エクスキューズミー

9月までの講演のプレゼン11本を作った。その先のプレゼンも週末には完成する。講演が近づいたときにあらためて見直してデザインを調整したり症例を差し替えたりするので、これが完成品というわけではないのだけれど、それでも気持ちはだいぶ楽になった。

あと、懸念の原稿をどこまで進められるか。でも次の職場で得られる新たな刺激を原稿に反映したほうがいい気もしている。今の時点であまり急いで書き進めないほうがよいのかもしれない。肩の荷がまったくないとバラストを降ろした気球のように地に足が着かなくなる。多少は抱えていたほうがいい。

ただし複数かかえているあれこれを、いっぺんにどうにかしようと考えるのも、決してよいことではない。あまりたくさんのことをいっぺんに気にせず、バターナイフくらいのサイズで外界を少しずつ切り取って、食パンに乗せて地道に食べる。腸内細菌が偏らないように、毎日微妙に違うものを乗っけて、食パンに乗せて地道に食べる。世界の範囲は視線の走らせ方によって変わるが、口のサイズは変わらない、だから無理なく食べられる程度の量を、食パンに乗せて地道に食べる。咀嚼して代謝するにはきちんと噛むことが大切。時間をかけて、30回以上。ちなみに私は米を買ったことがある。食パン以外にも、米に乗せられるものは米にも乗せて、それはそれで地道に食べる。小分けにするのが大事だ。ストックを食べきらないことが肝要だ。明日できることは今日のうちにやる、ただし、明日にも少し残しておく。One for today, one for tomorrow. 


9月いっぱいで今の職場をゼクノヴァする。異動にかかる諸手続きに時間をとられることを考えると、7月以降はエクストラの業務を入れたくない。でも結局は毎週出張だ。10月以降が不透明すぎて外での仕事を引き受けられないので、9月までになるべくたくさん義理を果たしておきたいと思って、あらゆる仕事を引き受けていたらけっこうな日程になった。有給休暇は昨年から繰り越した分も含めて44日余っている。あと4日くらい使う予定だ。土日祝日ぜんぶ仕事なので美容室に行くヒマがないから月に一度、平日に休みをとって髪を切りに行くとして、それであと4回くらい使う。

退職直前の半年の行動には働き方改革も労務管理も適用されないと見込んでいる。職場が休めというから休んできたのであって、怒られないなら(もしくは叱責が届かなくなるなら)休みたくない。ただし、そのことを我ながら、完全によいことだと思っているかというと、じつはそうでもない。あとから振り返ったときに、休みがなかった時期の仕事はうまく思い出せない。いわゆる「学び」になっていない。学び(笑)。気づき(笑)。ただフィードバックせずにすぐ次の仕事に入るというのはあまりいいことではない。何かの不具合や不都合があったとしても修正する間がないと、その時期はずっと間違ったことをやり続けることにつながる。長い目で見るならば、切れ味のいい仕事をたくさんするためには定期的に休んだほうがいい。より正確に言えば、「仕事を振り返るための仕事」を、仕事と仕事の合間に計画的に入れ込むことではじめて、望むレベルの仕事ができるようになる。べつに企業が定める方法で休まなくてもいい。しかし「仕事を振り返る仕事をこなすために外仕事を断る日」はあったほうがいいと思う。



こうして、自分の行動に理屈と物語をつけていくタイプのブログ記事を書いていると、私はいったい、何に対して延々と言い訳を述べているのだろうかと、背中をまるめた自分の姿を背後に浮かんだ私自身が見つめる構図でさみしくなる。「なぜ、数ある言葉のなかからそれを手にとったのか」。「どうして、いくらもありえた言葉の組み合わせをその順番に整えたのか」。文法の確認をするような目線で自分の書いたものを幾度もこすっては、「間違えていない、間違えていない、間違えていない」と、半減期のやたら短い安堵をチャリンチャリン稼いでいる。自分が生きる物語の展開がシェークスピア並みに構造化されていてほしくてたまらない。ビリヤード台の上で四方八方からゴツンゴツンやられていつポケットに落ちていくかわからない。右往左往の来し方をを物語にするなんて、本当は無理だってこと、よくわかっていたはずなのに。仮にも複雑系の描写を生業とする人間がこんなことでどうするのか。

よくも悪くも思われたくない

今クールはめずらしくアニメを3つも見ていてガンダムとアポカリプスホテルとラザロ、いずれもなかなかおもしろい。タイミングとしては早朝、仕事をはじめる前、あるいは出張先のホテル、寝る前にちょっと。CM分を除くとひとつ25分くらいの視聴だろうか。ほどよい。

移動中はあいかわらず本を読む。以前よりも寝落ちすることが増えたし、再読の割合を少し増やしているので新たに読む本の量は減ったけれど、でも本でいい思いをする時間はそれなりに持てているかなとは思う。書店で出会う本とSNSで出会う本の比率は2:8くらいだ。2はとても大事だが2が全部当たるわけでもないのでやはり8をサボるわけにはいかない。ただしSNSでいい本に出会う打率は以前ほど高くない。したがって打席数をひたすら多くすることで実数を稼ぐようにする。SNSはデイリーチャレンジだ。毎日ログインしてルーティンを回して確実にポイントを集める。こつこつやっても課金しない限り効果は薄い。しかしポイント集めをしばらく怠ると1か月くらいで明確に「損した」という感覚が湧いてくる。

エンタメや論考などを摂取できている時期は心に余裕がある。それはそうだと言われがちだが、この、「言われがち」こそが私にたくさんのストレスをかける。友人知人のたぐいから「人生もっと幅広いほうがいいよ」とか「もっと楽しまないと損だよ」と言われたらいやだなのプレッシャーこそが一番ストレスになる。人生をもったいなく過ごしていると人に思われる懸念が薄まれば薄まるほど気持ちが楽になる。人からなんと言われてもかまわない、という人間のことがわりとうらやましい。人からなにか言われるのが面倒だから言われないような平均的生活を模倣する過程でアニメや本がちょうどいいクッションになっている。

私は矮小だ。しかし特性というものはいまさら変えようがない。

私は人からどう思われるかを気にする。よく思われたいのとは違う。悪く思われたくないというのと近いがじつはそれともちょっと違う。人に悪く思われたあと、その人が良かれと思って私に近づいてきて、何かを私に投げかける、その時間が嫌いだ。放っておいてもらいたい。「こいつは放っておいても普通にやっていけている」と、日常的に思ってもらっていてほしい。よくも悪くも思われたくない。「普通」と思われたい。なぜなら構われたくないからだ。したがって私は人からどう思われるかをかなり細かく気にする。

私は凡庸だ。

アニメは3つ見ているがいつも3つ見ているわけではなくてたまたま今クールがそうだっただけだ。1本も見ないこともあるし1本だけ見ることもあるし、たまたま思い立ってコナンの映画を続けて2つ見てみたりすることもある。本はのめりこんで何冊も読みまくるというのではなく、たまたまSNSで教えてもらった本を人と同じように読むこともあるしベストセラーに何気なく手を伸ばすこともあるし、文章がしんどくなってある時期マンガばかりちまちま読んでいるということもある。外食には心が踊るがいつもいつも外食ばかりしているわけではないし、インスタ映えする店を選んで写真を撮ってということはあまりしないけれど人気のお店にぐうぜんたどり着いたらたまには並んでみることもある。服を買うのはめんどうだが嫌いなわけではないので休みの日には何度か行ったことのある店をめがけて服を選びにいくこともないではない、が、そこまで服にお金をかけまくることもする気はない。飲食については新しいお店を開拓するのも何度か行ったことがあるお気に入りの店に行くのも大好きだけれど最近は体調と小遣いを考えてあまり外食しないようにしている。これくらいの人生を歩んでいる40代後半の男性であればああしろこうしろと言われることもないしキラキラした目であこがれられることもない。賭博はやらない。風俗に行かない。綿密に、厳密に、普通であり続け、それでようやく守った心の平穏をボンベの中に詰め込んで、人っ子一人立ち寄らない冬の夜の海に垂直に潜って真珠を取るようにほぼ日手帳に仕事の予定を書き込んで、WorkFlowyのメモを上から順番に横棒で消していく。

はやくしろ

夜あまり寒くなくなってきた。掛け布団の上にさらに毛布を乗せるのをやめる。昨日は夜中に布団から足が飛び出ていた。ひやりとして目が覚めた。不快と気づかない程度の刺激がやや遅れた悦びに転化した。倒錯とまでは言わないが不思議な愉楽だなと思いながら再びまどろみの中に腰から沈み込んでいった。

いつから薄手の部屋着を出そうか探っている。平和な逡巡。季節が私の身ぐるみをいじる。四季がなければ10年同じ部屋着だった。洗濯替えのために同じものを2着。小遣いの足りないスティーブ・ジョブス。それでよかった。なのに、季節のせいで、金がかかる。季節のせいで脳が動かされる。ありがたいことだ。環境の変化による不快の到来を私たちは言祝ぐ。不快のバネに飛び乗って快に向かって高々とジャンプするシルカシェン。


「春を寒がる」。それは人が人として悦び生きていくために必要なことだ。そうでない土地に住んでいるあらゆる人に告げる。そこは、人が住む場所ではない。住めなくはないから止めはしない。いろいろ事情もあるだろう。しかし、あなたは無理をしている。私たちは本来、春に震える生き物だ。そういうふうにできている。安心してほしい、根拠は医学ではない。私の勘である。春眠で汗だくになるような土地に暮らして情緒もわびさびもねぇだろと、私は根拠も理屈もなくただ堂々と宣言する。しかしあなたは私の宣言を無碍にもできないはずだ。根拠とか理屈とかではなくあなたの勘も告げているだろう。「春は寒がるものなのだ」ということを。


釧路の人口が11人増えたという一文をThreadsで目にした。過疎真っ最中の地方の小さな町に何が起こったのだろう。あるいは、たまたま誰も死なない日に何人か同時に産まれたとか、そういう喜ばしいできごとが偶然重なっただけなのかもしれないが、私としては、釧路の誘致活動が実を結び始めたという説を取りたい。

