コミカライズ人間

『俺だけレベルアップな件』の21巻が出たので読んでいたのだがインフレがすごくて笑ってしまう。テコ入れのほのかなラブシーンもそこだけ浮いてて味わいがある。このマンガほんとうにちゃんと終わるのかなあ。コミカライズ系ファンタジック中世風RPG的創作物の大半は完結しないイメージがあり、その点、ダンジョン飯は偉かったなあと思うし、ワンピースは(系統は違うが)だらだら長くやってるけどちゃんと全体を太く繋げるストーリーが最初にある(らしい)からやっぱりすごいんだよな。30年にもわたって整合性とるなんて現実の人生ならあり得ない。昔の私が思っていた世界と今の私が見ている世界はまじで別物だからな。

むしろ、人生とか世界を真剣に書けば書くほど、本来の人生と同じように、「設定が途中で自己矛盾する」とか「当初のポリシーがかえって足かせになる」みたいなことがたくさん出てくるものなんだろうな、つまり初期プロットの甘い創作物ってのはかえってリアルなのかもしれないな、ということを思う。

じわりとコロナが再燃してきているという話を聞く。しかし近頃はどこに出張するときもほぼマスクをしなくなった。特に飛行機は空調が上から下にばんばん抜けていくから、周りに妙に咳をする人がいるか、自分が咳をしているとき以外はマスクをしていない。満員電車ではわりとしている。気の所為かもしれないが、最近、人が少し臭くなった気がする。人が臭くなったのではなくてマスクをしていた数年の間、人の臭いを直接嗅ぐことがなくなっていたのだが、マスクを外したらなんだか気になるようになったということなのかもしれない。中でも東京と大阪は交通機関内の汗のにおいがけっこう激しく感じられる。ほかにも、外で人と会うときに相手の口臭がわずかに気になったりすることもあって、そうか、昔はこういうのを「感じ流していた」のだけれど、マスク生活を経てそういうのが流せなくなってしまっている、私はちょっと軟弱になったのだなというがっかり感はある。

私は今も職場ではマスクを外していない。それは私が病院に出入りし、お手洗いにいったりコンビニにいったりする過程で、通りすがった患者に私が無症状で感染しているコロナをうつしたら申し訳ない、みたいな職業的倫理によるものが大きい。あとはこの年齢なので肌も荒れてきているからそれを隠す意味でマスクが便利だっていうのもあるし、マスクしてるとリップクリームを塗らなくても乾燥しづらいってのもある。でもまあ惰性なのだ。病理という部門は基本的にあまり患者に会わないし、仕事に集中している間はお互いに距離をとって無言というのが原則なので、スタッフもだんだんマスクが適当になってきている。そんな中、主任部長の私が今もマスクを外さないのはもしかしたらある種の圧になってしまっているかもしれない。

導入したプロットを取り下げることに対して私は幾重かの意味でへたくそなのかなと思う。マスクにしてもそうだ。外したら外したで感性が弱っちくなっていて世界の肌理の多様性についていけなくて不快を覚えてしまうし、外さないとこではとことん外さなくてそれは一般には頑固と呼ばれる気質である。これらは、今日の話でいうならば、「いちど書いてしまったプロットを守らないことで、ストーリーが当初の予定からはずれていくこと」に対する恐怖感なのかなと思う。そういう恐怖を抱えたまま人生を執筆していくと、中盤以降に盛り上がりどころを作れず、いつまでも完結しないラノベ原作のコミカライズのようになってしまうのかもしれない。まあ完結しない作品なんていくつあっても困らないんですけどね。あっ俺だけレベルアップな件がそうだって言いたいわけじゃないよ。

ツーツーレロレロだ

息子からポストアポカリプスもののマンガのタイトルが無拍子で送られてきてさっそく購入、親子で互いに知らないマンガを提案しあうようになったことにまずは一安心する。かつて父は私が読んでいるマンガの大半を読んでいなかったと思う、しかし、それでも、よくあれだけいろいろ買ってくれたものだなと今になってありがたさが身にしみる。親ができることは子どもに本の背表紙を見せることなのかなという感覚は父から受け継いだものだ。


