このブログの範囲に明らかな齟齬は指摘されません

病理診断レポートの書き方、私の書き方と大学からやってくる人々の書き方でけっこう違いがある。箇条書きをどの順番で書くかとかはまあどうでもいいとしても、語調というか、文体というか、そういうところがときどき引っかかる。私もおじさんなので当然のように、私なりの経験と考えと理屈と美学みたいなものがあり、そういうのがときおり鎌首をもたげて他者の書いたレポートをどんよりと睥睨し、「なんでこんなわかりにくい書き方するのだ? この小さき者は……(ゴゴゴゴ)」と、重低音ボイスでつぶやく。


私が一番気になるのはこういう書き方だ。


「標本内に悪性所見は指摘されません。」


なんでこんな、もってまわった遠回りな言い方をするのだろう、とすごく気持ちが悪い。一昔前のお役所の文章のようだ。

まず、病理医なんだから、書いていることが「標本の中で起こっていること」なのは当たり前だろう。冒頭4文字は省略できるはずである。

そして、誰もが感じると思うが、「指摘されません」とはなんなのだ。「ありません」でよいではないか。突然の受け身姿勢の表明に記者たちもざわめくであろう。妙に俯瞰的すぎて達観的すぎて、首筋に氷を当てられたような気分になる。


私ははっきりとこう書くようにしている。「悪性所見はありません」。あるならある、ないならない、自分の免許と資格をかけて、なじみの臨床医たちにしっかりとメッセージを届けることこそが職責だろう。

もちろん、自信がないときは、ためらわず、そのように書くべきだ。「悪性所見はありませんが、観察範囲外もご確認ください。」「悪性所見はありませんが、検体がかなり小さいのでご注意ください。」定型文ではなく伝わる文章で書く。毎日けっこうな量の診断書を書いているけれど、なるべく、ベルトコンベア的にならないように気をつける。



……ところが、これに対して、先輩からある指摘を受けた。彼は、私のポリシーはよくわかるし、それは「臨床現場」では望ましいスタイルだと思う、とことわりを入れたあとに、こう言った。


―――昔、イギリスのある古めかしい雑誌に論文を投稿したときに、こうやって言われたことがある。

「うちに投稿するとき、所見の記載はすべて受動態にしてください。能動態は受け付けません」。

〇〇が指摘された、〇〇が検出された、◯◯が得られた。◯◯と診断された。そうやって書かないと、論文を受理しないって。

なぜかっていうと、古典的な学術雑誌の中には、『おめーの主観はいいから、科学的・客観的な事実を書きな!』というスタイルを貫いているものがあるからなんだね。

ただ、2000年代に入ってから、状況は少し変わったと思う。Natureとかでも、論文の文体に、もう少し能動的なものが混じってきた。◯◯がある。〇〇と診断した。こういう書き方は、昔のスタイルに比べると、ちょっとフランクなんだよね。でも伝わる。これは文体の流行りというのもあるのかもしれない。

つまり、病理診断に「◯◯は指摘されません」みたいな書き方を好む人っていうのは、昔の学術雑誌の文体の、「科学なんだから客観的に書け」というポリシーを貫いている人だと思うんだよね。逆に、いっちーの書き方ってのは、いかに臨床医にすっと伝わるかっていう、すごく現場的な考え方で、これもまたひとつの判断なんだと思うよ―――


私は納得した。書き方ひとつとっても、いろんな立場、いろんな見え方があるものだよな。まあ、これまでも、よそから来た病理医の文体を「こうしなさい」といじったことはなかったんだけど、これからはもう少し、「どういう経緯で、どういう指導を受けて、そう書こうとしているのか」をおもんぱかってみることとしよう。