さげすまないサゲ
人間が嫌いなので
そうだおそれないでみんなのマンメンミ
ドルルンドルルンとエンジンの音が鳴った。そういうのはアメリカでやれ。屋内駐車場でやるな。改造マフラーは破裂音を繰り返した。運転手の顔が見えた。角刈りだろうか。目がらんらんと光っていた。昔のカメラで撮ったときの赤目のような。頭が悪いだろうと思った。ひどい言い方をする。私の本性とはその程度のものだ。しかしそれくらい言ってやってもいいだろうとも思った。そういうのは砂漠でやれ。砂漠に響く改造車のマフラー音を思って私はすこし恍惚とした。見てみたいものだ。タイヤは空回りし運転手の口の中に乾燥しきった砂が一気に流れ込んでいく。気管支の八次分岐を越えて肺胞上皮の表面に砂が付着する。マクロファージが反応できずに直接II型上皮が障害されてフィブリンが析出し、硝子膜が形成されて頭の悪そうな運転手の呼吸は急激に促迫する。あえぐ声をかき消すマフラー音。頭の悪そうな音が砂漠を遠ざかっていき三日月型の砂丘に反響して真の環境音楽と化す風景を私はまざまざと思い浮かべた。
車に興味がない。洗車もばかばかしく感じる。靴を磨くほうが建設的だ。しかしあまりに汚れすぎた車をしかたなく洗い始める日はある。晴れた休日。金属をどう拭いてきれいにするかという一連の手続きのところに、じつはそこそこ興味がある。洗車の目的=車をきれいに保つことは心底ばかばかしいと思うのだけれど、洗車という作業自体はおもしろがっている。どういうシャンプーを何につけてどうやって磨いていくか、どれくらい洗ってどれくらい乾かしてワックスをどう選ぶか、といった作業の選択の過程は楽しい。目的に価値を感じないが手段には価値を感じる。逆を述べる機会のほうが、普通は多いのではないか。私だって、そうだ。目的のためなら途中の手段はどうであってもいい、そっちのほうが普通なはずだよな。たとえば……金とか。どういう手段で手に入れても、結果として大金が手に入ったらそのほうがうれしいだろう。うれしいはずだ。……そうだろうか。待てよ、と思う。ちょっと考え直す。
私は、おそらく、そうではない。金を手に入れるという目的よりも、金を手に入れる手段の段階で一番興奮している。この手段をこう調整することでよりたくさんの金が手に入る、というとき、「たくさんの金」に興味を持っているのではなく、「たくさんの金を手に入れるための研ぎ澄まされた手段」を自分が扱っていることがうれしい。結局これは、洗車に対するスタンスと同じだ。◯◯のために本を読む。◯◯のためにどこかに行く。考えてみれば、すべて同じだ。目的よりも手段のほうに気を取られて目的はだんだんどうでもよくなっている。なるほど。そういう心なのか。そんなものかもしれない。
何のために生まれて何をしてよろこぶ、わからないまま終わる。そんなのはいやだ、とアンパンマンの歌はうたう。「何のために生まれて」は別にわからないまま終わってもいい。しかし、「何をしてよろこぶ」については、たしかに、わからないまま終わるのは、いやかもしれない。件のバカの車はやけにピカピカと磨かれていた。私がインクリングだったらスプラローラーでパステルカラーに踏み潰したあとフロントガラスにキューバンボムをべっとりくっつけてやれるのに。
ベーシックツラインカム
目的があってそこに向かっていく、昔のマリオ(右にしかスクロールできない)みたいな人生を、20代から30代にかけてなんとなくやってきた。そういうものでいいかなと正直考えていた。それが、30代の中頃くらいから少しずつオープンワールド化してきて、ブレワイやティアキンのように常に未達のクエストをいくつか抱え、わりと大きな目標はあるにはあるのだけれど、そこに直行するとゲーム自体が一段落してしまう、それがいやで、当分の間はガノンも倒さないしゼルダも助けないで、素材を集めたり祠を踏破したりといったサブクエにいそしみ、大目標を達成するために小目標を積み上げているというエクスキューズを掲げながらじつは大目標の方面を丁重に避けてうろつく暮らし、に完全に移行した。
今になって若い人を見回す。あるいは、自分が若かったときに周りにいたひとたちのことを思い出す。かつての私のように「人生とはマリオである」と考えている人間が決して主流派ではない。もとから世間には、いくつものサブクエをこなしながら、メインクエストもまあやぶさかではないけれどもうちょっと先でいいよ、みたいなスタンスの人がたくさんいた。私はどちらかというと遅ればせながらそういう「普通の人生」に参入したのだろう。結果的にかなり遠回りをした実感がある。
成長よりも整腸だ! 「レベルを上げなければ先に進めない」から、「健康で持続していればレベルも自然と上がっているはずだし、今の時点で進めない場所にはそもそも進むべきではない」という方向へと舵を取った。健康こそが最大の資本。消尽よりも精進だ! 精進料理って気をつけないと基本的な栄養が足りなくて体壊すよ。
どうして自分はマリオからゼルダの世界に帰ってこれたのか。ひとえにそれは、事務仕事が増えたからだろうと思っている。大きい方へ、強い方へ、めんどうな方へ、高い方へ挑もうとするとき、盛んな血気だけでやりくりできるのはまさに20代くらいのもので、それはおそらく山登りなどといっしょで、ある程度の標高を越えてアタックしようと思うと綿密な準備がいるし執拗な事務が欠かせない。で、この、事務というのが、かなりサブクエ的なもので、メインルートの攻略のために必ずしも必要ではないけれどやっておくと楽になるみたいな構造になっている。そして、サブクエのクリアのためにはさらにその下位にある別のサブクエをクリアしておく必要があったりもする。結局、一目散にゴールの旗を目指して走っていたはずが、これ以上進もうと思うとどうしても事務が必要なので、まっすぐ進んでいるだけではどうにもならなくなり、途中から令和マリオのように左に戻れるタイプのマリオになって、平成マリオのように3D視点の自由度の高いマリオになって、そこからはもう早くてあっという間にティアキン化していく。つまり、根幹には、一本道の人生がよくても結局途中から事務作業に意識を散らされるので誰もがオープンワールドでやりくりしていかなければいけないという、「中年が衝突する世界の基本ルール」みたいなものがある。
最近、たまに自称ADHDの方々の生きづらさみたいな話を聴く機会がある。そういった方々の話す生きづらさというのは、一般にはメインルートに集中できないという「マリオでありつづけられないしんどさ」と解釈される。そこで、アドバイスとしては、世の一部が定めているわかりやすい目標とか義務とか成績といった価値観からフリーになってやっていこうぜ、みたいなものが好まれる。でも私は、世にあふれる「ADHDを救うためのアドバイス」は、違う……というか少し映像がぼけているように感じることがある。ADHDの生きづらさというのは、必ずしもメインルートに集中できないということではない。そもそも、マリオ的にメインルートにまっしぐらという人生は、一時的にはあり得るけれど、ずっとマリオのままでいられる人は少ないように思う。現代、誰もがわりとゼルダ的だ。だったらADHDのつらさもまた、マリオをやり続けられないつらさだけではなく、他にもあるのではないかと感じる。たとえば、事務的なサブクエに対する愛着がわかない、みたいな、一段複雑でよりめんどくさいレイヤーにこそ、ADHDの本質的なつらさが存在するのではないかと思う。ADHDだから事務作業が苦手、という浅いほうの意味ではない。ADHDだとむしろ乱発するサブクエすべてに対応できてしまうことがある。ちらちらと目線がそれる先にあるサブクエ全部を同時に対処しはじめてみたりもする。ただしとにかく愛着というものがわかない。けっこうな量のサブクエを突破し続けているのだが、そこから達成感のようなものを得ることができなくて、人生が灰色になってきてしんどい、みたいなのが本質なのではないかなと思うことがある。じゃあどうすればいいかと聞かれると別にそこは解決できるものではないし解決が必要なことでもないと今の私は思う。ベースにあるつらさはなるべく減らしたいと思うが、ベースなのでたぶんなくなんないんだよね、だったらそこはもうあきらめて、「そういうつらさはあるよね」ということだけ認識して、ほかのことを考えて過ごしたほうがいいのかもな、と、私自身は自分に言い聞かせて今日もばちばち事務仕事をやっている。
かたにはまるのがこわい
坂井建雄なる東京大学解剖学のお偉い方が30年くらい前に書いた本が講談社の青紫のアレで復活した。『解剖学の歴史』という本である。いまさら解剖学もあるまいと思いつつ、こういう本を読むメインターゲットが令和の世のどこにいるかと考えると、それはもちろん私だろうと、勇んで購入して一気に読み切った。知ってあることばかりが書いてある。すでに一般化している。ゾルトラークである。しかし、ならばつまらない読書だったかというと、そうでもなくて、なんか、おもしろかった。この教科書的なわかりづらさを引き受けて書く感じがまさに学者のそれだなと思ったりした。
”解剖学者の養老孟司は、『形を読む――生物の形態をめぐって』(一九八六)という本のなかで、われわれが生物形態のなかに意味をみいだすさいに、四つの視点のどれかをとるということを論じている。①数学的・機械的な観点、②機能的な観点、③発生的な観点、④進化的な観点である。形態の見方は、これら四つしかない、というのが彼の主張である。(172ページ)”
