温泉の医師はスパイシー

本棚の吉増剛造詩集が日に日に肥大。目から入ってきた素材を脳内で、気持ちばかりの塩コショウをふりかけてクッキングシートの上にならべて油を使わずに中火で両面シンプルに焼き上げた、調理品としての視覚では、吉増剛造詩集がじわりと増殖活性を増している。本当はどうなのかとか真実はどうしたといったことを言ってもキッチンは止まらない。

ひとつとなりの本棚に並べたbloodthirsty butchersのアルバム「kocorono」もじわじわと腫大してきた。吉増剛造と吉村秀樹。耳かきをすると咳が出るくらいの細い神経でつながっている。


足の爪を昨日切ったのだけれど、先ほどから左足の小趾の外側のはしっこの、爪の切り残しの成分が鋸歯のようにに尖って靴下に引っかかって、歩くたびに肌の裏側に不快な圧をかける。靴下を脱ぎ捨てたい、爪切りをし直したい、しかし、経験的に、ささくれた趾の爪というのは通常の爪切りではうまく切れない、私はこういうとき、救命室で医療従事者たちが縫った糸を切るのに使うような先のほそくてよく切れるあのハサミがあったらどれだけいいだろうと夢想する。名前を忘れた。検索をする。医療 先が長くて細いハサミ。メッツェン。聞いたことがあるようなないような。私は解剖をするときいつも、「そのさきの尖ったやつ」とか「切らないで挟むやつ」と言って器械を手渡してもらう。いつまでも名前を覚えられない。道具の名前というのは野菜の皮のようなもので、裏側に栄養が多く含まれてはいるのだが私は口に入るものとなると神経質に皮を剥いてしまう。かえって手間がかかる気もするのだが私はそうやってたくさんの物の名前を能動的に忘れようとしている。

私は忘れている。


雑踏の端と端でそれぞれ大声を出して会話をするときのような汗をかく。腰が痛い、だからこうして伸びて見せれば腰も納得するようで、汗もいつしかひいていた。汗がひくというのはおかしな表現だ。汗腺の開口部からまるで皮膚の向こうに戻っていくというような表現に感じる。塩だけを肌に残して。


職場のデスクにあるSEIKOの大きなデジタル時計には、時刻と共に日付、曜日、気温、湿度が記載されており、気温の上にはご丁寧に「快適」バーが存在する。本日は快適ど真ん中だと、時計が喜んでいる。人である私の身からすると今日はやや肌寒いし、快適とまでは言い難いはずなのだが、時計がそういうならば今日は快適なのだろう。なにせデジタルだ。アナログとはわけが違う。明日から私はベストを着よう。ワイシャツにネクタイを合わせてベスト。もはやどこからどう見ても事務職員で、前の職場では廊下を歩くたびに患者から道をたずねられた。当時はネクタイはしていなかったから今回の職場ではさらにパワー・アップだ。私は道をたずねられる人間としてやっていこう。電話をし、問合せられ、間違いを認め、半端を保留する。保留はとても大事なスパイスだ。

再読を待っている本、再聴を待っているCD。待っている主体は私。待たれている本。待たれる身は辛くなかろう。私は成長を待たれている。待たれる身だ。辛くはない。待つ方は辛かろう。この場合の辛いは「からい」と読むべきである。

槍と栗

スーパーが閉まる時間までに帰れなかったのだが、幸い、昨日のうちにシャケの切り身が2きれ入ったパックを買ってあって、1尾はまだ残っていたし、オルニチンたっぷりのブナシメジもまだ一房あって、玉ねぎもあって、顆粒だしもあって、味噌もヨーグルトもあって、だから私は余裕でだらだら残業していて。残業の管理の基本は自己研鑽だ。確かに人生というのはすべからく自己研鑽たるべし。「すべからく」に「べし」をつけないとものすごい勢いでアカウントが飛びかかってくる昨今だから、こういうところにはきちんと気を遣って暮らしている。こんなどうでもいいところに気を遣っている暇があったらもう少し距離の近しい人間たちに気を遣ったほうがいいのだろう、しかし、悪癖、かたむき、世の中が私にもう少しやさしくしてくれない限り、私もこの程度のやさしさで、やりくりしていけばいいんじゃないかと半分ふてくされながら精一杯の営業スマイルである。

それはそれ。

SNSでブログのリンクを拡散するやりかたは廃れたなあと思う。ブログに不特定多数のアカウントが飛びかかってくることも近頃はめっきり起こらない。Xでリンクを貼ると、インプレッションが激減して、遠くまで声が届かなくなるとのことで、告知界隈はスクショを使うとか裏垢でつぶやいて自分で引用するとか小癪なことをいろいろやっているようだけど、ばかだな、あきらめろ、つまりイーロン・マスクは、ブログなんてものに不特定多数に読んでもらおうという夢を持つなと、そうやって「撒こう」とするなと、能動的にリンクを探しにくる人間のために「刺せ」と、考えているふしがある。

私はそれはものすごく正しいと思う。

自分が文章を読んでもらいたいと想定する範囲を超えて、まったくの赤の他人が自分の書いたものを読みにきていたこの15年くらいが、特段異常だったと思う。しかし、とはいえ、あらゆる文章が手紙的になってしまうのも、それはそれでつまらないことで、それはたとえば配慮の足りない哲学者あたりが「誤配」と呼んだシステムによって、ある程度想定のずれが起こってなんぼという側面もある。しかし、ゆうちょは、いつだって正しく届けるためにがんばっているんだゾ?

看護師向けの専門誌が届いたがこれを職場で読むと自己研鑽になってしまうのでかばんに入れて持ち帰ることにした。うちで読むのはじめてだな。専用の本棚でも買うべきか。中山祐次郎先生の新刊もまだ読み終わっていない。阿部大樹先生の手紙の返事もまだ書いていない。デスクの下の紙ゴミも捨てていないし家の空き缶ゴミはいっこうに溜まらないから捨てるまでにも至らない。生ゴミを含めた燃えるゴミだけを定期的に排出しながら暮らしている。あと、水回りはいつもきれいに保っている、そう、それがこのどさくさした毎日の唯一のほこり。ほこりはきれいに。

50000円

少しずつ加速していく毎日に踏みとどまってややゆっくり目に時間をかけて考えるべきものというのが、果たしてどれほどあるのかわからない。おそらくそういったものを明示してくれる優しい人はどこにも存在しない。おそらくそういったものを取りこぼすばかりで私はたくさんのものを失ってきた。しかし、おそらくそういったものの本質的な問題として、考えれば考えるほど失っていくものもあるとは思う。たとえば、税金や相続にかんする手続き、それは基本的に本人にとって何かを失う以外の何物でもないわけだが、そういった、失うためのあれこれを自分で準備して整えるやりきれなさ、切腹のための必要物品を自分で買い求める侍と同種の手続き、税務署とか国税局を相手取るばかりではなしに、自分の思考、思索、思念について、自分を相手取って、一段一段、積み上げるほど失っていく、大脳の奥底の古い伽藍の柱の陰に潜む鼠の腹の足しにする。そういう手続きを経る過程こそが、「ゆっくり目に時間をかけて考える」という行為の一部でありほぼすべてなのではないかと押し黙る。


コートの襟をあわせるとやや暑く、ほどよさとは難しい。


反射的にメールソフトを開いてしまったがメールで返事することはできない。阿部大樹先生からインクの薄いペンで書かれた封書が届いた。献本を私に断られ、かわりに私の希望によって手紙を書いて送ってくださった。よくわからない無礼をはたらいたなあと今更ながら反省。バスケットボール選手が目線でフェイントをかけるような文体である。「質的・時間的に散らばったデータから、どうやって最終的な判断が出るのか、という研究です」。この一言に、私はまず、反論したかった。彼の訳した本を読みながらそうは思っていなかった。しかし、引き受けて、考えて、たしかにそれ以外の読み解き方はもはやないようにも思えて、この瞬間、彼の近著への私の純然たる感想は失われ、かわりに多くの風景がたくさんの振動と共に、視神経の周りに集まって綱引きの準備のように眼球を後ろ側に引っ張る準備をはじめる。ものすごい量の参考文献を付けている原著の著者が、1箇所、女性に関する話題の部分で文献を一切引用しなかったことに彼は訳注を付けていて、なんと緻密な仕事をするのだろうと舌を巻いたのがつい2日前のことである。「ヤンデル先生さま」と書かれた手紙にどう答えかけどう名乗るかを考えている。そういう些末な装飾の部分を必死で考えているという体で、脳のアイドリングを冗長化し、実際にペンを持って便箋に圧を加えるその瞬間までなるべく返事の根幹を考えないように努力する。あまりゆっくり目に考えてしまっては、なくしてしまうかもしれない。やってきたクラファン開始のメールのリンクを瞬時に開いてブラウザで口上を30秒くらいで読み流して高額な寄付をする。Xに「甘寧一番乗り」と書いて寄付の結果をポストする。あれからしばらく経つが次に寄付をする人はまだ誰も現れない。ゆっくり目に考えて、悩んで、寄付をするという心自体を失っておいたほうが、人からは誠実に見られたかもしれない。誠実に見られたいか? 誠実だなあと言われたいか? それはあまりにじっくりとした皮算用ではなかろうか?

