脳だけが旅をする

看護学校の試験が終わり解答用紙がおくられてきた。年明けまでに目を通してコメントを付け採点をして送り返す。先週送られてきたインタビュー記事の文字起こしを編集するのとどちらを先にやろうか。これらに費やす時間と、日々のルーティンの起こり・走り・着地のタイムスケジュールとの順列を考慮するのに、脳の演算能力を80%くらい用いる。時間のすすみが遅くなる。

時間が遅くなったぶんたくさん働ける。あまり脳の回転を使わなくてもできる仕事をはじめる。Gmailを開き、届いていたバーチャルスライドの圧縮ファイルをダウンロード開始。12.9GBのファイルを入手するのに20分ほどかかる。ダウンロードの間はひまになるので、その間に、学生が学会発表準備のために用意した参考文献のまとめに目を通す。よくまとまっている。あらかじめこちらが指定した論文以外にも検索を進めてくれており、いくつか新規の論文も読んでいる。大したものだ。ただ、まとめられた資料は、AIを用いたかのようにニュアンスが褪せている。「資料のまとめ」として優秀だが、「資料をまとめただけ」である。仮に、学生たちが、今回の論文を読んだ記憶が薄れたころにこの資料だけを読んで、論文のコアの部分を再起動できるかどうか。それは微妙だ。もう少し脳を使ってもらおう。追加で別の論文を読んでもらって、知識を知恵に育ててもらうか? それとも、もう一度同じ論文を読み直してもらって、まとめの分量を今の倍くらいに増やしてもらうか? どちらでもいいが、どちらのほうが楽しく取り組めるだろうか? 少し考えているうちにバーチャルスライドのダウンロードが終わりかけている。学生にさらなる努力を課すよりも、ここは私が彼ら以上の努力でそれに報いる順番かなと結論したところでダウンロードが終わる。学生にZoom会議の日程調整のメールを送る。「次のZoom会議で、今回発表していただく症例の私なりの解説をさせてください。日程は以下の中から選んでいただけますと幸いです」。メール送信しながらバーチャルスライドの入った圧縮フォルダの名称を変更してコンサルテーション(されるほう)フォルダに格納し、さっそく数枚のバーチャルスライドを開く。

看護学校の採点を明後日にしよう。原稿の文字起こしの編集を今日やろう。

ウンリーヒって言ったかなあ。ウンルーヒ、だったかなあ。ボスの言葉を思い出す。検索するとUnruhe? Unruhig? このあたりか? ドイツ病理学で用いられていた古い用語で、「不穏(粘膜)」を意味する言葉だというがボス自体も記憶があいまいだという。あきらかな癌の周りに存在する、癌とは言えないのだけれどどうもあやしい領域を、不穏粘膜と読んでかつての病理医たちはマークしていたとのことだ。今、日本の医学の世界でドイツ語はほとんど使われていないし、病理学のマニアックな古語など、GoogleはもちろんPubmedで検索してもヒットしない。ボスの勘違いかもしれない。でも、今回のコンサルテーションで先方から、「この粘膜が癌ですか、癌ではないなにかですか」とたずねられたとき、私はこの発音すら不明瞭なUnruhigという単語をふと思い出した。見たものをまとめて言い表すというのは本来こういうことなのだと思う。熟達の病理医たちが曼荼羅のように広がって相互にコネクトする所見の数々の重心を指で支えるように繰り出したひとつの単語は時を越えて私のもとに「そういうことはあるよ」という膨大な量のメッセージを送ってくる。私はコンサルテーションの返事を書きながらほかのメールを開く。昨日のウェブ講演のお礼が届いている。今夜の研究会の病理解説にかんする質問が届いている。再来年の学会のプログラム委員を頼まれている。妻の誕生日を今年は忘れていて怒られたので次は忘れずになにかをプレゼントしようということを考えている。mixi2に投下するダジャレのために常時脳の20%くらいを回している。メールの送信が終わったタイミングで古い友だちから憩室炎は病院に行かなくても直せるのかという質問のLINEが届く。文字起こしの編集を始める。

剣吉

膝がひえる。膝をひやすのはよくないと思う。よくないのだろうか? よくないと思う。膝の中に皿ちゃんがいるんだからあっためないとだめよ! ひざ掛けをする。皿ちゃんってなんだ。コナーか。ブライトマンか。皿ちゃんが突然あらわれたときの効果音が皿ちゃんぽん。5.1チャンネル皿ちゃんぽん。温まってまいりました。膝はひえたままだ。ひざ掛けをする。