なかで、みいだす、さいに、といった漢字の開き方の、法則がわかるようでわからない。おそらく字面の形態によって判断しているのだろう。そういうところはまさに解剖学者だなあと感じる。ともあれ、養老孟司か、まあそうだな、30年前に養老孟司を引用しているわけだからやはり正しい解剖学の流れだな。生物形態のなかに意味をみいだすさいに、四つの視点のどれかをとるという。その四つしかないのだという。引用外に、坂井は、この四分類、もしくは別の学者がとなえた三分類法に完全に同意しており、つまりこれら以外の「形態のみかた」はないと念を押す。
①数学的な視点、というのは、「眼鏡橋はなぜあの形態に落ち着いたのか」みたいな話だ。物理的に圧が加わるところを硬くしていくと橋の形というのはだいたい似たところに落ち着く、みたいなことが、人体においてもあてはまる。坂井は大腿骨の骨頭付近の緻密骨の骨梁が、圧の加わる向きに並んでいることを、①の例として示している。
②機能的な視点、というのはわりとわかりやすくて、胃には胃酸を分泌する細胞とペプシン(の前駆体)を分泌する細胞がいるとか、小腸には吸収上皮があるといった、「その場に求められている機能に応じて細胞が配列する」みたいな感覚でよいと思う。あるいは手の筋肉同士がなぜ癒合するのかとかどうやって拮抗体制をとっているかといった記述をする際も、①だけでなく②を用いたほうが語彙が豊かになるだろう。
③発生的な視点、というのは一部の病理医がかなり気にしている。発生の過程で中腎管が存在してそれが腎臓やら生殖器の一部やらに変化していくわけだが、中腎管がもとあったところにはその遺残が認められることが多い、みたいな話だ。成人の人体解剖をいくらやっても理解することができないので、病理医はキャリアの途中で必ず発生学を本腰入れて勉強することになる。神経堤由来の細胞がどうとか、内胚葉由来の細胞がどうとかいった話を、学生はなにやらむずかしいことを言っているなあとスルーして先に進んでいくもので、病理医のタマゴはたいてい、かつての自分のサボりを後悔することになる。
④進化的な視点、というのを、たとえばヒトという存在が魚類よりも高等で、複雑な臓器を持っていてうんぬん、みたいに雑に解釈すると、八方から殴られるので気をつけたほうがいいと思うけれども、要はこれはいわゆる比較解剖学(ほかの種と解剖学的な比較を行うタイプの、東大がむかしから大事にしてきた学問)を支える考え方だなと思う。種を越えて保存されている・反復されている形態にはやはりそれなりの合目的性があるし、一部の種にしか発現していない形態にはその種に特化した特殊な「いわれ」があるだろう。
この四分類以外のみかたが本当にないのかというと、おそらくそんなこともなくて、ただ、第五の視点を具体的にみつけようと思うと難しい。化学波みたいな液状成分の濃度勾配を考えるのは①に含まれるだろう。臓器の一部は左右に一対ずつあり、一部は中心あたりに一つしかないのはなぜか、という視点もたいていは①と②、ときに③と④を駆使することで発散していく。「傾奇(かぶき)」的にむりやり⑤を想定するとしたらそれは病理的な視点……になるかと思う。健康と病気との違いを形態学的に考え、なぜこちらの(異常な)形態だと健康が保てないのか、というみかたを加えるわけだ。でもそれって結局②(機能的な視点)の裏返しじゃないの、とつっこまれてしまうだろうが、ここでひとつ大事なこと、というか私自身のポリシーみたいなものがある。病気における形態というのがイコール完全に破綻しているというわけでは必ずしもないと思うのだ。病気というのは、健康な状態と比べると脆弱かもしれないが、ある種の、別種の安定が存在している。病気には病気なりのホメオスタシスが存在する。「健康な人体に比べるとややフラジャイルだけれども安定する別個の形態」というのは想定可能だろう。それを通常の・本来の・健全な(?)・形態と対比していく(個人的にはこれを比較とは呼びたくない)。この⑤病理的な視点、は、坂井や養老があまり指摘してこなかったものではないかと思う。まあ厳密に突き詰めていくと結局は①~④に吸収されるのかもしれないなあとも思うし、病理医の形態解析のやりかたはやはり解剖学者のそれとはちょっと違うのかもなあとふさぎこんだりもするが、でも、病理学的な解析を行う際に、それが①~④に「分類されきっている」かと思うと、そっちのほうがはるかにさみしい話だろう。分類というのは定めた瞬間にそこから何かが飛び出してくるものでなければならない。
脳だけが旅をする
新聞の朝
開けっ放しのカーテンから差し込む光で目が覚めた。シャワーを浴びて髪を乾かし、着替えを済ませて部屋を出ると、ドアの横に新聞が挟まっている。ちかごろはなかなか見る機会がない紙の新聞だ。地方のホテルでは今もこうして新聞の配達がサービスに含まれていることがある。その分割高になるのでは、と思ったこともあったが、はっきりいって新聞がどうとかコーヒーがどうといった値段よりもはるかにインバウンドの影響のほうが室単価に影響している昨今、ちょっとノスタルジーすら感じる紙の新聞を置いてくれるのは(仮に室料に反映されているとしても)ありがたい。
朝食会場から帰ってきて新聞を掴んで部屋に入る。一面記事では地方の交通にかんする紆余曲折を取り上げている。昨日はアメリカの大統領が無茶を言っていたはずだが、それが一面ではないのだなと感じる。SNSで大騒ぎしている医者の不祥事については一切振れられていない。SNSで大騒ぎしている芸能人の醜聞についてもまるで出てこない。部屋に持って帰ってきたコーヒーを飲みながら、新聞をめくる。反体制の側に多少なりとも偏った論調をいちいち鵜呑みにしようとも思わないが、しかし、かつてのようには「だからメディアはゴミなんだ」と断じる気が起きない。今の新聞の影響力なら、「こういう立場」にすがりたい人のための灯台もしくは紐帯の結び目として、悪いことをしない程度に、派手な露悪ではない形でやってくれれば、そこまで悪質とも思えないし、それはある種の福祉でもあるかもなと、そういう受け止め方をしている。
支持はしない。しかし、理解はする。今日の私はそういう感じだ。
ここからどちらに向かって歩いて寄っていくのかはまだわからない。
スポーツ欄を見ると、プロ野球やサッカーについて、地域出身の選手をちょっとだけ多めに取り上げている。30年前、スポーツ報道といえばテレビは巨人とヴェルディ一色で、アンチ巨人・アンチヴェルディなんていう流れも生み出したものだったが、いまや国民がそれぞれ全く違うジャンルの違う団体を推していて収集がつかない。突き抜けた柱がないとジャンル自体が衰退する。どこの世界でも起こっていることだ。国民の30%くらいが巨人に興味のあったあのころが、じつは一番話題も尽きなかったし、アンチはアンチで楽しそうだったなと、ないものねだりのように懐かしんでしまう。とはいえ、Netflixなどで昔のバラエティやドラマを見ると、あまりの画質の低さ、出演陣の肌の汚さ、歯並びの悪さに一瞬気後れしてしまう自分がいて、そういうのがどんどんきれいになっていった今の世の中のほうが、かつての私たちから見たらずっとうらやましいはずなのに、今この「うらやましいの湯」に浸かっているはずの私たちは少しのぼせて、さっさと上がって、逆に湯冷めなどしてしまっているのだから、語るに落ちる。
たまに目に入る。巨悪と戦うことに人生を捧げている人。シュプレヒコールを抱いて眠る人。昔も今も変わらずいるなあと思う。そうだなあ、昔も今もというのはすごいことだ。いろいろ変わったけれどそこは変わらず残っているのだ。本人たちはおおまじめに不幸せを暮らしているのだが、その姿がときどき幸せそうに見えてしまう。でも、そのことを本人たちに告げると、とても怒る。それでなくても始終怒っている人たちだ。「なんだか、そんなに怒れて、ある意味、幸せそうですね」と声をかけた人間も殴り飛ばすくらいの体力と腕力があって、なんなら脚力を飛ばしてこちらまで走ってきて殴る。
どちらかに偏って暮らすことを選ぶ人間は、とにかく始終怒っている。そして、その怒りにすべて大義名分があり、聞いてみればたいてい理路整然としている。だから、「何をそんなに怒っているの」とたずねると、怒りの理由をとうとうと語りだす。しかし「何をそんなに」というのはじつは理屈を尋ねているのではない。程度の過剰さをたしなめているのだ。けれどもそのことにはなぜか気づいてもらえない。そのニュアンスはなかなか伝わらない。
ずっと怒っている人たちの理路は、まるで大通りだ。脇道は少なく、込み入った道もほぼなく、あたかも北海道の田舎道のようである。まっすぐ高速で飛ばしている。信号もない道だからスピードを8キロくらいオーバーしていても本人たちは罪の意識などない。はたから見ているとなんだかずっとアクセルを踏みっぱなしなのが危なくて怖いと思うのだが、それが交通ルールにめちゃくちゃ違反しているかというと、しているのかもしれないがまあ普通はお目こぼしされるレベルだから、むやみに止められない。そして、それは大通りでしかないのだ。古今東西、「大通り」が町の象徴として祭り上げられることはあれど、「大通り」イコール町の姿だとまで言い切れることはなかったはずである。小道はどうした。迂回路はないのか。生活道路の人の姿をどう思う。そういったことが抜けている「整然とした理路」というのはつまり「モデル」であり、「近似」であって、どれだけ筋が通っていても筋しかない。身(実)がない。複雑さがない。あわいがない。1+1=2でしょう、何か間違っていますか? ええ、計算は合っていますが、ここは小学校で、私たちはさんすうだけではなく、こくごもしゃかいもりかもたいいくも、やっていく必要があるのです。
