時を食えり

妙に値段が高いくせに主菜がはっきりしないビュッフェを出て、テイクアウトコーヒーを飲みながらPCをひらくといくつかメールが届いていて、ひとつは科研費の話、ひとつは病理AI関連共同研究の話で、科研費のほうから返事をする。5分もせずにリアクションが来た。夜討ち朝駆け、土日関係なく働いている人の書類は切れ味が鋭い。問題は共同研究のほうで、こちらはBoxで共有されたファイルをダウンロードしようとするとべらぼうに時間がかかる。トータルの容量が1.1 GB、ソフトバンクやドコモが一時期やいやい喧伝していた5G回線なら2秒もかからずにダウンロードできるはずだったがあの話は結局うそだったのだろうか、まあいい、じりじりと待ってようやくダウンロードが終わるころにはコーヒーを飲み終えている。喉が乾いている。外付けハードディスクを置いてきた出張先のPC、デスクトップにこんなに重いファイルを置くのは、ちょっといやだな、ま、「デスクトップ」なんて例え話でしかなくて、本当はPCのどこにどれだけ重いものがあって、それがPCにどれだけ負担をかけているかなんて私には判断がつかないのだけれど。WSIのビューアは圧縮ファイルだとうまく作動してくれない。しかたなくデスクトップ上に解凍する。さらにまた時間がかかる。

待ってばかりいる。考えることもできない時間を待たされる。SNSをみるくらいしかやることがない。

OpenEvidenceに長めの臨床プロンプトをほうりこんで、回答を待っている間も、だいたいSNSをチラ見している。AIが「考えているかのように」「現在の進捗にみせかけた」短文を、表示しては消し、表示しては消し。

Analyzing query...

嘘ッくさい演技だなと思う。

Searching medical literature...

SNSで昨日みかけた、「長押しタップすると背景にいろいろ浮き出てくる画像」のせいで、タイムラインにはそういう画像ばかりが並ぶようになってしまった。Kindleで買ったマンガがうっすらBLだったせいで、その後KindleのおすすめがBLだらけになって閉口している。来年の病理・夏の学校の宿候補を検索してからずっと、ウェブ広告が楽天トラベルで旭川の宿をしきりに紹介してくる。

ZAZEN BOYSを見たアイナ・ジ・エンドの目が潤んでいたことくらいしか近頃胸がすっとした話がない。腰痛がひどい。ストレッチをする。Analyzing query...の最中にしっかりと十分に時間をかけてストレッチをする。

お坊さんが塀を乗り越えて食べに来るという意味

早朝である。空港にいる。搭乗待ち合いにいる。最前列にいる。目の前に滑走路がみえる。低く立ち込めた灰色である。通路とこちらとを隔てるガラスの壁にたくさん指紋がついている。こういうところを清掃しないのかな? と思う。疑問はすぐに解消する。リュックをばうんばうんと跳ねさせながら走ってきたジャリがガラスに激突せんばかりにへばりついて、しっかりとガラスに手を当てながら飛行機をガン見しはじめる。始発便が飛んでからすでに2時間は経っているから、この2時間で、これだけ汚れたのだろうなということを理解する。次にやってきたエルサっぽいかっこうをした女の子ふたりのうち妹の方は手も顔もべっとりとガラスと癒着している。それよりちょっと大きな姉のほうは親を振り返って急に激しくダンスをはじめる。振り付けに意図や企図がある感じではなくてエモーションを爆発させる、原始の踊り、儀式の一貫、スピリットが周囲に集まってきそうなダンスで私は思わず顔を伏せる。あまり見てはいけないのではないかという畏怖のような心が私を覆う。キン肉マンの35巻でとつぜんディフェンドスーツの中から出てきたマジックスクエアをキン肉マンが軽く折りたたんで投げると、大阪城の天守閣にすえつけられたオープンスタジアム的なリングの直上にマジックスクエアがドーム状に広がって視界を覆い隠していくのだが、ああいう形態をした畏怖が私を覆う。どこから出てきたのか、どう畳んでどう投げるとああいう形態になるのか、一切納得はできないけれどストーリーと勢いで腑に落とさせられる。女児が踊り狂っている。狂女児が踊っている。この二文のどちらがより適切だろうかとしばらく考える。


