デスクには幡野さんの写真が2枚とおかざき真里先生のイラストが3枚、それとROROICHIさんのペン画が1枚飾ってある。これが当たり前の状態が長いので、正直なことをいうと、日頃、そこにそれらの素晴らしい写真や絵が飾られていることを私は忘れていることがある。
一方、私のデスクを訪れる医者、学生、企業の方などは、みな私と話しながらもときどき壁のほうをちらちら見る。たしかに私も仕事でしか会わない間柄の人のデスクに行く用事があったらそういうムーブになるだろうと思う。来客をむかえたとき、そうだ、私のデスクは、今いい感じなのだった、と気付かされる。
なんかそういうのが当たり前になってしまっていることをもったいないなとも思う。
差分に気づくことが得意な私の目。正面から100度くらい左側にある窓の枠のへりにカメムシが歩いていることにすぐに気づいた。スタッフと一通り大騒ぎしたあとで、紙コップふたつを使って捕獲して窓の外に逃がす。一段落して思う。よくあんなの見えたな、と思う。誰もが経験あるだろう。見ようとしていなくても、虫が歩いているのを辺縁視できる私たちの目、脳、いつもと違う動きにはすぐにハッとできる太古からの警戒アラームだ。一方で私の目は、定常状態に入ったものの処理をあきらめる。ずっとそこに黙ってあるものは後景化して、意図して眺めないとそこにあることを忘れる。そうやって変わらないであるものを、見ないでいるのではなくて、デフォルト・モード・ネットワークの中でひそかに受け止めているのであってほしいなと思う。意識には登らないけれど無意識では察知して安心を得ていてほしいと思う。それを狙って写真を飾るのだ。そうであってほしいから絵を飾るのだ。
電話がかかってくる。出る。写真の外にあるもうひとつのデスクに診断用のPCがあり、電子カルテや病理診断システムにアクセスできる。そちらを振り向いて電話口でたずねた患者のIDを入力して問い合わせに応える。しばらく話しているうちになんとなく、もとの方向に向き直ると、私の目にはとたんに、幡野さんの写真が飛び込んでくる。電話をしているとき、耳の奥に壁がいくつもあって、その壁の向こうから聞こえてくる気配に意識を集中するのだけれど、そのとき、私の視界からの情報は少し粗雑化して変質し、それでいて意識の表層にきっちりと浮かび上がってくるのである。なんというか、ちょっと単純化されるというか、PCがセーフモードで起動したときの状態になる。それまで「変化なし」として捨てていた情報の数々が、シンプルに「写ったものはみますよ」みたいな感じで、新しい顔をして脳にまっすぐ飛び込んでくる。電話中、壁のあちらがわに耳を傾け、布のむこうがわを手でまさぐるように、案件対象を十重二十重に取り囲んでなでまわしているとき、主役から降ろされた私の目は、まるで技術工作おもちゃのような廉価版のスペックとなって、写真の色を薄灰色がかったグレーだなと感じ、額縁の角度の微妙なみだれを気にして、刺さっているボールペンの向きが揃っていないと言って騒ぎ、デスクの汚れをキムワイプでふきとるように私の手に指令を飛ばす。なるほど、私は、電話中にみるものを少しでも自分の心にいいものにするために、写真や絵を飾っていたのか、と、後付けにしてはずいぶんといい感じの理由にたどり着いて恍惚となる。