空砲

部屋のストーブには現在の室温と設定室温とがそれぞれ表示される。17|20 とあれば、今の室温が17度で、設定室温が20度ということだ。このたび、しばらく部屋をあけて、福岡、東京、釧路、札幌とあちこち飛び回って、夜中に帰ってきたら表示が0|20になっていた。とっさに、こいつ、嘘だな、と思った。外はマイナス10度を下回っている。鍵を開けて入ってきてもそれとさほどかわらないように思える。室温は0度では済まないはずだ。このストーブは0度より下を表示できないのだろう。そんなことで北国のストーブが務まるのだろうかとやや心配になる。能力が足りていないのではないか?

水抜きをしておいたキッチン、洗面台、風呂場の蛇口を解放したまま、水抜きを解除、ちょっとだけ間をおいて、それぞれの水道から水が派手に流れ出す。バシュッ、バシュッ、ババババ、と、空気の混じった水が爆発音と共にカランから弾けて安定する。それぞれ水が開通したのを待ってから蛇口を閉める。キッチン、洗面台、そして風呂場。ふと見ると、湯船の底に、さきほど出した水が、排水溝から流れていくことなく溜まっている。おそらく、排水溝の奥のU字に水が溜まる部分で凍結しているのだろう。水抜きしても排水溝の先の対処はできない(ただし排水溝の場合、上水道と違って溜まった水が凍結しても両脇が解放された状態であるから、それでパイプが壊れることはまずない)。だからこうして排水がしばらくは溜まってしまう。大したサイズじゃないからお湯でも流してやればすぐに融解するだろう。排水溝には厳冬期を耐え抜くだけの構造も機能もない。しかし、べつに、それでいいのだ。できることだけを粛々とやればいい。

能力というものは、私は、そこまで必要なものではないのだろう、と思う。最近よく思う。というか、個人がどれだけ能力を持っていても、それは別に、なんか、どうでもいいことなのだ。たくさんの人が集まって、それぞれが不得意なことを補いあいながら、全体としてなんだか個人よりもわりといい感じでなにかをこなしていく、そういう、団体でやっていく姿勢とシステムとメカニズムとキュビズムと(?)、とにかくみんなでうまいことやれている状態のほうが、はるかにいい。「優秀な一個人の圧倒的な才能」によって成し遂げられたものの、なんと悲しく脆いものか。そんなことをよく考える。まあ、それでいて、本や、映画や、アニメなどでは、「唯一無二のひとり」の話ばかりを喜んで読んでいるのだから、私もずいぶんと矛盾している。成瀬だってそうだ。フリーレンだってそうだ。

私は長いこと、病理診断で、というか、画像と病理との対比というジャンルで、圧倒的になりたいと思って、腕をみがいてきた。本邦随一と呼ばれたいと思って、試行を重ねてきた。でも、近頃よく思う。先週も私はあちこちで症例の解説をしたけれど、妙につっこまれる、完璧に準備したと思っても、みんなにニヤニヤいじられる、撫でまわされる、ひっぱたかれ、放り投げられ、ぐねぐね折りたたまれたり伸ばされたりもする。誰もが、私が発表すると腕まくりをする。よぅーし市原がしゃべるってなら俺も飛びかかっちゃうぞ、みたいな雰囲気だ。会が終わったあとにも、やたらと話しかけてくる。あそこがひっかかった、あれが不思議だったと、疑問をばんばんぶつけてくる。だいぶ長いことやってきたはずなんだけどな、あーあ、これのどこが圧倒的なのだ、こんなことでは随一なんて程遠い、と、昔なら思ったかもしれない。でも、そうだなあ、最近、なんだかこのままもっともっと、絡まれる頻度を高めていくことこそが私の役割なのではないか、みたいなことをとてもよく考える。能力が高いわけではない。しかし、役割は果たせるのだろう。むしろ、症例をみて、そこに潜んでいる「事実」とか「真実」とかを、自分ばかりが精度高く見出していくことの、なにがそんなにおもしろいのか、と思う日が多い。自分ひとりが見る景色なんて、仮に正しいとしても、おもしろくはなく、だったら、たいしたものではないのだと思う。究極的なことを言うと、「正しさ」しか追求できないのならそれは世界に自分ひとりしか生き残っていない終末の世界でやればいいのであって、今こうして世界にわりとたくさん人間がひしめき合っているときに追求すべきは「正しさではない」と、ぼかさずに、はっきり言ってもいいんじゃないかな、なんて思っている。私は、私が号砲を鳴らした後に、みんなが猛然と駆け出していく、そういうスターターとしての立場を目指そう、それがもしできるならば、何重の意味でも症例の「ほんとう」を浮き立たせることができるのではないか。スターターになるにあたって必要なものはなんだろう。それは走者へのリスペクト、走ること及びその縁辺にあるものごとの知識、そして、会場をしんとさせる立場と、しんとさせるだけの説得力、立ち姿、まっすぐ振り上げる右手、その手の中にしっかり収まった、ほんとうは実弾だって撃つことができるだろうに一度たりとも弾を込められたことのない、空砲。