7月24日はポテトサラダ記念日、というポストがあってたしかにと思う。


書評というか解説のしごと。校正ゲラを1日目に読み、3日ほど考えて考えて移動の最中に書き終えた28字×60行。編集者からは早さをほめられ、中にしのばせたワンフレーズをほめられ、そして、いくつかの表現がわかりづらいと訂正を求められた。ユーチューバーは物を書かないのでは? いい偏見だ、採用しよう、この一文を削除。Xに流れた記事のリンクをたどったらその先が有料で最後まで読めない、というのは本当にあること? 本当だけど、ピンとこないなら採用しよう、この一文を削除。パズーが支度にかかる秒数というのはどういうこと? 四十秒かからないという意味だがわからないならいい、この一文を削除。あとは許してもらえた。タイトルをどうしようかと悩む。編集者にも考えてもらう。なにもかも自分で書いて整える必要はない。素材を提示して、真ん中において、それを違う角度から眺めながら数人であれこれいじれば人前に出せるものになっていく。「かっこかり」を出しておくことが重要だ。それはなるべく早めであるといい。

「願いだと気づく(仮)」

というタイトルを暫定的に付けた。これがどうなるか、数日後にわかる。


腰痛がひどい。太ももの血流が滅んだ。ノートPCを脇に置き、待ち合いの椅子から体を少し前にずらして、片足ずつ前方にほうりなげてストレッチをする。ももうらを伸ばす。「ストレッチってのもまじめにやろうと思うと1時間くらいかかるよね」。たしかにな、と記憶の言葉に相槌を打つ。搭乗まであと20分、となると十分なストレッチの時間はない。この痛みを小倉まで持っていくのか。小倉が怒ったぞ! コクラーッ! 思いついたギャグをSNSに投げる。むなしいなと思う。しかしこうして「かっこかり」をさっさと提示することで動く何かがある。私はずっとそういうやり方をしてきた。それでわりとうまくいくのだということを知っている。ただし、「未完成の状態でいったん提示されてその後人の間で揉まれてそれなりに落ち着いたパッケージ」がなかなか描けない像というのも世の中にはあるように思う。「幾重ものプロセスで発酵し、濃縮され、煮出されて、ようやく提供されたファッチューチョン」だけが持つ正体の掴めない香りのようなものはきっとこの世にはあると思う。

FDA

薬屋のひとりごとの最新刊を読んだが人の名前がひとつもわからずまたいちから読み直さなければいけない。ワイシャツの記事が布っぽいやつで筋肉の足りなくなった私の体のやわらかいラインが出るからいつも気を張って体を硬くして歩く必要がある。薬を一日飲み忘れるとそれで二日くらい血圧が安定しない気がして不安だ。たくさんの義務が駅伝形式で走ってきて、私はいつも足がつっている。CMのサッポロビール。おとといの宴会も昨日の懇親会も焼き鳥だった。焼き鳥が好きなのだが焼き鳥を二日連続で食べるとなんだかすごく偏った気持ちになる。できれば鶏と豚は交互に。牛はいらない。

近ごろ、また昔のように、出会った人にXのアカウントを教えてもらえるようになった。すこし懐かしい。

背の低い草が一面に生えた起伏のある高原の原っぱで、思いのほかごつごつ小さくでこぼこった地面を裸足で踏みしめながら右に左にさまよっていく。そんなところで出会った動物には、必ず情が移る。そういうことなのだと思った。

今朝、夢が、完全に昨日の続きだったので、整合性がとれていて、よかった。

医者はよく印税の話をする。私に、「たくさん本を書かれていますよね、どれくらい儲かるものですか?」とたずねる人が後を絶たない。それぞれの本の部数を告げると困惑される。確定申告のことを話すと軽く怒り出す。そんなに書いているくせに、そんなにもらえないなんてことないだろう、じゃあ、世の中の多くの作家はぜんぶ兼業でなければ食っていけないではないか。そうですよ。食えませんよ。食っている作家ってのは、すごいんですよ。こんなことを話したいわけではないが、そんなことをよく話す。

