からくりの心

スマホを見ている時間が少し伸びた。ドパオジである。4コママンガだったりショート動画だったり、野球のハイライトだったりを数秒ずつ摂取している、さて、数時間後にふりかえって、具体的になにを見たのかというと、あまり思い出せない。よくない。けっこうな時間を費やして惑溺したあとに「まあいいや」と、まるでうまく見切りを付けたかのような顔をして床につく。本当はあと10分早く寝てもよかった。まあ、いい。無為な夜をふりほどき、朝へ駆け寄ることにする。睡眠はワープ航法だ。私はワープを繰り返して宇宙の果てにたどり着く。ワープの前にぐだぐだする10分も、巡航していることに違いはないが、旅程の全体からみるとそこは全体の進行に寄与しない。映画、マンガ、作中で何かが起こるのは、いつもワープをしていないときだ。しかしそこはつまりは旅の停滞で、道草で、目的に近づいていない時間で、つまり、「たまたまワープのタイミングがずれていたら起こらなかったこと」である。それはなんだか、本質的に、猛烈にひとりぼっちだな、と、私はいつも思う。

いざ、宇宙の果てにたどり着いたとて。

そのおそろしさはドラえもんに描かれていた。あの絶望的な恐怖のイメージは、私の心のかなり深いところに刺さって抜けない。空の右半分にだけ星があり、空の左半分にはそれがない。空間の概念からするとそういうことは本当はないのかもしれない。けれども私にとっては宇宙が藤子不二雄の考えた通りであったほうがいろいろしっくりきて、しっくりと怖い。



SNSではたいてい無為な時間を過ごすが、ときに、SNSで生涯の友のような本を教えてもらうこともある。「たまに役に立つことがあるからやめられなくて、結果として、役に立つ以上に損をしてしまう」という現象が世の中にはある。待ちぼうけ、待ちぼうけ、ある日せっせと野良稼ぎ、そこへ兎が飛んで出て、ころり転げた木の根っこ。行動心理学に間欠強化という言葉があるそうで、「毎回でなく、たまに・予測不可能なタイミングで報酬がもらえる仕組み」は、常に報酬がある環境よりも強い依存を産み出すという。行動心理学とか行動経済学の実験手法には首を傾げるようなものが多く、あまり信用していないのだけれど、たしかに、まあ、今の私は、タイムラインから間欠的に得られる知性の報酬を待ちぼうけて、野良仕事を忘れた農夫であろう。

やはり仕事だ。仕事しかない。ワークライフバランスのライフを広げようとするから失敗する。ドーパミンの量をほどよく保つにはワークのほうが適切だ。たくさんの障害を乗り越えた先に、正当な報酬が得られ、その頻度は少ないが、喜びは大きい。

しかし近ごろの私は、仕事の大部分をAIに丸投げしてしまう。これだともやもやとした悩みも、コツコツの努力も、途中の多くがすっ飛んでしまう。圧倒的な速さでいい仕事ができたとして、「まあ、そりゃ、AIが手伝ったんだから、できるだろうさ」くらいの気持ちになる。報酬はほとんど得られない。

なんかそういうことを言い表した故事成語とかあるの?


「便利な道具や過度な手助けによって効率が劇的に上がる反面、試行錯誤の苦労や手応え、本来の醍醐味・精神性が失われてしまう」という皮肉な空虚さを言い表した故事成語や古典の寓話が存在します。まさにその違和感を突いているのが以下の言葉です。 

機械の便利さに溺れて「心の働き」を失うことを戒めた故事

機心(きしん)/ 桔槹の戒め(きっこうのいましめ)

出所: 『荘子』天地篇

原典の逸話: 子貢(孔子の弟子)が、甕(かめ)に水を汲んで畑へ運ぶ重労働をしている老人を見かけ、「桔槹(はねつるべ:テコの原理を使った揚水具)を使えば、少しの労力で何倍も水が引けて効率的ですよ」と勧めた。

しかし老人は笑ってこう答えた。

「機械(からくり)がある者は、必ず機事(からくりの仕事・手際の良い仕事)をする。機事をする者は、必ず機心(功利を計る心・からくりの心)を抱く。機心が胸の内に宿れば、純白な心は保てず、精神が定まらなくなる。精神が定まらなければ、生きる実感からは見放される。知らぬわけではないが、恥ずかしいから使わないのだ」


あるんだ。ふーん。すぐわかっちゃって、つまんない。AIが私をワープさせる。つまらなくなる。さっさと床につく。また次の朝がくる。寝ても覚めてもワープばかりしている。藤子不二雄だ。私は、あこがれていた、藤子・F・不二雄の世界に生きている。