雪かき

大雪の札幌にいて雪かきなどをしている。ポッドキャスト「熱量と文字数」の10年以上前のアーカイブを有線イヤホンで聴きながら雪をのけていく。今年は異様な量だ、道がまるで見えなくなっているし、積雪地域で除雪・排雪のインフラが整っているにもかかわらず多くの車がスタックしてあちこちの国道が麻痺している。音が雪に吸収されて街がしずかに崩落していく。スローモーションの落盤の上でめまい。空がブロック塀のように区画され、それらの隙間からビームが漏れ出て、地上の私たちの元素を焼いていく、その香ばしいにおい、花椒のようなパウダー状の。しびれ。唾液。

ポスト・アポカリプスの午後、親に電話をして様子をたずねる。電話を切ったあとパソコンを立ち上げて、古い友人からのメールに応えるために別の古い友人に連絡をとり、ふたりを引き合わせて新しい仕事に向かって送り出す。そろそろ昼寝をしておいたほうが安全なんだろうという予感。明日の朝はかなり早い。日の昇るだいぶ前に起きて、排雪によって道の左右に積み上げられた雪をどけておかないと、妻が車庫から車を出せなくなる。自分が出勤したあとのことには想像が届かない。なにか仕事を積み残してきているような気はするのだがあまり気が回らない。



どうしてそんな、あらゆる人に気を配るような真似をするのか、と強めに詰問された。もっと、気の合うものどうしで、やる気のあるものどうしで、まずは集まって、具体的なプロジェクトをしっかりローンチさせたほうがよいではないか、と、なぜこんなにわかりやすい理屈がわからないのか、と、派手な声色で何度も詰め寄られた。

それでも私は、やる気がある人も、ない人も、どちらにとっても似たような距離にある場所のインフラを整備する仕事をやりたいのだ、と言った。その人は、本当にわけがわからないとあきれた顔をしながら、うまそうに麦茶かなにかを飲んでいた。



ContributionとかAuthorshipのこと。Contribution: 貢献、Authorship: 著者資格。医学の領域では、だれかと一緒に仕事をする際に、その仕事に対する貢献度、どれだけ汗をかいたかということをとても厳しく評価しようという流れがある。論文に掲載されている著者リストの順番に意味がある。学会のポスター発表の発表者に名前を連ねるだけのことにも意味がある。貢献した順に名前を書き連ねる。決して、同じ医局にいるだけのドクターを、連名の中に加えてはならないと、近頃はだいぶうるさい。貢献している人間に申し訳がないと思わないのか、みたいなことを、あちこちでだいぶ目にする。

心底くだらない。

どうでもいいじゃないか、そんなもの。

抄録に名前だけ入れてもらって何も貢献していないタイプの人間。たしかにいる。でもそれがいたからなんなのだ。街の片隅にネズミが生きている。それが許せないと言ってすべての飲食店の下水溝を掃除して回る。そういうのと同じようなテンションで突き上げている。ばかばかしい。