駅に貼ってあったポスターを見てにんまりとなる。「20℃以上は真夏の合図です」。

https://dotdoto.com/works/coolkushiropr/

暑くなりすぎた日本だ。これから人口が増えるとしたら釧路しかない。暑苦しい土地に無理して住んではるなんて我慢強くてえろうおますなあ。完璧な京都弁で素直に称賛を述べてしまった。どうしてみんな暑くて狭いところに住みたがるのだろう。前世がシュウマイなのか。人間ならば釧路に住めばいい。いや、まあ、厚岸でも白糠でも根室でも斜里でもいい、しかしバランスを考えるとやはり釧路がおすすめである。羽田への直行便もあって便利だ。しかしそういう、現代人の都合だけが理由ではない。

そもそも釧路駅前にはティアキンだったら絶対にウルトラハンドでくるくる回すような動輪碑が建っている。これを回せば末広町に祠が開いてワープポイントとして使えるようになる。飛行機やらJRやら、平成の遺物に頼り切っていてはいけない。私たちはもっと自由に飛び回ることができるのだ。

https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g298147-d15530697-Reviews-Dorin_Monument-Kushiro_Hokkaido.html

釧路は何を食ってもうまい。銀座の一流寿司屋で食わせる中トロの攻撃力を1000として、札幌の大学生が通う雑居ビルが26時くらいに雑に出すホッケが1500くらいとすると、釧路のチェーンの居酒屋が出すお通しの雑なブリの攻撃力がだいたい1800くらいだというのはもっと知られてよいだろう。海産物だけではない。肉もうまい。というかでかい。新橋の唐揚げが春麗サイズだとしたら札幌の有名店布袋のザンギはエドモンド本田で釧路のスナックが出すザンギはザンギエフだ。レベルが違う。酒もいい。日本酒は朴訥で甘えがない味。洋酒の店が意外と多く、ウイスキー、カクテルなどもいい店がある。しかしやはりビールがよく似合う土地だ。私は25年近く釧路に通っており、この地でかつてよく一緒に飲んだ技師さんたちの影響でもっぱらビール党になった。カニ? カキ? そんなにうまいものを比べられるほど人間の舌の弁別能は高くない。どこで食ってもうまいもので勝負してどうする。ポテトサラダを食え! 焼き鳥を食え! 名物でもなんでもない単なるラーメンを食え! 単なるラーメンはさすがに単なるラーメンだけどほかはだいたいうまい。驚く土地だ。

なぜ釧路では何を食ってもうまいのだろう。輸送。加工。食材。職人。さまざまな面で日本のどこと比べても恵まれている。しかし、あえていうならば「寒い」からではないかと思っている。人間は適者生存の過程で、暑いところで食いものをうまいと感じるようには進化していないのではないか。食中毒という強烈な死亡リスクを避ける上で、周りが暑いときの食材の変化には相当敏感でなければならない。すなわち私たちは本能的に、気温が高いと「食を楽しむモード」から「食の安全をチェックするモード」に舌が切り替わるのではないか。うだるような夏には何を食っても五臓六腑の交感神経が味わうモードになっていないのではないか。

熱々の料理をおいしく感じるなんてのもおそらく「火を通したものをうまいと思える人間だけが生き残ってきた」という生存の掟によるところが大きいのだろうと思う。夏の楽しみといえば、ビール、カルピス、スイカ、ソーメン、ほら、冷たくて食あたりの心配のないものばかりであろう。つまり私たちは原則的に、「寒い場所でしか美食を味わえない体」なのだと思う。

釧路と同じ食材を東京に運んで完璧な調理をしても人間の身体のほうがそれをすんなり受け入れる状態にはならない。魚が一番うまいのは道東であり道北。寒いところで食うからうまい。本能には誰も逆らえない。



ではそんなに食に恵まれた地域である釧路の人口がなぜ減るのか。簡単である。寒いからだ。私も晩年はできればあったかいところで暮らしたい。常夏。いい響きだ。ソーキそば大好き。酒の中で泡盛が一番うまいよな。

いとなみ

書こう書こうと思っている原稿を1年温めており、編集者からも「ゆっくりやりましょう 急ぎません」と言われているのでなお温め続けているという話を、何度かここで書いてきたと思う。わりとずっと気にし続けている。積ん読ならぬ積んタスク。積ん読を読書とかいう輩は、仕事を棚上げにして取り掛かりもせず毎日気にしている私のことを、神のごとくあがめるにちがいない。「それもまたひとつの仕事だ。」とか言ってくれるだろう。だって積ん読みたいなものだからな! ありがたいことである。こんなの仕事じゃない。しかし人生ではある。私はプロフェッショナルではない時間を過ごしている。私はアマチュアとして泳がされている。恥ずかしい。「積んでいること」に対する恥じらいを失った人間はだらしない。私は恥ずかしい人間ではあるがせめてだらしなくはなくありたいと思う。

夜、寝ている間、そして朝、特に早朝、とりわけ出勤の真っ最中に、原稿のことを思い出す。脳内でいろいろ「書いたり」あるいは消したりする。ただしその「書いたり」はもはや日本語ではない。浮かべたり消したりと言ったほうが合っている。すでに文章として書きつけている15000字程度をいつも覚えているわけではないから、だいたいあんなことを書いたはずだというイメージばかりを何度も転がしている。その過程がだんだん非言語的にとろけてゆく。文章に直接あたって表現を選びとるとか前後の整合性をとるとかではない、つまり、推すか敲くかという選択をするのとは異なる、心象風景の中で非分離状態でたゆたっている温度のムラのようなものを集めてこねたり指を入れて分離したりしているだけである。非言語的な思考によって仮想空間のこねくり回しを繰り返しても文字には全く反映されない。音がたくさん鳴っているのだがそれが声として意味をなさない。色がいくつも重ねて置かれても輪郭がわからない。

言語で思考する人間が多いのは本当だがすべてではない。言語で思考する人間の書くものばかりが世にあふれているのは、書くために言語が必要だからしょうがない。そして私達は間違いなく、言葉以外でも考える生き物である。知情意という言葉は情知意とならべたほうがいいだろうと言った人がいた。しかし知はやはり情より前にある。情は意に向かうにあたってかなり早い段階で言語の急襲を受けるので、私達は情も言葉であやつることができるが、覚知、感知の部分に関しては、意、あるいは言葉からなお遠いところにあるのではないかと私には思われてならない。情知意だと思っている人間の感覚ニューロンは言語によって補正されることに慣らされすぎているのではなかろうか。覚知とはもっと乱雑で因果がなく説明不可能なものである。その説明不可能なものから湧き出てくる、より動物らしい「情」の部分をあまりに言葉で近似できたばかりに袋小路に入ったのが人間の「知性」なのだろう、知性というからには覚知からスタートしていなければいけないのにみんななぜか言葉を中心に添えている。それは知性を積ん読して読んだ気になっている愚かな振る舞いなのではなかろうか。情と意の往還を人の営みということにして覚知の部分をいつしか近似的に情と意の間に置いてしまう、そういうものではない、知はもっと自由だ。私は知からもっと置き去りにされる。知はどうしようもない。知について考えるために言葉から自由になり、その自由さのせいで下腹部に妙な浮遊感を覚えて、気持ち悪くなって、膝と両手をついて大地に思い切り吐きたいから、重力が必要だ、脳のてっぺんからかかとの紋理まで貫通する未分化な情、から 意までを瞬時につなぐ春塵のような言の葉の吹雪に私は猛烈な重力を感じて大地に落下して快感を伴う嘔吐をする。マロマロマロマロ! まろーりとろけたワイズの吐物。それが言語だ。編集者はそういうものを読みたいと言っている。まだ気持ち悪い。ずっと気持ち悪い。

じゃないほう病理医

アジア各国で講演をするときは通訳の有無にかかわらず英語を用いることがほとんどである。私は英語力がぜんぜんないので、しゃべりたいことをあらかじめ原稿に起こしてそれをチラチラ見ながら講演をする。そんなことだから質疑応答になるととたんに専門用語オンリーのカタコト単語会話になってしまう。情けなくて恥ずかしいし、こちとらその程度ですからあんまり自信がないですといくら述べても、向こうはいいからしゃべってくれの一点張りで、年に数回そういう機会があるのだけれどいつも汗をかきかきぐったりとなんとかこなす。

もっと英語を上手に使いこなす病理医なんぞいくらでもいるだろうとたずねた際に、「大丈夫、英語が達者な病理医にも話してもらうし、そうじゃない病理医にも話してもらう、いろんな人に話を聞くことが我々の勉強になるのだ、だから気にしないでくれ」と、気を使っているのか正直なのかよくわからない返事をもらって、それで少し気が楽になったことがある。

Zoomでのオンライン講演の場合、汗だくになって講演と質疑応答さえ乗り切ってしまえば、その先の「あいさつ」、「天気や気候や日常の話」や「御当地と日本との違いトーク」といった社・交の辞・令、を一切しなくてよいのが助かる。「いやー疲れた、がんばりました、けど皆さんにはちょっと聞きとりづらかったですかね? ごめんなさいいつまでも英語の発音がうまくならない、お絵描きとか音楽といっしょですよね、才能がないと毎日やっても身につかない(笑)」みたいな、その場の思いつきで適当にポンポン間を埋めるような会話を英語でやれと言われても無理だから、そういうのを一切抜きに仕事が終わったらマイクミュートにできるZoomというのは本当にありがたい。これは別に英語に限らない。日本語でもいっしょだ。仕事を脱輪したやりとりに興味がない。日本国内の学会で座長をやったあとに演者に話しかけてお礼を述べている最中、さっさと立ち去ってチェーンの中華料理屋で麻婆豆腐でも食べたい欲望がいつも抑えきれなくて妄想の口の中に山椒の香りが広がりはじめる。そんなの社会的にダメすぎるので以前は人前ではなるべく隠していたが(隠しきれていなかったろうが)、最近、燃え殻さんのエッセイなどを読んで、もう隠さなくていいかもなと思ったので今は素直に「ありがとうございました! またぜひ!」だけでその場を去るし、オンラインなら自分のしゃべりが終わり次第即座にだまってあとはいい子にしている。

