一方で、ほしいものが転売目的の買い占めによってすぐに手に入らないのがデフォルトになっていたり、スマホで何か記事をみるたびに画面を覆い尽くす広告の×ボタンを探さなければいけなくなっていたり、インフラは常にあたらしい形で汚染されていて、「昔のほうがまだよかった」という気持ちは常にある。
こういう話題にはどうも、「人間は老いるごとにどんどん失っていく」という、主観の担い手である私たちの側の、揺らぎ、崩れ、立ち行かなさがコンバインしているのではないかという気がする。世界がまったく変化しなかったとしても観測するほうの主体は老化する。風景ではなく眼球が変わる。料理ではなく舌が変わる。それはやるせなさとかままならなさとか哀しさをまぶした膜となって世界を覆う。「昔はよかった」というのは、若かったころの自分の体験がよかったという話と入り混じっている(江戸時代のほうがよかった、みたいな話はまた別だが)。それをわかっているからこそ、ハンス・ロスリングの言葉はカウンターとして多くの人に突き刺さったのではないかと思う。「本当は世界はすこしずつ良くなっている、まあ、俯瞰して見たときは」。残念ながら私たちは基本的に鳥ではなく虫として暮らしており、三千世界の食料問題が以前よりも解決しているからといって自分のまわり数メートルに自分より弱い虫がいなければ飢え死にしてしまう。残念ながら私たちは事実という茶葉そのものよりも、事実を煮詰めてフィルターで濾した茶のほうを喫している。
なんか、優れた詩とか、絵画とか、音楽などによって、この気持ちをほぐしたい、と思った。
そのためにはまず、芸術を受け止めて体の中に刺激を取り込むための七回膜貫通型受容体を生成する必要がある。私のDNAのどこかにあるはずの、受容体をコードする塩基配列は、メチル化によって発現を止められているかもしれず、転写後調節によってRNAがぶち壊されているかもしれず、タンパクまではたどり着いているが遊走に失敗して細胞膜にたどり着いていないかもしれず、細胞膜にきちんと存在するのだけれど共受容体が不活化しているかもしれない。チロシンリン酸化のプロセスに不具合があるかもしれず、シグナル伝達経路のどこかに変異が入っているかもしれない。あらゆるカスケードに問題がなかったとしても、芸術というリガンドが私という細胞に辿り着く前になんらかの免疫機構によって攻撃されて貪食されてしまっているかもしれない。世界はすこしずつよくなっているという。でも、私の体験する事象はすこしずつ老いさらばえていく。だったら私は芸術に頼りたい。時も場所も状況も関係なしに私の心を浄化させるなにものかに出会ってみたい。でも、科学的なシーケンスのどこかに不具合が、いや、それはあるいは不具合ではなく「そういう具合」なのかもしれないが、そういったものがあって、芸術はいまのところ、私をよくしてはくれない。