先日のことだ。教え子からメッセージが届いた。「先生、一番好きな料理ってなんですか?」ここはじっくり考えておしゃれなことを言うのではなくてインスピレーションで瞬間的に返事するタイミングだ。とっさに思いついたものを答えた。「焼きそば」。フリックで放たれた「やきそば」の4文字を漢字変換しながら私は自分の指に心から共感していた。たしかにそうだ。まったくそうだ。私がこれまで食べたものの中で、最も好きがリピートしているのは焼きそばだ。そうだそのとおりだ。チャーハン、ラーメン、カレー、これらはとことん好きだが、結局のところ、焼きそばである。カツ丼、牛丼、イクラ丼、どんぶりめしをこよなく愛するけれども、畢竟、焼きそばである。ソース味でもいい。塩味でもいい。海鮮が入っていてもいなくてもいい。肉は何肉でもいいが、牛でないほうがいい。フライパンでもホットプレートでもいい。個人的には割り箸で食う焼きそばがうまいが別に普通の箸でもいい。

話は少し変わるが、焼きそばパンは、あっいややっぱり話は変わっていないけれど、焼きそばパンは、焼きそばとパンとを別々に食べたときの味がする。相乗効果が生まれていない料理の筆頭だ。焼きそばパンに求めるものは「焼きそばを手で持って食べられること」でしかない。パンが焼きそばのソースと油を吸っておいしくなったな~なんて感じたことがない。あくまでコッペパンと焼きそばだ。それがすごい。サトシとピカチュウが組むと1+1が3にも5にもなると言いながらやっていることはいつものビガジュエアアアウウウウでしかないのに似ている。1+1=2ですらないのだ。1+1=1+1。美しすぎる。ほかの具材ではこうはいかない。ソーセージでもチーズでも、コロッケでもチョコでも、パンに挟むと「パンに挟んだときだけ出現するうまみ」のようなものが出てくるものだ。しかし焼きそばパンだけは違う。すごい。涙が出てくる。涙は常に少しずつ出て眼球を潤しています。焼きそばはいじれない。焼きそばは揺るがない。美食家であろうと倹約家であろうと、庶民であろうと富豪であろうと、なんぴとたりとも焼きそばを焼きそば以上のものにはできないし、焼きそば以下におとしめることも決してできない。焼きそばの味だけは代わりがない。相対性理論における焼きそば度不変の原理は有識者たちに激震をもたらしエーテルや宇宙項を蹴散らして今なお今時空唯一のガルドとして私たちをあまねく包み込む。焼きそばは宇宙だ。今あなたがこうして読んでいるスマホも眼球もその間にあるものもぜんぶ宇宙なので宇宙なんてたいしたものではないです。

焼きそばより焼きうどんのほうがジューシーでおいしい。しかしたとえば一番うまい料理がうどんであったとしても一番好きな料理は焼きそばなのだ。今はなき北海道大学医学部剣道部が大学祭に毎年出店していた焼きそば屋のことを思い出す。天気のいい日は焼きそば。

ミクシィありがとう

その日私は出張でデスクにおらず、ほとんどスマホにも触っていなかった。帰宅しシャワーを浴び飯を食って呆然としていたタイミングで、mixi2のリリースを知った。とはいえ私はそこまで熱量高くその記事を読んだわけではなかった。これまで、新しいSNSならなんでも手を出してきたというわけではない。clubhouseのような招待制SNSに対してはいい思い出がないし警戒感しかなかった。だからmixi2も、ニュースを見た最初はやらなくてもいいかなと思った。しかし、タイムラインで、ピエール中野氏と葬送のフリーレン公式という「SNSの真髄をわかってそうな2大アカウント」がmixi2をスタートさせて招待リンクを広くフォロワーに公開しているところが目に入る。これに虚を突かれた。そうか、招待制とはいうが、事実上、リンクさえ見つかれば誰でも参加できるものなのか。であれば試しにはじめてみよう。勝算があったわけではなかった。軽く、お試しに、くらいの気持ちであった。

とはいえ、まあ、もう、今の私は、その、うーん、そうだなあ。

SNSの運用がもう、ずたぼろなんだよなあ。

Blueskyはブログの更新告知にしか使っていない。Threadsも萩野昇先生の思考の一端に触れられるという大きな目的以外でどう活用していいのかわからない。Xに至ってはひどいものだ。ダジャレをつぶやく場所としているけれど、正直昔ほどの熱意も根性も湧いてこない。Instagramのフォロワーは9割が20代前半の女性(※教え子)で、知人からは「やらしいインスタ」と呼ばれる体たらく。Facebookはフェイスブッカケと投稿してからずっとシャドウバンされている可能性が否定できない。

