レシピ通りの病理

キャベツをどう食ったら一番早くそつなく食えるか、毎日だいたい同じ時間に考えている。昨日は、厚めの千切りにしたものを耐熱トレイに入れて下のほうに軽く水を張り、上から乾燥昆布とカツブシをかけてフタをして何度かレンジであっためて、昆布が蒸気で戻ったところでポン酢をかけてみた。「半身浴的鍋」みたいな見た目と味になった。素材だけをこうして書くとなにかうまく行きそうな気にもなるのだが、実食してみると別にうまいわけではない。ただ、まあ、食える。生で食っているわけでもないし塩分がきつすぎることもない。腹は膨れる。しかしこれは料理というか作業だなと感じる。

世にすでにあるレシピというのは生存バイアスをくぐり抜けており、それと違うことをして「なんだ、これでもうまいじゃん」というところまでたどり着ける可能性は皆無だ。はじめて一人暮らしをした大学生の、適当に火を入れたり塩をふったりしたもの、ワンプレートのパスタであったり丼物であったりの、あの、味がないわけではなく、むしろパーツとしての味はついているのだけれど、それはあくまでパーツがここにあるなというだけの、まだ組み立てていないジグソーパズル(しかも完成する保証がない)のような、そんな料理を作り続けている。たまにレシピ通りにする。とてもおいしいものができる。料理というのはそういうものなんだよな、と思う。

味噌汁なら適当に作ってもなんとかなる、と、土井善晴の声マネで毎日一椀ずつ作っているが、あらかじめ野菜を長めにレンジであたためておいたほうがよいとか、顆粒だしを入れたほうがうまい組み合わせとそこまで必要ない組み合わせがあるとか、乾燥油揚げや海苔など乾いたものをいくつか常備しておくと便利だとか、そういう話をひとつひとつ学びながら、少しずつ「普通の味噌汁」に近づけていく。きのこの加熱が甘かったりすると翌日腹が重くなる。ネギを入れすぎると特殊なネギダレみたいになる。こういうことをずっと繰り返している。


たぶん仕事でも同じことを私は10年以上やっていた。本当は王道のやり方があるものに対し、私なりにアレンジを加えてしまう。病理診断の所見をこう書いたらもう少しわかりやすくなるのではないかと試してみて、結局上司に「ここはいらないんじゃないか」と直されたり、学会の講演で普通あまり見ないようなスライドを入れて「会場のみんなに楽しんでもらおう」としたけれどそれがノイズになってメインのメッセージがボケたり、研究会の司会を担当して発表者や解説者よりもしゃべり続けて、結局その会にやってきた人びとの満足度があまり上がらなかったり、ということを繰り返した。「レシピ」を雑にしか覚えずに、感覚でだいたいこうかなとやって、結果的に微妙なものを生み出す、一人暮らし初心者の料理のようなことを、私は料理以外でもあちこちでやってきた。少しずつ人と同じ動きをするようになる、とっぴなことをやらなくなる、一般的に言われている通りの手順で物事を粛々とこなすようになる、そういうのはつまり、「年を取って落ち着いた」というやつで、レシピ通りに料理を作る、みたいな話なのだけれど、私もきちんとそのようになっている。