母語の書き文字だけでやりとりできる細胞診断ならびに所見の記載だけで必死だ。それだけで充たされている。それでなんとかやっていける。コミュニケーションに口頭言語が必要な仕事はしんどい。英語はおろか日本語での会話も苦手である。「そんなことないですよ、いつもあんなに流暢にしゃべっているじゃないですか」という人は、基本的に私と会話をしたことがなく、私の話をラジオ的に聞いてくださっているだけである。ラジオならやれる。しかしコミュニケーションは無理だ。間に職業的知性を挟めばなんとかなる。しかしそれが取っ払われたとたんにもう慌ててしまう。

そのような人間が英語を上手にしゃべれるようになるわけがないのだと思う。



中国での講演を頼まれた。出張予定とかぶっていたので今回は無理だと断りつつ、オンラインならホテルから接続できるけどどうするとたずねたらオンラインでもよいとのことであった。いろいろやりとりをした結果、私が事前に講演を英語で録音し、あらかじめ中国の事務局に送って、動画に中国語の字幕をつけてもらい、講演当日はその録画を流すという方向で話がついた。中国はアジアの中では英語のできない医者が日本並みに多い。中国語だけで満足できる環境で働いている人が多いのだろう。講演を英語にすると会場は閑古鳥になる。向こうにとっても、事前に翻訳できる形式というのは願ったりかなったりだろう。同時通訳は金がかかる。

そうなると、私がその時間にオンラインで登壇する必要はないはずだ。しかし向こうは「ご発表は録画を流します、その間、Zoomに接続して待っていてください。終わったら質疑応答を英語でお願いします」というので困った。自分が拙い英語でしゃべっているところを自分で見ている時間が発生する。一番いやなパターンだ。おまけに質疑応答の5分かそこらのために出張先のホテルでPCを開いて待っていなければいけない。今がその待ち時間だ。ブログを書いてごまかしている。やけに抑揚に気を遣った必死の講演音声が聞こえてくる。他人がしゃべっているようだ。

大阪のくしゃみと60%相同

アニメなどを見ている。などってことないだろう。アニメを見ている。しかし記録の際に思わず「など」を書き込んでしまう。頭で思う先に指が書いていた。反射的にそこでニュアンスを一瞬弱めたのは、なんのためなんだろうと思う。

躊躇という行動に興味がある。

躊躇というのはすごくおもしろい反応だ。理屈が先行して躊躇することはめったにない。感覚的に、あっ、ちょっと控えようかなと感じるのが躊躇の本質だと思う。あらかじめこういうルールがあると自分を縛るわけでもなく、なにか大きなものに命じられて禁忌を設定するわけでもなく、「なんかここはちょっと踏み込んではいけないんじゃないかな」みたいな感覚に、斜め後ろに引っ張られるような感じで二の足を踏むのがまさに躊躇だ。

躊躇って画数が多すぎる言葉である。これに比べると安心とか確信なんてすごくシンプルな漢字でできていて、そのぶん、行動が単純なのだろうなということを考える。ここまで部首を重ねなければ伝わらないニュアンスが、漢字という枠組みの中でも設定されている、特殊な動きということなのだろう。躊躇というのは、いまいち「なぜそれがそうなるのか」を説明できない感覚がある。躊躇というのは本能との取引をするようなものだ。

だからすなわち私達は、躊躇が生まれた瞬間に、自分がなぜその引っ掛かりやブレーキを感じ取ったのかを細かく言語化してみればいいのだと思う。だってそこにはおそらく世の中でもっともたくさんの情報が潜んでいるはずなのだから。



そして私は別に情報過多の状態をいいことだとは思っていないのでそれほど躊躇を解像度高く解析しようとも思えないのであった。



異世界モノのラノベは令和の時代劇だなと感じる。設定はどれも似たりよったりだ。ダンジョンが多い。職業とかスキルという言葉が説明なしに出てくる。世の強くなりすぎた選択圧を通り過ぎて私のもとにやってくる作品はどれもストーリーテリングが一流で、通り一遍のテンプレ物語からは一線を画しているのだけれど、それでも、どこか髷物に近い安心感がある。勧善懲悪なのだろう。女性は死なないのだろう。主人公は強いのだろう。胸がすく思いをさせてくれるのだろう。設定はファミコン時代のRPGに多くを負っているのだろう。スピードは目にも止まらないのだろう。思考は常に多層化しているのだろう。そういったものが楽しくてけっこう読み漁っているのだけれど、スマホにKindleで似たような表紙の物語を大量にダウンロードしているある夜にふと訪れる躊躇がある。そのことを私は若干気にしている。




出張先でけっこうな量の病理診断をしていた。デスクには当地の技師さんが気を使って置いてくれていたお菓子が山積みだ。個別包装されたキットカット的お菓子やせんべい的お菓子を食べながら次々と診断を片付けていく。難しい診断がある、これは、大学院生くらいだとたぶん刃が立たないだろうなと思いながらそこそこの時間をかけて通り過ぎていく。躊躇が足りていない感覚があってぞわっとする。私はもっと躊躇すべきなのではないかという声がずっとアラームのように鳴り響いている。躊躇という言動をもっと大切にしたほうがいい。躊躇によって私はこれまで綱渡りをしてきたはずなのだ。

要らない

眠気がきびしくなってきたので立ち上がって伸びをして、タリーズまで歩いていくと、レジの前にたくさんの研修医が並んでいて、おそらく見学の医学生にコーヒーをおごってあげているのだろう、これはしばらく待つなあと思って、あきらめて踵を返した。レジ(スター)前のレジ(デント)。

戻りしなにローソンに寄ってカフェラテでも買おうかと思った。しかし苦手な店員がいたのでやめた。この店員は、客の持っている飲み物やおにぎりなどをひったくるように会計をしようとするので怖い。スピードを重視しているということなのだろう。

しょうがないと思って廊下の自販機でミルクティでも買おうとしたらミルクティだけ品切れであった。

そうやってうろうろ歩いているうちに眠気が去り、結果的にはカフェインにお金をかけずに活力を取り戻した。昼下がりの仕事に戻る。


メールクライアントソフトのトップには進行中の案件に関するメールだけを置いている。ある程度目処がたった案件は400個くらいあるフォルダのどれかに整頓してトップから消す。現在まだフォルダにしまっていないメールは6通あり、うち2通が医師主導の勉強会のZoom URLで、3通が製薬会社から案内されたウェビナーのURLで、1通は某学会の会議のURLである。ぜんぶURLなので少し笑う。研究関連のメールは(診断の個人情報がないものについては)家でも見られるように個人メールに送ってもらっているので、メールぜんぶがここにあるわけではないにしろ、それにしても、私の対外的仕事というのは、いまやほとんどウェブ上で行われているのだなと思った。

まあ普通の仕事人ならみんなそうなんじゃないの、いや、でも、だって病理医だぜ、そうだよなあ、病理医なのに顕微鏡よりインターネットなんだなあ、みたいな一人会話。

一人会話。

邪魔をするのも一人。徒党を組むのも一人。



一人会話の多くは、これからAI相手にやるものになる、みたいなことを言う人が多くて、びっくりした。「AIは壁打ち相手として最適」、などと言う。ちょっと待て、壁打ちはいいが、一人会話は壁打ちとはニュアンスがだいぶ違う行動だと思うぞ。一人会話をAIに代替させたらやっていることがまるで変わってしまうだろう。

一人会話の相手は自分だ。自分を何人かにわけて語らせたとしても残念ながら結局は自分だ。ところが自分の代わりにAIを登場させたら、それは一人会話とはかけ離れたものになる。AIと壁打ちをさんざんしたあとに結局一人会話をすることになることも予想できる。

AIが増えた分、むしろ「判断というタスク」が増えることはしょっちゅうだ。省エネとかコスパとかいうワードでAIを語ろうとする人は、実際にはあまりAIを使っていないのかもしれない。



いろいろ考えなければいけないことがあるときに、手近な学会や研究会などに提出予定の症例の、プレパラートを無駄に見直す。すでにパワポ用の写真は撮影してあり、免疫組織化学の検討も終わっているのだが、それでも、顕微鏡のライトを付けて、組織を拡大して、核膜の不整さであるとか、細胞質の微細顆粒や粘液であるとか、規定板のみだれ、切片上の血管走行などをじっくりゆっくり観察していく。

自分の中だけで考えてうみだす思考がだんだん用済みにされていく今日。

AIの意見を世に出す小間使いのような仕事ばかりをさせられている今日。

細胞を見て、自分の中に浮かんできた、類似・差異の感覚、記憶との照合、そういったものを、ちょっと気にしつつ、でも振り払うようにして、それよりもさらに自由になった状態で、細胞を見る。

増殖活性、配列、分布、機能、由来。

間質との相互作用がもたらす上皮のパッシブな変化。名前がついていない顆粒の分布が示唆するサイトカインの化学波。

探る。なでる。結論は出ない。根拠となる統計学的なデータがない。しかし、細胞を見るというそのシンプルで寡黙な行動から、飛び出してくるなにかがある。

その、飛び出してくるものを、その場限りの再現性のない刺激として決めつけず、あるいはいつか、これと似たものがぜんぜん違うところからも飛び出してくるかもしれない、そのときは見比べてみたいものだと感じる、だから体験をストックしておく必要があり、そこでは「自分だけに通じる言語」で、大掴みな言語化をする。

そのときの言語は日本語に比べるとだいぶあいまいで、浅くて広すぎるニュアンスや狭すぎてやや深いニュアンスなどもある。言語化というよりもログイン記録を取っておくみたいな感じに近い。

