倍率と役割

段ボールってどのへんが段なのかと思ったら切り口を斜めにみたときに階段みたいに見えるから段ボールなのか。なるほどな。あんまりその拡大倍率で考えてなかったな。倉庫で積み上がった段ボールが階段状になっていることがあるけど単発だと別に段ではないよね、とか思っていた。命名の現場での開発者の目と、ユーザーとしての私の目、対象との距離がそれぞれ違うからぱっと思いつかなかった。ほどよく見える距離感というものはわりと重要だと思う。『宙に参る』の中で、暮石ハトスがアディさんのジャケ写と同じ場所で写真を撮ろうとしたときに、そこにいたシヤに「もう三歩後ろです」みたいなことを言われるシーンがあるのだけれど、あれといっしょだ。一番いい写真のためには左右とか上下とか角度の調整だけではなく距離の調整も必要である。このようなことをときに考えながら、細胞を見る。


大学にはいくつか、学生の参加する勉強会がある。全部は知らないがいくつかは知っているし、自分も学生の頃に出たことがある。中でもとりわけ思い入れがあるのは、朝、授業のはじまる前に病理学講座に集まって、教授がポケットマネーで用意したボストンベイクのサンドイッチなどを食べつつ、Robbins Pathologic Basis of Diseaseという病理学の基礎的な教科書を読むというものだ。当番の学生が音読して翻訳をし、ときどき教授が短くコメントを挟む。やっていることは英語の本をみんなで読んでいるだけとはいえ、歴史のある成書の持つ力はさすがで、けっこう勉強になる。通称「おはようロビンス」という勉強会。前の教授の時代からたしか40年くらい続いている。ふだんは学生と教授でやっているが、まれに私のような部外者がゲストとして出場を求められることがあり、今回はWebで参加した。2年ぶりくらいだったろう。

今、学生たちが読んでいるところは「食道」。勉強会の最後の5分くらいで、なにか食道の実際の症例を提示してくれないかと頼まれた。事前に2例ほど用意してみたのだが、いざ勉強会がはじまってみると、事前に用意した症例とは少し違うジャンルのことをやっていたので、勉強会の最中に症例を差し替えた。ある限定的な状況下で発生する食道癌の一例。内視鏡で発見するときのコツ・難しさから、病理医がプレパラートにして見るときの「見え方の感覚」、そして病理診断を内視鏡医にフィードバックしたあとに内視鏡医がなにを考えるか、みたいな話を4分強で話す。

学生だからなにもしらない。ただし専門用語をあとでAIにたずねるくらいのことはやってくれるだろう。そう信じてその場でかんたんになりすぎない程度の説明をしている最中、ふと、私がこの病理写真をみて細胞を説明するときの「細胞との距離感」と、学生がZoom越しに提示されたパワポの写真を見て細胞のようすを判断するときの「細胞との距離感」は違うのだろうということを考えた。モニタのサイズが違うとかいう話ではなくて、私と学生とでは、細胞を理解するために最適なレンズの拡大倍率が違うはずだ。

私は細胞をみながら、核の中で起こっているであろう遺伝子の変化が細胞の配列にどう影響するか、細胞ひとつひとつにどう影響するかというのをなるべく細かく判断できるように、目線を動かしつつ、その領域の専門的な知識を、ブラウザに一時的なプラグインをインストールするイメージで視野内の情報にオーバーラップさせて複合的に知覚をする。見たものだけで考えるのではなくて見えそうなもの、見えたら困るものなどを脳から引き出してきて照合しながら、外界の情報と内部の情報との差分をとりつつ(これは簡単)、ほぼ一致しているんだけどじつは違うかもという違和に気を配る(これが難しい)。このとき、プラグインがもっとも切れ味よく働くのが、最大に拡大した倍率ではなくて、むしろ少し「引き」でみた倍率になる。私だけかもしれない。しかしなんとなくだが熟達した病理医もそういうレンズの設定を好むように感じる。

一方、プラグインをまだ持たない人間が、この細胞を見てもっとも情報をたくさん拾えるのは、おそらくは最強拡大の画像ではないかと思う。もしそうだとすると、今私がこうして、「接写しきっていない倍率の写真」ばかりを提示して説明していることには、若干の隔靴掻痒感があるかもしれない。そんなことをしゃべっている最中にふわふわ考えていた。でもまあ、学生のときに目にする中年医師などというものは、手取り足取りやさしくなんでも教えてくれるよりは、なんというか、四半世紀の年の差によって埋まらない溝があるけどなんとか同じ世界で共存しようとしている、その努力だけは見えるけどでもやっぱこのおっさん何言ってんだかわっかんねぇな、くらいがちょうどいいようにも思う。