ずっと偏って怒り続けている人たちは、怒っているときの自分が一番充実しているというのを理解している。そして、そのことを周りも気づいている。だから、「その人が幸せならばよいだろう」と思って、その怒りを必要以上に抑え込むことはない。そういうところが、「幸せそうに見える」一番の理由だと思う。愛されているということの証だからだ、ずっと怒ったまま人生を歩んでいけるということは。ただし、その愛は、往々にして、本人の認識の表面には刻印されない。
怒る立場に向かっていけた人たちの決断、執着、こだわり、そういったものはおそらく、そちらを選ばない私たちの立場からは、周囲のあれこれを含めて総体で考えると、どことなく「幸せそう」に見える。これは揶揄ではない。叱責でもない。尊敬ではないかもしれないが、尊重はする。支持はしないが、理解はする。実際、過去と同じくらいに、ちょっとうらやましいなと感じることがある。そして、過去と同じくらいに、私がそちらがわにいる様子は、想像がつかない。私はそうまでして「幸せ」なほうに向かうことはできない。
新聞を閉じる。誰もが新聞のまねごとをするようになってから何年経ったろう。まだ、15年といったところか。個々人がそれぞれの個性にのっとって語ったり、冷笑したり、沈思したりしているうちに、私は「新聞を作ることで商売をして飯を食っている人たち」が今どうしているのかなということが気になった。まちづくりに関するこの記事を書いた記者、なかなか、広く澄み渡った視野をお持ちで、文章も丁寧で、この地方新聞社はいい記者に給料を払っているなあ。大通りを走ってりゃ記事になるわけじゃないと気づいて、細かい道を丁寧に掃き掃除するような記事を書いている記者たちの横で、正義の仮面ライダーたちがマフラーから規制前の量のCO2入り排気ガスを大拡散しながら猛スピードで国道230号線を中山峠に向かって疾走していく姿が見える。
陰口
お返事が遅れてすみませんでした、と書かれたメールが届くが、そもそもこの差出人にメールを出した記憶がない。いつのことだろうとメールをスクロールしていくと、もともと私が出したメールの送信日は8か月ほど前なので笑ってしまった。たしかにこれは、遅れているなあ。
用件はすでに完結しており、先方から受けた質問(病理診断関連)に対して私が返答をして、向こうさんの欲しているものとこちらのお出ししたものとがちゃんとセットになっている。だからまあ、最後の一往復のやりとりが遅れようが特に問題はない。
この案件において謝罪が発生する主座というのはどこか。それは、「即座の感謝を欠いたこと」にある。感謝とはその場でしなければいけないものと相場が決まっている。とはいえ、たとえば高校時代の恩師に「あのころはろくにお礼も言えませんでしたが……」みたいに何十年も遅れて感謝を伝える、みたいなエピソードは結構な頻度で発生するのだけれど、これにしたって、若いころは人の優しさやありがたみというものに反応できるほど感性が幅広くなかったという「足りなさ」を強調する文脈で語られるものである。やはり感謝というのはその場でしないと鮮度が落ちる。感謝されたほうも何にお礼を言われているのかピンとこない。
というわけで反応速度の話だ。
早ければ早いほど礼を失しなくて済む。逆に、ふとどきな人間を一喝するにしても速度が遅いと有効打を与えられない。
先日、大学で行われた研究会に参加したあとに地下鉄駅に向かって歩いている途中、LINEが入ったのでポケットからスマホを取り出して見ていたところ、通りすがりの小柄な60代くらいの男性に通りすがりに「馬鹿野郎」と叱責をされた。とっさのことでその声が私に向けられたものだとはっきり認識するまでに数歩を要し、その間に男性は私のはるか後方に歩き去っていた。あれは、たまに聞くところの、「歩きスマホ絶対殺す通り魔系説教マン」であろう。私がスマホをポケットから取り出す前の段階で、男性が向こうから歩いてくるのを私は視界に入れていたが、両手にエコバッグのようなくしゃくしゃの袋を持ち、ガニ股・小股で足早に歩きながら、すでに顔を真っ赤にしており、あまり近寄りたくない感じだなと瞬間的に判断していたのだけれど、つまりあれはおそらく世の中のすべての歩きスマホの人間に怒って歩いているうちに怒りが顔から剥がれなくなった寓話の住人だった。彼がはるか遠くに歩き去っていってからようやく、「さっきの私はぜんぜん反応できなかったなあ」と、反応速度の遅さに気がついた。これ、言葉だからこの程度で済んだけれど、頭陀袋の中にスパナでも入っていたら通りすがりに側頭部を割られていたかもしれないのであまり笑い事ではない。感情の反射神経が遅いと生きていくうえで少し不利になるのかもしれない。似たようなことはSNSでもしょっちゅう書き込まれている。宅配業者にいやなことを言われたけれどすぐに反論できなかったとか、電車の中でへんな人間がいたときにとっさに周りをおもんぱかる行動ができなかったみたいな話だ。まあ、今回の私の場合、歩行中にLINEが入ったのを確認するときに画面に気を取られてその老人と正面衝突でもしていたらコトだったことは間違いないわけで、心のどこかで「たしかに馬鹿野郎かもしれないなあ」とひけめがあったのかもしれない。それにしても、あとから思い出すと、そういう通り魔みたいな人間は、今だとSNSに多い印象があるけれど、そもそも社会のあちこちにいるんだよなと感じるし、通りすがりに「馬鹿野郎」と言われたタイミングですかさず通りすがる老人の後方から膝にローキックを一撃、跳ね上がった足のかわりに後傾する頭を掴んでストーン・コールド・スティーブ・オースティン・スタナーの体勢で僧帽筋の付け根の大後頭隆起に鉛直方向の衝撃を与え、反動で高くバウンドした老人が着地するかしないかのタイミングに合わせて背後から鉄山靠で車道までふっとばして折よくやってきたトラックの荷台にきれいに乗っければ世の中がきれいになったのに、くらいのことを考えたりもするが、実際にそんなことをしたら私が普通に異常者であるし、そもそもそこまでのスピードで沸騰できるほど私の反射神経は高くない。むしろ、今のような、通りすがりの悪意のカタマリに対して自分の反応をどう高めていくかみたいな妄想をしている暇があったら、誰かに何か小さくよいことをされたときにすかさず満面の笑みで感謝を伝えるほうの速度を高める訓練をしたほうが、よっぽど世界をきれいにできる。そもそもこういうことばかり考えているめんどうな人間に対してメールの返事が遅れると陰でなにを言われているかわからないと、先方に恐怖をあたえていたからこそ、先の8か月ぶりのメールが生まれたのだろう、くらいの因果のめぐりに思いを馳せる。事実、今日のブログはまさに、陰口以外のなにものでもない、陰口を叩く人間というのは畢竟反応速度がゴミなのである。
鬼滅の底力
ラノベ原作のマンガを最近けっこう読む。①設定の妙によって生じる展開のハチャメチャさがおもしろい、②文脈を共有した人間同士だけが楽しめるサロン的気持ちよさがある、③主人公が成長しない(から未熟さにやきもきしなくていい)、などのいくつかの特徴があり、そのうちエンタメ的にうまく昇華されたものだけが私の手元にやってくるので(失敗作は知る機会がない)、だいたい外れがなく、いい時間つぶしになり、心がラクになる。強いて難点を上げるとすると、「めったに完結してくれない」ことくらいか。
ラノベがコミカライズされた作品(のうち私の目に留まるもの)の大半は、「ウィザードリィに端を発するドラクエ文化がベースのファンタジー的中世冒険活劇の変奏」である。したがって、巨悪だったりラスボスだったりが設定のあちこちにチラ見えするのだけれど、何年追いかけていてもなかなか核心までたどり着かない。「クリア」されない。まるでエンディングを見ずにサブクエばかりこなし続ける重度ゲーマーのような気分になる。もしくは原作が終了しても二次創作でいつまでも世界を広げ続ける人気同人作家の世界に迷い込んだような気分だ。「未完の大作」なんてものは大作家の最期の作品であると相場が決まっていたわけで、終わらないファンタジーなんてバスタードとガラスの仮面だけで十分だと思っていたわけで、しかし、いまどきのマンガってのはほんときれいに終わってくれなくて、おそらくあと20年もすると世の中には未完の良作ばかりがあふれてしまう、か、もしくはそういったものがすべて「一時的なブーム」として忘れ去られていくのだろう。終わらない作品世界が許容されるに至った背景には日常系ジャンルの隆盛があるのかもなあとは思う。
