夢に常在菌を

病理AIのためのアノテーション、画像が1700枚送られてきてびっくりした翌月、5700枚送られてきてもうびっくりしねえなと思っていたら、そのさらに翌月に20000枚送られてきてまたびっくりしなおした。5年前なら心が折れていただろう。しかし今や、AIチーム(病理AIを作るためのチーム)が、生成AIを用いてさっとコードを書いて、私が大量のアノテーションをするときに便利なユーザーインターフェースを作れってくれる。画像を一枚一枚クリックして開いてなにかに書き込む必要はない。ウェブベースの簡易なアプリを開けば、画像送りも拡大縮小もまとめてアノテーションするのも一気にできる。暴力的な数の仕事をしなければいけなくて大変だなと思ったのはつかの間だった。じつはそんなに大変じゃなくて、結局7時間くらいでアノテーションはすべて終わった。想像の20倍くらい早い。

AIサポートによる仕事の効率化はえぐい。結果、かつてならありえなかった量の仕事をやっている。そしてそれがちゃんとできている。私の脳が20000個の構築物を確認したという事実は動かない。ただ、この20000回の試行錯誤のあいだ、おそらくたくさんの情報が無視されたり圧縮されたりしている。そうでなければこんなにスマートに仕事が終わるわけがないのだ。すべてのアノテーションが終わっても、私の脳や神経が「20000回の弁別」を行ったほどの疲労を感じない。それは、私が本気で20000回ちゃんと考えてこなかったということではないのか。私が職能を用いて全力であたるからこそこのAIは意味をもつのではなかったのだろうか。こんなに手抜きでよいのだろうか。人間が本気を出したものを参照していないAI、つまりそれは、広義のweakly supervised(弱い教師付き学習)のAIではあるまいか。そうだとしたら、それはいったい、なんのために、だれのために、やっている仕事だったのか。

ぶつぶつ言っても、数字が出れば人は動く。プロジェクトは順調に進行している。膨大なデータの解析はAIによって存分にサポートされている。人が本来対応できる数字の何億倍もの数字をAIがかわりにまるめこんでいく。折りたたんでいく。言いくるめていく。すべてAIのおかげだ。AIが人を動かしている。本日の7時間、私はAIによって介護されながら働いた。今日の7時間、私はAIの手足だった。脳と手足の関係でいうと私のほうが完全に手足だった。

かつて、ほぼ日の糸井さんは、「夢に手足を。」というコピーを書いた。当時、いい言葉だなと思った。今、私の夢に生える手足はAIによってコードされている。夢を遠くに連れて行くのも、夢に希望を運んでくるのも、AIがやる。そしておそらくは支えられている夢のほうも。夢の中に張り巡らされている血管、神経、骨格、これらもAIによってダイナミズムをしっかり支えられている。夢の頭のてっぺんから足のつまさきまで、私が入り込んでドライブできる場所はどんどん減っている。ああ、私はあと、夢の何を担当できるだろう。手足にもなれない、体幹にもなれない、脳脊髄にもなれない、となればあとは、皮膚か? 外界との間でまっさきに驚いたり汗ばんだりする部分、せめてここだけは、私がやらせてもらわないと、あまりにさみしい。さみしかろうがなんだろうが、皮膚もいずれAIに盗られてしまうだろう。そしたら私は何を担当すればいい。皮膚の中に埋まり込んでいる汗腺か。皮膚から飛び出している産毛か。それともそのあたりに細々と棲まう、もはや個体の一部ですらない悲しき同居人か。角質といっしょに剥がれ落ちていく、わりと日和見のタイプの。