9月までの講演のプレゼン11本を作った。その先のプレゼンも週末には完成する。講演が近づいたときにあらためて見直してデザインを調整したり症例を差し替えたりするので、これが完成品というわけではないのだけれど、それでも気持ちはだいぶ楽になった。
あと、懸念の原稿をどこまで進められるか。でも次の職場で得られる新たな刺激を原稿に反映したほうがいい気もしている。今の時点であまり急いで書き進めないほうがよいのかもしれない。肩の荷がまったくないとバラストを降ろした気球のように地に足が着かなくなる。多少は抱えていたほうがいい。
ただし複数かかえているあれこれを、いっぺんにどうにかしようと考えるのも、決してよいことではない。あまりたくさんのことをいっぺんに気にせず、バターナイフくらいのサイズで外界を少しずつ切り取って、食パンに乗せて地道に食べる。腸内細菌が偏らないように、毎日微妙に違うものを乗っけて、食パンに乗せて地道に食べる。世界の範囲は視線の走らせ方によって変わるが、口のサイズは変わらない、だから無理なく食べられる程度の量を、食パンに乗せて地道に食べる。咀嚼して代謝するにはきちんと噛むことが大切。時間をかけて、30回以上。ちなみに私は米を買ったことがある。食パン以外にも、米に乗せられるものは米にも乗せて、それはそれで地道に食べる。小分けにするのが大事だ。ストックを食べきらないことが肝要だ。明日できることは今日のうちにやる、ただし、明日にも少し残しておく。One for today, one for tomorrow.
9月いっぱいで今の職場をゼクノヴァする。異動にかかる諸手続きに時間をとられることを考えると、7月以降はエクストラの業務を入れたくない。でも結局は毎週出張だ。10月以降が不透明すぎて外での仕事を引き受けられないので、9月までになるべくたくさん義理を果たしておきたいと思って、あらゆる仕事を引き受けていたらけっこうな日程になった。有給休暇は昨年から繰り越した分も含めて44日余っている。あと4日くらい使う予定だ。土日祝日ぜんぶ仕事なので美容室に行くヒマがないから月に一度、平日に休みをとって髪を切りに行くとして、それであと4回くらい使う。
退職直前の半年の行動には働き方改革も労務管理も適用されないと見込んでいる。職場が休めというから休んできたのであって、怒られないなら(もしくは叱責が届かなくなるなら)休みたくない。ただし、そのことを我ながら、完全によいことだと思っているかというと、じつはそうでもない。あとから振り返ったときに、休みがなかった時期の仕事はうまく思い出せない。いわゆる「学び」になっていない。学び(笑)。気づき(笑)。ただフィードバックせずにすぐ次の仕事に入るというのはあまりいいことではない。何かの不具合や不都合があったとしても修正する間がないと、その時期はずっと間違ったことをやり続けることにつながる。長い目で見るならば、切れ味のいい仕事をたくさんするためには定期的に休んだほうがいい。より正確に言えば、「仕事を振り返るための仕事」を、仕事と仕事の合間に計画的に入れ込むことではじめて、望むレベルの仕事ができるようになる。べつに企業が定める方法で休まなくてもいい。しかし「仕事を振り返る仕事をこなすために外仕事を断る日」はあったほうがいいと思う。
こうして、自分の行動に理屈と物語をつけていくタイプのブログ記事を書いていると、私はいったい、何に対して延々と言い訳を述べているのだろうかと、背中をまるめた自分の姿を背後に浮かんだ私自身が見つめる構図でさみしくなる。「なぜ、数ある言葉のなかからそれを手にとったのか」。「どうして、いくらもありえた言葉の組み合わせをその順番に整えたのか」。文法の確認をするような目線で自分の書いたものを幾度もこすっては、「間違えていない、間違えていない、間違えていない」と、半減期のやたら短い安堵をチャリンチャリン稼いでいる。自分が生きる物語の展開がシェークスピア並みに構造化されていてほしくてたまらない。ビリヤード台の上で四方八方からゴツンゴツンやられていつポケットに落ちていくかわからない。右往左往の来し方をを物語にするなんて、本当は無理だってこと、よくわかっていたはずなのに。仮にも複雑系の描写を生業とする人間がこんなことでどうするのか。