川霧

それなりに早い時間に駐車場についたが、病院入口に近いスペースはおおむね埋まっている。夜勤のやからだろう。先行者たちの特権をすり抜けて、次に近いあたりに車を停めようとするけれど、ちょうど停めたい場所のすぐ横に私と同じ車が同じ色、同じテカリで停まっている。なんだか気恥ずかしい思いがあってさらに少し離れたところに車を停めた。すぐあとからやってきた軽自動車があっさりと、私のに似た車の隣に車を滑り込ませて、私のほうを見て一瞬怪訝な顔をしたあとでなるほどといった顔に戻る(主にヘッドライトのあたりで表情が読み取れる)。

紅葉インデックス40%といったところ。落ち葉を踏みしめながら歩くと歩道の縁石のそばはだいぶ水がたまってぐちゃぐちゃになっているのでなんとなく縁石の上を平均台のように歩く。まだ1か月も経っていないがこれが果たして私の毎朝の習慣になるのだろうか。中年の平均台はかつてウイスキーか焼酎かなにかのCMでさんざんいじられたのでもはや我が国にはエクスキューズがない。

気温は先ほど車内の温度計で4度と出ていた。4度となると必ず思い出すのは「水が一番重い」というあのフレーズだ。そんな微妙な違いを体感する機会など生涯に一度たりともないはずなのだが、4度の朝は水たまりがアスファルトを下に押し付けているところを思い浮かべる。秋の水は重い。朝、天気予報を見ようと付けたテレビ番組では日ハムの終戦の話題とクマが人里に出没した話題でいっこうに天気の話をしなかったが、そんな中、ようやく出てきた季節の話題は「川霧」についてのものだった。

”川の上や川の 付近 ふきん に発生する 霧 きり 。 蒸気霧 じょうきぎり の 一種 いっしゅ 。 川のあたたかい水面から 蒸発 じょうはつ した 水蒸気 すいじょうき が,川の上をふきわたるつめたい空気にふれ, 凝結 ぎょうけつ してできる 霧 きり である。”

どうしてGoogleが急にいっこく堂みたいになったのか訝しんだが、元ネタが学研キッズネットとのことで、ああルビの処理がこうなるのか、とそこそこ納得はする。しかし川霧を検索してGoogleが最も有用だと考えるのが子供向けのオンライン辞書であることにまで納得したわけではない。

川霧という苗字はあるのだろうか。「川霧 始(かわきり はじむ)」とかラノベのモブっぽくてよいなと思ったが、検索してみた限りで川霧という苗字はないらしい。桐川ならあるのだが。川の水面に水蒸気がうろつくあの光景を誰かが苗字に使おうとは思わなかったということか。そのような過酷な自然状態と共に暮らす人々にとって苗字などはどうでもよかったということか。

未明から早朝にかけて、道北や道東のまっすぐな道を走っているとき、眠気を声にしてだらしなくあくびをしながらふと車窓の向こうに川霧を見ることがある。タンチョウがそこにいればテレビ局が喜ぶ冬の風景になる。しかし何もない、誰もいない川にただ霧がかすんでいるようすは、帰りの電車で直す化粧のようで、気の抜けた私は少しなじられたような気になってまっすぐ前を向いてハンドルを握り直すほかない。

落葉の中を軽く歩いて職員用入口に付いたところで、昨日と同じミスをおかしたことに気づく。車を降りたときからうっかりマスクをしていたために、メガネが曇って、病院の入口の顔認証が作動しない。入職時、事務の職員に、「伊達メガネで認証登録するってのも変な話ですね」と乾いた笑いをとった自分のおろかさを思い出す。しばらく入口でメガネの曇りが取れるまで待つ。一歩下がる。あとからやってきた職員が少し怪訝な顔をしてからなるほどと言った顔に戻る(主にヘッドライトのあたりで表情が読み取れる)。

そくわんを買う

枕を買いに行こうと思っている。私の頸のかたちにぴったり合っている枕を長年使っておりこれについては安心しきっていたのだが、そもそも、「長年」使っているものが「ずっとぴったり」なわけはないのだ。近頃やけに肩周りとか頸周りの疲れがとれないなと不思議に思っていたのだが、昨晩、ふと目が覚めたときになんだか頸のあたりの角度に居心地の悪さを感じ、あっこれ、枕、へたったんだな、と気づいた。いちど体を起こしてしまうと二度寝するのが大変かも、とは思ったけれど、このままの枕で、上を向こうが右を向こうが左を向こうがどうやっても、翌朝私の頸はがんがんに凝り固まるだろうという気がして、ふとんを出てタオルを取りに行き、枕にひとまわりさせて高さを少し高めてからそこに頸を埋めて安心して眠りについた。果たして翌朝、がんがんに凝り固まってすっかり動かなくなった頸がそこにはあった。なるほど、大事なことは寝ぼけ眼で遂行してはならないと、ひとつ賢くなった。たとえば出張先の枕が高くて合わないときに、スマホの向こうから気軽に語りかけてきたライフハックを真に受けて、バスタオルをくるくる巻いて「途中で巻くのをやめて、巻き取っていない部分を背中側に垂らす」というのを何度かやったことがあるが、あの簡易枕は寝始めはいいとしても朝起きたときには無惨に破壊されているのでほぼ意味がない。無印あたりで売っている安くふわふわのクッションにカバーを巻いて枕代わりにするというのもやってみたが、これも所詮は「枕もどき」でしかなく、ソファでクッションを敷いて寝る時はあんなに気持ちいいのに、ふとんだとなぜクッションはクッションでしかなく枕の代わりには決してなってくれないのか不思議でならない。場が人を作るという言葉もあるが、床(とこ)が枕を作るということもある。枕を買いに行こうと思っている。それは決してオーダーメードの高級枕である必要はなく、しまむらやサンキあたりで売っている格安の枕でもかまわない、ただ、クッションであってはいけない、毛布であってもいけない、ペット用ソファが一見ちょうどいいサイズに見えたとかいうことがあっても騙されてはいけない。値段が高くて形も材質もぴったりな、しかし枕ではない何物か、ではだめ。安くても形が多少変でも材質が微妙でもそれは枕であったほうがいい。ただし、私の長年使い古した枕は買い替え時なのである。このへんの理屈はまったく統合されていない。体系からはずれている。「買い物がしたい」という私の欲望によって理論が大きく乱されていると考えたほうがいいのかもしれない。


妻と声をかけあって100円ショップに行き、やや大きめのお椀を買った。近頃は味噌汁に具をたくさん入れるのが楽しいのだが、私が無計画に作ると具がてんこもりになって汁が見えなくなることがあり、であれば、もう少し大きな椀を用意して、一汁一菜的におかずをすべて汁物の中にぶちこんでしまう夜があってもいいのではないかという話からそうなった。思えばこれまでの人生で豚汁を最もすすったのは家ではなく職場の食堂である。豚汁を食むならば漆器の椀よりも安価なプラスチックの椀のほうが唇との相性がよい。そういう意味で「しょうがなく100円ショップ」なのではなく「攻めの100円ショップ」である。セルフレジに並びながら、ああ、ここに枕があればいいのにと、とっさに思った。低反発だか高反発だか知らないが、意識は失っても重力との関係は失わない体を休ませようとするにあたって、肌と脂肪と筋肉、私の体のごく表面にうすっぺらく分布するガワの部分を程よく支えてくれるのは、本当はマイクロビーズとかソルボセインのような練度の高い素材ではなくて、ダイソーやキャンドゥが繰り出す、含意ゼロ・野心ゼロ・プラごみ再利用の社会のスペーサー的存在ではなかろうか。100円ショップ 枕 で検索すると、550円くらいで実際に枕が売っているという。ああ、そうなんだろうなと、この「検索したらちゃんと出てくるということ」に私は頸の収まりの悪さを感じ取った。なんかだめだろうな。検索して出てくる程度の「真ん中さ」に、私のゆがんだ頸椎が支えられるような気がしない。

エルメスは脳筋

週に何度かそこそこの距離の運転をするようになり、そのぶん、ラジオを聴く機会が増えた。本を読む回数が減っているのはうれしくないが、生活が変わってもラジオを減らさなくてよいというのはうれしい。ひとり語り系もよいけれど、基本的には2,3人で会話をしているほうがいい。内輪の話を延々とされるくらいならば、共通の話題を真ん中に置いてキャンプファイヤー的に語られているほうがよほどありがたい。「職人」からのお便りの「うまさ」に舌を巻く、という放送作家が好きそうな構成も、嫌いではないけれど、できれば、会話・対話の中ではじめて浮き上がってくる「綾」みたいなものを感じられる枠組みのほうが望ましい。そんな番組はめったにない。「日曜天国」ですらこの意味では微妙に該当しないと思う(日天はおもしろいのでよく聴くけれど)。タレント、光、限られた能力、みたいなものがバキバキに光り輝く系の番組は、視聴率もいいし提供する会社も多くてコーナーの数だってたくさんある、しかし、そういう、一握り、選択圧、盛者必衰、みたいなハードルの先にできあがった伽藍のようなコンテンツは、いまいち運転という場にも私という対象にもマッチしないのであった。「東京ポッド許可局」がちょうどいい。あのちょうどよさは奇跡的である。ああいう番組ばかりがあるとそれはそれで鼻につくかもしれない、だから、あの1番組だけがあればいいのだと思う、ただ、週に一度の番組だから、どこかに行って帰って往復しようと思うと尺が足りない。もっかの悩みである。東京ポッド許可局が毎週4時間ずつ放送するようになればいいのに。それはそれでぐったりするかもしれないが。


