明和中学校の前

上海での講演の時間は20分とのことだった。20分のために上海まで行かせてくれるというのだからありがたいと感じるべきなのだろう。たぶんこれくらいのゆるさで国際学会をやっても本来は誰も文句を言わないのだ、日本で開催される学会は少々堅苦しすぎる。ただ今回の仕事については「中国の伝統的な服装を着ていただきお写真を撮っていただきます、つきましては身長と体重をあらかじめお教えください」以外の連絡がほぼ事務局から来ていないというのが若干気にかかる。ほかにやりとりすべきことがあるだろうと思うし、ここだけおさえておけばあとはどうでもいいというのも本音なのかもしれない。


もっとゆるく暮らしていいのだと思う。


毎日燃え殻さんの日記を楽しく読んでいる。沖縄で羽根を伸ばしている様子が伝わってきてよい。私たちくらいの年代は海に何も求めることはなく、南の島だからといってやることは居酒屋で飯を食うくらいのもので、それには共感しかないので安心して日記を読める。

私も南の島で味の濃いものを食べたいという欲望はまだ持っている。上海ではどういう食事になるのだろうか、それはよくわからないが、たぶん、しゃちほこばったコース料理だとか立食のビュッフェだとか、じつはどこの国にいても食べられるようなものしか食べないのかもしれないなということを思った。



八雲から熊石までは八熊線という道路が通っていて、雲石峠という峠を越えていく。先日、特急北斗に乗ったとき、八雲駅でそのことをふいに思い出して幼少時の記憶にたくさん手が触れて痛痒かった。母の実家は乙部町にあった。今はもう家ごと処分してしまったのでそこにいっても墓すらないのだけれど私はたまに猛烈に乙部町を見に行きたくなる。鮪ノ岬(しびのさき)という場所があって、遠くに眺めるとマグロの背のようだから鮪ノ岬だという話をうっすら覚えているけれど私は当時マグロというのがどういう魚だかよくわからないでその話を聞いていた、切り身・鮨・もしくは図鑑でしかみたことのないマグロという魚は別にほかの魚と変わらないフォルムをしており、岬の形がマグロに似ているというのはサバやアジやイワシやブリとはどう違うのだろうかというのを当時よく考えていたしじつは今もそのことはわからないでいる。あのころ乙部で食べたもののほとんどを覚えていないのだが、おそらくイカとウニとツブがあった。イカもウニもべつに子どもにとってそこまでうれしいものではないのだけれどツブのことが私は好きだった。ひねるように殻から取り出したとき、身の先端についている内臓のような部分は食べるな、食べるとしびれるからな、神経毒だ、と死んだ祖父が言っていた。そのシーンをはっきりと覚えている。神経毒とはなんなのか、じつはまだよくわかっていないが、私はおそらくそのことは自分が死ぬまで忘れないだろうし、自分が死んだらそのことを覚えている人は誰もいなくなるのだろうなと感じたが今ここでこうやって書いたので、誰もいなくなることはなくなってしまったのかもしれない、と思いそのことがややさみしく感じる。


潮見の浜の岩場の、足の裏に突き刺さるウニの殻の感触はいくら書いても共有できる人間はそう多くないだろう。そういうことばかり書いておいたほうが、私は幸せなのかもしれない。