いいわけを言っていいわけがない

イリタリー・ボウエル・シンドロームと書くとSF奇譚みがあってすごいのだが、要は過敏性腸症候群(IBS)である。子どものころからだからもはや40年くらいの付き合いになる、腸の気まぐれ、対処法はわりと身についていて、朝は出勤とか出張の前にいったん腸を動かしておかないと移動の最中に腸が動き出してめんどうなことになるというのを知っていてそれに備えておけばよい。「腸がいらんタイミングで動いたところで心臓が止まるわけではない」というところまであきらめてしまうとかえってリラックスして腸がぐんぐん動いてよくない、コツとしては、「さあ!これからキリキリ働くぞ!」と、しっかり交感神経系をぶち上げて腸をストップさせることが望ましい。ただしこれをやると毎朝血圧が高めに出てくるので降圧は欠かせない。あちらを立てればこちらが立たず、いったん安定に入ったアロスタシスは、インプットを微妙に調整してもなかなか別のプラトーには入ってくれなくて、複雑系を御するというのはかくもままならないものである。

出したくないタイミングで出そうになるという意味では腸よりも横隔膜のほうがやや深刻だ。ちかごろ本当にプレゼンが時間通りに終わらない。20分の講演が24分になる。残り30秒でまとめてくださいと言われると70秒しゃべってしまう。脳のなんらかの機能不全を心配するし私はこういうところが社会的にかなり劣っているなと感じる。8時半に出社すればいいのに6時には働き始めていないと落ち着かない、みたいなのも、シチュエーションは違うしもたらす効果や周囲への影響も別物ではあるが本質的には同じことなのかなと思う。世の規範であるところの絶対的な時間・時刻を軽視している点が私の大弱点で、矯正しようと思ってもなかなか治らない。「やるだけですよ。やるだけなんだから。しのごの言わずにやるんですよ」と、たくさんの人が、言わないまでも思っていると思う。そんな無言のメッセージはこちとら当事者なのでこれまでも大量に浴びまくっているのだからもうわかる。しかしだめなのだ。できない。90分以内になにかを書いてくださいと言われるようなシチュエーション(例:受験)であれば、単純に「ならば60分で書こう」とやれば65分くらいで書き上がるのだが、人様のためになにかをしゃべる60分に対しては「ならば45分で終わるような内容でいこう」とならない。ここをつまびらかにすると、「時間通りに終えることで結果的に私が低く見られることはいいのだが、時間通りに終えることで結果的に聴衆がもったいないことになるかと思うとがまんできない」のである。うーんひどい。理屈のようだが道理になっていない。時間通りのほうがたぶんいいのに。それができない。簡単なことなのに。少なめに出せばいいのに。テイクホームメッセージは1個でいいのに。AIに聞くまでもなく平成のころから言われている鉄則なのに。知っているしわかっている。筋も見えている。それでも、それをやらない。やはりなんらかの障害なのだろう。落ち込む日もある。けっこうある。

さて、ちかごろの社会がいうように、そういう自分を「許して」「それも大丈夫だよと認めて」「そういうあなたを受け入れない社会のほうがバリアなんだよと背中を押す」かというと。

ちょっとそういうのも違うんじゃないかなという気がする。これは別にほかの障害とか不全とかに対する社会の取り組みを揶揄したくて言っているわけでは全くなくて、そこはぜひご理解いただきたいのだけれど、この私がこの私の状況に対して許可を与えるのはほかとはぜんぜん違うのだ。それはまるでだめなんじゃないか。おそらく私はパニッシュメントを与えられながら苦しくうごめいていくことをわりと上げ潮気味に求めているしそれを受け入れなければダメ人間として本当にダメなところまで落ち込んでしまう。「なんで時間通りにできないんだ、だめだなあ」が社会から与えられたほうがいいのだ、そうでないと、おそらく私は仕事を続けていくうえでの交感神経と副交感神経のバランスが保てない。いや、これも違うか、そういう「いい意味での効用があるから必要悪として」だめであり続けたいというのも違う。そうでもない。そうではなくて、私はだめな人間のままそれでも仕事でなんとかぎりぎり社会とつながっているが、これだけだめなのだから仕事の中心部分がだめになったらいよいよ切られるぞという恐怖を浴びてなんぼだ、と感じている。自分がそういうものであるということをちゃんと悲しく受け止めていないとろくなことにならない。

こうなんだからこうあればいい、そのためにはこうすればいい、みたいな議論がつまんなくてしょうがない。いや、うん、つまるつまんないの問題ではないのだが、それができたら苦労しねーよというか、苦労しないで生きていられねぇよというか、しかし開き直りたいわけでもなくて、謝罪しながらできることだけやってそれに対して怒られるのはもう受け入れるしそれでもがんばるわ、みたいな話がたくさんある。そういうポンコツな実践をかくと「しっかりしている人」には本当にけっこうな頻度で怒られる。そうやって怒ってくる人が私より仕事をしていることはそこまで多くはない。しかしまれに私より仕事をしている人が私よりしっかりしていることもあって、そういうのを見ると、やはりこれは罰でしかなくて、なにかをトレードオフで得ているとか必要悪とかそういった、道理に沿ったものではぜんぜんないんだよなと肩を落とす。