ちょうどよいものというのはそうそうない、ということを骨身にしみてわかっているつもりだ。というか、自分の生活とか性格に対して、「本当にちょうどいいもの」というのは、おそらくぴったりマッチしすぎて、でこぼこやら引っ掛かりやらがなくなって、それはたぶんジグソーパズルの最後の1ピースをきれいにはめ込み終わったあとのようなもので、「どこが足りなかったのか、もはやよくわからなくなってしまった、動くことのない一枚の絵」なのであり、いちいち意識もしなくなる。それが当然ということになる。飾られてそれっきり背景化する。だから私はいつだって、「ちょうどよくないもの」のことばかり考えている。つまり私は一生、「うまくいっていないもの」のことばかり考えながら過ごすことになる。そういうものだと知っておかないといけない。そういうことだとわかっていないと、「なぜ私の人生はこうもうまくいかないことばかりなのか」という、問い方をまちがえた命題にずっと関わっていかなければいけなくなる。すごい、それはきびしいことだ、かもしれませんね、SAMURAI。


前の職場のデスクにサボテンを置いたままだということに今気付いた。まあ、あれは、たまに水をやりにいけばいいか、と思った。サボテンは「足りないこと」に対して比較的、無頓着である。すぐに乾かない。不満を言わない。口があったとしても無口だろう。しかしそれは、サボテンがいつも満ち足りていることを意味しない。始終なにかしら、乾いているのだ、そのあたりは飼い主とよく似ているのではないかと思う。


デスクの空調が強いですか、と気を遣われた。なにも感じていなかった。暑さ、寒さ、気になるときはなるだろう、しかし近ごろの私はそこよりもほかにたくさんの気がかりなことがある。ひざかけ、サンダル、水分確保の手段、そういったものよりも、切り出し、迅速、外注検査のオーダーの仕方、そういった細かなことたちが気になっている。満たされるまでしばらくかかるだろう。満たされたら平板になって意識の下に潜っていくだろう。次に私が考えるのはまた次のでこぼこのこと。「キノの旅」に出てくる、線路を敷き続ける老人、それを外し続ける老人、それを追いかけていくまた別の老人の風景が思い浮かぶ。感想を抱えながらも何も告げずにその場を立ち去るキノの気持ちになる。

文法的にはそうじゃないみたいなことを平気でいうやつら

Grammarlyの年間サブスクの更新をどうしようか悩んでいる。ChatGPTに課金してないのにGrammarlyには課金するというのも変な話……なんて言ってしまうのも変な話か。「課金したほうがいいサービスが受けられる」というのも、「年払いが一番お得である」というのも、幻想となった。LLM系のサービスは週単位でアップデートされ、競合サービスと抜きつ抜かれつ、ときおり急速にいなくなったりびっくりするほどの値上げがあったりと人間様を飽きさせない。1年後にいいサービスである保証はないのに年間払いをしてしまった! 「企業に未確定夜逃げの資金を与えているだけ」。

家族がいう。「サブスクしすぎだよ。もうちょっと減らしたら」。そんなに払っていないと思うけどなあ、と我が身を振り返って、確かにと頭をかく。Google, Amazon, Microsoft, Spotify, DeepL... MetaとXには払っていない、それだけが矜持。Radiko, Docomo, クレジットカード... コープさっぽろの1000円デポジットやSuicaの500円デポジットがかわいく見える。だってこれ、カード返却したら、帰って来るんだぜ。時と課金はただ去りゆくのみ、決して帰ってこないものだ。


『ほしとんで』というマンガがあり、しみじみおもしろいのでたまに読む。日々の暮らしの中で、なにかに触れ、なにかに怯え、なにかにぶつかり、なにかに立ち止まったときに心に「俳句をつくること」があるというのはじつにすばらしいことだなと感じる。尾崎流星も寺田春信も川上薺も井上みどりもいずれもすばらしいキャラだが秀逸なのはレンカ・グロシュコヴァー(日本人とチェコ人のハーフで日本語しかしゃべれない)の造詣である。さておき、彼女ら・彼らはときにふと気づいたことを手元のメモ帳やシステム手帳に書き込んで句作のネタとするのだけれど(こうやって書くといかにも俳句に対してまじめな学生たちが主役のマンガと思いたくなるがぜんぜんそういうわけではないのだ、ただ、全員がほどよくこじらせているだけである)、その、「もっか(目下)・書き留める」という仕草は、おもえばsub-scribeっぽくもあるなあと急に思った。サブスクリプションのサブというのは「文章の下」を意味し、この場合、スクリプトするのは署名であって、アイディアとか連想のタネとかではないのだけれど、もしや俳句になるのではないかと感じて情景や言葉のきれはしを書き留めるという動きのほうがサブ・スクライブとしてぐっといいものではないかと突然感じた。それはたとえばスマホに書き留めるものであってもおそらくいいのだろうけれど、スマホというのはフリックの途中で予測変換がじゃんじゃん出てくるのがよくない、あれには閉口する。まるで思索の行く末を最大公約数的に狭められたかのような「余計な口出し」のように感じてしまうのであった。


プレパラートのラベル欄にものを書くとき、一番いいのはえんぴつ。ボールペンではずるりと滑る。水性マジックをガラスに書き込みまくる病理医は全国にたくさんいるが、どうも私はそれが苦手で、なんというか、細胞のカンヴァスを余計なもので汚してしまうような気になってくる。だからいいのはえんぴつ。細胞に下から光を当てるための透過面ではなく、ラベルの部分の白バックに、えんぴつを少しだけ走らせて、「micropap」とか、「V(+)」とか、「コンタミ?」だとか、そういった、一単語未満のメモを忍ばせる。それらのメモは私以外の誰かほかの人にとってあまり見やすいものではないが、私はそのメモを書いている数秒の間に思考を撥ねさせて、その水滴がとびちった模様を見てまた少し別のことを考えたりもする。これもおそらくある種のsub-scribeなのではないかということを考えて、似たような概念がネットに転がっていないかと検索をかけてみるのだが、GoogleもChatGPTもきょとんとするばかりで私の思いつきにあまり色よい返事をよこしてはくれないのだった。

悪夢

記憶はおぼろげだがかつて、Number Girlの「シブヤRock transformed状態」(渋谷クアトロでのライブ音源)だったか、あるいは記録映像シリーズだったか、もしかすると「サッポロOMOIDE IN MY HEAD状態」だったかもしれないのだけれど、曲と曲の合間に会場の客のコールがそのまま入っていて、一瞬静寂となったところに

「ひっさっこっチャァーン…………………………好き」

というのが聞こえてきて会場がどっと沸くシーン、あれが好きだった。サッポロの解散ライブではラス前のアヒト・イナザワの冒頭ドラムのときに「アヒトォーッ」と響き渡るたった一人の女性の声、あの声だけはおそらくこの後も忘れることはない。ひさこちゃん好き男も、アヒト絶叫女も、どちらも顔も名前もわからない、25年近く前にライブハウスにいた20代くらいの人間たちだからおそらく私と同年代で今もどこかでSpotifyを聞いたりYouTubeを聞いたり、でももしかするとオルタナバンドブームからは足の遠のいた感じになっている、そういうかつての音楽好きたちなのだろう、けれど彼らの声だけは私の中にあの頃のまま、いや、増幅されまくりひずまされまくった状態で残っているのを不思議だなと感じる。


保坂和志の本を買おうと思う。


首ががちがちになってしまっており、横になって『本の雑誌』を読んでいるとそれはそれでまあ快適なのだけれど、ちょっと寝返りを打つために枕から頭を2センチほど上げようとするその動作が首にきつい。ロキソニンテープは多少利いているようだが結局横になり続けているのも苦痛なので起き上がって、やけに姿勢のいい感じのスタイルで、PCを引っ張り出してきてこれを書いている。平日、日中、さんざんっぱらPCに向き合っているからこその首の痛みのはずなのだが、仕事とは異なる理由でPCに向き合ってその痛みから少しでもラクになろうとしているという私の行動のすべては間違っている。間・違っている。間・違っている? 違っているのは間なのか? 違うという言葉に、なぜ「間」を冠するのか? 間とはこの場合、空間を指すのか、時間を指すのか、あるいは選択における「逡巡の間」を指すのか、はたまた放電するシナプスの間質を指すのか? 若者が「違くて」とか「違ぇーよ」と言うとき、それを「間違くて」とか「間違ぇーよ」と言うととたんに意味がまったく通じなくなるのはなぜか? 間違うと違うの違い。私の行動のすべては違っている、と書くのと、私の行動のすべては間違っている、と書くのの、違い・間違い。なぜ私はこのPCに向きあう自分の心の方向を「違う」ではなく「間違う」と評したのか。首がしびれて顎が強くひきしまって先月の歯医者のメンテナンスで歯科衛生士と歯科医師がくちぐちに「あまりに寝ている間の噛み締めが強いようだと、マウスピースとか、ボトックスとかもおすすめなんですけれどね、どうしますか」と言ったことを思い出す。そのとき、私は、「寝ている間のことなんてわかりません」と言った。そうすると彼女らは、こう答えた。「そうですよね でも 歯を見ると あなたが どれだけ 寝ている 間に 強く 噛み締めて いるのか が わかるんですよ。だって 奥歯に 縦に ひびが 入って いますし 歯と 歯の 間も ちょっと 苦しそう で」。少しずつ言葉がほどけて、もうすぐ私は、ミシシッピー連続殺人事件の登場人物のように、空間と空間の中に彫り込まれたかのようなひらがなで、たった一度ずつしか情報を出してもらえない、リピートの一切ない会話の間で身動きがとれなくなるだろう。


もういいました


さっき はなしましたよ


温泉の予約をとろうかと思ってサイトを見に行くがどこもかしこも満室でまるで空いていない。首のためにこのあとどうしたものかとしばらく考える。寝ていても寝返りで首が痛むし、眠りに落ちれば歯ぎしりが心配だ、起きていれば原稿を書きたくなって、最初は姿勢よく過ごしているのだが文字と文字の間で息を詰めて鼓動をまさぐっているとだんだん私は姿勢が悪くなっていく。姿勢という文字にはなぜ勢いが込められているのだろう。姿勢というのはもっと、勢いを殺してたしかな状態にすべきものではないのだろうか?