現状、ソーシャルネットワークの露頭に迷っている。青緑のアイコンのオワコン。そんな私が今更あらたにmixi2をはじめたところで、2,3日で飽きて開店休業状態になることは不可避と思われた。


それがまさかの大ハマリだ。自分でも驚いた。


※念のためこのブログが公開される日にもういちど確認するつもりではある。その上でこの記事が読まれているということは、私はいまだにmixi2のトリコだということだ。釘パンチのほうじゃない。


SNSって楽しいんだなと思う。今の飾らない感想である。より深いところの気持ちをすくいとって話すと、「SNSを楽しむ心がまだこんなに残っていたはずなのにこれまでずっと楽しめないでいたのはなぜなんだろう」ということが気になるし悲しい気持ちにもなる。くだらないことをいい、多彩なリアクションに笑い、放置するでもなく、ちょっとかまうけど、でもあまり気にしすぎないようにする、表層だけの付き合いなのだが、風がきちんと通る感じの付き合い。リアルほど拘束の強い関係をむすぶわけでもなく、顔と名前の一致しない人が、ときおり予想外のことを言ったり、自分の普段暮らしていない場所の風景や音や温度を届けたりしてくれる。そういうのが「100%手に入る」のではなく、「5%くらいの頻度で手に入る」というのがよい。「小耳に挟む」ならぬ「小まぶたにはさむ」感じがよい。リプライ代わりにスタンプが使われているのがよい。興味のある話題をコミュニティを用いて積極的に取りに行くことができてよい。「本のおすすめ」を取得できるのがよい。成熟が進めば、スポーツ、映画、実況スレ的コミュニティなども充実してくるだろう。自分でリストを作る楽しみこそないが、同好の士が集まった場所をそぞろあるくような「即売会さんぽ」のような使い方ができると一番よい。mixi2、すばらしいじゃないか。今の私はもっぱらmixi2にいる。



「ヤンデル先生」でエゴサ。「ヤンデル先生って本物?」というポストが目に入る。さっそく「NO」のスタンプをつけてリポストしてタイムラインに流す。すかさずどこかの誰かが「YES」のスタンプをつけて問題を昏迷に陥れる。たのしい。

今の一連の話を読んで「それは誰が誰のためにどうしてそんなことをしてるんですか?」と発狂するのが、世間の一般的な人々のリアクションだ。そしてそういう一般に私は興味がない。「わからないですか? であれば、そのままご自身の道を大切に。よいおさんぽを。ささようなら。でもまた5%くらいの確率で会いましょう」



まだ自分が情報の中でやっていけることを再確認。うん。あたりまえだ。生命というものはすべて、環世界からにじみ出た情報のウズの中でやっていけるだけの機能をもっている。でも、あたりまえではない。私はもう、SNSがつらすぎて、情報を遮断しないとだめなのかと半ばあきらめかけていた。違った。違ったのだ。だめなのはXだった。mixi2でそれがわかった。私のシャッターはまだ開いていた。

すると気になるのは「医療情報」のことだ。べつに私は「ただしい情報」とやらを発信する基地になりたいわけではないし、「まちがった情報」を殴りに行くボランティアアカウントを自称してチンピラ化するつもりもない。でも、Twitter時代から、なにか、そういう、医療についての情報の「ハブ」としてはたらけないだろうかということをずっと考えてはきた。積極的に動いた回数はそうでもなかったと思うけれど、いつだって考えてはいた。医療や健康や体調や病気にかんすることをもう少し気軽にやりとりできる場所。そんなんいくらあっても困りませんからね。なんとかうまくmixi2でも作ることができないだろうか。「SNS医療のカタチコミュニティ」を作成するか。YouTube動画をひとつずつ流しておこうか。いや、たぶん、そういうことではないのだろう。まあ、そういうのがあってもいいのかもしれないが。