ところで唐突に思い出したが、火の鳥は、大地編が執筆されなかったし、「現代編は手塚治虫の亡くなる日に一コマ書かれる」という「超一流のうそぶき」も結局実現しなかった。だからいちおう未完の大作枠に入るのだろう。ただしあれはすでに黎明編と未来編とできちんとループしている。人生をかけて物語を広げつつ、宇宙の範囲はきちんと確定している。「未完だけど世界の全貌はほぼ見えている」ケースということだ。よく考えるとこれは単なる未完よりも一段レイヤーが多い。やはり手塚治虫だけはちょっと別格なんだろう。まあグリンゴとかネオ・ファウストは普通に未完だけど……。
パトレイバーが完結してくれていてよかった。阿・吽が完結してくれていてよかった。ダンジョン飯は偉い。ちはやふるは至高だ。私は古い人間なのかもしれないが、長く追いかけたマンガがきちんと完結することの美しさに心を持っていかれがちである。だから、最近のラノベ原作の楽しいマンガ達がぎっしり詰まった我がKindleを眺めていると、いちまつの寂しさを覚える。この転生ものは決して完結しないだろう。この冒険は決してラストシーンまでたどり着かないだろう。永久に続いていく豊かな幻想世界に囲まれながら、一方で、私自身の物語はおそらくあるところで唐突に先細って、理や因に乏しい「しまい方」を迎えることになるだろう。自分の人生が(よっぽど運が良くない限りは)大満足の終わり方なんて迎えないんだろうと予想するからこそ、物語だけには、「きっちり終わってほしい」と願ってしまう。まあ、尾田栄一郎先生におかれましては、お体に気をつけて、ちゃんと最後まで描き切ってくださいますように。
根がデスクです
研修医三名と学生、合計四つの学会発表を同時に指導している。ちょっと疲れた。しかし、某大学に勤めている剣道部の後輩(私より五つくらい下)は、たしか学生発表ポスター九枚をいっぺんに指導していたので、それにくらべたら私なんてぜんぜん大したことがない。比べてしまえば小さい。だったらあまり弱音も吐けない。
比べて、比べて、参る。
すると、人と比べてはだめですよ、みたいなことを言う女神が、後頭部あたりにぷかぷか浮かぶ。
でも女神様、お言葉ですが、学生や研修医の指導というのは相手がいる話ですから、もし私が今、人と比べて足りなければ、それはもうすぐに反省してどんどん取り入れていくほうがよいのではないかと思うんですが、いかがでしょうか? 湖に落ちた斧は上げますのでかわりにトラクターをください? はあ? 女神様っ? 女神を愚弄するなんて、こりゃ、とんでもないごっですな!(ギャグ)
人と違う仕事をしていると、自分だけが基準になりがちだ。そうなるとどんどん内向きに尖っていく。だから、私のようなタイプはがんがん人と比べたほうがいいのだと思う。隣の芝生が青ければ自分ちの芝生はエターナルブルー。隣の客がよくかき食う客ならば自分ちの客はよくこけら食う子ケラケラ。隣の家に垣根ができたってね! へぇー、かっきーねー! 今の一連のは特にギャグではないです。これはリズム。
他人とばかり比べず、昔の自分との比較もたまにやる。先日依頼された学術講演の内容は、長いことあまり人前で話してこなかったことで、ずいぶん昔に作ったプレゼンを引っ張り出してきて、これでなんとかラクに作れないかなとたくらんだのだけれど、10年以上昔の自分が作ったプレゼンは当時の自分の熱量がしっかり入っていて、それはまあいいとして、今の自分だと物足りないことは否めない。成長したと言えば聞こえはいいが、10年前にはこの状態で似たような業界の人を相手にべらべらしゃべっていたわけで、反省するほかない。これでよくみんな喜んでくれたなあ。かつての自分の仕事を見て思う。しかしそれ以上にぞっとするのは、今と似たような振り返りを、10年後の私がやる場合、「よくこんなレベルで……」と言われるのはまさに今日の私なのであるから、私のすべての羞恥心は励起し、安定軌道に戻る際に放射線を発し、私はその放射線によって変異を起こす。日々なんとかやりくりしている物語のDNAがずったずたになる。
むとは いったい! グゴゴゴゴ・・・。
ネオエクスデスとなった私はあちこちに顔を付けて画面の左側からずりずり登場するのだ。そしてなおもいろいろと比較しながら、誰もやりたがらない臨床・病理対比の仕事にひとり邁進するのである。いや待て。研修医の指導をしなければ。ひとり言うてる場合か。
やるやるかれらのアナグラム
ちょっとふしぎな学術講演依頼があった。
推薦者のコメント:
「学術的な内容うんぬんよりも、『研究発表と違って、講演ではこういうふうにしゃべるといいのか!』と聴衆に思ってもらうことを重視してください。」
なるほど。むずかしい。いっそ、ゴリゴリに学術的な内容をみんなに教えてやってくれと言われるほうが数段ラクである。むしろ、私にラクをさせないために縛りを課してきたと考えてもいいかもしれない。
私の講演が、一般的な意味で正しく力があるとはあまり思っていない。でも、こういうときにむだに謙遜すると推薦者の目利きの力まで一緒に下げてしまうので、自分の心が気持ちよくなるからといっていつまでも謙遜ばかりしているわけにもいかない。
私の話をおもしろいと思ってくださっている人が何人かいるならば(それが推薦者自身であるとは限らないのがポイント)、その誰かの期待に応えられるよう、こちらとしても微力を尽くすべきである。
世にある「ハウツー」的動画やブログのたぐいは、講演を成功させるコツとして、以下のようなことを書いてある。
メッセージを明確に! あまりしゃべりすぎないで! プレゼンの文字を減らしましょう! お役所のポンチ絵スタイルではだめだよ! フォントは大きく! 滑舌ははっきり! 大きな声で! 読み上げるのではなく語りかけるように! 時間を守って!
これらは、たしかに、学術講演をする上でもふつうに大事なことではあるのだが、ふつうに大事なことでしかない。
ふつうでしかない。
ふつうだ。
ふつうでいいのか?
はっきり言って、これらをただ守っているだけの講演なんて、私はもはや聞きたくない。ウェビナーだったら開始2分でPCから目を話してスイカゲームに興じる。つまらないからだ。講演ラストのテイクホームメッセージだけさっさと表示しろよと思ってしまう。
そんなふつうの講演を見てどうするというのだ。
●メッセージが複雑で何を言っているかよくわからないけれどなぜか惹きつけられる
●内容が盛りだくさんすぎて覚えきれないけれど充実感がはんぱない
●プレゼンのデザインはうまくないのだがそれを熱量が上回っている
●時間を超過したことに演者はもちろん聴衆も気づいていない
こういう講演こそが至高だ(※ただ、次の出番の人に迷惑がかかるから時間は守れよとは思う)。
演者が講演料に目がくらみ、言われたままのお題を適当にこなして及第点に仕上げたふつうのウェビナーなんぞ、今やYouTubeあたりを探せばいくらでも落ちている。学会やウェブ研究会などの場でわざわざ聞いても役には立たない。TikTokに毛の生えた程度の講演に時間を費やすのは学生までだ。
そんなんじゃだめだ。
こ、こ、こりゃあ圧倒的だ、これだけのことをしゃべるのにどれだけの努力を費やしてきたんだ、どれだけの経験を注ぎ込んで来たんだ、この講師やっべぇな……! と、聴衆を引かせるのがデフォルト。そこからさらに、「大量のメッセージの中からコアとなる部分がが浮き上がってくる」という二段構えの構成になっていることがのぞましい。ここまでやれてようやく真の及第点だ。
小学生でもわかることを大人に向けてしゃべってどうする。
ふだん講演を聞き慣れていない人でも飽きずに聞けるように楽しく和気あいあいと工夫をこらして美しくかわいいプレゼンを作ってどうする。
「小学生でもわかる」と冠しておきつつ、小学生はおろか大学生でもぜんぜんわからないくらいの学問の深みをバッチバチに披露してなんぼだ。
聴衆の精神が無数の思考実験に十重二十重に取り囲まれて次々に斬りかかられるくらいの学問の正念場をゴッリゴリに提供してなんぼだ。
「学術的な内容うんぬんよりも、『研究発表と違って、講演ではこういうふうにしゃべるといいのか!』と聴衆に思ってもらうことを重視してください。」
うーむ。
よし。
目指すところは、「講演ではこういうふうにしゃべるといいのか……いや、できるかーい!」と聴衆にたくさんつっこんでもらうことだ。
というか、それくらいの圧倒的な力量を見せつけられないならば、講演なんかそもそも、引き受けてはいけないのである。
それは私が講演をこれまでたくさんやってきたから、というわけではない。
たとえば若者がはじめて人前で講演を頼まれた場合にも、聴衆を納得させ、講演を聞いてよかったと思わせるだけの「猛烈な物量」を用意しなければいけない。それは若手とベテランとで変わるところがない。なんの贔屓も忖度も存在しない。
講演を作るというのはそういうことだ。
どこまでも深く深く思考の奥底に潜り込んで、徹夜もいとわず、過労上等で、それまでの経験のすべてをぶち込むのはもちろん、プレゼン作製過程でさらに経験が何倍にも界王拳させられるくらいの作り込みが必要なのだ。
どうせ、そこまでやったとしても、聞いた人からは「なんだかごちゃごちゃしてわかりにくかった」と言われる。それは当たり前だ。がっくりくる。「でも、熱意は伝わったよ!」と最後にひとこと褒めてもらえたとしたら……そこでようやく、講演を頼まれる人間としての第一歩が刻まれる。
講演だぞ。人様の前でえらそうに話そうってんだ。講演なめんな。よぉし、つくるぞ! やるかやられるかだ!
