねて説明していることも本筋とは全く関係がない。しかし本筋なんてものはそもそも動かしようがないものであり、結局私達が自分の人生において何かを調整できるポイントとなると、それはたいてい本筋とは離れたところにある枝葉末節で、今日のはやっぱり「ドライブできる部分の話」なのであろう。それはダンスという営為が身体によって規定されている、縛られているという太田充胤の、あるいは四足歩行の電子クリーチャーがテトラブレイクなるダンスをするというテッド・チャンの思惟と見立てともわりと関係があって今日は比較的よくまとまったほうだなという感想。