本棚の吉増剛造詩集が日に日に肥大。目から入ってきた素材を脳内で、気持ちばかりの塩コショウをふりかけてクッキングシートの上にならべて油を使わずに中火で両面シンプルに焼き上げた、調理品としての視覚では、吉増剛造詩集がじわりと増殖活性を増している。本当はどうなのかとか真実はどうしたといったことを言ってもキッチンは止まらない。
ひとつとなりの本棚に並べたbloodthirsty butchersのアルバム「kocorono」もじわじわと腫大してきた。吉増剛造と吉村秀樹。耳かきをすると咳が出るくらいの細い神経でつながっている。
足の爪を昨日切ったのだけれど、先ほどから左足の小趾の外側のはしっこの、爪の切り残しの成分が鋸歯のようにに尖って靴下に引っかかって、歩くたびに肌の裏側に不快な圧をかける。靴下を脱ぎ捨てたい、爪切りをし直したい、しかし、経験的に、ささくれた趾の爪というのは通常の爪切りではうまく切れない、私はこういうとき、救命室で医療従事者たちが縫った糸を切るのに使うような先のほそくてよく切れるあのハサミがあったらどれだけいいだろうと夢想する。名前を忘れた。検索をする。医療 先が長くて細いハサミ。メッツェン。聞いたことがあるようなないような。私は解剖をするときいつも、「そのさきの尖ったやつ」とか「切らないで挟むやつ」と言って器械を手渡してもらう。いつまでも名前を覚えられない。道具の名前というのは野菜の皮のようなもので、裏側に栄養が多く含まれてはいるのだが私は口に入るものとなると神経質に皮を剥いてしまう。かえって手間がかかる気もするのだが私はそうやってたくさんの物の名前を能動的に忘れようとしている。
私は忘れている。
雑踏の端と端でそれぞれ大声を出して会話をするときのような汗をかく。腰が痛い、だからこうして伸びて見せれば腰も納得するようで、汗もいつしかひいていた。汗がひくというのはおかしな表現だ。汗腺の開口部からまるで皮膚の向こうに戻っていくというような表現に感じる。塩だけを肌に残して。
職場のデスクにあるSEIKOの大きなデジタル時計には、時刻と共に日付、曜日、気温、湿度が記載されており、気温の上にはご丁寧に「快適」バーが存在する。本日は快適ど真ん中だと、時計が喜んでいる。人である私の身からすると今日はやや肌寒いし、快適とまでは言い難いはずなのだが、時計がそういうならば今日は快適なのだろう。なにせデジタルだ。アナログとはわけが違う。明日から私はベストを着よう。ワイシャツにネクタイを合わせてベスト。もはやどこからどう見ても事務職員で、前の職場では廊下を歩くたびに患者から道をたずねられた。当時はネクタイはしていなかったから今回の職場ではさらにパワー・アップだ。私は道をたずねられる人間としてやっていこう。電話をし、問合せられ、間違いを認め、半端を保留する。保留はとても大事なスパイスだ。
再読を待っている本、再聴を待っているCD。待っている主体は私。待たれている本。待たれる身は辛くなかろう。私は成長を待たれている。待たれる身だ。辛くはない。待つ方は辛かろう。この場合の辛いは「からい」と読むべきである。
