つまり治ったということだ

夜中に目が覚めたら治っていて、えっ、治るんだ、と思った。安心というよりもむしろ狼狽してしまった。昨晩、10時ころ、腹が張るなあと思いながら晩飯をつくり、食い、食器を洗っている間もずっと腹が張っていて、痛みも伴っており、かつ、あまり腸が動いていないと思った。うすうすわかってはいたのだがたくさん晩飯を食い、椅子で一息入れているときもずっと腹の緊張がとれなかった。胃腸が麻痺していると思った。大腸癌で閉塞している可能性もいちおうは考えた。でもまあ麻痺だろう。

今日はとにかくずっと忙しかった、カンファやミーティングの合間にすこしずつ曜日当番の生検をすすめた。大学の病理検体の量はあまり多くはない。20年選手の病理医ならば1日でこなす仕事量としては平均くらいだ。診断のレベルがすごく高いかというとそれもそこまで突飛なことを求められるわけではない、普通に秀才であれば十二分に対応できて、凡人でもがんばればなんとかなる。だから私がこうして働けている。レアな症例がすこし増えた気もするが、それも気の所為かもしれない。だからそこまで言うほどストレスフルではないのだ。それでも、今日はとにかくずっと気が抜けなかった。日中、一度すこし便意があったが、こんな時間にのんびりトイレで座っていられるかと思って、交感神経で抑え込んだ、振り返ればあれがよくなかった。いつもだと、帰りに車のイグニッションを押す(昔は回すと言ったものだ)あたりで屁が出始めるのだが、今日はそれがないのでおかしいなと思った。そして寝るまでずっと腹は痛かった。サブイレウス状態か、いやだなとすこし考えた。夜中に嘔吐したら救急車でいいかなと思いながら、二度ほど寝返りをしている間に寝た。そして午前2時、ファズギターも聞こえない暗闇のなかでふと目が覚めて、数秒ほど状況を確認し、腹が痛くなかったので、私は驚いたのであった。

人間というのは治るのだ。それがすごいなと思う。デスクにも戸棚にも、ワイシャツにもサンダルにもできないことだ。PCにはちょっとできる。そこがPCのすごいところだ。しかし人間の治り方というのはもっとすばらしい。創傷治癒とキスしよう。そうしよう!チュ! まあ治るといってもからくりがあり、たくさんの酸素やら栄養やらをひっきりなしに摂取して補充しているのでタダで治っているわけでもないのだが、外部からの補給は電化製品程度ならばあたりまえにやっているわけで生命だけが特段ずばぬけているわけではない。でも治るというのは別格だ。ああ、人間というのは治るから立派だ。まあ、「治る」という概念を換骨奪胎して、「これが 治る ですよぉ!」と自分なりに定義した結果、言えることなのかもしれないという気はちょっとする。なぜなら、腹は相変わらず重い、しかしこれならば、もう一度寝直して起きたらきっと使い物にはなっているだろう、つまり治ったということだ、という読み替えを無意識にやっている。閾値の設定、ゴールラインの移動。それが人間を美しく見せ、尊厳を高める。

腹がコーヒーを期待している。このあと学生の勉強会でコーヒーが出る。それでまた胃腸はすこし動かなくなるのかなと思う。