有名なんですか

カンファレンスルームで専攻医がコーヒーを淹れている。あと20分もすると学生が集まってきて勉強会がはじまる。N Engl J Medの記事を学生が音読し、その後翻訳し、専攻医が内容の説明をする、という、平成どころか昭和のスタイルの勉強会だが熱心な学生が何人もやってくるので、専攻医もはりきっているし教授もうれしそうだ。数年くらい前ならこういう準備も私がすべてやっていただろうがようやくこういう役割を任せられる人間がやってきて感慨深いものがある。ただ、なんというか、もうこういう役割をやらなくていいとなったときのさみしさのほうがいろいろと勝つかもしれない。さみしさはあらゆる感情の上位互換である。

いそがしい、いそがしい、早く終わらせたい、すぐに片付けたいと、たくさんのデューティの下で潰れそうになっている今も、ふと、こういう仕事もいつか下に任せるようになるのだなと、そのときの私はいったいどう思うのだろうと行く末をふりかえる。

サンジはどの島でも「行け!」ばかり言っている、彼は自虐と自己犠牲に惑溺している、だから覇王色の覇気が発現しない、というくだり(コミックス派の人間にとってはネタバレなのだけれど知ったことではない)、ああ、なんと残酷な設定なのだろうと、かなり興奮した。たかがマンガだ。でもとてもよくわかる話だ。自己犠牲タイプの人間の根本には自虐がある。病理医ヤンデルというアカウント名を選んだ私はこの話をする資格がある。自己犠牲タイプというのは人を引っ張っていく素質を欠くものだ。私は人を引っ張っていくタイプではあきらかにない。歳を重ねて、リーダーでないとなると、そのような人間は暮らし方をだいぶ丁寧に選ぶ必要がある。パブリックのために身を粉にする、それが一番いいことだろうと思ってやってきた。でもそのような精神を裏打ちする基底板は自虐染色に陽性となる。粘膜の剥落をもたらしかねない、危険な物性だ。

先日の出張先には若い人がたくさんいたのだが、私のことを知らない人間がかなり多くいた。へんな話だが長いことそういう経験はなかったので、そうか、ついにそうなったか、と思った。若い人たちはベテランに「この先生は有名なんですよ」と水を向けられ、シニカルに私にほほえみかけて「有名なんですか?」とたずねる。私は「はい」と答える。すると若い人たちは「否定しないんだ笑」と言って呵呵と笑う。そう、否定しないんだ、そのあたりのやりとりで定番の「いえいえ」「それほどでも」には飽き飽きしてしまった、何周も何周もやったからだ。そして一周目からサーキットに合流した若い人たちにとって私は「有名ですかと言われて否定しない痛い中年」以外の何者でもなく、ははあなるほど、このように入れ替わっていたのだなと、来し方をおしはかる。有名だった人間が次にやることはもっと有名になることだ。いや、そうだろうか? 問いを立てて否定し、次の問いを立てる。こういうやり方も古びてきた。ふるびの泉である。