インスタとスレッズ
フォロワー欄がキャピキャピしているので通称やらしいインスタと呼ばれている私のインスタグラムアカウントは、大学や専門学校などで直接教えたことのある学生ばかりがフォローしていて、現在、フォロワーの平均年齢は20歳くらいだ。この時期、卒業式があり、卒業証書やら袴やらBe real.の集合写真やら卒業旅行のTDSやら温泉やらがストーリーに次々あがってくるので、たまにインスタを立ち上げていいねいいねと付けていく。本当にいいじゃないかと思う。楽しんでほしい。それだけがんばってきたのだから。
ずいぶん前のことだが、「先生、いつもいいねしてくれてありがとう」と言われて少し驚いた。いいねごときにありがとうをいただいてもいいのだろうかと少し身構えてしまったくらいである。教え子が楽しそうな写真を載せていたら片っ端からいいねを付けるのは当然のことではなかったらしい。「片っ端からいいねを付ける」という見境ないムーブをうれしいと言ってもらえたからよかったけれど、逆に、「このおっさん何のせてもいいねつけるからちょっとやらしいな」とか思われている場面もあるのだろうと思う。
考えてみれば、私も、インスタ以外のアカウントでは自分がそうとういいねと思ったもの以外にいいねは付けない。何かをポストするたびにいいねを付けてくれるフォロワーのことはありがたいというよりもちょっと気持ち悪いなという気持ちで見ることが多い。ネットストーカーにうんざりして仕事もやめようとしている私の感覚が世間からずれているのはともかくとして、学生たちのインスタにおけるいいねの価値も、私が考えるよりも重く特別なものなのかもしれず、軽率にいいね押しまくって悪かったなあと思うし、でも、私の目から見ると学生たちの生活はほんとうにすばらしくいいねに満ち溢れているようにも思うのだ。
昨今、私と同年代くらいの中年たちが、「SNS世代はいいねの数をかせぐために大事なものを見落としている」みたいなことをめちゃくちゃ言う。そろそろ飽きてほしいが今でも本当にあちこちでよく見る。しかし、私たちの世代にとってのいいねと、若者たちのいいねとの距離感はけっこう違うように思う。いいねを稼ごうとしているノイジーマイノリティばかり見て若者を知った気になってもだめなのだろう。実際の若者たちはもっとずっとしっかりしているし、私たちとはぜんぜん違うところを締めて思いも寄らないところを緩めていて、つまりはどちらかがどちらかの上位互換という関係性ではなく端的にまったく違う生き物なんだよなと思う。
フォロー欄が医師医師しているので通称きたねぇ花火だと言われている私のスレッズアカウントは、医療従事者が毎日ぐちばかり言っているので昨今の医療業界における細かい不満が可視化されていてある意味役に立つのだけれどまったく気持ちよさは感じない。TLを見ていると自然と眉の間にしわがよってくる。よくもまあこんなに毎日政治、社会、患者、同僚、自分に対する不満があるものだなと感心する。しかしスレッズに限らずSNSというものは、多かれ少なかれ、ユーザーいち個人の心の中にあるノイジーかつ些末な不満の部分を拡大する力を持っており、ひとりひとりにとってのノイジーマイノリティ成分が飛び出してきておゆうぎを行う学芸会的な側面がある。したがってスレッズを見て医者ってだめだなと思ったり、スレッズを見て医者ってうるせえなと思ったり、スレッズを見て医者ってすぐ人と比較するなと思ったりするのはおろかなことだ。だめでうるさくて比較が好きな人ばかりがスレッズをやっている、と認識するのも違う。より正確に言うと、人間の、だめでうるさくて比較ばかりする部分だけが浮かび上がってきて組み上がっている場所がスレッズだということだ。
糸こんにゃくを敷き詰めた上にホワイトソースをかけてオーブンで焼く
もともと詩情など持ち合わせるタイプでもないのだけれど、次々やってくるメールに返事して半年以上先の講演のプレゼンを作ったり他部門の同僚の論文を手直ししたりとやっていると、心のあちこちから言葉が早退していくような感じ。ふと、気づいた瞬間に、自分のまぶたの重さ以外なにも感じられなくなっていて、ぎゅっと目をつぶって上から指で押し揉むとぐわんぐわんと脳が揺さぶられる。ただこの体感そのものが問題なわけではない。そうではなく、これだけの身に迫ってくるような体感に、それを引き受けて、こねてくれるはずの言葉が一切やってこない、働いてくれない、ここに猛烈な不全の本態をみる。
感覚したものが言葉になっていかない。何が困るか? 別に、周りの人々と辛さを共有したいとかではない。そこはあまり困らない。周りの人々から離れたいくらい疲れているのだからコミュニケーションのための言葉が出なくて困っているわけではない。
そうではなく、この場合に出てきてほしい言葉というのは、細胞にたとえると解糖系から出てくるATPみたいなもので、自らの中で生み出したらそれをすぐに別の回路のなかに放り込んでサイクリックに次の活動につなげていくための、燃料というか、エネルギーの運び屋的ななにか。何かを取り込んだり何かと接続したり何かと戦ったりするにあたってどの回路をどれだけ回してもATPが出てこないと細胞の動きはジリ貧になる、言葉が出てこなくなるというのはつまりそういう意味で困る。
そして、悲しいことに、私はこのATP的な言葉を欠いた状態でもルーチンの仕事をそれなりに、というかわりと納得できるレベルで片付けていくことができている。それはある意味、嫌気性環境下でもやっていける細菌みたいな機能を獲得したのだ。低酸素ストレスに応答できるようなバリアントを獲得して環境に適応した、みたいなものである。
私は日々を過ごしていくことができる。仕事だけでなく生活も回る。ご飯を食べておいしいなと思い(でも言葉は出ない)、はじめてまだ何か月も経たない(友人に誘われてこの年になってはじめたばかりの)ゴルフの打ちっぱなしでも人並みに練習ができ、まだ読んでいないマンガを大人買いして(例:薬屋のひとりごと)半日かけて一気に読み切ることもでき、ガンダムジークアクスを見に行っておもしろかったとPodcastにメールを送ることすらもできる。
あれ、言葉、あるじゃん、だって本を読んだり熱文字にメール送ったりできるんでしょう、ていうかそもそも仕事でだってさんざん言葉を使ってるんじゃないの、それって失語じゃないじゃない、と言われたら、そうなんだけどそうではない。
私は、社会の中でやっていくのに必要な言葉とは別に、自分の中から、自分を代謝しつづけるために必要な言葉が出てこないことをつらいしさみしいししんどいと思っている。そしてそういう言葉が出なくなると、あの、1年以上前に依頼を受けた、私のための本の原稿が、一切進んでいかなくて、今本当に頭を抱えている。毎日私の体に向かって突進するがごとき数々の体験を、高エネルギーを有する言葉に変えてどんどん食らっていきたいのに、それがちっとも出てこない、こんなこと、今まで一度もなかった、何をやっているんだ私のミトコンドリアは。
子どもたちの世代の負担を減らそうっていう声を最近ぜんぜん聞かなくなったけどみんなどうしたの
詳しい数字は忘れてしまったけれど、札幌市にあるいわゆる「町内会」のたしか70%くらいが、会費を使って業者に頼んで、冬のあいだに一度だけ、町内会の生活道路の「排雪」を行っている。
「除雪」ではない。「排雪」である。市民が、自分ちの玄関や車庫の前などを自分で除雪=雪かきするとき、雪をどこかに積み上げなければならない。その積み上げた雪の山をまとめてもっていくことを排雪と呼ぶ。
町内会の雪をまるごと持っていってもらおうと思うと、業者には何十万というレベルのお金を払わなければならない。春には溶けてしまう雪を冬のうちにまとめてどこかにやるというむなしい作業に、それくらいの手間暇と金がかかってしまうということだ。
そんな額の金を何度もつぎこめる町内会などというものはない(仮に、金持ちがたくさん住んでいても、町内会費をたくさん支払う金持ちはこの世にはいない)。だから、排雪は年に一回こっきりだ。
それでも、あるとないとではぜんぜん違う。「ここの雪を持っていってくれれば、まだなんとか、自力の雪かきで家を保てる!」みたいな、マジでギリギリの頼みの綱。排雪の日を今か今かと待ちながら、雪かきの塩梅を調節。そろそろ歩道側に積むか……? いや、まだ我慢できるか……? うちの裏のスペースにもう少しがんばって積み足すか……? しかし灯油タンクがそろそろ……?
ちなみに残りの30%の町内会は、排雪を頼んでいないらしい。マンションが多い地区なのだろうか? 近くに大きな公園などがあって排雪する場所に困っていないということだろうか? 町内会の面々が数十万円という金額を惜しむケースもありえる。でも、雪はそんなに甘いものではないと私は思う。排雪なしでひと冬すごすと、2月末には狭めの生活道路はほぼ使い物にならなくなる。住人が相当若くて雪を近隣の公園などにがんがん捨てているとか、融雪期の普及率が高いとか、でもあれ、メンテナンスすごく大変らしいけど、うーん、どうやっているのだろう。ふしぎだ。
ちなみに大きな通りは定期的に除雪・排雪が入っており、それはすべて札幌市の税制で賄われている。じつをいうと、もとは生活道路にも、市の除雪部隊がときどき入ってきて、除雪だけでなく排雪まである程度はやってくれていたのだ。
しかし、何年か前に、生活道路にまで札幌市が予算をかけるのはやめよう、除雪機は入れるけど排雪まではやらないことにする、という判断が下された。なぜそうなったのかは知らないが、なんとなく、市民が税金が高い高いと不満をいうのを「そのまま真に受けた」のではないかという気がする。ちかごろの行政は、人が変わるたびに税金の使い道を絞る傾向にあって、それはあたかも前任者が無駄遣いしていましたと揶揄しているかのようだし、まあそういう意味合いもおそらく実際にあるのだろう。そもそも、金も無限ではない。なんでも税金でやるというのは決していい傾向ではない。自分たちでやれる部分は自分たちでなんとかすべきだというのは私自身はよくわかる。
でも生活道路の排雪を市がやらなくなってから、札幌の冬はあきらかに厳しくなった。どこもかしこも道が狭いしガタついていて危ない。影響は大通りにも及んでいる。ふんわりとしか聞いていないけれど、どうも生活道路の排雪をなくしただけじゃなくて、大きな通りの除雪についても予算削減して少しおおざっぱになったようなのだ。走れるには走れる。でもガッタガタだしすごく狭い。片側2車線あった道が雪の山のせいで1車線ずつ削れると、バスは大幅に遅延する。夏、通勤に30分かかっていた人の多くは、冬だと1時間以上車の中にいないといけない。それくらい渋滞もえぐい。
