暖房を付ける季節であり部屋が乾燥する。寝ていると鼻の穴の中がかぴかぴに乾いて、朝起きると、古い塗料がぽろぽろ剥がれるように鼻汁を引き伸ばしたような薄い鼻糞が鼻腔にへばりついており、ティッシュでまとめて引き剥がすところから一日がはじまる。血がまじったりもするのであまりよい循環ではないのだと思う。対策として、冬はなんとなく洗濯をする日数を増やしている。洗濯物を干すことで加湿器のかわりにするわけである。バスタオルもワイシャツも下着もすぐにかぴかぴに乾く。だんだん布の質が悪くなっているのがわかる。私のバスタオルはなんだか尖っている。あまり知られていないことだが柔軟剤というのはじつは気休めである。ふわふわのタオルに柔軟剤を使うと少しニュアンスの違うふわふわになる。でも、そうでないタオルならそれなりにしかならない。美人が化粧したら別種の美人になる、というのと似ている。過度な洗濯で痛みきったバスタオルは、それでも乾燥のたびに私の鼻腔を少しだけ守ってくれる。毎日洗濯物を干していると床には綿埃が溜まりやすくなる。部屋にとっての鼻糞みたいなもんだと納得しながらジェネリッククイックルワイパーで掃き掃除をする。この部屋に来てからめったに掃除機を使う機会がない。ラグマットを敷いていなくて全部屋板張りだからジェネックルで十分なのだ。無駄な買い物をしたと思う。
でもまあ無駄な買い物というのは必要だ。朝食の後に必ずビヒダスを食べるがこのヨーグルトひとつが私の代謝になにか役に立っているとは全く思わない。でもこの無駄な追加の一食が柔軟剤のように私の暮らしを少しだけ別種のものに変えているように感じている。
食事と掃除とシャワーと睡眠に対する理解が毎日上がっていく。それ以外に生活をしていないからだろう。これらを細かく見ていくおもしろさは奥深い。昨日、キャベツを荒い千切りにしてほかっと温めた上に冷たい木綿豆腐を乗せて、その上に混ぜ終わった納豆を乗せて、その上に千切った海苔を狭く高く積み上げて、タワーサラダというのを作った。食べた。上から順番に、海苔、納豆、豆腐、キャベツの味がして、とくにシナジーは感じられなかったが食感がレイヤーごとにさまざまに変化したのだけがおもしろかった。次は無駄にミニトマトでも添えてみようかと思う。
置き時計の秒針は、長年、音が鳴らないものにしている。デスクでカチコチやられるとうるさいからだ。でも、今ふと、カチコチうるさいほうに変えてみようかなという気がした。思考の邪魔だと考えていたけれど、メトロノームがあったほうが私の早口は少し抑えられるかもしれない。これは考えるだけでおそらく実行には移さないだろう。でも秒針の音をオミットしなくてもいいくらいの心持ちでいたいものだなという気がした。
ゆりもどし、という言葉を考える。無駄なものを愛するという発想は逆張りだ。削ぎ落として削ぎ落として鋭くしていくことばかり考えているからこれみよがしに無駄なものを愛でているよということをこうして前面に出すのだろう。結局人というのはやじろべえのように、中心部の軸性を保つことを本能で大切にしているのだと思う。偏ったままではいられない。肩入れだけでは過ごせない。