そういうことをやる。それを肴に一人会話をする。AIにこのどこを手伝ってもらえばいいのか今の私にはまだよくわからない。

イントロンこそが私なのだろう

めったにないことだが、「おやっと思うくらい対人やりとりが失礼な中年」と何日か続けて出会った。まあ、私の場合、このような体験はめったにないことだからさほど削られもしないけれども、たとえばこういう人と日常的に働いたりすれ違ったりしている立場の人は、さぞかし大変だろうなあとお察しするばかりだ。

先日の学会でもいつものように、フロアから質問と称して自己アピールする人間がたくさん観測された。それは発表者にとっても聴衆にとってもまったく膨らみなく建設的でもなく、なんならセッションの時間が押していく分だけ迷惑な話であった。

これらを通り過ぎていると、つくづく思う。結局私は心のどこかで、「周りはどうでもいい、とにかく自分だ、自分がまわりに対して一歩前に出たい、抜きん出たい、爪痕を残したい」みたいなことをつねづね考えている。しかし、そういう部分を、そのまま出さないでいる。なぜかというとたぶん、「ばんばんそういう部分を外に出してしまっている中年を見て萎えるから」、つまりは人の振り見て我が振り直せの精神なのではないか。となればそういう中年たちに感謝こそすれ陰口など叩いている場合ではない。私は行動に移さないだけで、じつは彼らと同じように対人感情が失礼だし人のことなんかどうでもよくて自分の満足のためだけに場を席巻したいと考えている。たまたま出足が遅くて行動ができないだけで、思考はとっくに中年なのである。「行動に移さなくても考えただけで有罪」という憲法の制定された国があったら私は収監される。


低湿な嫌味が止まらない日々だがようやく季節はぬるく温度を上げてきた。靴下をロングのものからショートに切り替える。足首を締め付ける部分にできていた皮疹も少しずつ引っ込んでいるようだ。指先の乾燥も落ち着いてきた。ゆるやかに波のように老いていく自分の身体は、いまのところ、特に冬場の乾燥に弱い。冬が終わるころにそういえば保湿が大事だった、前の冬にも同じことを思ったのにすっかり忘れていたなあと落ち込む。冬の終わりに知り、春から夏、秋にかけて忘れる。冬に買ったクリームを夏にしまいこんでそれっきり見つからなくなることを繰り返している。


短期的な反射神経がにぶい。思ったことをすぐに行動にうつさないでいる時間がある。おかげで助かっているところがじつはある。

中期的な記憶力が弱い。一度学習したことをしばらく経つと忘れてしまってまた失敗と経験から学び直さなければいけない。

タン、タン、タン、と、要点だけを跳躍伝導するように、動いて語って跳ね回っていられたらさぞかし快活だろう。ビシッ、ビシッ、脳に点字を刻んで、いつも撫でて確認できたら便利なはずだ。声だとかすれてなくなってしまう。温度は循環してわからなくなってしまう。

無駄な間がなく忘却と無縁な人間のほうがよほどストレスなく暮らしている。



私はDNAだ。有用なタンパク質を生み出す塩基配列の間に、機能不明のイントロンがたくさん挟み込まれている。エクソンだけを拾って転写して翻訳すれば十分なのに、しょっちゅうイントロン由来のmRNAを生み出して、講演の最中の要らぬ間投詞のように、あのーとか、えーとか、んとーみたいなものばかりぐるぐる生み出して、何につけても間が長い。洗練されていない。スプライシングが機能していない。あわいにかかずらっている。用途未定のmicroRNAが桜吹雪のように舞う。

SNSに返事している時間などイントロンを転写する以外の何ものでもない。ホールエクソームを解析しても私の日常は見えてこない。イントロンこそが私なのだろう。

私は効率的に自分の利益にだけ突き進んでいく中年たちに比べてしゃべるタイミングが一歩遅れる。AIで仕事をばんばん先に進めていく中年たちに比べて考える時間が二秒長くなる。それらはいずれも、おそらく、私が、DNAを冗長なまま用いるタイプの進化のすえにいるからなのだと思う。選択圧の結果ここに流れ着いてしまっただけなのだと思う。

雨垂れ石をアパツ

再読とか再話といった「再」の仕草によって、近頃の私は形作られている。繰り返し読み、繰り返し語る。同じ木を同じカンナでこするたび少しずつ違った木くずがだいたい似た感じで舞い上がる。

ホメオスタシスの基本は細かな再帰的フィードバックにある。


牧野智和『社会は「私」をどう形作るのか』は、本人も述べているように、統計的研究や数学的証明には必ずしも立脚しない経験的な手さばきによって語られている部分が多い本である。立証されたものを読んでいるというよりは、仮説の形成に伴走させられるようなつくりになっている。版元がちくまプリマー新書なので建付けとしては中高生向けということになっているけれど、ふわついた中に薄い甘みを潜ませる感じのメレンゲ的な余韻の長い味付けで、初学者だからメッセージ量を減らそうみたいな雑な商業的処置をさほど感じないので、わりと私くらいの中年が読んでもいいのかなと思う。牧野智和の語りの多くは私が前々からうっすらぼんやり感じていた、
「ころころその場しのぎで自分の手持ちの部品を投げたり引っ込めたりすることの総和が『私』であって、そもそも本質的な私の行動なんてものはないし、私を規定するアイデンティティなんてものもじつはそこまではっきり存在しないのではないか」
という推測に、いい意味でも悪い意味でも「都合のいい」ものであった。

場面ごと、相手ごとに違った自分を毎回組み立てる。社会と自分との間に「私」が一時的に形成される。それは日雇いのバイトで回す建築現場のようなものだ。私とは短期的にはわりと一期一会のおもむきがあるものである。しかし長い目で見ると、突貫的に私を組み立ててまた解体していくことを何度もくりかえしていくうちに、そのくりかえしの中に、わりと勝率のいい「姿勢」があるなとか、わりと居心地のいい「腰掛け」があるなといったことにだんだん気づいてくる。自分の快や安の欲望が傾向として導く・再帰する場所が浮き上がって見えてくる。それが私にとって、何度も読む本であり、何度も書くブログ記事のテーマなのだと思う。

「私」というものがそこまではっきりしたものではない、という私の見立てが真実だとすると、ときに、自分を世界観測の座標の位置補正に使うことができなくなっていく。アイデンティティが不定なのはよいにしても確率的にだいたいこのあたりに収まっていると言えたほうが純粋に利便性がある。電子の分布を雲状にプロットするような、量子力学的重ね合わせの私。「これが私とはいえないが、このへんのどこかに、私」。空間的には不定で確率的だが時間軸を畳み込んで次元圧縮するとそこそこの弾性を持った固体として顕現する、私。いくつものレゴを買って混ぜてしまったおもちゃ箱の中から毎日なんとなく違う違うブロックを取り出して作り上げる、けれども使われる屋根とか車輪とかにはある程度の傾向というか好き嫌いがどうしても出てきてしまう、似て非なる、もしくは、「非」で「似」たる、私。そういうものの確認行為、再帰。再読。再話。まあそういうことなんだろう。

再読や再話を行おうとする、というか、行ってしまう、自然とそうなってしまう、理屈はだいたいこんな感じなのかなと思うのだが、その結果起こることは、前回と今回との差分を見るともなしに感じてしまうということだ。一度食べたことがあるものを再び舌に乗せたときに前回と違う味がするなと感じてすぐに私は「この前に何を食ったかな」とか「前回と今回では体調が違うのかな」といったように、そのもの自体に再帰する一方でその周辺にあるものにだんだんと感覚をにじませる。にじみ出ていく。浸潤が起こる。再帰することでより深く読み込み感じ取るというだけではなくて、再帰によって体験の輪郭が再構成されてそもそも違った体験にずれ込んでいくということが毎回ちょっとずつ違う感じで起こる。それはもはやくりかえしではないし、きれいな形をしたらせんとも異なっていて、ピッコロ大魔王(マジュニアのほう)が放った魔貫光殺砲ほど整ってはいなくてたぶんジャッキー・チュン(武天老師)の萬國驚天掌くらいごつごつトゲトゲとして、その場にあり続けながらも絶えず形を変える海岸の波の打ち寄せなのだろう。この話は前もした。この話は前も読んだ。しかしその登場のタイミングは違うし受け止める私の心もまた違うしそもそも私自体も前とは違うがなぜか同じ部品を何度も取り上げてためつすがめつしてしまう。アパツアパツ。アパツアパツ。

おさないでください

「札幌でお待ちしています」と一言述べてZoomをオフにした。日頃オンラインの勉強会で氏名表示ばかり目にしている人たちが、学会で、何人も何人も札幌にやってくる。まあこない人もいるけれど、そのうちの幾人かには会えるだろう。会場ですれ違って向こうの顔がわかるかどうか自信はないが(いつも文字でしか見ない)、私がニコニコ歩いていれば向こうが気づいてくれるかもしれない。それに、演題発表を見に行けば、演者の名前がきちんと表示されていて、ああ、あれがいつものあの人か、とわかるだろう。声優さんの実物を見て喜ぶのに近い感情、あるいは、ラジオDJにリアルイベントで遭遇してうれしくなるのに近い感情。めったにないのでわくわくしている。

しかしこういう気持ちは札幌で暮らしているからなのだろう。首都圏に生息する医師たちはパシフィコやら医師会館やら笹川記念会館やらどこぞの大学やらに日帰りすればいいわけで、地方在住者のような、航空券代と割高なホテル代と生死を賭して出張する感覚を味わう機会は我々の半分以下ではないかと思う。学会ニアリーイコール出張である私のはしゃぎ方は、全国的に見るとちょっと幼いほうかもしれない。それで/どうでも、よいが。


みずからの幼さをどう残していくかというのは、戦略に近い。カマトトという言葉もあるけれど、そこまで狭義でもなくて、もうすこし漠然と、「心の中からときおり幼さを出し入れする行為」について考える。おいしいものを食べたときに「子どものように笑顔になるか、ならないか」。旅路の最中に「わくわくした声を出すか、出さないか」。やや子どもっぽいくらいのチューニングをすると、同じ体験であっても一段楽しく思える。それは効能であり推測可能なアウトカムである。対外的に表出する・しないはこの際問題ではない。外見上は仏頂面でも、頭蓋骨の中では2頭身の自分がぴょんぴょん浮かれている、ということでもよい。