町の反応を受けて、来年あたりからは、ふたたび生活道路にも市の予算を投入しようという「揺り戻し」がくるらしい。いきなり全部をもとに戻すのではなく実証実験をやると言っている。「だから言ったのに!」と喚き立てるのは簡単だ。でも、まあ、そうやって、「ここを削るとどうなるかな。やっぱり厳しいか。お金もないんだけどね。でも、さすがにここは戻します」と、さじ加減をあきらめずにいてくれるというならば、最高とは言わないけれどそこそこいい政治にはなっているのではないかと思う。
私も自分の家のまわりを頻繁に雪かきしているのでその辛さはわかるつもりだ。そして、これから年を経るにつれてどんどん辛さは増していくだろう。そうしたら「なぜこんなに大変なのに札幌市や北海道や国は市民を助けてくれないのか!」と大騒ぎをし出す可能性も十分にある。弱者切り捨てだ! 節約する場所が違うだろう! みんなと肩を組んでネットにがんがん書き込みまくる可能性は十分にある。それが当事者精神というものだし、体感を行動に移すということでもある。
でも、うーん、まあ、自分がもっと腰痛とか膝の痛みとかを激しくかかえてみないとわからないことだから、あまり強くは言わないのだけれど、行政の側もいろいろ微調整を続けて落とし所を探ってくれているのだし、そこにギャーギャー噛みつくのはどうも……。や、そのときになってみないとわからないのだけれども、不満を声高に言えばお上に届いて政治が変わるからどんどん口に出しなさい、みたいなことを言う人の言葉だけが妙に拡散されやすくてそれが正しいってことになりつつあるのは、少なくとも今の私からすると、うーん、本当にそうだろうかと、ごく小声で疑問を呈さざるを得ない。
マツコはすごいですよね
ビールじゃなくても別にノンアルでいいのか、と思い立ってから1週間。いまやお湯でもいいのではないかと考えている。お湯ってけっこうすごいんだな。ビールや冷たいお茶とは別種の満足感、というかノドや胃に対する説得力がある。これを「白湯(さゆ)」という人たちは、なんとなく口が気持ちよくておしゃれ寄りの言葉をセレクトしているだけなんじゃねぇのかなと今でも思うし、「お湯」でいいだろうという感じだが、お湯、大したものだ。プラスチックのカップで飲むと味がうつった気になる、でも、お湯ごときのためにマグカップを出してくるのもなんだか大げさである。クラファンの返礼品みたいなマグカップが溜まってきており、これを開封すればもうちょっと楽しいお湯ライフが送れるかもしれない。
「マツコの知らない世界」をよく見る。すごいと思う。食べ物回、マツコはいつも、なにかしらの経験をきちんと話す。体からにじむような経験なので体験と呼ぶほうがいいだろう。ドヤ顔をするでもなく、うんちくをひけらかすでもなく、豪華な料理や高級料理に限らず、雑誌やテレビではあまり紹介しない生活臭の強い食べ物、冷凍食品であるとかフライパンを洗うのが簡単なタイプの料理であるとか、そういったものを、見事に体験してそれを自分の言葉で世に出している。「食べること」との距離感がじつに上手だなと感じるし、「食べること」への言葉の当て方が見事だなと思う。
食体験の質はもちろんだが一番驚かされるのはその物量だ。芸能人だからいいものをたくさん食べているのだろうとか、ロケでいろんなところを訪れているのだろうといった、通り一遍の「下駄の履かされ方」を、マツコ・デラックスはしていないはずである。働き方的にロケはあまり多くないし、自宅が好きで食事もたいてい自宅でとっているという。TV局と自宅と自宅近くのコンビニ以外にさほど寄る場所もない、つまり、生活のパターンとしては「私と似ている(※TV局を職場にすればよい)」。なんなら、出張している分私のほうがもう少しいろいろ経験していてもおかしくない。だから、余計にびっくりしてしまう。広告代理店の営業職の人間がたくさんの食べ物を知っているというのとはニュアンスが違うように思う。環境の限定をものともせずに積み立てられた物量にそのまま驚愕させられる。クイズ王や金田一秀穂やみうらじゅんを見て「なんでそんなこと知ってんだろう」と思うときの、圧倒的な収集量に対する敬意と似た畏怖を、マツコを見ているといつも感じる。
体験を言葉にすることの偉大さを思う。収集し続けているだけではあの表現力、説得力には達しない。生来のうまさというのもあるだろうが、どこか、執念の差のようなものも感じるし、それに加えて心がけ・姿勢、「言語化をぎりぎり越えるような経験を体で拾いに行くひと手間を惜しまない」みたいな部分がかなり効いているのかもなと思う。マツコ・デラックスは経験を体に引き付けることを大多数の人よりもかなりしっかりとやりこんでいる。
私が食べ物にそこまで興味が持てるかというと、それほどではない。ただマツコ・デラックスが始終食べ物のことばかり考えているわけではないのだから、彼我の差はおそらく、「没入できるタイプかどうか」の部分ではないのだと思う。贅沢品、旅行、推し、人間関係、私はこれらのものを「そこまでハマれない」と公言してきたが、マツコ・デラックスだってこれらに特段ものすごくハマっているとは思えない、でも経験を体験にする手さばきが私より圧倒的に真摯だから、どんなものに対するコメントにも血が通っているのだと思う。たまに私は知人などから、「もうちょっと趣味とか楽しめることを探したほうがいいよ」と言われたりもして、たしかにな、もっとハマれるものを探したほうがいいかもな、などと、今にして思えば、角度のおかしな納得をしていたのかもしれない。私は、自分が興味を持てようが持てなかろうが、そういうこととは関係なく、もっと経験を体に取り込んでいくためのにじりよりを、何に対しても行っていくべきなのではないか。私は自分がお湯を飲んで感じたことを、もう少し体や、過去、曼荼羅、そういったものと照らし合わせてみずからの体験として語れるだけの言葉をはぐくむべきなのではないのか。
ほっか医道弁
指紋認証が通らないくらい指先がパキパキになっている。もちろん乾燥がえぐいからではあるが、たとえば40分以上雪かきをするとてきめんに指先の皮膚ががさがさになるという感覚があり、私の履いているスキー用の手袋は、もしや、なにか、指先の水分を奪う機能でもあるのだろうか。ヒートテック的ななにかかもしれない。
雪かき時の手袋は「つける」「はめる」ではなく「履く」という漢字を使うほうがはるかに適切である。雪かきとは、手先に防寒具をつけてワキワキ、はめてピコピコというような能動的かつ前向きな所作ではなく、履いてつっかけて朴訥に仕方なく背中をむりやり押されて前に出されるような感じで踏みしめていくかのように抑え込んでいく後ろ向きな仕草だから、「履く」じゃないとしっくりこない。標準語のほうがまちがっている。それはそうだ。標準語を用いている人間たちはろくに雪かきなんぞしていないのだから、ニュアンスがわかっていないのだと思う。ファッションかなにかだと思ってるんだろう? 猫耳かなにかと勘違いしているんだろう? 地域の言葉には地域特有の選択圧がかかっている。方言には方位に根ざした合目的性がある。ほうっておいてほしい。手袋は履くものだ。私は間違っていない。
「研修医が、9時5時で働くことを選びつつ、人並み以上の業務能力を手に入れるというのはむずかしいのではないか」という内容のことを書いたら、タイムラインがそれっぽく選別されたのか、「NASAではふつうに定時に帰れるけれどみんなも知っている通り世界一の仕事ができる」「Googleの社員の勤務時間は極めて短い、ワークとライフをどちらも楽しめる」みたいな話が流れてきた。でも、これらは、私の言っていることとは人生の時相が違うのではないかと思う。9時5時の努力でNASAやGoogleに「入れる」というならわかる。しかし、普通はそうではないだろう。猛烈な努力と競争の末に、人とは違う卓越した能力を手に入れ、NASAやGoogleに入ることができて勤務時間が短くても大丈夫になった、という話だろう。「研修医の時代にめちゃくちゃ努力して、結果的に時短勤務でも一流の仕事ができる高給の病院Aに入ることができて、そこからは9時5時で働いている」という実例がどれだけあるのだろうか。NASAやGoogleのような病院Aをつくるのが私の夢です、というならば、だいぶ理解できる。
たいして努力もせず才能や資質や向いていた方角の良さによってNASAやGoogleみたいなところにスッと入社できる人というのもいる。でも、それは、受け入れ側が要求する職種の性質によるのではないかと思う。そして、医療業界に、そのようなタイプの仕事というのはどれだけあるのだろうかと疑問に思う。
たいていの医者は、手技や処置の技術を身につけるのに5年以上かかる。少なくともその5年の間は、向上心がちょっとでもあるならば9時5時というわけにはいかない気がする。ライフを大事にできない仕事なんておかしいよ、と言い続けてかたくなに5時で帰宅しつづけて、結果、おかしいクオリティの仕事しかできなくなってしまった医者というのはそこそこいる。でも、まあ、そこで「仕事は私の大事なものリストの上位にはない、自分の暮らしのほうが大事だ」と宣言しているならばたいして問題はない(患者には迷惑がかかるかもしれないが、それはチームで補完すべきことであるし、そのほうが社会としては健全だと思う)。
さらに付け加えると、人並み以上の努力をせずに「人並み以上の業務能力を手に入れたい」と言うのも勝手だ。夢を見るのはいい。でもそれは、まず無理なことだと思う。まして、人並み以上の努力をしていないのに人並み以上の業務をできると自任してリーダーシップを発揮しようとする医者は、チームを壊し、患者も壊しかねない。
医業じゃなければいい。しかし医学部には入ってしまった。となると次はどうするか。だいたいみんな、似たようなことを考える。これから稼げるトータルバウンティとそこまでにつぎこむ努力のバランスを考えると、医療にまっすぐ進むのは損で、商売をしたほうがいい、みたいなことを言い出す。いわゆる高偏差値の大学に多いという話を、教員の側からはよく聞くが、実際ほんとうにそうなのかは知らない。具体的なやりかたはこうだ。医学部を出た、もしくは現在在学しているという「ブランド」(言っていて悲しくなるくらい貧弱な話だ)をふりかざしながら、ベンチャーを起業する。これからはAIだ(書いていて悲しくなるくらい通俗な話だ)。「医学の領域にも顔が通じるぶん、ふつうの起業者より有利です」とか言って投資家からお金をひっぱる。他業界ではそこそこやられている技術を医療業界に遅ればせながら導入し、現場にぎりぎり応用できそうなproof of conceptsをなんとか開発して、ハゲタカ論文などを用いて「ほら、学術的にも妥当だと査読論文で証明されている」などと言い、学会のスポンサードセミナーやランチョンで名を上げながらさらに投資家から金を引っ張る。じわじわと「臨床実装のためには業界の先達とコラボする必要がある」といいながら大手にすり寄って、投資家がそっぽを向くタイミングの2年前くらいを見計らってニッチな技術を会社ごと売却し、CEOとかCCOとかCOIとかいろいろ三文字の役職がついた人以外はまるごと大手企業で引き取ってもらって、経営陣だけが多額の金銭を手にして人生前半のゴール。クルーザーとコンドミニアムと会員制バーとジャケットの下に着る無地のTシャツ(98000円)を買い揃えて悠々自適に過ごしながら、たまに経営コンサルなどをこなして業界にちょっかいをかけ続ける若年寄ないし一代親方的存在になることで承認欲求を満たす。まあこんな感じだ。このプロセスのどこかで振り落とされた場合には、すっかりほこりをかぶった医師免許(縮小カラーコピーラミネート加工済み)を名刺入れから掘り出してきて、営業の途中に立ち寄ったいち老健施設のセンター長になって名義貸し的にそこそこ高い給料をかすめとる医者になれば自分の人生だけは安泰である(社員は死ぬ)。