マンガ読んで終わる可能性もある

出勤後、だいたい9時くらいまでの間にいろいろと創造的なことを考えておかないと残り1日あっという間に終わる、ってやつかな!? みたいに、けっこういろいろ探っている。カチッカチッとスケジューリング、しないとみんなに迷惑をかけるし、したらしたでそれに縛られるのでそれもおもしろくない。緩んでいい時間帯と引き締めなければいけない時間帯。手が勝手に動く作業と脳が勝手に動く作業。こういったものたち。線の引き直し。収納のし直し。ニトリでコーディネート。カラーボックスがいいかアミカゴがいいか。分けたり仕舞ったり畳んだり開いたり。むすんで、ひらいて、対策を考えて実際にそのように行動して(=手を打って)、むすんで。また開いて、対策を考えて実際にそのように行動して(=手を打って)、いろいろあきらめてホールドアップする(=その手を上に)。

本を読む時間がほしい。趣味で読む本はもちろんだが仕事でもいろいろ読みたい、そういう時間がうまくとれなくなった。出張がしばらくの間少ないので、交通のあいだに本を読むことも減っているし、車に乗っている時間も増えているから難儀だ。オーディブルで『病理と臨床』が出たとしても、運転しながらでは図が見られないからなあ。それ以前に出ないだろうなあ。

阿部大樹先生という精神科医がいらっしゃって、でも阿部大樹先生のことは翻訳家と紹介することもできて、この方は前にタイムラインの犬のひとりが対談をしていて、それは不思議な時間の流れで空間がさんざめくようなおもしろいオンライン対談だったのだ。彼の書いた本『now loading』は、生まれた我が子がはじめて嘘をつく日までの日記、という建付けで、ドッヒャーおしゃれだなあーと思ったし、世界の切り抜き方というかエンボスで浮き出てくるものに対する触れ方というか、なんというか、肌の、触覚の部分をずいぶんと丁寧に用いた暮らし方だなあとほれぼれしたのであった。その彼が今度はみすず書房から、大著と言ってよいボリュームの本を翻訳して出した。


『なぜ誤認知は生じるのか、そしてその結果として何が起きるのか? 外交政策を決めるときにどのような認知エラーが発生するか? 政治にかかる信念体系、他者についての心証はどのように形成され、そして変更されるか? 手元にある情報から政策決定者はどうやって結論を引き出すのか、特に自分の見解と異なる情報ばかり集まったときには? これまで国際関係論や心理学の専門家のあいだで十分に議論されてこなかった大きな問題に分け入り、戦争はじめ対外政策の決定因子を「政策決定者」を中心に分析した重要作。1976年の初版刊行以来、本書は多岐分野にわたる基本文献として読まれつづけ、各国政府の公式文書にも引用されてきた。2017年刊行の新版で、著者は膨大な序文を付し、近年の事例や研究動向についても詳細に言及している。 半世紀にわたり大きな影響力をもってきた研究書新版の日本語版を、ここにおくる。解説・山田朗』


https://www.msz.co.jp/book/detail/09799/


まあ私が読んでもわからないんじゃないかという懸念はある。しかし読んでわかるかもしれないではないか。それに、わからないままでも読み進めたくなるタイプの本もけっこうあるし、わからないなりに自分の歩いている方向というか角度が少しずれていくような本もある。わかりはしないがわけられてしまうこともある。腑分けまでは至らないがいいわけくらいは出てくるかもしれない。購入。そのうち届くだろう。まあ、今月の『本の雑誌』すらまだ読んでいないような生活なので、届いたところで読むまでは膨大な時間がかかるだろうが、幸い、今われわれが生きている世界線には、正月という画期的なシステムも存在する。



ネクタイも毎日つけることにした

幡野さんの写真を2枚、職場のデスクに飾ることに成功した。



「陣地」をちょっとずつ広げていく。飾りたいものはほかにもある。おかざき真里先生のイラストレーション。ROROICHIさんのペン画。フラジャイルのアクスタ。ただ、あまりに急に職場を私の「元の色」に揃えてしまうのも、まわりはびっくりするだろう。目立ちすぎないように。はしゃぎすぎないように。急ぐ必要はない。ほどほどが一番だ。

そうやって躊躇をしている間に、おそらく、私の色は変わっていく。


「私の新しい勤務先の、他部門を2年ほど前に退職されたものの、まだばりばり現役でやられている医者」から、私の赴任にあわせて連絡があった。私のことをよく知っているという。一度会って挨拶がしたいのだという。さあ、どのジャンルのことをご存知なのか、画像・病理対比か、教育か、あるいは消化管病理とかそっちのほうか、と思ったらSNSだった。ちかごろそういうパターンは逆に珍しい。SNSで有名とは、SNS上でアプローチできてしまうという意味であるから、リアルのやりとりを待たずともすでになんらかの形で知り合いになっているケースがかなり多く、SNSをきっかけにリアルでの会話・付き合いがスタートするなんてことは、ここ何年も、私のコミュニティの内部や縁辺ではあまり生じてこなかった。しかし、主たる勤務先が変わったら、力場・重力場みたいなものが微妙にずれたようだ、ほうぼうから「かねてより有名だった市原先生が」「かの有名なヤンデル先生が」みたいな、とっくの昔にこすり終えたと思っていたアプローチをがんがん受けるようになった。私自身はまだ変わっていないのだが、私の一枚背部にあるレイヤーが入れ替わると私の見え方はだいぶ変わってしまっているようである。補色の関係みたいなものもおそらくずれていて、これまで私に塗られていた色の一部は埋没し、一部はこれまでよりも際立って見えることになるだろう。


さまざまな事務・連絡・調整を引き受けている職場の先任者たちはいずれも優秀で、たくさんの色を放っている。その色を随時私が引き受けていくことになる。ただしおそらく私の表面を覆っているごつごつとしたテクスチャは、一部の色をはじいてしまうし、一部の色は思っていたのと違う感じで染まってしまうだろう。色をそのまま引き受けるというのはとてもむずかしい。私はなるべく自分がそこに入ることで何も変えたくないと願っているけれど、色というのはいつでも加算と乗算だけされていくもので、アドビのイラストレーターのようにコントラストを下げたり透明度を上げたりというのは基本的にはできない。すなわちファクターが加われば加わるほど色は一方通行に濃くなりくすんでいく。それをわかった上で、できるだけ見た目のバランスが変わらないように自分の色を重ねていく、なんていうのはそうそううまくできるものではない。ならば私はどうするかと考えて、たとえば、背景のパッチワークの一部の素材をそっと入れ替えてしまう、みたいなことをする。それまで置いてあったアーキテクチャは何も変えないまま、背景を微妙に入れ替えるだけで、そこにあったものたちはまた違った見え方を発揮するだろう。それとて、いい方にばかり転ぶとは限らない。


もちろん、線画から書き直すという手もあるにはある。全国の大規模な施設を見ていると、人が入れ替わるごとにモチーフごとごっそり入れ替わっているということもしょっちゅう起こっている。ただ、こと、私の新しい職場にかんして、私はそこまでの権限を持っていないし、この美しいフォルムもカラーリングも私がおいそれ変えてしまっていいものだとは全く思わない。思わないが、しかし、自分がいてもいなくても全く変わらないまますべてが進行していくとなるとそれはそれで悔しいし甲斐もない。結論として、すでにある立派な絵画の、はしっこのほうにこっそりサインを書き足しておく、くらいの小さな活動から今ははじめている。たとえばそれは、廊下ですれ違うあらゆる職員・学生に、元気に挨拶をしてみる、くらいのことであったりする。

選択圧の抜け道

しまほっけの一夜干しは2尾入り。1尾をキノコとネギと一緒に焼いて食い、もう1食はラップにくるんで冷凍する。こうして時間をずらすことでなんとかほどよくやっていく。昨日、魚を買ったとき、今日の夜に歓迎会があるということを完全に忘れていて、2日で2尾を食べるつもりで食材を買い込んだ、それがこうして冷凍という技術によってなんとかなってしまっていく。