幼さの召喚をするか、しないか、というのは、性格というよりもわりと戦略というかポリシーの問題であろう。私はわりとやる。それは自覚的にそうしている。SNSによって子供じみたダジャレや下ネタ方向に矯正され続けてきたことが自分の行動特性に影響している、という解釈は、おそらく順序が逆で、もともとそういう「幼さを駆動してイベントに臨もうとするタイプ」だったから、SNSのある種の構文にも辟易せずに接し続けることができたのだろうと自己分析している。

ただ、このような戦略が途中で若干変質したかなと思う部分もある。それは、おそらく、子どもと体験を共有するにあたって生じた。子どもが今という時間を楽しむにあたって、その盛り上がりに水をささないために、横にいる大人はどうあるべきか、それを考えながら、外面に表出する幼さを細かくメンテナンスし続けた時間が10年以上ある。それは結果的に、その後、自分が一人で何かを楽しむにあたっても、子どもの嬌声の残響というか熱量の残り火みたいなものを感じながら、Ctrl+Oにショートカットキー登録した幼さを手軽に駆動する。SNSによって引っ張られたとは思わないが子育てによって引っ張られたとは思っている。まあどちらが先でも結局私は幼さの方向に引っ張られたのだとは思うけれど。


ここまで連呼してきたが、さて、幼さというのは結局なんのことかと考える。それはおそらく「現象に対する感度が高いこと」で、「落ち着かなく動き回ること」で、「飽きがきていないこと」で、「視野を狭くして没入していけること」であろう。逆に、幼さを感じない状態というのは、「リアクションが大げさでないこと」で、「泰然として落ち着いていること」で、「すべてに飽きていること」で、「視野が広くて、何事にも浅くしか関わらないこと」なのかなと思う。これらを排他的に用いるのではなくて程よくブレンドするというのがつまりは「幼さを出し入れする」ということなのかなと思う。

40代も半ばを過ぎて、まだ幼さを用いて世界と対峙しようとしているなんて、昔はまったく想像もしていなかった。しかし、勘だが私はおそらく、あと数年はこのやりかたでいろいろなものと向き合っていくけれど、その後はさすがに受容体の摩耗によって刺激に対する感度を失っていくのではないかと思う。いくつになってもいい意味での幼さを持っている人などというのをたまに見るが、そういうのは端的に言えば心のHPが数万くらいある純粋なバケモノで、私がそこまで精神的に体力豊富なタイプだとはあまり思わない。幼さを用いることが難しくなった時点の私がそこから冷笑系の老害に落ち着いたらいやだなということをぼんやりと思う。そこを拒否するためにもうちょっとあがいてみようとは考えている。でも、まあ、これまで心の両腕をばんばん振り回しながら何に対しても突進していって、それでしょっちゅう心の肩を脱臼したりしていたので、そろそろ落ち着いてもよいのかもしれないな。しっとりとした。おだやかな。凪いだ。湖面。枯れ木の。木漏れ日。アームチェアの。老眼鏡。ピンとこねぇなあ。

かしこい脳の育て方

麦茶。自販機で買うなんてもったいない飲み物の筆頭だった。かつては。烏龍茶やジャワティやマウンテンデューとは違う。自分ちで作れないか、作れるか。そこでしか飲めないか、どこでも飲めるか。でも今は麦茶を買う。買ってしまう。

昔よりもはるかに多くの飲み物・食べ物を、基本外で口にするようになり、いつの間にか麦茶も、とんと自分では作らなくなって、その結果、買うことに躊躇はあまりなくなった。麦茶。買ってよく飲む。

散歩のために靴の中敷きを買った。今はインソールと言うようだ。昔も言ったかもしれない。買って靴に入れてみたらずいぶんと歩くのが楽になった。歩くというのは金のかからない趣味だなと思っていたけれど、金をかけたほうが体験が安定する。

金を払う日が増えた。若い頃は払っていなかった場所で。若い頃は払っていなかったものに。小銭で解決を試みる。


「なんでそんな無駄なことを」という目で私を見る人がたまにいる。


そういう人は、私よりもいい服を着ている。水を向けると、「丁寧に生活をして、無駄遣いをやめて、そのかわりたまには自分の着たいものを着たりおいしいものを食べたりする、つまりこれはごほうびみたいなものだ」みたいなことをいう。本人もわかって言っているのだと思うけれど、それはもはや生き方の違いだ。「いい服を着る」ことを私から無駄だと言われたら激昂する人たちが、「麦茶やサブスクに金を払っている」ことを無駄だと言う。「他人のずぼらな生活をあげつらう」ことによって、自分を相対的に高く見せようとする。私のような人間の暮らし方に文句を付けることで自分がより気持ちよく生きていく糧を得る。

上手に脳をマネジメントしているものだなと感心するほかない。


遠方のスーパーに行くことで2円得をするのだと買い物のたびに自転車で遠出をしている人がいる。「自分で得だと思うほうを選び取ったこと」に快感を覚えるような回路に脳を育てきった賜物かなと思う。消費したカロリー、時間、自転車の減価償却費もろもろを考えると、金額的にガチで節約できているわけではないはずだ。しかし、だからといって、それが悪いことだとは私は思わない。そもそも極端に燃費の悪い脳を喜ばせることができる時点でそれはもはや世の中のあらゆる娯楽よりも高効率である。

そういう脳サポートシステムを維持できていることは単純にすばらしい。

ただ、「1円でも安い場所を選ぶ努力をしないなんて、お金を無駄にしている」と、人の生き方をだしにして自分の価値を上げようとしはじめるのには閉口する。


麦茶を買わない暮らしをしている人に「麦茶買ってないの? 人生損してるよ」みたいなことを私が言うようになったら、うっとうしいだろう。でもそういうことをしょっちゅう言われる。「なんで自販機で麦茶なんか買うの、もったいない」。麦茶だから笑い話で済む。でも、麦茶以外でも、人びとは互いにそういうことを言い合っている。人を下げないと自分が上がらない仕組みに育った脳がたくさんある。感心する。うまくやったものだなあと思う。

あとで振り返って読むことができるというメリットがあります

飛び石連休のうち30, 1, 2は「連休内」で、「7, 8, 9」が連休外というのがいまいちピンとこないのだが、まあ、5月5日・6日くらいで大型連休が一区切りするというのは理屈ではなくて日本人の習慣に根ざした常識的感覚だろう。

常識というのは個人の心の論理カスケードからではなく社会の複雑な論理曼荼羅から出力される塊状のジャンクである。

なにがどの順番でどのように形成されたかを読もうと思っても線形に解読できるものではない。

まっすぐではないのだ。順列ではない。プログラムでもないのだと思う。フィルムですらないのかもしれない。

だから私達はつまりもう旅をしているわけではないのだと思う。私達は打ち出された無数のパチンコの玉の奇跡の総和、あるいは、宇宙空間で嘔吐した際の吐瀉物の3次元的広がりであって、拡散の途上にいて確率で分布する存在なのだ。


ガンダムジークアクスという文字列を見て大抵の人は当初「ジーク・アクス」なのだろうとミスリードされた。

新型のモビルスーツがアックスを持っていたから余計にそのように引っ張られた。

けれど実際にはquuuuuuxがプログラミングの用語で9という意味なんだよみたいな別のストーリーズがSNSを中心にじわじわと拡散をし始めている。

これらは制作側の読み通りというか仕掛け通りなのかなとも思う一方で、

違う、

物語とか創作物の仕掛けというのは、

確かにかつては順方向に・

着々と・

列をなして・

巻き取るように

行われていたけれど、

今は違う、

社会という半分被制御・

半分非制御の複雑系にセンスとイメージでキラキラ何かを入力すると、

拡散的で・

多元的な・

マルチレイヤードの・

リードを緩めて飛びかからせるかのような展開がしばしば起こるはずで、

制作側は入力物に潤沢な色彩と圧倒的な音楽と入り乱れる時間軸と思念を丁寧にパッチワークすることでその「予測不可能な展開を蓋然的にする」ことが未必の故意的クリエイティブとして最もうまく機能することをうすうす知っている。経験的に知っている。拡散的に知っている。確率的に知っている。



情報を制御しようと思っていない戦闘狂みたいな人間たちの仕掛けの数々はもはや文章でこうだと示すことが難しいのかもしれない文章で示せるものならいくらでも文章で示せばいい時代において文章以外のもので何かを表現し続けている人びとがやりかたを選び取るのは当たり前というかつまりこれは非言語的クリエイティブがようやく言語から自由になって本来のポテンシャルを発揮し始めている喜ぶべき状態なのかもしれないなということを五感の複数箇所で数秒置きに受け止める。


言語化という言葉を使う人間のことをあざわらう人間がnoteにほどよい文字数の記事を書いていて自然と冷笑した。私達は誰もが「1列に整列して小さい前ならえ」から何も成長できていない線形思考の囚人である。キラキラ。見ろ。それが見えないなら慎んで言語化に甘んじて恥ずかしさに顔を紅に染めてnoteの収益を全額寄付しろ。

一般相対性理論不適合

仕事をやめる前に旅行でもするかと思っていろいろ予定を立てている。えっそれ普通は仕事をやめたあとに旅行するんじゃないの、と言われそうだが、私にとってはやめずに続けている間よりもやめることが決まったあとのほうが日常がはるかにしんどいので、しんどいときに癒やしを求めて旅行するほうが理屈としては合っていて、だからやめる前に旅行するのである。とか言っていいくるめられる人がどれだけ世の中にいるのかもわからない。なぜならこれらは全部あとから適当に考えた言い訳だからだ、本当はあまりかっちりした理由で旅支度をしているわけではない、要は、これまでろくに旅行なんてしてこなかったツケがこういうところに顔を出している。