今書いてきた話は、方言のようなものだなと思う。私の思う標準語で考えると違和感しかない。しかしその地域に根ざした必然性と適者生存の理みたいなものがあって、「この場ではこうするのが一番だ」ということが時間とともに収斂された結果なのであって、外からいちいち正義感とか使命感などで矯正するべきことではない。
そういう人生を目指していますというならば、研修医が「5時に帰ってライフを大事にしますが、この業界で誰よりも優れた自分でありたいと思います、どうやって勉強したらいいでしょうか?」と質問することにも意味はある。んなはんかくせぇ話わからんけど金ちょしとけ。
書き溜めに鶴
ブログは書き溜めている。昔は10本書き溜めていた。基本、平日に更新しているので、10本というと平日2週間分に相当する。仕事が煮詰まってくるとこれくらいは没頭する可能性があるということで、2週間の遊び。ところが最近は出張が相次ぎ、出張中に書けばよさそうなものだがどうも出先でブログを書く気になれずに、ポロポロとストックを失って、とうとう今は書き溜めが4,5本くらいになった。さすがにはらはらする。
とはいえ、「書き溜めが減ってきてはらはらする」からは本末転倒の香りが漂う。「ストックが5本よりも下回ってほしくない、できれば10本くらいは余裕をもたせて抱えておきたい」となると、少しずつ過剰の方向に向かってにじりよっている。念のためともうけた基準からさらに余力をもたせて……を繰り返しているとそのうち書き溜めが100、200となりはしないか。まあ、なりはしないのだけれど、なんか、そういう、念のための二度塗り、三度塗り、漆かよ、あまりエレガントではないよなと自分で自分を卑下する。
学会や研究会で講演する際のスライドづくりについても似たようなメンタルステータスが発動する。現在、10個先の講演までプレゼンは作り終えており、昨日作り始めたのは6月の講演スライドだ。念のため、念のためと準備をどんどん早回していったらこんなことになった。しかし、早く準備しておけばいいというものでもない。
先日、ある研究会(A)の前日に、「さあ明日のプレゼンでも見直すかあ」と思ってファイルを開いたら、思っていたのと違う。あれ? と思ったら、似て非なる別の会(B)に向けて作り直したデータをまちがえてAのプレゼンに上書き保存してしまっていた。AにはA用の話がある。しかしそれをもう話し終えた気になって、Aを聞き終えた人向けにBという少し進んだ内容のプレゼンまで作り終えていた。当然、別々のファイル名で保存しておくはずが、なんかショートカットキーでも押してしまったのだろうな、Aのファイルにも「作りかけのB」みたいな内容が保存されているのである。それをAの前日になってようやく気づいた。鏡もスマホも使わなかったけれど、私の唇はそこで間違いなく真っ青になった。これでは、なんのために早めにプレゼンを作っておいたのかわからないではないか。結局、未明にかけてA用のプレゼンを作り直し、帰宅して荷造りだけして寝ないで空港に向かうはめになった。飛行機の中で寝られるからいいや、じゃないのである。もっとも、プレゼンは一度作っているから作り直すからといってひどく困るというほどではなかったのだけれど、デザインやフォントを統一するのが少し甘くなって悔いの残るプレゼンとなってしまった。
ストックを用意すればするほどよいというものではないのだ。わかっている。けれどこれはもう強迫観念だよな。
直近にCPCが5つある。そのすべてで私が病理解説をする。このうちひとつは急遽決まったCPCで、本日の時点でまだプレゼンができていない。会の3週間前にプレゼンができていないというのは、非常事態だ。ここ数年でそんなことはまずなかった。あったとしてもその日のうちにプレゼンはできてしまうものであった。でも、CPCだけは別だ。さすがにCPCのプレゼンは1日で準備できるようなものではない。私は1時間半の講演であっても1日で作ってしまうタイプの人間だが、たかだか15分のCPCのプレゼンは1日では絶対に作り終わらない。
CPCというのは、端的にいうと「ある症例、ある患者に対して、病理医が見て感じたものすべてを含んだプレゼン」が必要な場である。「すべて」というのがポイントだ。
ふつう、人前で何かをプレゼンするというのは、すべてを出すものではないし出してはならない。選別が重要なのだ。絞り込みが必要なのである。コピーライターの技が求められる。広告代理店に入ってもらったほうがいいのだ。世の中には無限の情報があるが、それをいかに有限化するかにプレゼンのセンスが問われる。それが普通だろう。知っている。そして、これは私の持論なのだけれど、CPC、特に病理解剖例のCPCのときには、病理のプレゼンは絞り込めば絞り込むほど「鼻につく」。「今日はここだけ覚えて帰ってください」とテイクホームメッセージを狭い範囲に限定するプレゼンは、製薬会社が顎足枕付きで医者に頼んで医者もなんだか片手間で適当にしゃべるようなランチョンのプレゼンでならば許されるけれど、CPCだとしっくりこない。だめである。クオリティが低い。「有限化でしゃべった気になっているのはそれがCPCではないからである」。
CPCは「無限を見せようとする姿勢」が必要だ。ただし、どうせ無理なのだ。そんなこと、芸術家以外の人間にはできないのである。しかしそこですぐに引き換えしてはだめなのだ。「本当は無限に見せたい」。「すべてを余す所なく伝えられたらどんなにいいだろうか(でもできない)」。このような逡巡が全身からにじみ出てくる病理医であってはじめて、CPCにおける信頼がぽつり……ぽつり……と得られるのである。
CPCのプレゼンだけは、それまでにどれだけ頭の中でこねくり回していたとしても、作業時間1日では決して完成しない。間に合わない。それこそ、「間に合わせ」を提示してはいけない。それがCPC、clinicopatholocigal conference(臨床病理検討会)である。
以上は私の意見にすぎないが、ブログなのだから、それはまあ、私の意見しか書いていないのが普通だろう。ブログなんだから。CPCじゃないんだから。CPCが5つかあ。しんどいなあ……ブログの書き溜めとかしてる場合じゃないんだよ(これで7個目の書き溜め)。
あつ
「NON STYLE石田の漫才を問う」というPodcastがあって、初回からずっと聞いている。けっこううっとうしい番組ではあるので、万人におすすめするつもりはないし、作り手の側もたぶんそう思っている。そしていわゆる界隈ではちゃんと話題になっている。漫才、お笑い、の頂点を目指す人たちが楽しめるようなチューニングに見せかけて、そこそこコアなお笑いファン(というか現在はお笑いファンイコールオタクという時代が来ているのでコア性はデフォルトかもしれない)をターゲットにした番組である。
ある回(これを書いている時点で最新の回)にて、こんなことが語られていた。そのとおりのフレーズではないが、まあ、私が聞けた範囲で、ということで紹介する。およそこんな感じである。
「漫才は、おもしろいネタ、だけでは通用しない。おもしろいネタを客席までデリバリーする技術がいる。それは圧と呼ばれたり、場を支配する力と呼ばれたり、熱量と言われたり、緊張、みたいなことであったりもする」
私はこのくだりを、出勤時、車から降りてデスクに歩いている最中に聞いたのだが、思わず立ち止まってしまった。まったくその通りだなと感じる。薬剤ががん細胞を倒すシステムの話にも通じるなあと、無駄に医学方面に転用して「学び」を広げてもいいのだけれど、正直、そのままの意味で十分おもしろいなと感じた。
「お笑いのネタ、脚本をきれいに作り込む才能」というのがある。そして、それを「おもしろおかしく演じる才能」というのも別にある。前者に長けているが後者がいまいちだったと自分で感じているお笑い芸人はその後、構成作家などに転じるのだろうという安易な想像が浮かぶし、自分は後者だなと自覚している最たる芸人はラーメンズの片桐仁なのではないかと思うわけだけれども、そういう「役割分担」は、まあ、あるとして、どうも石田とその回のゲスト(ザ・パンチのノーパンチ松尾)がしゃべっている内容は、漫才コンビのネタを書く側が、自分でネタを書きつつ「客席に届ける圧」もどうやって兼ね備えるか、つまり上手な者同士で分担するのではなく、理想的には一個人の中でどう両立させるかということを語っているように聞こえて、私ははっきり言って、強欲だ、と思ったし、お笑いの頂点を見ている人間たちは確かにこれくらい考えていて当然だろうな、ということを強く感じた。
お笑い芸人ではない私がこの話をさらに深く実感しようと思うとそれは結局、「自分の業界に似たような構造を探し当てて、そこに今の話のメカニズムと似たものを見出して適用する」というやりかたになってしまう。で、それをやると、続きを有料にできるタイプのnoteやマガジンでそこそこ売れるような記事が一本できるのだと思うが、どうも、今日の私はそういう「そこで私の領域にあてはめてみると」みたいなことをする気が起きない。その理由はいわゆる綺麗事、「お金を稼ぐことに対する忌避」みたいなふるくさい価値観、がたぶんちょっとはある。しかしそれだけではないと思う。私は、そういう我田引水を繰り返していると、それこそ自分の「圧」が減ってしまうのではないかということを、極度に恐れているのだと思う。最後の一文がほとんど何も考えずにすっとキーボードの上をすべってモニタに表示されたことに本当におどろいている。そうか。私は、自分の圧を保つために、この部分がずっと「潔癖」なのか。
恋なんていわばエゴとエゴのシソーラス