なんとかする。なんとかなる。なんとかなってしまっていく。

ニトリで買ったステンレスのやかんはお湯をわかすと金気がまじる。検索すると、ニトリのやかんには化学物質がまぎれこんでいると大騒ぎしている人が何人かいて、一度そうやって気にしてしまうと世の中は何もかもが気になってしまうだろう。たとえば、本人が金属とか化学物質に対するなにかよくない反応だと思いこんでいるものは、じつはまったく関係がない別のものに対する体の反応であるかもしれず、しかし、それを「化学物質のせい」と解釈するに至った人生の紆余曲折みたいなものを、他者がおいそれ否定することはできなくて、それはその人の生き様に対しての明確な真実となっているのだ。ともあれ私のやかんはお湯でくさくなる。これが私の嗅覚とこのやかんならびにお湯との単なる相性問題である可能性はなくもないのだが、対処できない話でもなくて、本日、仕事の帰りに重層じゃなかった重曹でも買って帰って一晩浸け置きにしよう。

重層・扁平上皮。かつて、重層しない扁平上皮なんてあるのか、と思ったが、squamoid(扁平上皮然とした・扁平上皮もどきの)という言葉・形態が近ごろは気になっている。それは先天性嚢胞を裏打ちしていたり、化生の過程で出現したりする、「縦に積み重なる気はないが横のすきまをふさぐ気はある細胞集団」だ。Squamoidな細胞によって被覆された部分というのは、線毛があるわけではないので内部の液状物の輸送効率はよくないし、というか、そもそも中には行き場を失ったなにかが鬱滞してしまっていることのほうが多くて、ときにこのsquamoidな細胞はepitheliaではなくてmesotheliaであったりもするがしかし、上皮と中皮とは似て非なるもので中皮のほうはむしろ隙間をまれに許容するように個人的には感じている。そういった細胞の話をひととおりこすり終わった先達が、熟慮と反復と摩耗の末に選び取った言葉が重層・扁平上皮、これを英語で毎回stratifiedと冠するかというとそういうわけでもないのでおそらく本邦の組織学・解剖学の伝統みたいなものなのだろう。

こういったことを理解しながら忘れていく。気にしながら無視していく。「先月、ご相談した症例があったじゃないですか」。ごめん、覚えていません。「昨日、ご相談した症例の話なんですけど」。ごめん、覚えていません。仮住まいのスタンプラリーのような思索によって、カリスマ医と呼ばれた男はもはや気絶してぶらさがるだろう(スタン・プラリー)。この日◯終わり、悲しきかな! ◯は地球のことだ! 「だろう」で終わる文章を書いているといつも、ノストラダムスの大予言やのび太の大予言を思い出して、世紀末の頃の、あまりそういう社会の雰囲気とか人間同士の食べ合わせみたいなものに興味のなかった自分の、網膜の働いていなさ、そうすることで多くの刺激から自然と身を守っていた思春期の人体のしたたかさ、そこにほどよく入り込んできたドラえもんの構成のうまさに今更ながら感服する。なんとかする。なんとかなる。なんとかなってしまっていく。

名前のついていない家事のように

洗い終わった食器を、水切りラックの上にのっけて水気を軽く切ってから、ふきんで水気をふきとって、シンクの邪魔にならないところにならべて完全に乾くのを待つ。

それに似たことをする。

自分の元にやってきた出来事、困った出来事、尖った出来事、豪速球のような出来事、びっしょびしょに濡れた出来事。これを、段階を踏んで乾かして、収納しやすいように処理するということ。

水垢がつかないように。

水切りラックにカビが生えないように。

到来したあれこれに、ただちに善悪とか是非の評価をすることをやめよう。さりとて無分別にゴミにしてしまうのもやめる。順を追って保留しよう。そういった態度でいるようにしよう。生活に落ち着きが出る。

近頃は誰もが発達障害がどうとかADHDがどうとか素人のくせにやけにべらべらと「認定」をするようになってしまってやりにくい。そんな簡単に、ただちに整頓してしまいこむから細部が失われて嘘が増えていくのだ。

自分に向かって突進してくる剛速球を直接ミットでキャッチしようとしてしまう欲望を少し抑える。何段階かの緩衝材に激突させながら減速をかけていく。

そういう心構えのほうが世界の進む速度が少しゆるやかになるのではないかと思う。



「今、本当に時間がないんです」。1年以上私の依頼に返事を返さない大学のスタッフがこう言った。頭を下げるでもなく、口角を少し上げたままで。彼が「時間を割く」ことはおそらく今後もないだろう。なぜならば彼は私の催促に対して「この場でこのように応える」ことをすばやく選んでしまう程度の男だからだ。仕分けのスピードに言い訳のスピードがきちんと追いついている。彼は悪びれることもないだろうし、なんなら、私の催促が「空気を読んでいない」「自分の仕事を知れば、催促自体がよくないことだとわかってくれるだろう」と考えているふしすらある。

そういう人間といっしょに仕事をすることもある。いい、よくない、ではない。水気を切りながら保留する。彼が仕事を止めていることで、いくつかの臨床医に迷惑をかけているが、その責任を彼だけに追わせることも、また私が代わりに引き受けようとすることも、拙速なのだろうと思う。ふきんを取り出して水気をぬぐう。シンクにならべる。りんごなど剥いて、食べてしまおう。お茶を入れて少しのんびりしよう。2時間後、眠りにつくころに、乾いた食器たちを棚にしまおう。でも、棚のとびらは少しあけておいて、明日の朝になったらそこであらためてとびらを閉めよう。段階を踏む。少しずつ乾かしていく。それでもなお、水気の残ったものたちについて、私はじっくりと向き合ってその水気と同化していくことになる。

さいごのカギを獲得したあとのアバカム

あまり頻繁にはやりとりをしていない人からぽつりと手紙が届いた。郵便ではなく宅配便になっていて、小さな品がいくつか入っておりそのどれもが絶妙に必要ない。気の利いた贈り物だと思った。宅配便の伝票に私の知らない携帯電話の番号が書かれていて、それを私はいちおうメモしておいた。

何ヶ月か経ち、ふと思い立って、その携帯電話にショートメッセージを送ってみると、送信後にすぐに小さな赤いバツ印が表示された。無効な番号なのだろう。しゃれが利いているなと思った。

燃え殻さんであればこういった話をとてもふくよかに一遍の随筆にできるだろう。一方の私はただざわつくだけだ。おもしろいことがあったよと、人に言うほど起承転結が、生じているわけでもない、それは偶然と蓋然の積み重ねでできた落ち葉の山が風に吹かれてほろほろしなだれかかっていくときの、粉っぽい空気の、ざらつきの、鼻孔の奥の引っ掛かりのようなもの。


夜が明けて4時間も経つとノートPCの向こうから差し込む光が強くなって、モニタが逆光気味になり目の周縁で光の意味がひっくり返るように思えた。レースのカーテン越しにワイシャツの胸元を照らす陽光の、照り返しが顎からメガネの裏に入り込んできて、少しまぶしい。ホテルのディスポーザブルのスリッパは薄く、足の裏に古いカーペットの湿気が伝わってくる。旅先でしか使わないマウスの反応が弱く、今日は何もかもが不十分な日なのだと納得をする。テレビをつけていないから星占いも見ていないが、今日、たとえば一行、「期待しすぎかも」と書かれていたら私はうなずくだろうし、「見逃さないで」と書かれていたら私は少し目を見開くだろうし、「乾燥しやすい」と書かれていたらマスクを新しいものに変えて、「はじめるなら今日」と書かれていたら覚悟を決める。ただ、いちおう反論をしておくと、期待はしないし、見逃すようなものならその程度だし、乾燥はしていないし、はじめるのは今日ではない。それでも星占いくらいにどうでもいい距離感から投げかけられた言葉を私はどこか愛せる。

それはこの20年で、もしかすると、私が手に入れたもっとも汎的なスキル。レベルが上がれば上がるほど、手に入る魔法が強力になるという、ドラクエのシステムに私は長年疑問を持っていた。それはフリーレンの世界ではうまく逆張りされたなと思う。魔法というのは、だんだんどうでもよく、マニアックに、使い道の微妙な方向に研ぎ澄まされていくものであるべきだ。それは科学においても言えることであろう。

私は現在レベル47だ。たいていのゲームだとそろそろラスボスと戦う資格が出てくる。メラゾーマやベホマズンくらいは習得できそうな雰囲気もある。しかし現実の私が近頃手に入れた魔法は、「占いが楽しく読めるようになる」とか、「胸の苦しさを水だけで解消できるようになる」とか、「懐かしい人の顔を適度に忘れても悲しくなくなる」といった、使い道がなく味わいやすいものばかりである。レベルアップというのはそういうものである。スキルアップなんて恥ずかしい言葉を同義と思っていてはだめなのだ。

下品

Xで、私がフォローしていない人間が私の異動についてポストしていて、笑ってしまった。そういうことをするとわかっているから私は彼をフォローする気が失せる。

ゴシップ。うわさ。コネ。出処進退。世の中で語られることのほとんどすべては人事だ、と、プチ鹿島局員(東京ポッド許可局)は言った。私は膝を打つ以前に「はぁー、これはなんとも、世に失望するためにひどく便利な言の葉だなあー」と感心してしまった。たとえばプロ野球に関する話題、先発投手のローテーション、スタメンを固定するか動かすか、中継ぎのタイミング、最近調子のいい打者は誰か、代打のタイミング、監督の采配への物申し、たしかにこれらは、どれもこれも大雑把にくくれば「人事」であろう。永田町、万博、芸能、メディア、なににつけても言えることだ。飲食、旅行の話題ですらも、人事の香りにつつまれることは多い。あるいは学術とか医療に関する話題すら、どの講座がうまくやっているとか、誰が上についたから下は大変だとか、業績を誰がどの順番に出すかとか、研究費がどうとか大会長がどうといった「人事」の話に、確かに吸収されていく。

