小骨

重めの原稿を書いていた。自分の指から出てくる順列に既視感があった。あっ、これ、進研ゼミで問いた問題だ! のイラストとともに私が思い出したのはbloggerの編集画面。そうか、この話題、前にブログで書いていたのか。急速に気持ちがしぼんで1ページ半くらい消す。

何度書いてもいい文章というのもあるが、今回私が扱うこの原稿については、「はじめて思索の荒野を切り開くときの気分で書く」ことが大事であるし本質である。「はじめて考えるふり」ではだめだ。初見の衝突がないと論理が駆動しないままに言葉だけがするするつながって中身すかすかの文章になる。その言葉の次にはその言葉がまあそりゃ来るよね、という、定石どおりの打ち回し。「著者の思い」を入試問題で問われてインタビューで「えっ、だったら、私もこの問題、解けませんねw」などとテンプレ通りに承認欲を満たして2ちゃんねるでコスられる。

ナタでブッシュを左右に切り分けながら道を確保。ナタを持った右手に枝先がかすって切り傷が無数にできる。そのじんじんとした痛みを無視しながらなおもガスガス下草を漕ぎ分けて進む。そういう感じの手順を踏まないとこの文章は完成しないだろう。まだ全体の10分の1にも満たない地点。思った以上に書けない。もっと早くできるかと思っていた。

考えて書くって大変なことだ。書けてしまってから後で考えることばかりやってきた。

「未知を既考に変える瞬間の爆発的な思考のこんがらかり」を書く。自分の実力を二歩くらい通り過ぎた場所の仕事をしている。

かれこれ1年くらい、ぬか床に沈められているWordファイル。ときどき取り出してもう食べられるかなと思うのだけれどいつまで経っても発酵が進んでいかない。さりとて腐敗もしない。蝋人形のように時の停滞した素材。はしっこをかじってブログに書いてまた戻して、を繰り返している。よくないのだろう。しかしブログをやめたところで文章が劇的に進んでいくだろうとも思わない。




たくさんの人に読んでもらうための手法を、雰囲気で嫌ってちょっとずつ排除することを、これまでもやってきた。でも今書いている文章ではそれがより顕著だ。「考え込みたい人だけに最適化した文章」をめざす。たくさんの人に読んでもらわない。読みやすさ、キャッチーさ、ポップさを、本当はそれがある種の栄養であるにもかかわらず、「小骨」だと思って取り除く。あまりそういう書き方をしたことがない。エッセイはもちろんだが教科書であっても私はこれまで八方に美しく思考が飛び散っていくのをそのままにしてまとまりのない文章を書いてよしとしていた。その雑多な部分にあるいは私なりの味付けがあった。美食ではなかったかもしれないがB級グルメにはなっていた。大トロ、中トロ、ホホ肉、中落ちみたいな名前のついたうまい部位だけでなく、まかない用の端材も含めて飯の上にのっける海鮮丼手法。でも今回は赤身だけだ。ミトコンドリアが一番多い部分だけだ。わさびも醤油も使わない。食通であってもそれはもったいないと嘆くだろう。しかしそういうものを書きたいと思っている。少年は赤身を目指す。だれが少年だ。こういうのが小骨だ。