迫力のあるねむみと戦うためにコーヒーを飲む。「すぐそうやって戦いのメタファー使うのよくないですよ」と脳内ポリコレ部隊が騒ぎ出す(ポリコレ:今の旭川市のポリ袋ってコレでいいの?)。カフェインでもキシリトールでもグリチルリチン酸ジカリウムでもいいからこの眠気をなんとかしてくれ。予測変換が「グリチルリチン酸二カリウム」と出てきて、あれ? 昔、CMで聞いたあの歌って、「じかりうむ」じゃなくて、「にかりうむ」だっけ? と思ってよくみるとこれ数字の二ではないか。そうか、ジカリウムって「di-」だったんだな。それはそうか。ジカリウム、っていうひとつの物質のように感じていた。化学でも医学でも習ったから冷静に考えればわかるけど、知識より先に音で入ってきて定着したものはときにこういう「理屈じゃない浸透のしかた」をしていて油断できない。ジエチルエーテルがジ・エチル・エーテルだと知ったときの頸髄の揺れを思い出す。ウスバカゲロウを漢字にしたら薄羽陽炎だったときの真皮の痺れを思い出す。
『めしにしましょう』の出張編の3巻を読む。このマンガシリーズはインターネットのあちこちで語り継がれる程度には強度の高い社会不適合者であるところの天才・小林銅蟲先生が20年以上かけて社会との距離をはかっていく人生サーガのスピンオフとして読むべきもので、しかしそれを言ったら、ほとんどのマンガは作者の大きな物語のスピンオフではないかという気もしなくもない。からくりサーカスは藤田和日郎の人生のスピンオフである。イニシャルDはしげの秀一の人生のスピンオフである。阿・吽はおかざき真里の人生のスピンオフである。スピンオフというのは単にひとかけらということを意味しない。地下茎によってつながりつつ、違う場所で旺盛に咲く、ハマヒルガオみたいなものである。ワンピースは直訳するとひとかけらなんだよなと今になって思う。
編み込んでいくときがあり、多段階式ロケットのように切り離していくことがある。取り込んで癒着していくことがあり、表面が硬く乾いて散布していくこともある。自分というひとつの塊が、まわりとの関係を次々と変化させながら、そのときどきでバブルスライムだったりスライムだったりホイミスライムだったりと形態をかえていく。にやけた口元こそ変わらないが色が違ったり硬さが違ったり、回避率や逃げ足の速さが違ったりする。そのような不定形のものを保とう、保とうと思って日々を暮らす、自分を塊状に安定させることに心をすりへらす、というのはわりとあまりよくないのかもな、ということをしばしば思う。元は自分であったもの、あるいは自分になるかもしれなかったもの、一喜一憂の種。歩くとなにが健康にいいかって、自分の境界を定めるのに苦労しているときに、肌が、鼓膜が、網膜が、地面や風や陽の光を跳ね返し続けることで、宇宙ステーションから日本をみたときに灯りの輪郭がそのまま海岸線のかたちに見えるようなあの感じで、「今はここまでが自分なのか」と安心できるというその一点が健康にいい。血糖値? コレステロール? その高いか低いかなんて、運だよ。とはいえ減塩はしています。