私たちはいつだって、人に関することばかりつぶやいている。それをプチ鹿島局員はスポーツ新聞から経済新聞までを全部読み切るいつもの作法で「すべて人事」と呼んだ。私はそうやって人事の話ばかりしている人間の多くを、できればそう頻繁に網膜にうつりこまないように、角膜にあらかじめ頼み込む。「ぼかしてくれ、まびいてくれ」。

人事について語る私は実際ひどく下品だ。その下品さを飲み込んでなお、大切なことだからつぶやいているのだと、うそぶくとしたら私は単にうそつきだ。大切ではない。どうでもいい。下劣であることに開き直ったらおしまいだ。

人と人の間に暮らす私たちにとって、人・間のことを語るのが日常になるのは当然のことだ。しかし、必然ではない。人の間に提示して、彼我がそれぞれ眺めて語り合う、キャンプファイヤのようなものが、いつも人のことばかりというのは、おもしろみに欠ける。だらしない。パッキンが緩い。もっとほかに語ることがあるだろう。あれかし。「そちらを選ばないこと」に対して、風にさからって胸を張るように、堂々としてみてもいい。

人の間に暮らして人のことだけ語るなんて。



朝から晩までメールをしている。その大半が人事の話である。がっくりする夜、たしかにある。しかしそれでも、あらがいたい。世の背景にある法則を見つけたいなどと、哲学者や科学者を気取るつもりもないが、世にあるひとごとならぬ事が人に関するものばかりだなんて、小部屋の中のさらに檻に押し込められた獣のようで、頭をかきむしりたくなるではないか。

頭蓋骨の開いた夢

懇親会の最中に軽口の一貫として、「この会に出るといっつも夜に悪夢を見るんですよ。前回は下半身が腰まで消失するユメを見ました」と言って失笑を買った。そして よが あけた。本当に、また、悪夢を見た。私の顔は奈良美智の絵に出てくるようなパースになっていて、頭蓋骨が、陰陽のまがたまのようなゆがんだ曲線に沿ってぱっかりと左右に割れているのであった。中心で割れているわけではなくて、やや脳の左側のほうが多めに露呈している。私は思う、硬膜はどこにいったのかと気になって、そばにある人間の手を掴んで自分の脳の表面に押し当ててみる。目に火花が飛ぶとか異音がするとかいった入力エラーは一切起こらず、UFOキャッチャーで獲得する以外に入手の仕方がわからない謎の材質のぬいぐるみのような不思議な触感が人間の手を通じて感じられた。ああ感染の心配はない、しかし、歩いているうちに何かがこぼれそうなので、少し右にかしいだ状態で、ふるめかしいメトロポリタンホテルの鎧格子を左右にかきわけて私は石畳の道をうろうろとする。そうして目が覚めたとき私はあまりにわかりやすく自分の頭蓋を、もちろん自分の手で確認して、やっぱりユメだったのか、と確認して、それきり目が冴えた。猛烈な勢いで飛び去っていくユメの中身を、上顎洞のあたりでぼそぼそとつぶやいて、何度かこすっているうちに、いつもは急峻に忘れていくはずのユメを今もこうして文章に書けるくらいには記憶することができ、ああ、海馬のカオスエッジを超えて斜面のこちら側に落っことすことができたのだな、と安堵した。

つまりはそういう夢を見るくらいに私は疲れていた。研究会では私の新しい職場の話など一切しなくてもよく、症例のことを何時間も語り合っていればよい。そして懇親会では他大学の教授や地域の重鎮たちと、「枝葉を細かく記述していくだけの作業から、いかにして幹を探り当てていくか」というような、かなり難しいことをやろうとしていた、廃れつつある画像系研究会の最後の矜持みたいなものに関して、世を徹して語り続けた。滅びの美学だとか思い出がたりにならないために、若手を勧誘したいねーみたいな中身のほとんどない中年トークを乗り越えて、自分たちが今なお最前線で若者のようにチャレンジし続けるためにどこからどう取り組んでいくかという話を、大して食い物も入らなくなった消化管に舌打ちをしながら弱いつまみを放り込みつつ延々とこねくり続けた。

私は解剖のことを考えている。腑分け。言別け。ヒトの残骸をディールする。それは常に枝葉をかきあつめて火を付けるような作業になる。必要なのは常に幹に対するリスペクトであり、しかし、森を見るために木からはじめ、根の周囲のマイクロビオームから森をおしはかるような転倒の先に、私はみずからの技術と使命の使い道を見ている。

チェックアウトは11時だ。飛行機はその後でも十分に間に合う。6時に目覚めた私はそれからずっと、大学から送られてきた来週金曜日の研究会症例の解説スライドを作った。できた。葉脈に指を這わせるようなスライド。メイリオに飽きて髄液を吐く。Ki-67すら施行されていないプレパラート群。H&E染色にルビを振る。増殖と分化のみだれ、正常からのかけはなれ、X-Z軸で観察しきれないY軸方向の情報を、液性因子の痕跡を、沈着物の気まぐれを、You canと読み替えることもできるような炎症性発癌的矛盾を、語りの数々を読みやすいようにルビを振る。いつか教わった話。明日教わる話。これらをまぜこぜにしながら、まだ、読みたいと首を伸ばして待っている、頭蓋骨のぱかりと開いた人間たちのためにルビを振って音読をする。

食材は同じでも

目覚めて久々に「もう朝か」と思った。新しい職場の仕事の圧は強く、腹は凹み、目は落ちくぼみ、右手の親指の爪の横の部分から表皮常在菌が皮下にもぐりこんで膿瘍を形成した。しかしこれだけ疲労困憊であちこちガタが来ているのだけれど飯はうまい。有給の取得日数が足りず出張のたびに給料を引かれるシステムの懸念は尽きないが、年下の先輩が切り出す手元をじっと眺めているとその合理的な角度、目のさばき方、どこまで記憶してどれを口ずさみどこからを書き込むのかのバランスなどいずれも見事でほれぼれとしてしまう。悪いことといいことが混在する。形質混在。私は形質混在を見抜くことを仕事の真ん中らへんに置いている。そのように、自分もなった、ということなのだろう。あるいは今までも十分に混在した生活ではあったのだが、長年同じ場所にいたことで、細かく秒刻みで自分のありようを場に応じて切り替えることができるように順応しており、それが異動に伴ってリセットされて、本来のしんどさに回帰した、ということなのかと思う。

ともあれ最近は飯がうまい。自分で作る飯が特にうまい。とはいえこれらはすべて家人の見様見真似なので私が偉いわけでもすごいわけでもなく配偶者が偉大なのだ。同様のことはあちこちの仕事場でも経験される。さほど年数の高くない若手が妙にしっかりした診断を書くなあと思ったとき、その界隈で本当に優れているのはそいつに背中を見せていた病理医のほうなのだ。料理と病理の違いくらいであとはまったく同じ構造だと思う。


紙ゴミをまとめるための段ボールがほしい。

共有スペースのゴミ箱までいちいち捨てに行くのが面倒なのでデスクの脇にもゴミ箱を用意したい。

ストラップひとつだと不便だ。IDカードとスマホ、それぞれにストラップがほしい。

はさみがない。

これらすべて、おそらく、事務担当の方に告げればそのうち手に入るのだろうと思うが、それを待つだけの余裕も気まぐれも存在しないので今週末自分で買いに行こうと思う。


ほぼ日手帳を遅まきながら購入。今年の「おまけ」はいつもの書きやすいボールペンだけではなく、ロボットのかたちをしたペーパーウェイトであった。職場でこれを使う場所がないのでひとまず家に持って帰って、キッチン横においてあるメモ帳の上に暫定的に載せておく。異動の前後でこのメモをずいぶん使った。まだしばらくは使うから、このロボットも、当分の間は私によってつまんでもちあげられたりまた置かれたりを繰り返すことだろう。


夜もだいぶ遅い。もう寝たほうがいい。明日は出張だ。しかし気が高ぶっていて、髪もまだ乾いていなくて、ベッドに入る気があまりしないのでこうしてブログを書いている。順応していない日々、ままならないことがたくさん増えて、あの学生も、あの新社会人も、みんなこういう気持ちになっているんだろうなと、今更ながらに私は自らのここんとこ5,6年がいかに恵まれていたのかということを思い知る。同じ場所にずっといたほうが人間ってラクなんだよな。それでも、飛び出していってしまうのだから、始末に終えない。なにより、近頃は飯がうまいのだ。同じところにずっと通っていて食っている飯は毎日同じ味がしていた。今は、違うのである。

