ナス。油との相性がよいとされるが、逆に言えば、油を使わないと味のついた水分をぜんぶ弾くので、レンチンしてめんつゆをかけた程度では味がしみこまない。噛んだときに表面にわずかに(それは肝油ドロップの表面にだけついている酸っぱめの粉のように)味がするがあとはずっとムシャムシャの歯ごたえ without 味、といった風情になる。それがいい。それがうまい。ワイルドを気取るならナスだ。スキットルボトルからウイスキーを飲むのと似ている。もっと上手な味わい方があるけれど、無駄に無骨で無意味にズボラにすることで、味覚以外の場所から味わいが出る。
昨晩めしを食いながらそういうことをモギュモギュ考えた。ナスとキノコに軽く水をふって容器にフタをし、500Wで2分レンチンして、すこしだけやわらかくなったナスとキノコの上から濃縮還元のめんつゆをそのまま垂らして、あとは魚を焼いたりしながら味がしみるのを待ってできた「ナスとキノコのめんつゆがけ」(?)は、まあ、ナスとキノコの味がして、食えた。ほんとうはとろけるチーズでも載せたら料理になったんだろうなあと思った。カネサビルの居酒屋「つくしん坊」を思い出す。おそらくあんなにしっかりした味付けの料理を今の私が週に一度でも食べたとしたら血圧が大変なことになる、かつてあれほど「家」だと思っていた学生飲み屋街からはすっかり足が遠のいた。数年に一度、古い友人を連れて訪れると、今この時代にこの場所を味わっているたくさんの若者たちの居場所を邪魔するような気がして落ち着かなく、なるべく多くの料理と少しでも原価率のよい酒を短時間に大量に摂取してせめてもの感謝の気持ちを店に落として一刻も早く退店したいという、いたたまれなさ・オ・焦り(カフェ・オ・レ的に発音をする)に満たされる。ならば行かなければよいではないか、と言われるけれど、そう簡単な感情でもないのだ。
ナス。皮を剥かずに食う。にんじん。皮を剥かずに食う。ダイコン。皮を剥かずに食う。ネギ。皮(?)を剥かずに食う。なのに玉ねぎだけは必ず表面のレイヤーを1枚はがしてから料理に使っている。これはなんなんだろうな、と思う。土を食いたくないという本能なのかなとも思うけれど、それでいうならばゴボウ、私はゴボウの皮を剥かずに食うのもわりと好きである。必ず剥くのは玉ねぎだけだ。どうしてだろうか。前世において玉ねぎの皮に視界を防がれて矢を避けられなかったとか、玉ねぎの皮が耳に詰まって後衛の声に気づかず槍衾の餌食となったといった記憶が私の中におそらくあるのだと思う。や、べつに、どうでもいいではないか、と言われるけれど、そう簡単な感情でもないのだ。
それで思い出したのだけれど、先日、膵胆道領域の微細な生検検体で、微妙な細胞異型をもって腫瘍と判定するか否か、というすごく難しい話をしていたときに、エキスパートのひとりが、「総胆管にある上皮は基本的にフラットなので、管状構造をしている時点で異型が弱くてもなんらかの異常を感じるべきなんですよ」と言われて膝を打った。総胆管は管状ではないのだ。