搭乗を待つロビーにダルマがある。みんな白目を剥いている。




小牧からはたしか、花巻に飛ぶ飛行機があったはずだ。息子とふたりで日本縦断貧乏旅行をしたとき、まずは沖縄で2時間滞在、そこから博多に飛んで陸路で広島、京都、名古屋と移動して、いきなり飛行機で岩手に飛んだ、変な旅だった。あのとき以来の県営名古屋空港、あいかわらずさびれて猛烈に暑くて人にあふれていて、心が躍る。あのころ私たちはコンビニのおにぎりばかり食べていた、今や、離れて暮らす私たちは、どちらも自炊ばかりしている。息災でなによりである。

余地

腰痛がえぐくてヨチヨチ歩いている。ヨチヨチ歩いている自分が愛おしい。赤ちゃんがヨチヨチ歩くのは、体幹の筋肉が育ってないからなんだなということが今更わかる。解剖学は日常をよりカラフルに彩ってくれるすてきな雑学になりうる。本当は実学なのだけれど雑に扱っても味がする。


科研費をみんなでとろうねという話をした。みんな肩を落とす話題だ。でもまあ、そういうこともしていこうと思う。せっかく大学にきたのだから。この「せっかく」が私をせっかちにする。


夏にビアガーデンに行くのは義務ではないが、「せっかくだし」という感覚にはそこそこの強制性がある。より込み入ったことをいうと、「せっかくだし」という言葉はそんなに暴力的ではないんだけど、「せっかくの機会なのに……」の攻撃性はけっこう高い。否定的に用いた瞬間に威力が出る言葉というのがある。


小牧の空港をうまく使えると気持ちがよい。ホテルの朝食会場が開くより先に出てタクシーに乗る。斜めに差し込む陽光が顔を焼く。もう蝉の声がする。信号で、少女が、赤信号を待つ少女が、交差点に背中を向けていた、たぶんまぶしいからだろう。日傘も差さず、しかし彼女の短い髪はからすの色で、輪郭はGペンの筆圧であった、ナンバーガールの歌詞のようにこれから帰るのかもしれないし、単に朝番のバイトに向かう早起きな学生なのかもしれないが、彼女は一心にスマホに何かを叩き込んでいた、腰痛がえぐくてヨチヨチ泣きながら、私は知らない少女の1日の平穏を願った。そういうのもぜんぶハラスメントですと昨日の懇親会で名前を覚えられなかった教授は笑った。

ゆで差延

情と関係性で仕事をしてきた人たちに、めずらしくこちらからお願い事をしたら、私のお願いは聞き入れてくれなかった、ということがあった。魚心あっても水には心はない。まあそうか。水には心はない。お湯にはある。でもお湯だと魚はゆだってしまう。ままならない。一晩くらい悔しがってもよかったのだが、腰痛がけっこうひどくて、30分もすると腰のほうにかかりきりになって、人と人との関係の話はいったん忘れた。

腰がひどすぎてどうにもならない。筋肉をつけないと慢性的な悩みは解消しないだろう。したがって、解決策として、キン肉マンの22巻と23巻をダウンロードして読む。

「ゆで理論」という言葉があったが、このたびあらためてキン肉マンを精読して気づいたのは、マンガゆえの理論の破綻よりもむしろ、「一度描いたものを少しずつ微修正していくさま」の激しさだ。ネプチューンマンとネプチューンキングがマスク・ジ・エンドで逆回転して時間を戻す理屈に昔は大笑いしたものだが、今はべつにそういうのは気にならない。そんなことよりも、たとえば、一度リングから逃げ出そうとしたキン肉マンが、(バッファローマンのロングホーンが埋め込まれた)左腕に引っ張られてロープを自然と掴んでしまうシーンで、キン肉マンとロープとの距離がコマごとに違うこと。あるいは、アポロン・ウインドウロックのシーンで前方後円墳のサイズがコマごとにどんどん違うこと。そういうところにすごく「ゆで性」を感じる。「ゆで修正」こそがこのマンガの唯一性に寄与しているのではないか。