このように、現在を体験する過程では過去の断片が参照され、瞬間が拡張され、意味が輻輳していく。


過去の参照が過去との照合になってしまうときはつまらない。現在が過去の焼き直しになってしまっては息苦しい。しかし、たいていの場合、参照することで境界が破れる。現在の境界も過去の境界もどちらも破れる。解釈は固定されずに更新される。プロットなしの小説を書く際、途中で筆を止めて最初から読み返して表現をいじりながら少しずつ話を進めていくとき、あの、何度も何度も推敲されていく冒頭の文章のように、現在の筆記を進めていく過程で現在よりも過去が書き直されて研ぎ澄まされていく。こうして何かを書いているときも、誰かと話しているときも、「今・ここ」にだけ集中していることはなく、参照先の再解釈によりカロリーを消費している。

アイデンティティとは過去の解釈の総体なのかなと突然思う。「今・ここ」で私がどのように存在しているかが自我だとばかり思っていたが、たぶんそうではないのだろう。自分という小説の一行目に何を書くべきかということを、人生の続く限りで何度も推敲しつづけることが、自らをアイデンティファイするということなのではないか。


そしてだから忘却という装置があるのかなという気もする。自分の人生に対して校正ばかりをしていても新作は書けない。どこかで覚悟を決めて校了する必要がある。校了後には忘れるのだ。古い過去は順次、参照先としてのリンクを外される。それが忘却であり、ある意味、自分の人生に対する作家の役割を自分で担うにあたって、新作を書くためのコツなのかなと思う。ずっと統一の設定で書き続ける尾田栄一郎はばけものだ。ふつうは、似たような設定を、忘れたふりをして何度もこする、あだち充のような人生になっていくことが多い。


あだち充は全部は読んでいないのだがいつかどこかの夏休みを使って前作一気読みしてみたい欲望がある。それはなんというか人生の縮図みたいな体験になる気がするのだ。似て非なる過去を繰り返し想起しながら似て非なる現在を歩んでいくという過程が。

TATTOOあり

げっそりドンキーである。疲労がなかなかだ。しかし、いいこともある。近頃、夜がちょうどいい。札幌。身軽な薄着でタオルケットくらいで寝て、朝方にちょっと涼しい、くらいの絶妙の気温。19度とかだ。うれしい。うっすら窓を開けておくと、寝る前に涼しい風が入ってきて、夜半にちょっと冷えて目が覚めて、掛け布団をかけてまた眠る、贅沢な睡眠。いい感じなのだ。札幌。このような季節は、いつもは7月の半ばくらいに2週間くらい、あるかないかといったところなのだけれど、今年は高気圧がイキっていて、6月中旬なのにもうこんなことになっている。全国津々浦々で、みんな暑さによってひどい目にあっているだろうし、農業も漁業もいろいろ深刻で、水不足だとかイカが捕れないとかあちこちから伝え聞くので、あまりはしゃぐのもどうかと思うけれど、冬の厳しさを考えれば札幌民はこれくらいのいい目にあっても別に悪くはないはずだ。今、とてもいい季節である。

それだけでなんとかやっていけるかなという気持ちになる。



そういう気持ちになれたのはたぶん言葉にしたからだ。

夜が気持ちいいことそのものは、言葉にしなくても普段から、私がじんわりと感じていることだ。しかし、「最近、夜が気持ちいいな」と書き留めることで、そうか、私は夜が気持ちいいと考えているんだなと、自分が置いた言葉に自分が納得させられる。このときの「感じかた」のあざやかさは、言語化する前の彩度とは比べ物にならないほど強い。

言語化しておくことで、そしてそれを自分でこうして読み返すことで、「そうだそうだ今の俺はなかなかいいんだ」と噛みしめることに、効用がある。


そして無形のものを言葉にすることはいつも近似でしかない。

湧き上がってきたものを言葉にして置いた瞬間、そうかな、ほんとうにこうかな、ちょっと小さくなってはいないか、ちょっと強調されすぎてはいないか、ちょっと輪郭の形状が異なるのではないか、ちょっと前後関係が狂ってきているのではないかと、ズレを自覚する。そのズレをみながら、言葉にする前の自分は本当はなにをどのように感じていたのかを、逆行性に探る作業に入る。とりあえずの言語化を仮の足場として、そこに登ったりそこから降りたりを繰り返しながら、もっとよい言葉がないか、もっとよい表現がないか、もっとうまい組み合わせがないか、もっとそのものずばりの順列がないかと試行錯誤をする。

