シャロンの薔薇

目の周りに血が足りてない、と感じるが、この感覚はおそらく、鍵盤の上に置いた指と鳴り響く音の関係、あるいは磁場を送ってプロトンを共鳴させてスピンの度合いによって画像を生成するMRIのメカニズムみたいなもので、形とか圧とかがそのまま反映されているのではなく、なんらかの変換を経た記号的なものだと思う。つまりこの、目の周りに血が足りていないと感じるときの重苦しさ、目の開けていられなさというのは、目をつぶって何もしないで休息したほうが統計学的には生殖可能年齢を超えて長生きできるという、適者生存の理によって導かれた生きる知恵みたいなものであって、ほんとうに目の周りに重苦しい何かが沈着・鬱滞・浸潤しているわけではない。目を開けたからといってすぐさまそこで何か痛いことが起こるというわけでもない。仕事を続けたからといってすぐさま眼窩底が爆発するというわけでもない。変換の手前に目配りすれば、狂った体調を意志によって元に戻すことができる。さらにいえば今の私はとっくに本来の人類の平均年齢を超えて生存しているわけで、進化的に備わった危機回避能力もおそらくは10代後半から20代前半にかけて種の存続を果たすために必要な機能だったはずであり、今の私に発揮されたところであまり意味はない遺物なのだから、形骸化したアラームの安全装置を故意に解除して人体をハックすることに後ろめたさがない。

「体は正直だ」とか、「疲れたら素直に休んだらいい」とか、「体調不良は人体が発しているシグナルだ」とか、「ガンダムが言っている」みたいな話をうのみにせず、中年というものは多少体が重かろうが足が動かなかろうが目が開かなかろうが気持ちを奮い立たせて仕事に邁進すべきである。いつまで体の言う事をまじめに聞いているのだ。子離れできない親のように体離れができていない。自分の身体を愛でることがアイデンティティとして許されるのは40代前半までだろう。そんなひまがあったら他人の精神をあたたかく愛でたほうがどれだけ豊かになれることか。



先日の会議は17時半開始だった。主催者が「時間外ですみません」という。思わず私は「時間外なんて言葉ひさびさに聞きました、ずいぶん懐かしい言葉ですね」と答える。主催者は驚いた顔で「むかつくー! うちの施設だいぶきびしいんだからね! 時間外とかもうぜんぜんつかなくて自己研鑽でつるっつるなんだから!」といきりたつ。私は「自己研鑽! 一番好きな言葉です! 私も大好きなムーブメントです!」と返す。きれいに会話がかみあっていて列席者たちも目を細めて拍手を送っている。二言目には「最近は若い人に勉強してもらうのがとても大変だ」、「時間外とか自己研鑽とか厳しくなって若手がなかなか成長しない」などと言いがちな中年たちを見ていてつくづく思う。私が20代のころから若者はもともと勉強なんかろくにしなかった。寝食を忘れて臨床に没頭するようなタイプは今と対してかわらず全体の30%くらいだった。口を開けば「自分の時間を大事にしたい」だった。なんでそんなに記憶をゆがめてまで今の体制や今の若者をやりだまにあげようとするのか。そもそも40代後半から50代前半というのは時代という雑駁な鈍器で若者を殴りたくてしょうがない時期なのだろう。そこそこの経験とだるだるの反射によって自分の活動が最適化されて「動きすぎるモビルスーツに乗ってあわてるオールドタイプの気分」になってしまったあげく、まだ躊躇も熟慮もきちんと備わっているからこそ八面六臂になりきれない若手に向かって「俺達の若い頃はもっと研鑽していた」と言いたがる。赤面するほかない悲しく情けないお年頃なのだ。いちいち真に受けていられるか。「大学は時間外に厳しくなった」? ほんとうに昔と比べてそう言っているのか? やる気のある若手の割合なんて、昔も今もたいして変わらないし、雇い主が文章にしたからといって、そこまで目くじらを立てるものでもあるまい。残業代をあてにして車を買うみたいなケチな金銭感覚のあてがはずれただけだろう? 人間のやる気の向く方向はたしかに万別だ。しかし少なくとも若手のそれに関しては、私たちが私たちの価値観で測って図れるものではそもそもない。だいいち、時間外ってなんの理の外なのだ。次元外自己研鑽。ララァ・スンがまっすぐつぶやく。向こうの世界で何度やり直しても大佐は白いモビルスーツにタイムカードを勝手に押されたあとに論文にならない画像と病理の対比をつづけて過労で目の周りの血が足りなくなってしまう。凍結したモビルアーマーの中だったら目が休められていいのかもしれないと私は思った。