旅行してこなかった、というほどでもない、実際には、これまでも子どもたちの予定にあわせていろいろと走り回ったり飛び回ったりはしてきた。それを一般的には旅行と呼ぶべきものだし実際楽しかったりいろいろ思い出になったりはしているので、ここでなお「本当の旅行がしたい」とか言うとそれは贅沢というか作った言葉というかネット向けの構文みたいになってしまうのだけれど、実際、心の奥底に、自分が思う旅行というものをしてみてもよいかなという気持ちが消えずに残っている。だから私はこうして「これまで旅行らしい旅行をしてこなかった」みたいなことをわりと不用意に述べてしまう。本当は、旅行はしてきた。なのになぜこのような微妙な不全感を抱いているのかはわからない。性格的な「問題」というか「障害」があるのか。「私は自分が旅行もせずにずっと同じペースで働いている」という感覚からはずれていくことに適応できないでいる。そういう意味での適応障害なのか。


旅行の準備をするにあたっていろいろ書いたり送ったりしているとわかりやすく頸椎症が再発した。たぶん仕事に向かって慣性の法則でひたすら一定の速度ですべるように進んでいたところを急にハンドルを切って旅行なんぞを入れるから、体に無理なGがかかった。朝から狭心痛がひどくて冷たいお茶を飲むとすっと治る、あれ、やっぱりこれって食道痙攣なのかな、でも、循環器内科の医者は「食道痙攣だと思えるような狭心痛もあるんで狭心症だと思って対処してください」。ニトロペンを飲んで半日棒に振るか、冷たいお茶を飲んで5分で小康状態に入るか、みたいな選択を2,3か月に1回のペースで行ってきた。しかし旅行をして仕事をやめようと思ってからは、なんだか毎週のように胸痛を発症している。Gのしわざだろう。


研究会の世話人というか病理幹事をする機会が増えており、ある会で「今年も病理の講師を探してください」と言われて、これまで紹介してきた講師はみなよくやってくれたのだが、そろそろ紹介できそうな人もなくなってきており、しかし会からの要望は年を経るごとに鋭くなってきているので、困った挙げ句に「いっぺん自分でしゃべっていいですか」といって結局私が講師をやることになった……という話を以前にも書いたかもしれない。これとほぼ同じことがもう一度起こった。というか起こりそうになっている。別の会の講師をそろそろ招聘しなければいけないのだが、会の日程がすでに決まってしまっているので提示できる日程が1日しかない。この1日でけっこう偉い先生を呼ぶことにしたのだけれど、断られたらもうほかに頼む人がいない。会の一番えらい人が、「もし偉い先生に断られたら君がしゃべったらいいよ」というので、それはどうなんだろうと思いつつも了承してしまった。まだ偉い人にメールを送れていない、なぜなら、偉い人のメールアドレスを教えてくれる人が大型連休に入ってしまって連絡がつかないからだ。連休の狭間もがっつり休んでいるらしくすばらしいことである。休むなら仕事の真っ最中に休むに限る。そして私は現在宙吊り状態で重力加速度をばんばんに感じている。

仕事を等速直線運動でこなしているときはさほど負担に感じなかった。ハンドルを曲げて加速度をかけるととたんに体中に引っ張られるような衝撃や押しつぶされるような圧迫感がかかる。何につけてもそうだ。体がひきちぎられそうだ。脂肪だけうまくひきちぎられて少しシュッとしたらいいのにと思う。あるいは顔のシミだけひきちぎられたりしないだろうか。


劇場で見た日からずっとマチュがかわいくて今もアマプラで毎週ちゃんと見ている。第4話、シュウジがビームサーベルを異様にゆっっっっっくり突き立てた直後のマチュの目元がいい感じのクマになっていてわかるわかるそういった精神への衝撃はしばらく残るよね、と思っていたら、直後のセリフで20秒もせずに精神をぐんと方向転換していくような描き方をされていて、ああそうか、マチュはGに強いんだなあ、みたいなことをぼんやりと考えていた。宇宙でモビルスーツに苦も無く乗れる人間たちは加速度に対してララ音付きで適応していく。早い。一方、無印ガンダムのランバ・ラルとハモンさんは内縁関係だという話を先日の「熱量と文字数」で耳にした。オールドタイプは関係を変化させるとGがかかってしんどい。そういうことはある。とてもよく理解できる。

指先の技術

駿河国は茶の香り、的な壁紙がWindowsの背景いっぱいに表示されて、緑がまぶしくて目にやさしくて、なかなかありがたいなと思うのだけれど、そういえば私はこれまでの人生で、富士山を「満喫」したことがあったろうか、とふと思う。天気のいい日にビルの隙間に遠くに見えて、「わあー富士山だよ見て見て」、これで満喫したと言えるのか。言えないだろう。ふもとに宿泊しないとやはり富士山を見たことにはならないか。いやいや登ってみないと本当のところはわからないか。いずれにせよ、満喫、したことはなさそうだ。富士山は、「見た」ことはあるけど「ひたった」ことはないという最たるものだと思う。

「ドストエフスキーはカラマーゾフの兄弟を一回読んだことがあるよ」なんてのも、「富士山? 新幹線の中から一回見たことがあるよ」なんてのと、ニュアンスとしてはわりと近いのかも、と思う。

このまま「表面だけこすってそれ以上深入りしないままここまで来てしまったものたち」をいくつか列挙するといかにもブログっぽくなっていくのだけれど、今日はそうならない。なんだかそうできなかった。

肩や背中の固まった筋肉が後頭部に付着した腱のつけねをひっぱって、今日の私はだんだん頭を支えているのがしんどくなってきていて、あごをひいてPCに向かうと首がはずれそうになるので、外付けのキーボードをPCからぐっと話して、背中をオフィスチェアにあずけて胸を張ってモニタを見下すように、薄目をあけてPC全体をぼんやりと見ている。北辰一刀流のセキレイの尾を見るときの目で自分がここまで書いてきたものをうすぼんやりと眺めている。なんだか、自分と、距離を置いているなあという感覚がわきあがってくる。こうして文章を打ち込んでいる自分の手元がPCの下方手前にうつりこんで、むしろ指の動きのほうが気になって、画面を見ずに指先だけを見て文章を打ち込んでいる。今やっているこれが本来のブラインドタッチなのではないかということを考えている。指がぱんぱんにむくんできたので少しマッサージをした。親指を握り洗いするような感じでぐっと握りしめてはねじりあげて、そうやっているうちに指先に溜まった熱が少しずつ掌のほうに降りていくのがわかる。小学校のころ、両手をあわせた体制から手のひらや指を少しずつ話して間に薄紙一枚分くらいのすきまを開けるとそこに熱が感じられるのがいかにも「気がたまっている」感があっておもしろかった。あの頃誰もがかめはめ波の練習をひそかにしていた、と書くと、ネットで受け入れられやすい構文の香りがしてくるが、実際にはもう少し複雑で、かめはめ波のような直線的かつ『のんきくん』のズッコケ(ドピュー)のときの効果線みたいなエネルギー波よりも私達が本気で扱いたがっていたのは少龍(シャオロン)であった。「まといたかった」のだと思う。私よりも30くらい年下の人間が小学生だったころは、おそらく武装色の覇気を身にまとえるかどうかを物陰でひそかに試していたと思われる。遠隔攻撃だけが子どもの夢ではないのだ。

顔をPCから話して薄目で自分の手だけを見ながら書き終えたものを次の瞬間には冷笑するような感じで上書き、上塗り、指の向くままに書き連ねていく。「見ながら書いてはいる」のだけれど、「ひたりながら書いているわけではない」ものだ。いちおうこのように、最初の話題に着地させることはできる。けれどもそれは小手先の技術だなと思う。指だけに。

自称執筆家

定期的に歯医者に通ってメンテナンスをしてもらっているおかげでたぶん今のところ新しい虫歯は出てきていないが、しかし子どもから青年期にかけて傷んだ歯というのは治ることもなくて、いずれはこのフタをしたところの内部がまた腐って治療が必要になるのだろうなということを、かれこれ20年くらいは言われ続け、脅され続けている。そういうのはiPS細胞あたりでなんとかならないのだろうか、というあわい期待も、これまた20年くらいずっと持ち続けているけれど、医学の進歩たるやかくも遅くて、虫歯も五十肩もIBSもいっこうに根本的な対処法が見つかる雰囲気はなく、やきもきするばかりである。

脅されているおかげできちんと歯医者に通っている。今のところかぶせた詰め物がボロっと欠けたり崩れたりすることも数年に一度しか起こっていなくて、まあ、見た目がひどく悪くなることもなく、痛みも苦しみもない、ひとまずは小康状態だ。口臭がひどくにおってくることもたぶんない。臭いについては自分ではわからないとも言うので、申し訳ないがやはり家人や友人にはそういう点は正直に申告してほしいと思う一方、親しき中にもレイ・ハラカミという言葉もあるように、やはりそういう嫌悪感を伴うエチケット関連のものについては近しいものをリトマス紙にするようなことはせずに、歯のプロに客観的にみてもらったほうがいい。多少の金はかかる。手間もかかる。しかし歯医者は大切だ。それはもう、やむをえない。歯医者に「最近ちょっと臭いますね」と言われたとして、私はたぶん傷つくけれどそれは必要な傷だし、その傷が私の周りの人間をも害することと比べたらささいなことで、「だからこれこれこうしましょうね」と言われて臭いがしなくなるなら、それよりいいことなどこの世の中には停戦合意くらいしかない。周りの人間がゴルフや旅行や不倫などにかまけて着々と加齢し口を臭くしていく中で私は粛々と口を掃除しつづける。我ながら偉いと思う。これくらい自分を高めて賛美しないと、この、歯医者に毎月通い続けている生活のつらさは正当化できず腑に収められない。