医療情報をどう扱っていくかについて、最近の私は、SNSにおける展開をほぼあきらめ、いくつかの学会の内部で委員会に入って、市民向け・専門家向けの情報を整理して、学会の予算を投じて改修したホームページに掲載するような試みを進めている。これらは完成していないので、みなさまにお出しできるコンテンツはまだないのだけれど、いずれお目にかけられる日は来る。しかし、そういう、「専門家の側からの発信」はまあ続けるとして、「ひとりの市民」として、それはもしかすると「一般的な市民」ではないかもしれないし、「最大公約数的な市民」でもないのかもしれないが、誰もがある種の「外れ値」でありえる現代において、自分が一般を語れないからといって、一般に広く情報をとどけるやりかたをあきらめるのも、もったいないのではないかと思うし、生きている甲斐がねぇんだよ(©超人タッグトーナメント戦のテリーマン)という感じなのである。




mixi2のおかげで病理医ヤンデルはよみがえった。もちろん悩みもジレンマもいっしょに戻ってきた。さあどうしたものかなあ、という毎日に私はワクワクしている。

UHA味覚糖まさつどきっ

胃の粘膜が萎縮すると、なぜヒダが見えなくなるのか? じつはいまだによくわかっていないんです。顕微鏡で見ると、胃のヒダは粘膜の厚みによって構成されているわけじゃなく、粘膜を下支えする床の部分である「粘膜筋板」がうねることで作られているんですよ。粘膜をタオルケット、粘膜筋板をマットレスにたとえると、タオルケットの厚さが一定であっても、マットレスにでこぼこがあればマットレスだってうねうねするでしょう。つまり胃のヒダというのもそうやってできているんですね。小彎側のタオルケットがやや薄く(夏用)、大彎側のタオルケットがやや厚い(冬用)という違いはありますけれどもね。大彎の中でくらべればタオルケットはほぼ一定の厚さです。そしてそれが敷かれた薄手のマットレスであるところの粘膜筋板が大きくうねることで胃のヒダが作られているわけです。で、ピロリ菌の感染によってこのタオルケットが劣化して薄くなっていくんです。ところがタオルケットが薄くなるごとにヒダが消えていくという現象があり、冷静に考えると「なぜ?」となります。だって、タオルケットはともかくマットレスの厚さは変わっていないのに、ヒダが消えてしまうんですよ。なんともふしぎな現象です。これについて、私は現在のところ、粘膜はそもそもタオルケットではなく細胞の詰まったものなので、タオルケットにはない性質を備えている、つまりたとえが悪かった、と考えておりまして、たとえば粘膜にたくさん細胞があると細胞どうしが結合する過程でいろいろアレな物性によって総体としては縮む効果が働いて、直下のマットレス(粘膜筋板)ごと全体をちぢませるために、ヒダができるのではないかという仮説を用意しています。でもこれくらいの仮説なんて誰でも立てられますし、おそらく過去に検証した人がいるんじゃないかと思うんですよね。狙い目は1800年代の後半から1900年代の初頭あたり、ドイツあたりで言及されているのではないかと思うんですよね。それを探してみたいと思っています――


と、一気にしゃべったわけで、相手はもちろんフリーズした。でも途中でうにゃうにゃ合いの手を入れられても迷惑だなと思ったし、むしろ積極的にフリーズ効果を狙うつもりであった。私の仕事は本質的に、コミュニケーションを円滑にするものではない。むしろ、頭の中でスルスル華麗に流通している情報に棹さすというか、摩擦によって熱を発生させるというか、衝突による衝撃で内部を動かして整頓のきっかけとするというか、そういう邪魔さ、いやさ、オノレコノヤロさにこそ、私の仕事の効用が含まれているのではないかと思う。

コミュニケーションとは多様であったほうがいい。連絡調整は複数のパイプによってなされたほうがいい。その中にはノーストレスの特別快速的迅速連絡調整があってしかるべきだが、それと同時に、ひっかかり、つまずき、おたがいにごつんごつんと頭をぶつけあうような、なかなか伝わらなくてずれがうまらなくて歯がゆくてもどかしい、札幌市電のササラ電車並みにゆっくりゴリゴリ進むタイプのものもあっていい。

チーム、あるいは部署、そういったものの中に、別個の摩擦係数を有する経路があるのが理想だと思う。たとえば患者を相手にするにあたっても、「本音をいいづらい医者」が片方にいて、「つい弱音をもらしてしまいたくなる看護師」がもう片方にいて、その両者がそれぞれ患者と接することで、医療チームは患者と包括的なコミュニケーションをとることができる。このときたいてい、医者は、「我々ではだめなんだよな」と言うのだけれど、それは決して、「我々は対話の場に必要ないんだよな」ということにはならない。

