出張。Xはいまだにフォロー制限が解除されず、16人しかフォローできなくていろいろ不便。でも今日から出張だからインターネットのことをしばらく忘れていられる。もうXに期待するのはやめよう。何にも期待することはやめよう。他人にも。自分にも。時間にも。いろいろ忘れよう。予定の時刻より2時間早く(フライト予定より、ではなく、フライトに備えていつも到着する時刻より、なのでだいぶ早く)空港に着くように移動する。そのために昨日はあれだけ働いておいた。目の下がまっくろだ。でもここからの3泊4日で全部回復してやるんだ。いいだろう。うらやましいだろう。えぇーうらやましい。いいなぁー。昨年の私と来年の私が嫉妬に駆られた声をあげる。
空港に到着。印刷しておいたQRコード(アナログ~)をみると、思ってた時間よりもフライト時刻が1時間40分ほど遅い。うわあ。まちがえた。11時台かと思ってたら13時台かよ。えっ、まじかよ。なっ、えっ、あっ、まじかよ。着陸してからご飯食べようと思ってたのに。離陸する前に食べないとだめじゃん。なんだこれ。どうしよう。映画見に行こう。決断は早い。しかし空港の映画館に行くと、適度な時間のプログラムはコナン君しかやっていない。コナン君こないだ見たばかりだ。こんなことなら今日まで取っておけばよかった。ミッション・インポッシブルもやっているのだが、これを見ると絶妙にフライトに間に合わない。まあもう間に合わなくてもいいか。ミッション・インコンプリートになってしまうからだめだ。空港の温泉に行く。時間が有り余っている。温泉ならば時間が使える。決断は早い。温泉。受付の方が中国なまりの日本語をしゃべっている。時代だなあ。笑顔満開だ。時代だなあ。聞いた話だが中国ではビジネスの範囲内の付き合いにすぎない相手と笑顔で接することがめずらしいという。そんなこともないのかな。まあ聞いた話なのであまり真に受けないでほしい。でも、たしかに、思えば、飲食店などでは中国の店員さんはめったに笑わない。ある意味真実の一端は述べているのだろう。印象論で申し訳ないが。しかし、温泉の受付の方は笑顔だった。日本向けにアレンジしてくださっているのかもしれない。努力があるのかもしれない。いずれにせよありがたいことだ。
温泉の入口を写真に撮って、私の教え子を含むごく一部の人しかフォロー許可していないインスタに載せたところ、風呂上がりに教え子から連絡がきていた。「今度沖縄でこの温泉に行ってみてください」。えぇー沖縄行く予定ないよ。「沖縄に出張で行くことあるんですか?」行きたいけどあそこスーツで行く場所じゃないと思う。そして私は自分が仕事の予定以外で移動するイメージがあまりわかない。困ったものだ。最後に沖縄に行ったのはいつだったか。息子と日本縦断したときか。あのときは、沖縄には2時間程度しかいなかったはずだ。日本縦断には時間的にも金銭的にも余裕がないから旅情もない。しかし家族の情はあり思い出にもなっている。
出張。今回の出張では3つの仕事をする。途中、陸路で移動する。通過する都府県の数がいくつになるだろう。Googleで検索してみる。「山形から京都まで 通過する都府県の数」。AIが出した答えは5つ。そんなわけないだろ。何を学んで何を最適化したらそういう答えになるのだ。地図を出して自分で数えてみたらたぶん11個。山形新幹線ってのがあるんだな。乗ったことがない。はじめての経験だ。そうかサンキュータツオさんがいつも乗っているのはこれか。いちど仙台に出ないとだめなのかと思っていた。自分ですでに新幹線の切符まで取っているのに、頭の中にルートがきちんと表示されていない。検索、オンライン予約、オンライン発券、そういったことばかりやっていると、自分がこの先、自分の身体で体験するはずのものを、脳内CGとして描けない。こういうときの自分の情報処理は映像というよりも音声を扱っているのに近いようにも思う。順列がある感じ。文字が文字を連れてくるような感じ。小さく前倣い。文字情報が文字情報のために展開されて文字情報のまま背景化してその上にまた文字情報。ベクトルの内積を取り続けるような。わかった気になっているけれどじつはなんにも「思い浮かんで」いないから移動中にどの県を通り過ぎるかもすぐには思い浮かばない。そんな私の思考は現実からどんどん乖離していく。AIと何が違うのだろう。AIは人間の姿を学習しているからこそ信用できないツールに着々と育っていくのだなとふと思った。AIが信用できないのは人間だからだ。ああ、すばらしいなAI、人間が滅んでもきっと人間の姿を後世に残してくれるだろう。
ちかごろ毎日のように見かける言説というのがある。「こういうのはまだAIには無理だから云々」。だから人間には価値があると言いたいのか、いや、だから自分の仕事にはまだ給料が発生すべきだと言いたいのか。いずれにせよ、私たちが私たちである必要は急速にマニアックな領域に限定されてきている。これらの言説が増えれば増えるほど逆に人間である意味は矮小化していくように思えてならない。私のやれることがすべてAIの劣化版だったとしても、私は私の欲望のために、働き続けたい、暮らし続けたい、生き続けたいと、堂々と宣言して、荒野に仁王立ちして、自動運転の戦車の一個師団に蹂躙される、そういう言説を読みたいと願うけれど、ふみつぶされた人間からは、もはや私の手元に届くほどバズる文章は漏れ出てこないから、たどりつけない、どこかにはあるはずだ、しかしAIの学習からは漏れて漂ってしまっている、だったら、自分で書くしかない。人としての断末魔。断末魔ってすごい漢字だな。人は最後に悪魔になってしまうのだろうか。断末人でありたい。字面がどことなく未亡人に似ている。