初日が出ました

前の職場のとある内科医が餞別にとLIFEBOOK UH keyboardをくれた。びっくりした。私がHHKBを持て余しているのを見ていたという。あのキーボードは高かったのだがキーの配置が極めてMac的で、長年Windowsを使ってきた私にとってはなかなかしっくりこなかった。半角と全角の切り替えやかな入力にヒイヒイ言いながら原稿を書いていた私を苦笑しながら眺めている人は幾人かいたが、まさか退職のおみやげとばかりにキーボードをくれるなんて。「中古だから気にしないでください」とのことで「とはいえお高いんでしょう?」と思って検索をかけてみると実際たいした値段ではないのだ。それがかえってありがたかった。私の後任の病理医は私よりも専門性が高く、かの内科医にとってみれば私よりもよっぽど頼りになる新任がやってきたということで、もはや私にかかずらっている場合ではないと思うのだが、心遣いがうれしい。

というわけで新しいキーボードを接続し、前の職場で使っていたデュアルモニタを復活させてこれを書く。快適。順調。すいすいだ。ここしばらく使っていたノートPCのキーボードよりも「小さい」ことがちょっと気になるけれど、順応は早そうだ。よかった。ありがたい。


今度の職場は今までの職場よりも1時間45分早く職員玄関がオープンする。IDカードがあればなんとでもなるのだが、そういう一手間をかけなくともすいすい入れる時間がこれまでより長くなるというのはとてもありがたい。初日の出勤、うきうきしすぎて、予定よりも2時間早く到着してしまった。まだIDカードをもらっていない。駐車場のパスカードもまだだ。おまけに現時点でルーティンのローテーションにまだ組み込まれていないからこんなに早くやってきてもあまりすることはない。事務的な書類をいくつか書く。


……いくつか? いくつかかな? 少しぞっとして確認する。それなりにある。それなりだ。引っ越しよりはるかに簡単だ。こういう事務仕事はひるんでいる暇に少しでも進めていく、とまどっていても手足だけは動かす、それがなんらかのコツなのかなという気はする。このコツがあったからといって魚がうまく焼けるわけでもないし足が長くなるわけでもない。放射線業務従事者の申請を出してください。えっ、これまで22年間使ったことがないけどこの申請ほんとうに必要なの? とかいろいろ考えずにとにかく言われた通りに書く。考えてはいけない。反応するのだ。それがAI時代の正しい人間の生き残り方である。LLM時代だってことは十分にわかった上でこの文章を書いています(人力で)。

感情囲繞

クッキングシートを使ってシャケを焼いたら脂がいいかんじでまわりのキノコとなじんで絶妙にうまい料理になった。ピーマンの種もろくにとってなくてかろうじてヘタを外しただけ。ブナシメジだって洗ってやしなくて石づきを切り落としただけ。シャケに至っては味付けゼロだ。それでうまいのだから笑ってしまう。食後にはお茶など入れてみた。明日は梨を切ろう。週末には妻に料理の練習をしてほしいと伝えて約束をした。新生活で考えることが多い。メールアドレスも変わった。顕微鏡も変わるのだ。デュアルモニタもどう配置したものか、まだ出勤していないから、私の車の中にはアームのつながったモニタがそのまま積んである。

気忙しい。夜もぜんぜん眠れないのだ。興奮している。ああ、お茶を飲んだからじゃないのか?

本を並べ替えたりCDを並べ替えたりもする。レコードプレイヤーを買い直す気にはならなくて、Zの「御壁」はさすがに部屋の単なる模様になってしまっているけれど、今朝はひさびさにSmooth Aceをかけてみた。大学院時代に持っていたCDの多くは紛失したがなぜかこれは残っていた。そういえば高校の同級生で青山に行った男がLOVE PSYCHEDELICOの一年後輩だと言っていたなと急に思い出す。彼はあやしい医学にはまり、そういうのにどう対処していいかわからなかったころの私は不機嫌になってそれっきり没交渉になってしまった。SNSではそつなく人をこなしていけるのに、なぜこうも、リアルだとうまくいかないのだろう。

壊れていたCDが直っていた。昔、これをかけたら必ずこの箇所で音が飛ぶ、その飛び方ばかりが記憶に残っていたあの曲が、なんのひっかかりもないまま……と思ったら昔とはちがうところでやっぱり音が飛んだ。おもわずキータッチする手をとめてニンマリとする。

さあこれからの話をしよう。

まず私は勉強をしようと思う。それも猛烈にだ。極く集中してこれまで診断してこなかった臓器についてもしっかり人並み以上に会話ができるようになりたい。診断くらいならなんとかできる、目指すは臨床医とまともに治療の話ができるくらいまで練り上げることだ。次に、新たに胆膵領域の勉強会に二つ出ることになった。これは縁がつながったとしかいいようがない。本来18年前からやっていてもよかったのだがつながるのにそれだけの時間を要したとも言える。ようやくたどりつけた、という気もする。そして消化管病理の世界、そろそろ大きい仕事に取り掛かろう。人を集め、その真ん中で存分に踊るべきである。遅いくらいだ。しかしまだ定年まで17年ある。私はちょうど、今年、折り返しだ。ならば遠慮はいらないし尻込みしている場合でもない。そういうことをきっちりやりつつ、病理学全体を包括する原稿をいい感じで温めてきた、これをあと1年で書き終わろう。今の新しい生活はこの原稿を確実にふしぎな方向に引っ張っていく。自分の指から想像もつかない文章が出てくる瞬間をじりじり待っていた。これは、おそらく、書けるなという予感がある。ついでに新しい教科書にも着手する。これも縁あって声をかけてもらった。教育的な本というのは自分が学ぶために書くものだ、少なくとも、今の私にとっては。

よし、これからの話は十分だろう。いよいよ過去にこだわることに戻ろう。

高野雀のマンガ『13月のゆうれい』が不思議だった。余韻が長い。もはや私の息子・娘であってもおかしくない……というと言い過ぎだが、息子・娘の先輩、くらいの年齢の男女がそれぞれ微妙な恋愛をする、みたいな話で、読み始め、私は一切感情移入できないだろうなとぼんやり予想していたのだがさにあらず、なんと、移入はしないが囲繞をするのである。十重二十重に取り囲んで大事に守ろうとするのだ。なんておもしろい読書なんだ! そんなことがあるとはなあ。親目線、とまとめてしまうとニュアンスがちょっとずれる。どちらかというとオタク言うところの「壁目線」なのだろうが、しかし、登場人物たちをハラハラと包み込んで大事にしてやりたいと感じている自分の心の動き方に、ああそうか、今の私は、もしかすると機嫌がいいのだな、と思った。ちなみにまだ退職金が入っていない。

すばらしい日々

ぐっと肌寒くなり窓の外がなんとなく灰色ベースだ。グレベ。午前中はだいぶ風雨が強くてうんざりしていたけれど、今はすこし穏やかそうに見える。短い秋に所在なく、壁のマグネットの角度を整え、ケーブル類のほこりを落とし、カレンダーを丸める。明日で退職だ。病理の自室では、手元の筆記用具とオンライン会議用のヘッドセット以外、すべてを片付けた。医局の机はすでに完全に片付いており次の医師を待って空虚になっている。

かつてクラファンに用いたメールアドレスに思想の強そうな映画の告知が届いた。

やることが少なく、今日、手持ち無沙汰だ。依頼された原稿は複数あるが、さすがに今の腰掛け的な環境で、原稿を落ち着いて書くことは難しい。あと数週間は塩漬けにする。これは依頼を受けたときからいちおう計画していた。とはいえ心の積荷が軽くなるわけではない。

ノンシュガー果実のど飴の成分表示を見たら、ひとつぶ4.3 gあたり糖質が4.25 g含まれていると書いてあった。還元水飴の成分はほぼ糖質、なるほど。ではノンシュガーとは何なのかと思うわけだが、そこは無論、「糖質 糖類 違い」みたいな話があって、デンプンとショ糖はちがうだろ、みたいな議論がはじまっていく。途中から興味をなくす。理路整然と書かれた「正解」ほどつまらないものはなく、読み方によって多様な意味が飛び出してくる文章じゃないと眠気に勝てない。

学会から登録してある職場情報を変更をせよとのメールが届く。

プロキシを通さないと送受信ができないメールを18年使った。病院を出たらもうこのアドレスは使えない。3か月ほどかけて、各方面に、これからはGmailに送ってくれと連絡を飛ばし続けた。その甲斐あって、今日、ほぼ、Gmail以外にメールは来ず。かわりにスマホが1日中震えるようになり充電が持たなくなった。来週は機種変更をしよう。月、火、休みが2日ある。有給はあと21.5日残してしまった。退職が決まった日にはたしか45日残っていたから、ここしばらくで、だいぶ使った。学会があれば有給、荷物が届けば有給、車検で有給、美容室で有給。これくらいのほうが暮らしやすいと知ったころにはもう退職だ。

マウスを落とした。日々が入った。

白衣の返却。これ、仕事中にはほとんど着なかった。院内の食堂に飯を食いに行くときには必ず着用した。ふつう、白衣というのは仕事で汚れるので、食堂には着ていかないというのがマナーとされるらしい。しかし院内で私の仕事はそれなりに知られており、「あいつの白衣は別に汚くない」ということもそこそこ周知されていたようで事なきを得た。新しい職場で支給されるスクラブや白衣、できれば着ないで過ごしたいが、そのようなわがままが通る職場なのだろうか。まだそのあたりのニュアンスは、誰にも聞けていない。