キン肉マンというマンガには絶対的なものさしがない。ある事象が描かれるとき、それは一コマごとに違うパース、違う輪郭、違う解釈を与えられている。戦っている超人たちがまだたどり着いていないはずの真実を実況が大声で叫んでいたりすることもある。そういった設定のソフトさや落ち着かなさで、読者が迷子になるかといったらそういうことはなく、ときおり解説役を担当するロビンマスクやブロッケンJr.や、改心するとなぜか目が宝石になったアシュラマンなどが、「それっぽくまとめて語る」。すると、ふわふわしていた設定がかなり大きめの飛躍を経て、まるで確固たる物語が最初から存在していたかのように突然ビシッと落ち着き、キン肉大王やミートくんや、あきらかにアシスタントが描いたであろうモブの観客たちが「オオオオ」と理解して納得して感動する。これこそが「ゆで時空」の本当の奇妙さで、マンガの魅力の本籍地なのだ。キン肉マンはおもしろい。「ゆで修正」はこのマンガを無二なものとして完成させている……いや、まあ、おそらく、このマンガは一生完成しないだろう、なぜなら描かれるたびに細部は変貌していくからだ。


むかし、実家にキン肉マンがとびとびであった。悪魔将軍を倒す巻と、超人タッグトーナメント編の最後の2巻、そして、フェニックスとの戦いの終盤で「ドブ川を清流に変えるフェイスフラッシュがビビンバに照射されるところ」まで描かれた巻。この4冊だけがうちにあった。今にして思うと絶妙な4冊だった。プリンス・カメハメのこともよくわかる。しかしなぜこの4冊だけがあったのか。もはやまったく覚えていないが、自分で選んで買ったわけではなかろう。父親が買ってきてくれたのかもしれないが、どうだろう。あるいは同級生からの誕生日プレゼントだったかもしれない。あのころ、小学生どうしが集まって数百円レベルのプレゼントを渡し合うような場では、マンガの最新号を送り合う習慣があった。だからうちには聖闘士星矢の途中の巻が1冊だけあった(たしか16巻とかそのあたりで、ポセイドン編の途中であり、「アッペンデックスのキキ」という名前がいじられる巻だったと思うがちゃんとは覚えていない)し、ファミコン風雲児も4巻と5巻だけがあった。ちびまる子ちゃんは3巻と6巻だけがあった(プサディ―が出てくる巻が6巻だったかと思う)。

マンガの途中の巻だけを読むというのは、とても不思議な読み心地である。親に頼んで前後の巻を買ってもらえばよいのだけれど、あの頃の私と弟はどうしてかわからないがそのような発想を持たなかった。途中の巻だけを何度も何度も読んで、かつその前後を想像するわけでもなかった。そのような体験が、私のその後の人生になにか影響を与えている可能性はある。途中で知り合い、途中で別れる関係を、あとから幾度もこするのだけれど、それでいてその関係をさらに拡張しようとはしない、電話やメールで旧交を温めることもせず、それでいてあの頃のあの人たちはどうしているのだろうと「思うことだけはやめないでいる」私の性格の、根本はマンガの途中だけ読んでいたあのころに醸成された可能性がある。

Facebookで昔の知り合いの名前を検索してみる、というのを昔ちょっとやってみたことがある。しかしそうやって検索をすると、仮に友人申請などを送らずとも、アルゴリズムが勝手に相手のタイムラインに私の名前を表示することがあると知って、私はFacebookで人を検索するのをやめた。13巻しか読まなかったマンガ、17巻しか読まなかったマンガ、31巻しか読まなかったマンガ、大人買いをすれば前後をすべて読み返すこともできるのだ、でもそれをしないでいる。いや、違うか、人生はマンガではない、Kindleでまとめ読みをするように誰かとの関係をまとめて読み返すことなどできはしない。なぜなら私は読者ではなく、もちろん作者でもなく、誰かの描いたマンガの中で毎回ちがう設定で描かれ続ける登場人物のひとりにすぎないからだ。