そうしているうちに、感じていた事象そのものと、事象の周囲にあるもの、私が言葉にするにあたって参照したもの、連想したもの、対置したものなどが、かたまりになって私の心の中に居場所を占めるようになる。


最近、夜が気持ちいいと言葉にしたことの周囲、裏側、鏡の向こう、光をあてたときのシルエット、そういったものの中に、私が進行形でとらえようとしている世界の揺蕩い、質感みたいなものが散りばめられており、そういったものは直接みじかい言葉や文章で表すことはできないのだが、仮の足場として提示した言葉の周囲をうろうろしている間に、概念として少しずつ腑に落ちて、私はそれをまるごと手に入れることになる。



だから……というわけではないが、嫌いなもの、気に食わないもの、いやなものを言葉にする作業を最近は回避しがちだ。言葉にするとかえってそれを深く彫り込んでしまうということがある。タトゥーを見せびらかすような人。気持ちはわからなくもない。自傷行為は快感を伴う。しかし、理解はできるが共感まではできない。私は、自分の心のポリゴンにテクスチャを貼るのに忙しくて、嫌いなもののために言葉をためつすがめつするような時間を今は惜しむ。

放熱の夜(3)

講演ならぬ講談がうまくいったのかどうかはよくわからない。金先生や、現地企業の担当者は、多くの場面で通訳をしてくださって、現地でのコミュニケーションをおおいにたすけてくださったのだけれど、出席していたドクターひとりひとりのナマの反応みたいなものを聞いて回れたわけではない。拍手の量が多いからといって聴衆が満足していたとは限らない。私の話した内容は、中国の医師にとって、簡単すぎただろうか。基礎的すぎただろうか。わざわざ海の向こうから金をかけて呼んだだけの価値があったと、感じてもらえただろうか。

朝8時からはじまった会が引けたのは18時。途中、昼飯を食いに連れ出してもらえて、重慶の町並みなどを短時間だけど見学させてもらったのはちょっとうれしかった。外気温は38度。6月だというのにもうこれかとびっくりする。ただ、日本の夏ほど湿気があるようには思えなくて、猛烈に暑いけれどまあこの程度なら……と思っていたら、来月には雨季が来て湿度が100%になるし重慶の夏は45度くらいになると聞いて、なんだこれでも夏の小手調べなのかと呆然とした。午後の症例検討は3時間、私も疲れたが、両方向の通訳を担当した金先生が一番疲れただろう。彼女は会が終わるなり北京にとんぼ返りして、明日もまた別の研究会に出るのだという。日本全土を飛び回るだけであんなに大変なのに、中国全土を飛び回る生活なんてちょっと私には想像がつかなかった。

会が終わったら晩飯だ。「重慶の重鎮医師」と書くと画数が多くてわけがわからないがとにかく当地の医療を牽引するドクターたちと飯を食う。移動する車の中でふと気づいたのだがとにかく道を走っているとパッパパッパとすぐにフラッシュのような光が焚かれる。日本でいう高速道路のNシステムのようなもので、中国人はどこにいても延々と監視カメラに覗かれていてあらゆる行動が監視されている、オーウェルの世界とはこのことか、とすぐにわかった。しかし、なんというか、今の私はそれを不気味にも不安にも思わなくなっていた。

こんな国を仮にでもひとつにまとめるのがどれだけ大変なのかということが、なんだか、身にしみていた。監視されたからなんだというのだろう、くらいの気持ちに私はなっていた。彼らのエネルギーは枠を必ず飛び越えていく。監視を前提としてなおプライベートな感情を爆発させ、規範の上に意図を盆栽のように組み上げていく中国人の底力みたいなものを、たった一日だけとは言え全身に浴びた私は、この程度の監視ならもはや彼らは痛くも痒くもないのだろう、と感じ始めていた。