シソーラスというと何やらシーソーのようで両義性とか拮抗性などがありそうに感じてしまうのだが、実際にはthesaurusと書くようで、こっちの字面を見るとむしろ恐竜っぽいと思う。意味はググれば出てくるのであまり調べることにも書くことにも興味がもてないけれど、ただ、字義や類語の階層を6,7階掘り進めば、それはそれでおもしろいところにたどりつくだろうなということもわかっており、私はもう少し丹念に検索するべきなのかもしれない。せめて、ググるだけでもする人間であったほうが、今のご時世まだマシなのかもしれない。私はもはや、ググってもこの程度までしかわからないもんな、と、あきらめてググらなくなってきている。熱を失っている。よくない傾向かと思う。
思えば、これだけAIに適当なかきまわしをされて、世にある文章の大半が信用できなくなった今、ググったカスがたくさんいたあのころがどれだけ前向きだったのかと、少し肩を落とすべきなのかもしれない。
熱を失っていくということ。
何度か書いてきたイメージ。ドラゴンボールの放送されていた水曜日のよる7時台、13分経過時点で流れるCMに、はごろもフーズのミルククラウンがあった。「はごろもフゥゥーズ」のウィスパーボイスと共に、画面いっぱいに広がる牛乳の表面、そこに垂らされる一滴の水滴……ん? と思って今検索してみたら、はごろもフーズのCMは牛乳じゃなくて水でやっていた。記憶の乱れも著しい、アジャパー、ともあれ、あの水滴クラウン、あれこそが、私の中で「文明のエントロピー」のありように近い原風景みたいなものである。まずは水面に最初の一撃が衝突していちばん大きな爆発が生じ、それらのクラウンの頂部に出現した新たな水滴が中心から一定距離離れたところでふたたび衝撃を生む。ただしそれは最初の一撃に比べると高さが足りないぶん反射がいかんせん低めに生じており、でもそのたくさんの水滴がさらに外側に次の爆発を生む。繰り返し繰り返し、「衝撃を受けて跳ね返る環状の領域」が外側に広がっていって、でもだんだんと跳ね返る水滴の高さは低くなって、数回あとにはただの波となり、それが次第におさまってまた凪に戻る。あらゆる文化、趣味、嗜好、癖(へき)、ブーム、社会的な怒り、蠢きもそうやって、凪いでいるところに最初にやってきたものが一番巨大な跳ね返りにつながり、それが外側に波及していくごとに勢いを失っていく、巨大なミルククラウンもしくは環状紅斑なのだ。
SNSもAIも、私たちが相身互いに助け合うあらゆる仕組みも今はもうクラウンの最外側くらいにしか脈動していないと感じることがある。雨垂れ石を穿つの言葉もあるが、雨垂れが屋根を穿った場合、石の上には青空が広がり、乾いて、雨が降ってももはや穿たれることはなくなる。世の中には屋根が必要であった。AIは雨垂れの足がかりであるところの屋根を吹き飛ばしてしまったのかもしれないと思うことがある。
時を置き去りにした
外は明るいのにずっと雪が降り続いている。窓の外の木にはこんもりと雪が積もっており、まるでクリスマスツリーのかざりのようだ。や、うん、逆だ。本来は、外に生えている木の雪を模してクリスマスツリーをかざっているわけで、「わぁ、クリスマスツリーみたいだな」というのは本末が転倒している。でも私はよく、こういうひっくり返った感想を何に対しても持つ。「まるでノンアルビールみたいな味のビールだな」。「まるでクックドゥみたいな味の麻婆豆腐だな」。出先で何かを食うときについ口から出がち。転倒はこれからもしていきたい。それは倒立みたいで楽しいではないか。マチュの初登場シーンを思い出してほしい。倒立からはじめるのがはやり。ガンダムジークアクスを見ていない人にはこのブログを読むことを推奨しません。病理診断報告書文体で言うと、推奨されません。
PCの壁紙が毎日くるくる変わる。腹立たしい通知ばかりよこしがちなMicrosoft Bingのアプリなので、ユーザーも警戒しているらしく、以前にここでそういうアプリを使っていると書いたところ、「危なくないですか? 情報を抜かれたら……」と言われたけれど、抜かれて困る情報を入れてあるPCでインターネットにアクセスすること全般が危険なのであり、私はそのへんさすがに対策をしているので、その点は大丈夫で、まあ、強いて言えば、インターネットで知り合った友人たちとの記念写真などが流出すると、それは私はともかくその友人たちにとってはデメリットだろうなと、思わなくもないので、Microsoft Bingはいいかげんにするように。ともあれ、壁紙の話。今日は雪山がこれみよがしに表示されている。きれいな写真だ。しかし、真冬のさなかに雪山の風景を出されても「寒そうだからやめてくれ」としか思わない。南の島希望。南の島キボンヌ。キボンヌってあれ、なんなんだ。なんだったんだ。語源。検索。えっ、金沢イボンヌが由来なの? 2000年のことなの? そんなに昔じゃないじゃん! インターネット黎明期からあるのかと思ってた。ついこの間じゃん。いや、2000年ってのは、四半世紀前ですよ。うそぉ! だから何? みたいな会話をひとりで続けている。ミレニアムから四半世紀。だから何なのとしか言いようがない。マジで。そりゃあ、時間くらい経つだろう。
逆張りばかりしたいわけではないのだけれどどうにも気になるのでいちおう書いておく。「えっ、今年ももう6分の1が終わったの?」「わあ、今年ももう半分終わってしまった!」「信じたくないことだが、今日で今年の3/4が終了しました」のようなポストをたまに見かける。意味はわかる。気持ちがわからない。人の心がわからない悲しきモンスターくらいわからない。「えっ、こ、こ、こんなにがんばっていろいろやりくりしているのに、まだ6分の1しか終わってないの!?」みたいな感想のほうが私の中ではいつも強い。「ま、まだ半分なのかよ!」「信じたくないことだが、今日が終わってもまだ今年は1/4も残っている」。ほぼ毎回この逆張りリアクションになっている。かつて、ドラえもんに「時門」というひみつ道具があった。これは田んぼの横にある水門みたいな形をしていて、ガレージのシャッター部分みたいなものの上に手でひねる蛇口がついていて、それをキコキコ回すとシャッターがある程度閉まる。その閉まり具合に応じて時間のながれがちょろちょろと遅くなる、という代物だ。のび太がこれをめいっぱい閉めたあと、世界ではさまざまな人々が大変な目にあい、しずちゃんはピアノのレッスンがいつまでも終わらないし、ドラえもんは言われた時間だけ草むしりをするはずがなかなか時間が過ぎないので庭のすみずみまで完璧な草むしりをしてぶっ倒れる(最後に縁側に沈んだドラえもんが「一本のこらず むしったぞ。」と言うシーンは地味だが屈指の名シーンだ)。これを思い出す。みんながタイムラインで「えっもう1年終わったの? 早いねー」などと盛り上がっているとき、私はどうも、私だけの時門がいつも閉じているのではないかと不安になる。あなたがたの言う、たかだが2か月、せいぜい半年、あっという間の1年というのを、私は本当に、何年も、何十年も、苦行をずっと繰り返してそれでも成長できないでいる、だめな世界線のネテロのような気持ちで過ごしている。たしかに祈る時間は増えた。
このブログの範囲に明らかな齟齬は指摘されません
病理診断レポートの書き方、私の書き方と大学からやってくる人々の書き方でけっこう違いがある。箇条書きをどの順番で書くかとかはまあどうでもいいとしても、語調というか、文体というか、そういうところがときどき引っかかる。私もおじさんなので当然のように、私なりの経験と考えと理屈と美学みたいなものがあり、そういうのがときおり鎌首をもたげて他者の書いたレポートをどんよりと睥睨し、「なんでこんなわかりにくい書き方するのだ? この小さき者は……(ゴゴゴゴ)」と、重低音ボイスでつぶやく。
私が一番気になるのはこういう書き方だ。
「標本内に悪性所見は指摘されません。」
なんでこんな、もってまわった遠回りな言い方をするのだろう、とすごく気持ちが悪い。一昔前のお役所の文章のようだ。
まず、病理医なんだから、書いていることが「標本の中で起こっていること」なのは当たり前だろう。冒頭4文字は省略できるはずである。
そして、誰もが感じると思うが、「指摘されません」とはなんなのだ。「ありません」でよいではないか。突然の受け身姿勢の表明に記者たちもざわめくであろう。妙に俯瞰的すぎて達観的すぎて、首筋に氷を当てられたような気分になる。
私ははっきりとこう書くようにしている。「悪性所見はありません」。あるならある、ないならない、自分の免許と資格をかけて、なじみの臨床医たちにしっかりとメッセージを届けることこそが職責だろう。
もちろん、自信がないときは、ためらわず、そのように書くべきだ。「悪性所見はありませんが、観察範囲外もご確認ください。」「悪性所見はありませんが、検体がかなり小さいのでご注意ください。」定型文ではなく伝わる文章で書く。毎日けっこうな量の診断書を書いているけれど、なるべく、ベルトコンベア的にならないように気をつける。
……ところが、これに対して、先輩からある指摘を受けた。彼は、私のポリシーはよくわかるし、それは「臨床現場」では望ましいスタイルだと思う、とことわりを入れたあとに、こう言った。
―――昔、イギリスのある古めかしい雑誌に論文を投稿したときに、こうやって言われたことがある。
「うちに投稿するとき、所見の記載はすべて受動態にしてください。能動態は受け付けません」。
〇〇が指摘された、〇〇が検出された、◯◯が得られた。◯◯と診断された。そうやって書かないと、論文を受理しないって。
なぜかっていうと、古典的な学術雑誌の中には、『おめーの主観はいいから、科学的・客観的な事実を書きな!』というスタイルを貫いているものがあるからなんだね。
ただ、2000年代に入ってから、状況は少し変わったと思う。Natureとかでも、論文の文体に、もう少し能動的なものが混じってきた。◯◯がある。〇〇と診断した。こういう書き方は、昔のスタイルに比べると、ちょっとフランクなんだよね。でも伝わる。これは文体の流行りというのもあるのかもしれない。
つまり、病理診断に「◯◯は指摘されません」みたいな書き方を好む人っていうのは、昔の学術雑誌の文体の、「科学なんだから客観的に書け」というポリシーを貫いている人だと思うんだよね。逆に、いっちーの書き方ってのは、いかに臨床医にすっと伝わるかっていう、すごく現場的な考え方で、これもまたひとつの判断なんだと思うよ―――
私は納得した。書き方ひとつとっても、いろんな立場、いろんな見え方があるものだよな。まあ、これまでも、よそから来た病理医の文体を「こうしなさい」といじったことはなかったんだけど、これからはもう少し、「どういう経緯で、どういう指導を受けて、そう書こうとしているのか」をおもんぱかってみることとしよう。