空砲
雪かき
大雪の札幌にいて雪かきなどをしている。ポッドキャスト「熱量と文字数」の10年以上前のアーカイブを有線イヤホンで聴きながら雪をのけていく。今年は異様な量だ、道がまるで見えなくなっているし、積雪地域で除雪・排雪のインフラが整っているにもかかわらず多くの車がスタックしてあちこちの国道が麻痺している。音が雪に吸収されて街がしずかに崩落していく。スローモーションの落盤の上でめまい。空がブロック塀のように区画され、それらの隙間からビームが漏れ出て、地上の私たちの元素を焼いていく、その香ばしいにおい、花椒のようなパウダー状の。しびれ。唾液。
ポスト・アポカリプスの午後、親に電話をして様子をたずねる。電話を切ったあとパソコンを立ち上げて、古い友人からのメールに応えるために別の古い友人に連絡をとり、ふたりを引き合わせて新しい仕事に向かって送り出す。そろそろ昼寝をしておいたほうが安全なんだろうという予感。明日の朝はかなり早い。日の昇るだいぶ前に起きて、排雪によって道の左右に積み上げられた雪をどけておかないと、妻が車庫から車を出せなくなる。自分が出勤したあとのことには想像が届かない。なにか仕事を積み残してきているような気はするのだがあまり気が回らない。
どうしてそんな、あらゆる人に気を配るような真似をするのか、と強めに詰問された。もっと、気の合うものどうしで、やる気のあるものどうしで、まずは集まって、具体的なプロジェクトをしっかりローンチさせたほうがよいではないか、と、なぜこんなにわかりやすい理屈がわからないのか、と、派手な声色で何度も詰め寄られた。
それでも私は、やる気がある人も、ない人も、どちらにとっても似たような距離にある場所のインフラを整備する仕事をやりたいのだ、と言った。その人は、本当にわけがわからないとあきれた顔をしながら、うまそうに麦茶かなにかを飲んでいた。
ContributionとかAuthorshipのこと。Contribution: 貢献、Authorship: 著者資格。医学の領域では、だれかと一緒に仕事をする際に、その仕事に対する貢献度、どれだけ汗をかいたかということをとても厳しく評価しようという流れがある。論文に掲載されている著者リストの順番に意味がある。学会のポスター発表の発表者に名前を連ねるだけのことにも意味がある。貢献した順に名前を書き連ねる。決して、同じ医局にいるだけのドクターを、連名の中に加えてはならないと、近頃はだいぶうるさい。貢献している人間に申し訳がないと思わないのか、みたいなことを、あちこちでだいぶ目にする。
心底くだらない。
どうでもいいじゃないか、そんなもの。
抄録に名前だけ入れてもらって何も貢献していないタイプの人間。たしかにいる。でもそれがいたからなんなのだ。街の片隅にネズミが生きている。それが許せないと言ってすべての飲食店の下水溝を掃除して回る。そういうのと同じようなテンションで突き上げている。ばかばかしい。
それは所詮は「建前」の話だ。建前にいちいち目くじらをたてる数秒、私たちの人生にとって本当に無駄な数秒、脳のリソースを使うだけ無駄だと思う。ポスターごときに、学会発表ごときに、名前をつらねたことが本当に名誉とか誇りになると思っている人間こそ、馬鹿だ。馬鹿にかまっていられない、もったいない、それよりも大切なことに電解質を使いたい。医学を、医療を、進歩させるための礎となるために、心と体を実際に消費して、なにかあたらしいものをしっかりと打ち立てていきたい。名より実。誰それの研究に名前だけ入った・入らなかった、なんて、医療の発展にも医学の希求にもなんの意味ももたらさない。手を動かしている人間がいちばんすばらしい。まあ、えらくはない。金ももうからない。でも、すばらしい。きちんと織りなされていく布、着実に積み上がっていくレンガ、そういった、後世に残るもの、公益のためになるもの、もしくは、後世の役にも人類のためにもなる予定はないけれど、でも、もしかするといつか誰かが使えるかもしれない、いや、それすらも建前だ、とにかく、新しい科学の扉がひとつ開くか開かないか、それはゲームのクリアに関係ない素材、ボスがいない場所におけるセーブポイント、そういったもの、それらをひとつずつ世の中に見出し、あるいは彫琢し、あるいは刻印していく、それがもっとも大事なことではないのか。名前? 記録? 本当に馬鹿なのか? 雪かきだ。それは雪かきといっしょだ。いくら積み上げても、いくらやりとげても、春がくれば全部解けて、なかったことになる。
ある病理医が話しかけてきた。先生、先生はなぜ……どうして、いまさら、大学に戻ろうなんて思ったんですか。私はそれにこう返事をした。
「札幌厚生病院で18年間はたらいてきました。市中病院のいち病理医です。縁あって、とてもたくさんの人と関わることができたのですが、ただ、私と一緒に仕事をした人は、私が担当病理医であったということで、最終的に、到達点という意味で少しだけ損をしているなあと思いました。私といっしょに働くと、途中までしかたどり着けないんです。画像と病理とを使って、ひとつの症例をすごくおもしろく検討することはできる。でも、ここからさらに進むためには遺伝子検索をしなければいけない、分子生物学的解析をしなければいけないとなったときに、札幌厚生病院にいるだけの私では、そこから先にお連れすることができない。私はそういうのが本当に悔しくて、だから、今回、ご縁をいただけるとなったときに、まあ、今さら私のような人間が、アカデミアで皆さんと同じように活躍できるかというとそれもけっこう難しいとは思うんですけれども、でも、いただいた機会です、なんとか、今度は私が、臨床の疑問を『最後まで連れて行く』ことができるようになりたい。だから大学に来ました。精進しようと思います」
私の答えを聞いた病理医は、なんだか、ものすごく驚いていた。私はそれが驚きをもって受け止められるのだなあということに、驚いた。
私がこのような考えに至った理由は、たぶん、何人かの、インターネットで知り合った悪友の影響によるものかなと思う。自分と働く人がどこまででも登っていけるような存在になりたい。公益のために尽くしたい。これらはだいぶ強欲で、私が生まれ持った謙虚な性格からはあまり出てこないと思われるもので(笑)、つまり、おそらく、ネットの悪影響を受けたのかなと私は思っている。鴨とか、犬とか、あと、幾人かの医者とかを見ているうちに、私は、そういう強欲な人間になりたいと感じるようになったのだ。
私は、この強欲なキャラクタを、他人から教わって演じていた、最初は。
しかし、なんだか、いつのまにか、演じていた役柄と自分とが癒合して、夢と現実の区別がつかなくなって、本当に自分が心からそういうことを思っているのだと、勘違いできる程度には、演じている時間が長くなってきた。
優秀な人間が優秀でいるためだけにストイックに働いている姿を見ると、なぜそんなに、演じることができないのかと、あわれに思う。優秀であることがそんなに大切か? 自分の理想に近づくことが目標だなんてちっぽけだと思わないか?
なぜ、公益のために身を粉にしてはたらくくらいのことを、目指せないのか? 私は演じ続けている。舞台役者のように、ちょっと、大げさすぎるかなとも思ってはいる。