月に1度のメンテナンスでは、歯科なんとか士の方が、はぐきの隙間にドリル的なにかをつっこんで、ベニヤ板の貼り合わせを剥がすかのようにベキベキ容赦なく掃除をしていく。それで歯石が取れるというのだが本当に毎月やるべきことなのかどうかは私にはわからない。これは間違いなく自分ではできない処置なので、その意味で、プロにやってもらっているお得感というのはあるのだけれど、しかし、ここまでしないと人体のホメオスタシスというのは保てないものなのか。NHK 人体IIIで「人間って奇跡の存在ですね」なんて言っているタモリに冷水をあびせて「そうでもないよ」とぶつくさ文句を言いたくなる夜もある。

先日は足の親指がつったのだが真っ先に思ったのは痛風のことだ。私にもついに痛風が来たのか! と戦々恐々としたがよくよく痛みを探ってみるとあきらかにスジが痛くて曲げ伸ばしと関連しているので、なあんだこれはスジがつっただけじゃないか、痛風じゃないな、ビール万歳! となったが痛いことにはかわりないので別にうれしくはない。ただこういう「AというしんどいこととBというつらいこと、A>BのときにBを引いたよろこび」みたいなものにまでアンテナを張り巡らせることで、破綻したホメオスタシスの狭間をスラロームするような人生にも多少の彩りはうまれてくるというものである。

ところでブログを毎日書くというのはおそらくメンテナンスの側面がある。そしてつくづく思うのだけれど、毎日書き続けることで、文体のようなものは整っていくのではなくておそらく偏っていく。それはひとえに編集者とか査読者を通さずに文章を書き続けることの背負った宿命的な大きなリスクだと思う。

たとえば歯科衛生士のドリルを見様見真似で自らやってみた(そもそも口の中は自分ではのぞけないというのに)というのに近いだろう。利き手の操作で届きやすい左の下の奥歯はわりかし上手にやれているが、しかしそれはあくまで「やれているっぽい」だけで本当のプロの仕事とは比べることもできないくらいの雑なものだし、右の上下の奥歯などは一層おざなりになるし、ほんとうに大事な歯茎の溝の中は清掃できていなくて、磨かなくてもいい歯を磨きすぎてだんだんすり減ってしまっている。「歯をメンテナンスするついでに口腔内のべつの異常に気づく」というような、患者側からはなかなか気づくことができない歯科通いのメリットみたいなものも一切ない。つまりそういうことなのだと思う。ブログを自分で毎日書いたからといってそれは、犬小屋の下に生えたタケノコに水をやるような、つまりは偏りの根にしかならないだろう。それでも書くのはなぜかと考えると理由はなくて惰性なのだけれどあえて理由という言い方をするならばそれはおそらく精神を健康に保ちたいのではなくてむしろ病んで偏っていたいという自傷が目的なのではないかという気がする。

おじいちゃん人生は昨日語ったでしょう

椎名誠『哀愁の町に何が降るというのだ。』は、かれこれ45年近く前に発刊された『哀愁の町に霧が降るのだ』の本人によるリメイクとされる作品で、現在も『本の雑誌』で連載が続いているのだが、ひとまずきりのいいところでこのたび単行本化された。

読んでいるとその中に、「同じことを二度説明した部分」が出てくる。

本の序盤で、イサオ君という登場人物がコロッケ君と呼ばれている理由が説明されるのだが、終盤になってふたたび高橋君という登場人物がコロッケ君と呼ばれている理由が説明される。

高橋イサオは江戸清という肉屋のせがれで、椎名少年はそこでたびたび芋洗いのバイトをしたりコロッケをもらってコッペパンに挟んだりと楽しい思いをするのだが、そのエピソードがひとつの単行本の中で繰り返される。

しかもそれは物語の演出として繰り返されるのではなくて、単純に「著者がこのエピソードを書いたかどうか覚えていないからふたたび書き直されたもの」であり、まあ連載の最中はそういうこともあるだろうなと思って読んでいたのだけれど、単行本になる過程でそこが修正されていないというのがしみじみとおもしろかった。

本としての整合性をとろうとするならばここは必ず修正するところだ。

なんならイサオ君と高橋君という、同じ人間の呼び方のぶれに関しても修正が入るの普通だろう。

しかしそのような校正を、おそらくは受けてもそのまま通して本にした、著者と編集者のそのような気持ちがなんとなくわかる気がした。

人間は、同じことを何度も語る。それはしばしば「年のせい」とされ、若い頃はそれが引っかかる、気になる。

どうせなら新しいことを聞きたい・読みたいと感じる。

こいつはいろんなところで何度も同じ話をしているから、私に対して(前に語ったことを、あるいは会ったことすらも忘れて)また同じように話をしているのだなと感じ、そこで興ざめしてしまう。

そういったことはわりかし頻繁に起こる。

しかし、今の私は、それこそが人の人たるゆえんというか、自分でもこれはあちこちで話しているなあと思いながらそれでも何度も語ってしまう、そういう現象自体がやたらと人間くさいなと感じる。

言葉の使い方としてはちょっとおかしいのだけれど、再読に対して再話と呼ぶべきものに、私は人間味を覚える。



とはいえ、何度も同じ話をする人間に対する老若男女の拒否感は根強い。

私自身、自分がこのブログでわりと近しいタイミングで同じことをまた書いていると気付いたときのがっかり感は大きく、それはたとえば前日公開された「再読についての話」がそれより4日くらい前にも語られていると気付いたときにも、猛烈な失望として味わわれた。

なんだ私は最近書いたことも覚えていないのかと心底落ち込んだ。

ブログに書き込んだ日付は公開の日付とは一致していない。書き溜めのできるタイミングの都合上、両者はたぶん1週間以上の間を置いて書かれている。とはいえたかだか1週間だ。1週間くらいしか空いていないにもかかわらず、先に書いたほうの内容をまったく覚えていなくてまた似たようなことを少し違う言葉で書き直している。海馬か基底核かどこかわからないが脳になんらかの問題があるのではないかと心配になる。

たかだか1、2週間くらいの間で同じことを何度も書いてしまうというのはいったいどういうことなのか。

家人や友人に「それこないだも聞いたよ」と言われるときのあのやるせなくも恥ずかしい自己嫌悪が文章においても生じてしまうというのはいったいなんなのか。

そういうやらかしを果たした当人として正直なところを吐露するならば、何度も書いてしまい、書いていることすら覚えていないようなものというのは、つまり、毎日毎日何度も脳内でこすっていることである。二度書いたからばれてしまったけれど本当は二度どころではなくなんべんもなんべんも考え直しているもののたまたま二回が表に出ただけだ。断続的だが反復的に、おそらくは1か月、2か月くらいのスパンでずっと考えていて、それを何度も言語化してはまた言語以前の感覚に溶かし直す、バレンタインデーの下手な自作チョコの湯煎とテーパリングのくりかえしのようなことを、思索と言語についてもやっている、その脳のありようのごく一部を文字としてアウトプットすると「同じことを何度も書いていやがる」となるし、口頭で語ればそれは「あのおじさん同じことを何度も言う」となる。

思考の反復というものは若いころにはたいてい欲望と結びついていた。あの人間が好きだ 好きだ 好きだと毎日何度も考えてこすりたおしていることを人前で言葉にしたりなにかに書いたりするかというと、そういうことはしない。恥ずかしいからだ。何かを食べたい 食べたい 食べたいと毎日くりかえし唱えていることを実際に声に出すかというとそんなことはない。情けないからだ。どこかに旅行に行きたい、行きたい、行きたいと願い続ける反復は実際に旅路に在るまで続く。なんなら旅の途中でもまだ「ここからさらに旅をしたい」という欲望のマトリョーシカのような状態になっていたりする。そしてこれらはほとんど自分の脳内で完結しており、アウトプットされることはない。そうした、「自らの内部で循環させ続けながら練度を高めていくような思考方法」を長年続けて、それがあるとき、自分の欲望を離れて、不安とか不満とか疑問とか疑念のようなものにも適用され、そのような手法に特化した脳の回路がおおよそできあがった中年期には、回路に投入するものが欲望ですらなくなってきて、「ただそのとき気になっているもの」にまで当てはめられるようになってくる。するとこれらは欲望ほどには、人前で語ったり文字にしたりしても恥ずかしいものではないので、かえって、自分の指や口から何度も排出されるようになり、内燃機関のパッキンがガバガバになったような感じで、これまで脳内で円環を描いていた思考が外部にだばだば漏れ出して同じことを何度も何度も書いたりしゃべったりしてしまう。

つまりこちらとしては「恥ずかしくないことだから書ける」のだ。ただ問題はそれが「何度も繰り返される」ということで、脳内ならよいのだけれどアウトプットまで何度もやってしまうとそれは、それを見ている人は、「なんか恥ずかしいやつだな」というように私のことを見るようになる。

だいたいそういうことなのかなと思う。


椎名誠の本はもしかするとあんまり真剣に校正とかしていないだけなのかもしれないけれど、私はなんとなく、「同じことが何度か語られたからなんだというのだ。」「それもひとつの私小説のありようではないか。」「むしろそこを修正したほうがのっぺりとしたつまらないものになるのではないか。」という狙いあって残されたものなのではないか、という気がする。つまり若い人がこの本を読んで、「なんだこのじいさんは同じことを何度も書きやがって」と感じるところまでふくめて文学体験なのではないか、ということを思ったし、こうして展開していく論旨の中にへばりつく自己弁護のねばつきを感じて私はまあしょうもないくらいに同じことを繰り返す残念な中年なのだときちんと自覚しないと周りに迷惑をかけるなあと、結局はいつもの自己卑下と自閉の方向に話を持っていっていつものようにだいたい似た感じの印象にまとまるように文章を調整して終わっていく。

積ん読は読書ではないです

読みたい本が溜まってきた、積ん読は嫌いなのでわりとストレスである。積ん読も読書とかいう言説は、まあ、なんとなく言いたいことはわかるし、そういう状態を楽しめればいいのだけれど、私のように「積んであるものをみると落ち着かない」人間もいるのだということを積ん読好き勢はあまり考慮していない。積ん読とは結局のところ、「本を用いた芳醇な楽しみ方のうち、読書ではないもののひとつ」であって、それ以上でも以下でもなく、つまりは読書ではない。「積ん読も読書」というのがコピーライティングとしてわりと優れているからみんな楽しそうに口にしているだけで、それは読書ではない。むしろ再読こそがもっとも読書らしいと考えると、積ん読は読書の二歩手前であり「門前の小僧の幼年期」の分際で経を読んだと言われても片腹痛いと私なんぞは考えている。

