家で切ってこいという話なのだけれど、たとえば飯を作って食ったり食器を洗ったり、洗濯物を干したりタオルケットにくるまったりといった、生活を回すうえでは、これくらいの爪は気にならない。ギャルほどではないけれどオジも爪は多少長めでも問題ない。しかしキータッチという作業においては爪は些細な伸びでもじゃまである。いつも、働き始めてすぐに爪が伸びたということに気づく。
ここまで書いて、この話題、昔も出したなと思い、そのときは果たして何を書いたんだっけなということを記憶の底に探しに行く。たぶん、サザエさんの、「足の爪を切っているおじさんが、どうせ暇なので反対側の足は翌日にとっておく」というワンシーンのことを私は書いたのではないかと思う。具体的なフレーズの記憶はない。過去ログの検索もしてはいない。でも、おそらく私の連想というのはそうやって続いていくはずだったよな、というレトロスペクティブな推測がある。
田舎のバスは人が乗らないので、バス停でときどき時間調整の停止をする。バス停に早く着くのはよいが、早く出てしまうのはだめだ。だからバス停で待つ。降りる人も乗る人もいないバス停にバスが停まって待つ。
セブンイレブンのホットカフェラテを飲む。うすいカフェインと多めのミルクだ。意識とか思索をする動物でなかったらこんなものは飲まない。電車を待ちながらホームで少し粘性のある熱いものを喉に流し入れる。これは今、私は、いったいなにを喫しているんだろうなと思う。犬猫ならば喫しない。ここまで書いてふと、サザエがあちこちうろちょろ遊び回ってちっとも帰ってこないカツオに投げかけた皮肉のセリフ、「よっ、うちのキッシンジャー」を思い出す。それを受けたカツオはたしか、「期待されるってのもつらいもんだよ」とか言いながら机に向かうのだ。4コマしかないのにいくつもの背景といくつものずれ、いくつものおかしみがある見事なマンガで、子どものころの私はその意味の多くを理解できなかったが、愛らしい絵柄とリズムを産み出す構図が「これはおもしろいんじゃないか」という予感だけを十二分に喚起して、結果として今、40年近く経過してもおぼろげに4コマの内容を思い出せるのだからすごいものだ。
情報は多ければいいというものでもなく、伝わりやすければいいというものでもなく、背景がないと理解できないならば不親切かというとそうとも限らず、そのときその場所でわからなければ意味がないかというとそんなものでもないのだから、おそれいる。
メガネのイケメンから依頼された文章を書きたい。書いている自分を想像すると武者震いが来る。もうそろそろ、書きたい。なぜ書きたいのか、書いて何がしたいのかは洗濯された。書くことを喫したいのだと思う。