来し方をおしはかり行く末をふりかえる

まあちょっとめでたいっちゃめでたいのかな、と思ってビールを買った。近頃は「金麦 75%オフ」しか飲んでいないのだがひさびさにキリンのラガーにした。味が濃い。主張が強い。途中でいやになってしまった。私はもう味の濃いビールはそんなに好きではないようだ。金麦のスッカスカの炭酸水みたいな味がちょうどいいようである。体の周りに生えていたトゲがどんどん取れて、代わりに毛玉がぽこぽこついて、それはまるで大長編ドラえもん・のび太の恐竜に出てきた「キャンピングカプセル」のような感じで体表面に生息している。周囲を傷つけることなく、自分が少し貧相なかんじになる、そういう変化がきっちりじっくりと私を包んでいる。ビールがどうでもよくなる日が来るなんてな。

かつてのあれは、今ならどういう味に感じるのだろうか。懐かしい料理をいくつか思い出す。たとえばカネサビルの2階の奥の「つくしん坊」の米々チーズ。かますチャーハン。「ばっぷ」のコーヒー焼酎。マイヤーズ・ラム。歴々。面々。雰囲気も味も覚えている、忘れたことなどない、しかしこれらは、きっと、25年かけてぐいぐいとゆがんでいる。水曜どうでしょうをかつてテレビで見ていた、あのころの画質をたとえばYouTubeなどを駆使して現在のモニタに映し出すと「こんなに汚く粗かったのか」とびっくりしてしまうわけだが、記憶の中の感覚というものは経年美化してバランスも整えられ色彩もうまいこと調節されている、そういう味わいの数々を今の私が口にしたら果たしてどういう感想を持つのだろうか。

あのころ別にうまくも感じなかったブランデーを今飲むとおいしく感じてしまうのだろうか。


解剖に関するちくまプリマー新書を読んでいたら懐かしい話が出てきた。脳神経、12本の覚え方、というやつである。私は長年、「嗅いで視て、動く車は密の外、ガンジー絶倫冥福でっか」とおぼえてきた。嗅いで=嗅神経、視て=視神経、動く=動眼神経、車=滑車神経、密=みつ=三叉神経、外=外転神経、ガン=顔面神経、ジー=内耳神経、絶倫=舌咽神経、冥=迷走神経、福=副神経、でっか=舌下神経。しかしものの本にはどれも「ガンジー絶倫」とは書いていなくて、「顔耳のどに迷う副舌」とか、「顔聴くのどに迷う副舌」みたいなものばかりなのだ。たしかにガンジー絶倫はちょっとどうかと思うが、「副舌」なんてもはや覚え方でもなんでもない、音というかゴロだけのフレーズではないか、つまらない。じつは絶倫であったガンジーが天寿を全うしたんでっか? と大阪のにくめないおっちゃんが疑問形でたずねている空気がいいのに。なぜこれは流行らなかったのだろう。私が作った語呂だが北海道大学の後輩にもきちんと伝えたはずなので、27年とか経てばとっくに全国に広まっていてもおかしくなかったのに。私の本来の影響力なんてのはその程度のものなのだろう。


昔のことをつらつら書いているとブログというのは書けてしまう。しかし、本当は、現在のこと、そしてちょっと未来のことを書いたほうが、世の中的にはウケるしPVも伸びるし金銭的なうまみも出てくる。じっさい、あちこちのnoteやブログを見ると、売れっ子の書くバズコンテンツは基本的に現在や未来のことで構成されており、過去に触れられているとしてもそれはあくまで「現在につながる思考の枠組みや骨組みを取り出すための素材」として取り上げられているにすぎない。過去そのものが茫漠と霞んでいくときの、風がきしむようなさみしい音、そういうものをもっと読みたいと思うのだけれど、バスを待つ夜、飛行機の中、スマホをフリックして次々と読み捨てていく記事のどれにも、後悔だけで紡がれたきれいな織物や、韜晦だけで彫られた鋭い観音像などはちっとも出てこない。それは私たちがまるで、かきすてながら、かきすてながら、暮らしてしまっていることの証明なのではないか。それでは私たちはあたかも、誰にも気づかれないところで瞬間的に明滅する、月も出ない秋の夜の遠雷のようではないか。

聞くな

追い込み、という感じでさまざまな手続きを進めている。一番面倒なのはおそらくPC関連だ。職場で使っていた一部のイントラネット系のデータは持ち出せないから、これはもうあきらめるしかないのでかえってわかりやすい。しかしインターネット系はむずかしい。接続し続けられるものと、職場を離れたらもう接続できないものとが中島みゆき「糸」のように絡み合っている。ときほぐすのが大変でキーとなる。そういえば私が30代だったころ、たまに、同年代の主に女性の中には、「キー」とか「キィ」と口で言うタイプの人間がいた。思い出せるだけで四人くらいいる。みんな元気にしているだろうか。50をまたごうとする今、まだ「キイイ」とか「キィー」とか言っちゃってるだろうか。それとも無言を使いこなしているのだろうか。できればまだ言っていてほしい。そのほうが明るいではないか。

私の退職と共に、幾人かのバイトも終了する。本当は、バイト自体はそのまま続けてもらっていたほうがいろいろよかったのだろうが、このタイミングで我が職場と各大学とのやりとりが変動するため、きりのいいところですべておしまいにさせていただいた。するとバイトにいらしていた先生方が最終日に、検査室にお菓子を持っていらしたのでびっくりしてしまった。本来であれば、こちらから御礼ということでお菓子を差し上げなければいけないのに、これでは逆ではないか。まいったなと思う。自分より年下の人間に細かく気を遣われると身の置きどころがなくてもだえてしまう。大学院生のころ、よく目上の人に、「いっちーは慇懃無礼だねえ」と言われて笑われたものだったが、私もかつてそういう、身の丈に合わない過剰な礼儀、儀礼の類をちまちまやっていたのだろうなと今になって思う。そういえば今のわたしはあの頃の上司たちの誰よりも年上なのだな。

GmailをPCのクライアントソフトに同期させる手続きを進めているのだがあまりうまくいかない。いや、まあ、大筋はうまくいっているのだと思うが細かいところに不満が残る。AIに聞けばうまくやれるのかもしれない。「AIにやらせればすむだけのことをいちいち手作業でやっている時間」が、以前よりももったいなく感じる。

かつてあれだけ流行ったブルシット・ジョブという言葉を近頃はあまり耳にしなくなった。由来となった本の原意はともかく、世間に広まったほうの意味、「この私がこの程度の仕事をするなんてありえない」みたいな偉そうな意味、あれをいちいち言うのが恥ずかしい時代になったのではないか、ということをよく考える。「人間サマがやらなくてもいい仕事」が、AIの出現でかつての何倍にも増殖してしまった。ちょっとした検索、ちょっとした解析、ちょっとした翻訳、ちょっとした論文執筆。これらの「ちょっとした」がAIの発達によってどんどん拡張されていけばいくほど、世間サマが考えていた「クソな仕事」もまた拡張していって、私たちのやっていることはほとんどぜんぶクソになっていく。自分がこれまでやってきたことをどんどんクソよばわりされてしまう。そして次の瞬間には必ず、「でも私の仕事のこの部分だけは未来永劫AIにはならないと思います」みたいなアピールがスタートする。この繰り返しにほとほと飽きてきている。人は見た目が9割だとか話し方が9割だとか、さまざまな9割本がこれまで世に出てきたけれど、そろそろ「人はAIが9割」で決着するのだろう。高尚なホモ・サピエンスは1割を奪い合う。



仕事場に18年間置いたままにしていた段ボールを引き払って中を確認したら、Smooth AceだとかスネオヘアーだとかSPARTA LOCALSだとかのCDがたくさん入ったサブカル宝箱で、思わず声をあげた。ワアアアアッ、くらい。水曜どうでしょうのDVDもぎっちり。当然のようにCDもDVDも再生デバイスがないので考える。箱ごと売り払うということも選択肢だ、でも、うん、よし、新しい職場で使う予定の細かな電機類を買うついでに、というエクスキューズで電器屋を訪れ、KENWOODのCDプレイヤーを買った。18000円。高い! それっきり夜更けになってしまったのでまだ箱の蓋も開けていないが、楽しみだ。懐古趣味。それはそうだ。しかし、昔のものだからよいという価値以上に、なにか、奮い立つものがある。

かつて、CDはすべてPCに取り込み、iPodで聞けるようにしていた。しかし今、もうiPodがない。スマホにはmp4ファイルはぜんぜん移していない。Spotifyで聴ける曲で十分だからだ。みんなそうなのではないかと思う。そんな今日、こうして眺めるCDのジャケット! ライナーノーツ! 壮観だ。火花が走る。でも、これらも、所詮は「1割」の価値でしかない。音楽の9割を占めるであろうミュージックの部分は、サブスクで十分に提供してもらえるものである。だから私はこの18年間、消失したことにも気づかず消失しつづけてきた。9割と1割の関係というのはそういう感じだ。ほんとうは1割が大事なのだと思う。でも利便というのはその1割を蹴散らした先に存在する。だから私たちのこれまでやってきた細かい仕事もおそらくこれからすべて蹴散らされていく。そこで提案なのだが、私たちはこれから、1割の中に鉄の球とか、バクチクとか、影慶の毒手を鍛えたツボだとかを置いておいて、それを蹴散らそうとする先端技術にちょっとしたいやがらせをしかけておくというのはどうだろうか?