なんかそういうことを最近よく考える。病理学の真髄を「わかりやすくしゃべる」人がどこかにいていいのだけれど、私はそろそろ、「わかりにくくしゃべるほう」に回ったほうがいいのかもしれないなということを考える。今までわかりやすくしゃべるほうであったかどうかはともかくとして。それは今までとなにも変わらないのではないかという話はともかくとして。

俺俺試技

一週間ほぼ出張だった。ちょろちょろ出勤してはまた次の予定に出かけていた。いっそ冬休みということにしておいたほうが、職場には迷惑をかけなかったかもしれない。

人は定期的にいなくなったほうがまわりに圧をかけなくてすむ。よかれと思って居座るよりも、まあいいやと思っていなくなるほうが、喜ばれることもある。

人とはたらくにあたって一番大事なことは「俺が俺が俺が!」のオーラをうまく制御すること。

あんまり俺俺しないように気をつける。しかし思った以上にうまくいかない。無意識に俺俺してた。ちゃんと夏休みとろう。







話は変わる。人のまちがいを指摘するときに、ちょっと過剰なふるまいをするタイプの人がいる。仕事がとてもよくできて優秀。そして、他人の仕事の粗をいっぱい見つける。

クライアントのためを思えば、身内のミスを見逃すわけにはいかない。だから、使命感と正義感でそこをきっちりただす。

過剰に、である。

ミスを指摘された方はきつい。自分より仕事ができる人のごもっともな指摘だから、反論できない。自分なりに精いっぱいやってるんだから、もうちょっと優しく教えてくれよという目線を送ってみたりする。

でも優秀な人は引かない。

優秀な人は、ヒューマンエラーは個人を責めても解決せず、システムで対処するしかないということを、もちろん知っている。

しかし優秀な人は、同時に、未必の故意的サボタージュによるヒューマンエラーというのもあるよねという残酷な真実を知っている。そういうエラーはたゆまぬ努力で減らせるというおそろしい事実も知っている。

優秀な人は、「個人でもヒューマンエラーを減らすための努力」を惜しまない。

だから失敗した人につらく当たる。心を鬼にしたライオンが我が子でもなんでもない小動物を煉獄に突き落とす。

パワハラではない。口調はやさしいし人格を攻撃してないし、俯瞰して見れば教育でもあるからだ。

しかし高ストレスの場にはなる。

優秀な人は、献身的だし、自己犠牲の精神も強いので、「俺俺俺」タイプではない。

けど、「お前も俺も、お前も俺も、お前も俺も」みたいな雰囲気を出している。

じつは「俺俺俺」よりもたちが悪いのかもしれない。なんか俺、そういうタイプになってたらやだなと思った。でもそこまで優秀じゃないから安心だ。あれはしんどそうだなと思った。

せなかのあばた

前を歩く中年からたばこのにおいがした。見ると彼の右手の中にはちびれたたばこが火のついたのであるのだ。私はすかさず彼の右肘のところを左側に向かって薙ぎ払うように蹴り飛ばす。彼は肘を支点としてくの字に折り曲がりオレンジ色に発光して融解して爆散しながら左後方にすっとんでいくのである。そういう想像をしながら歩みの遅い中年を追い越していくと目の前に駅舎があって私はその中に吸い込まれていった。


自分のため? 人のため? 名誉のため? 金のため? なんだかもうよくわからないのだがとにかく私は私の世界でさらにいろいろと詳しくなったほうがいいのではないかという思いだけがある。このままここで働き続けてもこれ以上なにかに詳しくなることは、ない気もする、が、長く働くことでしか、詳しくなれないことも、たくさんある気はする。しかしひとつ明らかなのは、今の私でとどまってしまってよいことはひとつもないということだ。


麦茶しか飲まなくなった。カフェインに耐えられないからだ。


真夏のピークが去ったことを歌詞にできたのは志村が関東に住んでいたからだ。長い冬がはじまった。出張先の釧路や旭川は札幌よりも鋭く冷え込み、だから札幌に帰ってくると、そんな程度でなにをしっちゃかめっちゃか文句を言っているのだと、怒られているような気になる。今年も私はダウンを買わなかった。カナダグースとかタトラスとかみんなが着ているダウンのなにがわくわくするのかちっともわからない。自分のため? 人のため? 名誉のため? 金のため? 自尊心? 克己心? 執着? 嫉妬? なんだかよくわからないのだがとにかく私は私の世界でさらにいろいろと詳しくなったほうがいいのではないかという思いだけがある。