晩飯を終えると昼間に見学した川沿いにもう一度行くという。行ってみると果たしてそこは盛大にライトアップされていていかにも観光地然としていたのだが、驚いたのは人、人、人、鎌倉か江の島か、まあ、日本にも、こういう名所はあるのだけれど、その人のすべて(正確には私と平田先生をのぞいた全員)が中国人であることに私は圧倒された。滅殺開墾ビームならぬ内需爆発レーザーを照射され続けて私は年甲斐もなく高揚した。すごい。すさまじい。夜の10時なのにこの老若男女。洪崖洞で私は何枚も写真や動画を撮ったのだがそのどれもピンとこなくて私はほとんどの写真をその場で捨てた。そういうことではなかった。そういう体験ではなかった。


灯りはけばくて人工的で、趣きとかわびさびといったものとは無縁で、でも、その過剰な装飾は、揚子江を埋め尽くした無垢で朴訥な欲望の人びととよく調和して全体で猛烈なメッセージになって私の脳髄に届いた。これまで日本にいながら「あの国のデザインって華美でちょっと下品だよな」みたいなことを思っていた私はきちんとわかりやすくずれていたのだなということがこの日よくわかった。

私はこの地がとても好きになった。そして、今日の講演のでき、日本でなら120点くらい付けてもよかっただろうが、中国ではおそらく満点が250点くらいに引き上げられるんじゃないかな、みたいなことを、ぎりぎり降るか降らないかというまばらな小雨の船上で、私はずっと考えた。

来年もまた呼んでもらえるだろうか。それはもうわからない。中国の医療は指数関数的に発展しており、今年力を出し切った私はおそらくすでに中国の「経験」として組み込まれ、研究され、解析されて今日にはもう過去として消化され終わっているだろう。来年、今と同じ実力の私がいても、もう彼らは私を必要としない。私は来年この国に呼ばれるためには彼らと同じペースで成長しなければいけない。それはなんというか、ずいぶんと高くて幸せな目標だなと私は思った。

放熱の夜(2)

現地時間8時に会がスタート。重庆市医学会 消化病学分会 第五届消化免疫学术年会 暨消化内镜分会 第四届青年内镜医师学术会议 とやたらめったら長いタイトルがついている。最後のブロックを翻訳すると「若手内視鏡医のための会」で、参加者には若い医師が多いし男女比は半々、もしくはやや女性のほうが多いようにも見える。一方、前のほうに座っている医師たちは、オンラインで見たことがある顔が何人かいて、おそらく運営側や発表担当者なのだろう、そのあたりはベテランで固められていた。

金先生と挨拶。この方は1990年代の終わりに日本に来て、私がかつて所属していた大学院に何年かいてたくさんの病理解剖を担当した。日本語ぺらぺらだ。私は大学院生のころ、金先生といっしょにいくつかの剖検に入った。うちひとつはとある難病の症例で、20年以上経つがいまだによく覚えている。長年寝たきりだった患者なのだが見た目の雰囲気が普通の病人という感じではなく、異様に内臓脂肪がついていてお腹の中は脂肪まみれであった。今にして思うと治療に必要な薬の副作用だったのかもしれない(というかたぶんそうである)のだが、当時はなんて不思議な病気なんだろうとびっくりしたし、そんな驚き方をしているくらいだから私がまだぜんぜん病理学のことをわかっていない修業時代だったのだなということに間接的に思い至る。ちなみに私は基本的に、症例とか人間のことをまるで覚えない。海馬の先が崖になっていて長期記憶がぜんぶ海の藻屑になっていく。しかしその解剖のことはなぜか印象的でよく覚えているし、そのとき金先生の手技が大変丁寧だったこともセットで覚えている。

金先生はその後中国に戻り、現在は某医学系大学の、病理の主任医師・教授である。施設のプロフィールを見ると日本での経験症例数などが公式Bioに載せられており、中国の人びとにとって日本で解剖をやったことがあるというのがある種のステータスにはなるのだろうなということを思った。日本で500例くらいはやられているということなので驚く。数年いらっしゃったとはいえそんなにやっていたのか。昔は今より解剖が多かったにしても。