それは所詮は「建前」の話だ。建前にいちいち目くじらをたてる数秒、私たちの人生にとって本当に無駄な数秒、脳のリソースを使うだけ無駄だと思う。ポスターごときに、学会発表ごときに、名前をつらねたことが本当に名誉とか誇りになると思っている人間こそ、馬鹿だ。馬鹿にかまっていられない、もったいない、それよりも大切なことに電解質を使いたい。医学を、医療を、進歩させるための礎となるために、心と体を実際に消費して、なにかあたらしいものをしっかりと打ち立てていきたい。名より実。誰それの研究に名前だけ入った・入らなかった、なんて、医療の発展にも医学の希求にもなんの意味ももたらさない。手を動かしている人間がいちばんすばらしい。まあ、えらくはない。金ももうからない。でも、すばらしい。きちんと織りなされていく布、着実に積み上がっていくレンガ、そういった、後世に残るもの、公益のためになるもの、もしくは、後世の役にも人類のためにもなる予定はないけれど、でも、もしかするといつか誰かが使えるかもしれない、いや、それすらも建前だ、とにかく、新しい科学の扉がひとつ開くか開かないか、それはゲームのクリアに関係ない素材、ボスがいない場所におけるセーブポイント、そういったもの、それらをひとつずつ世の中に見出し、あるいは彫琢し、あるいは刻印していく、それがもっとも大事なことではないのか。名前? 記録? 本当に馬鹿なのか? 雪かきだ。それは雪かきといっしょだ。いくら積み上げても、いくらやりとげても、春がくれば全部解けて、なかったことになる。



ある病理医が話しかけてきた。先生、先生はなぜ……どうして、いまさら、大学に戻ろうなんて思ったんですか。私はそれにこう返事をした。

「札幌厚生病院で18年間はたらいてきました。市中病院のいち病理医です。縁あって、とてもたくさんの人と関わることができたのですが、ただ、私と一緒に仕事をした人は、私が担当病理医であったということで、最終的に、到達点という意味で少しだけ損をしているなあと思いました。私といっしょに働くと、途中までしかたどり着けないんです。画像と病理とを使って、ひとつの症例をすごくおもしろく検討することはできる。でも、ここからさらに進むためには遺伝子検索をしなければいけない、分子生物学的解析をしなければいけないとなったときに、札幌厚生病院にいるだけの私では、そこから先にお連れすることができない。私はそういうのが本当に悔しくて、だから、今回、ご縁をいただけるとなったときに、まあ、今さら私のような人間が、アカデミアで皆さんと同じように活躍できるかというとそれもけっこう難しいとは思うんですけれども、でも、いただいた機会です、なんとか、今度は私が、臨床の疑問を『最後まで連れて行く』ことができるようになりたい。だから大学に来ました。精進しようと思います」

私の答えを聞いた病理医は、なんだか、ものすごく驚いていた。私はそれが驚きをもって受け止められるのだなあということに、驚いた。

私がこのような考えに至った理由は、たぶん、何人かの、インターネットで知り合った悪友の影響によるものかなと思う。自分と働く人がどこまででも登っていけるような存在になりたい。公益のために尽くしたい。これらはだいぶ強欲で、私が生まれ持った謙虚な性格からはあまり出てこないと思われるもので(笑)、つまり、おそらく、ネットの悪影響を受けたのかなと私は思っている。鴨とか、犬とか、あと、幾人かの医者とかを見ているうちに、私は、そういう強欲な人間になりたいと感じるようになったのだ。

私は、この強欲なキャラクタを、他人から教わって演じていた、最初は。

しかし、なんだか、いつのまにか、演じていた役柄と自分とが癒合して、夢と現実の区別がつかなくなって、本当に自分が心からそういうことを思っているのだと、勘違いできる程度には、演じている時間が長くなってきた。



優秀な人間が優秀でいるためだけにストイックに働いている姿を見ると、なぜそんなに、演じることができないのかと、あわれに思う。優秀であることがそんなに大切か? 自分の理想に近づくことが目標だなんてちっぽけだと思わないか?

なぜ、公益のために身を粉にしてはたらくくらいのことを、目指せないのか? 私は演じ続けている。舞台役者のように、ちょっと、大げさすぎるかなとも思ってはいる。