とはいえ、今積んである本はどれも読むのが楽しみだ。読書をしているとは思わないが積ん読というのは確かに楽しいものである。本の雑誌の連載中から読んでいた椎名誠『哀愁の町に何が降るというのだ。』、みすず書房の新刊の『並行宇宙は実在するか』、そして今西洋介先生の『育児の真実』、それと洋服マニアの『國松内科学』。どれもなかなか取りかかれない。特に最後の一冊を読むのはかなりおっくうである。届いたときにぱらっとめくったら文字が大きかったり小さかったりするのでこれなら通読行けるかなと思ったのだけれど、1700ページあるらしい。うんざりだ。そもそも内科学と題した教科書を通読するなんてのは、大学生の「Harrisonを通読したぜ(ドヤ)」といっしょで、読み切ったという勲章がほしいだけの本末転倒型のよろこびに近いのだが、私はここで本末転倒した喜びを得てよい立場ではあると思うので、いつか本末転倒に喜ぼう。さておき、こうして、本が積まさっていく(北海道弁)ことで、私は着々と機嫌が悪くなっている。それはやっぱり私の趣味が積ん読ではなくて読書だからなのだろう。

『本なら売るほど』に、本を集めて背表紙を見るのが楽しみで中はぜんぜん読んでいない人というのがいて、あれはあれで楽しそうだなと思った。つまり理解はできる。しかし共感はできない。私はそういう趣味は持ち合わせていない。



家族に「Nintendo Switch 2の初回抽選に外れちゃったよ」と告げたら「むしろあれ応募してたの?」と驚かれた。いつのまにそんな高価なものを買おうとしているのかと非難の目線を向けられているのかもしれないし、よくやった、もっとやれ、届いたら貸せと応援(?)してくれているのかもしれない、どちらと考えるかは解釈次第であり解釈とはすなわち世界の数であり私は多元世界に生きている。仮に、Switch 2が今当たったとして、ならば私が本を差し置いてマリオカードワールドに興じるかというとそんなことはおそらくない。私がSwitch 2を求める理由は、「ゲームハードを予約したぞといい歳をして子どものように喜んで周りに吹聴すること」にあるかもしれず、あるいはそれはもしかすると積ん読のような楽しみ方なのかもしれない。積みゲーという言葉もある。いくつものゲームを買ってダウンロードしてそれで放置。お金もかかるしSwitchのハードディスクも占拠するしでいろいろともったいない。しかし、それはなんかありかなと思ってしまう私がいる。金が許すならやってみたいかもなあ。もっとも私はブレワイやティアキンあたりを買ったあと、最初はじつは積むつもりでいたが、結局普通にやりこんでしまったのでやっぱり積んでいると満足はできない気もする。


アマプラやネットフリックスを契約するというのはつまり積みコンテンツを手に入れることなのではないか。コナン君の映画、まだ28本くらい積んであるよぉ、なんてことを言えるのが動画配信サービスの正体だろう。同じことを動画ではなく書籍でもやれるようになる日がくるだろうか。たとえばみすず書房あたりが自社の本をサブスクで読めるサービスをはじめたとして、私はそれを契約した瞬間から、いきなり大量の本を積んでいる状態になるわけで、どんどん機嫌が悪くなるだろうことが目に見えている。本やマンガはサブスクにしなくていいよ。積ん読なんて読書じゃないんだから。でもまあみすず書房は「積ん読も読書」勢のためにサブスクも検討してみたらよいのではないかと思う。大きなお世話か。

多忙なのに多忙を書くということ

さっきまでここには自分がどのように忙しいかを具体的に書いていたのだが、「こんなことを書けるくらいにはヒマなんじゃん」と思えるシロモノになったので消した。さすがに、それくらいの恥じらいは持っている。

もっとも、ブログを書いていることがヒマであることの証明にはならない。どれだけ忙しくてもブログくらいは書ける。文章に限らず、スマホゲームであるとか、動画視聴であるとか、いねむりなどにも応用が利く話だ。習慣としてこなせることなんていくらでもある。シャワーを浴びることでもいい。観葉植物に水をやることでもいい。株式投資でもいい。タバコでもいい。「タバコを吸っている社員と吸っていない社員で給料が同じなのは許せない」みたいなことを言う人もいるが、それはまあ、結果で評価すればいいので別の話だろう。「あの社員はすぐタバコ吸いにいくし仕事もあまりできない」という悪口は雑だ。タバコを吸う人間が嫌いだという話と、仕事ができなくて困るという話を一緒にしてしまっている。あまり論理的だとは思わない。とはいえ私は、仕事においては「結果」を評価するシステムと「過程」を評価するシステム、両方があっていいかなと思う。「結果」を評価するのは企業側の論理、「過程」を評価するのは労組側の論理で、並べて語るものではないにせよ、どっちかだけでいいとはあまり思っていない。話がずれた。ずれたというか横に拡散してしまった。もとにもどす。

「こんなブログ書いてるヒマがあったら働け」などと言うが、「働く」というのはそんなに単純ではなくてもっと複合的である。たとえば、1日の中に15分くらいの隙間が3つあったからといって、それらをあわせて45分くらいの仕事ができるかというとそんなことはない。スマホゲームのようにスマホカバーをパタンと閉じればそこまでの進行を一端止められて、またカバーを開くとすぐに続きに没入できる、みたいな仕事はない。「この15分はどう用いても仕事には回せない」というスキマ時間はたまにある。そういうときにはブログでも書いておけばいい。

だから「こんなブログを毎日書いていても忙しい」という理屈は十分に成り立つ。そのうえで。

自分の忙しさをブログに書くようになったら終わりだなーという気持ちにつつまれている。今、恥ずかしい。貧すれば鈍するという言葉もあるが忙中鈍とでも言えばいいのかもしれない。ふだんそこまで自分に切れ味があるとは思っていないにせよあきらかに脳の回転数が落ちている。回転数! いまどき回転するディスクを用いて思考するシステムがどれだけあるだろうか? ああ、油断するとまたも、「忙しいから」「忙しいために」の方向に文章が進んでしまっている。よくない傾向だ。「よくない傾向」と書くことで免罪を得ようとしている部分もある。複合的によくないなあと感じる。まあそういう日もある。

回廊

循環する回廊のくらがりの石畳をとぼとぼと歩いている。弯曲の外側にあるいくつかの扉をときどき開いて、石造りの小部屋に潜って本を読む。読んでいるうちに小窓の外がだんだんくらくなってきて文字が読めなくなるので、また扉の外に出て、小さなランタンのついた回廊を再び歩く。閉塞感がある。昼の日向にどこにでも好きな方角に向かってずんずん歩いていきたい気持ち、まっすぐ伸びて向こうが見えない一本道を猛然と走っていきたい気持ち。あるいは月夜にしらない町の路地をあてどなくふらふらさまよいたい気持ち。「私は自由に歩いていきたい」と、声に出して言い聞かせてみるのだが、結局私はまたなぜか回廊の徘徊に戻って来る。それが一番落ち着く。

最近はとんと見なくなったがかつてよく見た夢があって、印象的なので起きているときも何度か思い出しているうちに忘れなくなった。私は公園でひとり座っている。それを見ている私は地面に置かれたカメラのように低い目線で、かげろうがたつような蒸された夏の白い空の下に子どもの私がベンチに座って俯いている。私は怖がっていて、それは人のいない公園をおそれているのか、あるいは抜けきった白い空が怖いのかもしれないが、とにかく開放感がありすぎて怖いのだろうなということを私自身がよくわかっている。同じベンチの横に黒いコートを来た細身の男性、おそらく年齢はかなり上の、細身で背の高い男、現実に出会ったことのないおとぎ話の住人がやってきて、私に話しかけて肩に手を回して説得をする。シルクハットのような帽子をはずしたりまたかぶったりしている。私はその説得に圧を感じてさらに怯える。男の顔を見ないようにまたうつむく。そうやって地面ばかり見ているので、空がいつの間にかまっくらになって上から大きな黒雲が地面に向かって少しずつずり降りてくることに私は気づかない。蒸し暑いまま冷えていく。霧の山の中のように大きな黒雲が周囲のすべてを飲み込んで、細身の男、に肩を抱かれる私、は頭の先から順番に雲の中に取り込まれていく。「そのほうがよいのだろう」とあきらめているところでだいたい目が覚める。

居場所というのは閉塞を必要とする。それは周囲の人びとの声を遮断したいからだとか、誰にも見られない場所にこもりたいからといった、具体的な理由があって求めるものではあるのだろうが、実際、私はどうも肌からしみでる私の精のようなものや、吐息からもれる私の魂のようなものが、空気に溶けて薄まってなくなっていくのが怖くて、それで壁によって自らを閉じ込めたいと願っているのかもしれない。回廊のイメージ、公園の黒雲、いずれにおいても私は、閉じ込められることで自分がそれ以上すりへっていかない安心を得る。乱雑さによってすべてが混じってなくなってしまう雑な人類補完計画に対する根本的なおそれから「締め出し」によって私は逃げ出そうとしている。

インターネットブラウザをつかっていくつかの文章を書いてきた。今使っているこのbloggerが一番気に入っているのは、入力欄の四方に枠があることだ。noteのUIは開放的すぎる。どこにでも飛んでいけと言われているような場所ではおさまりが悪い。発想を四方に拡散させながら書くと自分が少しずつ薄まっていく。それよりも潜ったり囲ったりすることで内圧を高めていくやりかたのほうが、私は、安心だ、それはおそらく自分を自分のまま自分以外のものに昇華できないやり方であって、何かをつくりだす行為としてはあまり賢い方法ではないので、人にすすめるつもりは一切ないのだが。