小国の心

見学した病理検査室で、顕微鏡のレンズにはApoの文字がなく、コンデンサーのネジは緩んでいて、ステージはパラフィンで汚れており、ランプは白熱灯で電圧は安定しなかった。でも、私は「大きくてすばらしい検査室です」以外の言葉を持たない。日本と同じメーカーの、やや世代の古い染色装置が、日本の何倍も並んでいるのを絶賛。小型のWSIスキャナをコンパクトで便利だと褒めちぎる。切り出し室に証拠保全用の監視カメラが何台も並んでいることを精度管理の妙と翻訳。これらはどれも、私が「若く見えます」と言われることと対を成している。

「若く見えます」と言えば日本人が喜ぶということを、海外の人たちはよく理解している。私はそれに、「そうですか? いやーうれしいですね」と答える。それは国際交流会話セットの一貫だ。別の道理をもちいて話をあらぬ方向に捻じ曲げる必要はない。

年々顔のしみは増え、指も節くれだって、首の肌も荒れていき、それらに一切のケアをしないくせに白髪だらけの髪だけはカラーで隠した私の、服はすべてユニクロで、合皮の革靴のかかとは死んでいる。それでも「若く見えます」と言われると、まるで私が若さや美容にこれまで気を遣ってきたタイプの人間として今を過ごしているようで、過ごすことのなかった別の人生に言葉だけでも接しているような気がして、ふしぎな浮遊感を覚える。

ありとあらゆる差別の構図に頭皮までどっぷり浸かりながら、それでも思うのは、この地に住む人びとの頭の良さとエネルギーの総量の多さだ。かなわないなと思う。「尊敬する」という言葉をこの地の言葉で何というのか、私は自分で発音できればよいと思った。しかし、2重母音、3重母音、私は人名ひとつまともに伝えることはできなかった。漢字を教えてもらい、国際ローミングのスマホからGoogleで検索をかけると、それはあまりによくできすぎた名前であるいは偽名なのかもしれないと不安になった。



「また来てください」と人は言うが、病理医の技術指導や講習は内視鏡医や外科医のそれと違って現地に直接赴く必要はないのではないかと思う。私の告げた「また来たいです」の言葉はやさしい通訳の人によって何倍かの分量に増幅され、社交辞令との境界があいまいとなるけれど、初心な国際交流にまっすぐ熱意を通わせる彼の国の人びとは、「それを言われるとうれしい」ということを全身で表現していて私は自分の思考の寄り道の多さが恥ずかしくなった。