雨垂れ石をアパツ

再読とか再話といった「再」の仕草によって、近頃の私は形作られている。繰り返し読み、繰り返し語る。同じ木を同じカンナでこするたび少しずつ違った木くずがだいたい似た感じで舞い上がる。

ホメオスタシスの基本は細かな再帰的フィードバックにある。


牧野智和『社会は「私」をどう形作るのか』は、本人も述べているように、統計的研究や数学的証明には必ずしも立脚しない経験的な手さばきによって語られている部分が多い本である。立証されたものを読んでいるというよりは、仮説の形成に伴走させられるようなつくりになっている。版元がちくまプリマー新書なので建付けとしては中高生向けということになっているけれど、ふわついた中に薄い甘みを潜ませる感じのメレンゲ的な余韻の長い味付けで、初学者だからメッセージ量を減らそうみたいな雑な商業的処置をさほど感じないので、わりと私くらいの中年が読んでもいいのかなと思う。牧野智和の語りの多くは私が前々からうっすらぼんやり感じていた、
「ころころその場しのぎで自分の手持ちの部品を投げたり引っ込めたりすることの総和が『私』であって、そもそも本質的な私の行動なんてものはないし、私を規定するアイデンティティなんてものもじつはそこまではっきり存在しないのではないか」
という推測に、いい意味でも悪い意味でも「都合のいい」ものであった。

場面ごと、相手ごとに違った自分を毎回組み立てる。社会と自分との間に「私」が一時的に形成される。それは日雇いのバイトで回す建築現場のようなものだ。私とは短期的にはわりと一期一会のおもむきがあるものである。しかし長い目で見ると、突貫的に私を組み立ててまた解体していくことを何度もくりかえしていくうちに、そのくりかえしの中に、わりと勝率のいい「姿勢」があるなとか、わりと居心地のいい「腰掛け」があるなといったことにだんだん気づいてくる。自分の快や安の欲望が傾向として導く・再帰する場所が浮き上がって見えてくる。それが私にとって、何度も読む本であり、何度も書くブログ記事のテーマなのだと思う。

「私」というものがそこまではっきりしたものではない、という私の見立てが真実だとすると、ときに、自分を世界観測の座標の位置補正に使うことができなくなっていく。アイデンティティが不定なのはよいにしても確率的にだいたいこのあたりに収まっていると言えたほうが純粋に利便性がある。電子の分布を雲状にプロットするような、量子力学的重ね合わせの私。「これが私とはいえないが、このへんのどこかに、私」。空間的には不定で確率的だが時間軸を畳み込んで次元圧縮するとそこそこの弾性を持った固体として顕現する、私。いくつものレゴを買って混ぜてしまったおもちゃ箱の中から毎日なんとなく違う違うブロックを取り出して作り上げる、けれども使われる屋根とか車輪とかにはある程度の傾向というか好き嫌いがどうしても出てきてしまう、似て非なる、もしくは、「非」で「似」たる、私。そういうものの確認行為、再帰。再読。再話。まあそういうことなんだろう。

再読や再話を行おうとする、というか、行ってしまう、自然とそうなってしまう、理屈はだいたいこんな感じなのかなと思うのだが、その結果起こることは、前回と今回との差分を見るともなしに感じてしまうということだ。一度食べたことがあるものを再び舌に乗せたときに前回と違う味がするなと感じてすぐに私は「この前に何を食ったかな」とか「前回と今回では体調が違うのかな」といったように、そのもの自体に再帰する一方でその周辺にあるものにだんだんと感覚をにじませる。にじみ出ていく。浸潤が起こる。再帰することでより深く読み込み感じ取るというだけではなくて、再帰によって体験の輪郭が再構成されてそもそも違った体験にずれ込んでいくということが毎回ちょっとずつ違う感じで起こる。それはもはやくりかえしではないし、きれいな形をしたらせんとも異なっていて、ピッコロ大魔王(マジュニアのほう)が放った魔貫光殺砲ほど整ってはいなくてたぶんジャッキー・チュン(武天老師)の萬國驚天掌くらいごつごつトゲトゲとして、その場にあり続けながらも絶えず形を変える海岸の波の打ち寄せなのだろう。この話は前もした。この話は前も読んだ。しかしその登場のタイミングは違うし受け止める私の心もまた違うしそもそも私自体も前とは違うがなぜか同じ部品を何度も取り上げてためつすがめつしてしまう。アパツアパツ。アパツアパツ。