共同研究者のすごい人(ほぼ同い年)は今年のグラントの打率が3/6だと言っていた。去年は1/5だったのでうまくいっている、との談。確かにすごい割合で見事だなと思うが、驚くべきはそこじゃなくて、額面だ。分担まで含めた獲得金額はおそらく今年だけで期間通算20億以上。ひくほどすごいが、アメリカにいる大須賀先生(同い年)もそういう感じなので、世界的な研究者というのはみんなこのレベルで着実に研究費を取りまくっていて、決してフィクションの世界とか遠い世界の神話などではなくて現実なのだと感じる。金があればなんでもできるかというとわりとなんでもできるし、金がなければなにもできないのかというと実際なにもできない。研究費についてはとっていない人間よりもとった人間のほうがしっかりと偉い(この偉いというのはヨシヨシ偉い偉いナデナデという感じの偉さ)。逆に、気持ちは研究をしたいが研究費がとれないからストップしているという研究者は大学にも研究所にもたくさんいて、そういう人たちが「金はなくても気持ちでなんとかやります」と言って研究ができるかというと、できない。気持ちがあるなら努力して研究費をとる、それ以外のやり方はないんじゃないかなと思う。だから毎日研究費のことを考えている。自然と脳内はKawazanyou 6.1 ウルトラになる。つまらないだけでなく、偏っていく。偏った上でつまらないというのは方向性を間違えた芸人のようなものだ。最低だということだ。これだけなにもかも犠牲にしてまだ論文のFigureひとつも作っていないのは悲しいことである。
旭川の家は狭いがそれ以上にものを置いていない。テレビは30代のときに一人暮らしの部屋で買った14インチくらいの小さなものしかなくて、食卓から見下ろすと番組表の文字はおろかバラエティ番組の字幕もぎりぎりみえるかみえないかといったところだ。テレビのある暮らしが好きなのだが近頃はなにも見ていない。たまに札幌でテレビをみると相変わらずおもしろい、それは民放の町ブラロケだろうがマツコ・デラックスと有吉弘行がただしゃべっているだけの番組だろうがどれもいいのだが、旭川の家でじっと見ているとコンテンツが頭蓋骨を越えて入ってきてくれないように感じる。「あまりに仕事ばかりだと話がつまんなくなるよ」というのはこういう意味でもあるのかと今さらだが感じる。どうでもいいけれど私はこのブログで「感じる」とか「思う」とか「考える」をとても高頻度で使うのだけれど、最近、すぐ「ぼんやり考えている」と入力してしまい、また同じようなことを書いたなと思って消す機会がとても多い。実際ぼんやりしているのだろう。最初にぼんやりというオノマトペを開発した人のことを思う。ぼやぼや、ぼうっと、ほんのり、そのあたりとの連動性が感じられるが、「ぼんやり」の秀逸なところは「り」の発音ひとつで状態性をにじませているところと、「んにつながるぼ」のところの口の動きがまさにぼんやりしている人間のゲシュタルトそのものであるところだなとうっすら思う。