手を貸したほうがいやがられるだろうとも思った

早朝の札幌駅を歩いていたら地下鉄の改札からJRに向かう最中の階段で高校生が盛大に転んでいた。ローファーが階段にひっかかったのだろう。すぐに起き上がって何事もないように続きを歩き始めたので強いなと思った。私だったらおそらく膝や腰に瞬間的にダメージ、腰回りの筋肉で急激に・無理にふんばることで1日後くらいに遅れて強烈なダメージを背負い、それだけでなく、「自分の足を階段の段差分もちあげられないくらいとぼとぼ歩いていることへの精神的なダメージ」も負って再起不能になっていた可能性がある。高校生は十分に若く十分にきびきびしているのに転ぶんだな、と思うし、ここから数日以内にもし私が転んでも、あの高校生ですら転ぶんだからこれは別に歳のせいとかではないから大丈夫だ、と思い返して、比較対象になってくれたことに感謝していただろうなと思う。

昨日から特に誘引なく右側の咬筋が痛い。寝ている間に強く噛み締め、歯ぎしりでもしていたのかなと思う。だからと言ってやわらかいものだけしか食えないほどでもない、顎の力というのは本当に強烈だ。抑えに抑えた力でも十分に咀嚼ができる。おまけに口の中の感覚というのは鋭敏だ、たかだか200 μm程度しかない髪の毛が1本、ご飯の中に混じっているだけでも必ず気づく、それは掌や指先にもできない離れ業だと思う。それだけ高性能で高感度な口を今のところ維持している自分はとりあえずあいかわらず生命として立派だなと思う。でも階段でころんだ高校生を見て「自分もああいうことはよくあるし、むしろそういうのを先にやっておいてくれて助かった」と真っ先に感じるくらいには無慈悲で残酷であり、生命としては立派でも人類としてはそうでもないなと感じる。

家を出ようとしたとき、ジャケットの後ろの部分にある仮縫い糸がついたまんまだよ、と妻が指摘してくれた。このジャケット買ったのいつだろう。ユニクロだと思うが少なくとも今年ではない。おそらく半年、下手をすると1年以上前に買って、今日までセンターベントが閉じたままだったのだなと遠い目になる。このジャケットで歩いていても世間は私のおかしさに気づかなかっただろうし私も気づかなかったのだからまあどうでもいいといえばどうでもいいのだが。階段で転んだ高校生のことも、みな、目には入れていたけれど脳には入れていなかった。それくらいの関係のほうが、「恥」という概念にとらわれないで済む。ただしそのぶん「責任」からも遠ざかって暮らしていくことになる。