そんな金先生は私の発表や症例検討の通訳をしてくださる。現在、日本から多くの病理医が中国の学会を訪れるが、その多くと関わられており、ご自身の仕事(消化器や婦人科などの病理学)のかたわらで中国全土を飛び回りながら病理学関連の日本語通訳を担当されている。通訳のスピードは「プロ野球のヒーローインタビューくらい」なので非常にすばらしいし、病理や内視鏡の専門用語を言ってもほぼ理解してくださって、仮にわからないことがあってもその場で日本語で質問をしてくださって、すぐに内容を理解して通訳を進める。私が今から逆方向の(病理の解説を中国語でしゃべってもらってそれを瞬時に日本語にする)仕事をできるようになるとは絶対に思えない。頭が上がらない。

旧交を温めているうちに会が始まり発表が進んでいく。演者の中国語はまったくわからないし、翻訳アプリを使っても学会会場ほどでかいと音がうまく拾えないので使えない(ちなみにドコモの国際ローミングは中国国内でも普通にGoogleなどのアプリを用いることができる)。でも、プレゼンが漢字だと、なんとなく言いたいことがわかる。冒頭、クローン病の治療戦略に関する話、少なくともプレゼンに書いてある内容は9割以上理解できたのではないかと思う。このようなことはモンゴル出張のときには経験できなかった。おもしろい。急速に楽しくなっていく。この出張、得るものが多そうだなと期待が膨らむ。積み重ねてきた寝不足が心配だったのだが神経が興奮して覚醒レベルが上がっていくのが自分でよくわかる。

私の出番は9時45分からだ。講演を行う。タイトルは「来自组织病理的反馈:使用病理诊断更详细地阅读内镜」、すなわち「病理組織診断からのフィードバック:病理診断を用いたより詳細な内視鏡読影」というもので、もともと私が日本語で考えていたタイトルはもう忘れてしまったのだけれどかなりいい感じで翻訳してもらっている。担当は45分間。ただし通訳を考慮して20分相当のスライドを作った。金先生への感謝を述べつつ粛々と講演をすすめる。果たして、このレベルの内容で中国の医師は喜んでくれるのだろうか。

旅については事前にほとんど準備をしなかったのだが講演についてはかなりきっちりと相談をした。現地企業の担当者に、学会上層部へのヒアリングをしてもらい、ここ最近の日本人病理医の講演内容、そのレベル、そして聴衆の反応みたいなものを何度かにわけて細かくたずねた。最初は「どんなものでもいい。日本の病理医の発表はどれも勉強になります」みたいな反応であった現地担当の口調がメールを重ねるごとに細かいニュアンスを帯びるようになり、まとめると、「近頃の中国の内視鏡医・病理医はものすごく勉強をしているので、もうちょっと高度な内容でもいい」というものだった。言葉の壁を乗り越えながらの解釈なので間違っているかもしれないけれど、私はこのやりとりから、少なくとも中国の内視鏡医や病理医に向けて話をするならば、上から講演をするどころか、胸を借りるつもりで全力でぶつかっていかなければだめだと思った。そして、教科書的な、順を追った講演をするのではなく、現時点で私が一番本気でしゃべれそうな内容を、あまり構造化されていない状態の、エネルギーの塊のようなものにしてしゃべってみようと決めた。

45分間で提示する内容は「症例を2つ」だけ。日本国内でこれをやったら、「症例検討に毛の生えた程度の講演なんかしやがって」と怒られる可能性もある。しかし本来、私の一番のストロングポイントは、「一例でどこまで語れるか」にあるし、逆にいったらそこで一点突破していくしかないと思った。

過去に、中国で複数回、モンゴル、シンガポール、ミャンマー、香港で、(モンゴル以外はオンラインで)私は講演をしている。それらはすべて多かれ少なかれ構造化した内容であった。これらはいずれも、短い映画を一本作るような気持ちで作った。映画だから序盤、中盤、終盤の流れがあるし、ネタとかオチとかもところどころに潜ませる必要もあって、リズムも計算しておくのだ。しかし、今回、中国の聴衆が現地で私に求める内容は、「それよりもうちょっと高度な内容でもいい」のだなということが伝わってきた。そこで私は映画をやめて講談にすることにしたのだ。物語の一巻をすべて語るのではなく、「ここぞ!」という場面を細部までゴリゴリに描いて、非常に狭い一場面だけを語り尽くすスタイルだ。いいところで「続きはまたのお楽しみ」となれば言うことはない。