しかし私の世界がなんだというのだ。


会員制のスナックに連れて行かれた。店主は前髪をきっちりと揃えていたし胸元のあまり開かないようなクリーム色の清楚な肌触りのよさそうなトップスを着ていた。私だけ終電が迫っているというと他の客に「この方はもうあと何分もいないのだから少しそっちのお相手をしますよ」というアピールをしっかりとした。私は知らない常連のウイスキーをソーダで割ったものを一杯飲んで店を後にした。店主が酒を作りながらふと後ろを振り向いた一瞬にぱっくりと背中が大きく開いたその服の意匠に私はなるほどと納得しながら店のセキュリティのボタンを押すと外からは開かないつくりのそのドアはあっさりとキイイと音を立てて鍵を全開にした。私はまだ、私の世界すら何も知らないでいる。


ビリケンさんテッカテカ

私たちは、絵筆やペンで描いて/書いて何かを表す能力を日頃から存分に使っているために、「世の中は輪郭(アーキテクチャ)の集まりだ」という錯覚をする。すばらしきマンガ文化もその傾向に拍車をかける。顔にも服にもたくさんの線があって、その線の走行具合を見極めることで私たちの視角が作動していると考えている。私たちは、丸いとか角張っているとかギザギザしているとか膨れているといった、アーキテクチャを扱う言葉をたくさん有している。

でもほんとうは、アーキテクチャによる認識はサブだ。メインはきっと「テクスチャ」である。キメの細かさやムラ、模様、ごつごつ・ざらざら、色調、光沢……。

たとえば私たちの多くは「綾瀬はるか」というとぱっとイメージが思いうかぶけれど、綾瀬はるかの似顔絵を描きなさいと言われると、思い浮かぶわりにはぜんぜん描けない。似顔絵を上手に描ける人は、人の顔をアーキテクチャの組み合わせとして頭の中でとらえることができ、かつ、認識のために最低限必要な線を選び取るのがうまい人であるが、それ以外の大多数の人々は、私も含めてアーキテクチャをあまり上手にとらえていない。アーキテクチャの詳細な解析を常用していない。




話は変わるが、物が古くなるときに「古ぼける」という言い方をすることがある。古ぼけたピアノ、古ぼけた花瓶、古ぼけた家……。この「古ぼける」というのはどういうつくりの言葉だろうか。古くなるとぼける。ぼんやりとする。輪郭が? そうか? ピアノにしろ古民家にしろ、古くなると輪郭の部分には傷が増えて、むしろ線が増える。ぼけるとしたらそれは内部だ。人の手が入っていたものにカビや雑草が生え、入り混じりが生じ、色調がくすみ、キメ細やかだったものが粗雑になっていく。

古ぼけるという表現は、アーキテクチャがぼやけてくるというより、テクスチャがぼんやりとなっていく様子とフィットする。




私が昔から「病理学の講義でスケッチをさせるのはあまりいい教育ではない」と思っているのもこの点と関係がある。細胞を見てスケッチするというのは、細胞をアーキテクチャ的に解析する行為だ。これをやり続けると医学生は(早く終わらないかなと不満たらたらでやっていたとしても)、細胞の核が大きい・小さいとか、核膜の形状がゴツゴツしている・スムースであるとか、細胞の配列が索状・シート状であるといったふうに、自然と「アーキテクチャの言語化」によって病理診断をとらえはじめる。しかし、現場で診断をする病理医が見ているのはアーキテクチャだけではない。テクスチャも見ている。クロマチンの粗雑さ、細胞質の厚み・透過性の強さ、単位面積あたりの細胞配列の不同性・不均質性など。形態診断においてはアーキテクチャとテクスチャをそれぞれ別様の目線で解析したほうが、診断のキレ味が増すし、なにより、生命科学現象として、分子・生物学的に、細胞の挙動に思いを馳せるときの想像力の射程が段違いになる。ところがスケッチはアーキテクチャ偏重型の視線を強要するのであまり好きになれない。色鉛筆を使わせることで「テクスチャ」に気を向けさせていると言いたい病理学教授もいるだろう。でも学生は「赤紫ばっかり減っていくよォ」くらいのことしか考えていない。





「古ぼける」のは物質ばかりではない。文章も古ぼける。一時期わりとバズったブログ記事を数年後に読むと、すっかり古びてしまっていて読むに耐えないということがままある。では、文章の中で古くなってぼけていくものとは何なのか。

やはり「文章のテクスチャ」なのかな、という気がする。

なんとなくだが、文章において、描写力の鋭さや正確さがアーキテクチャに相当するのではないか。これらが時間が経つごとに雑に感じられるということはある。新たな事実が発覚したことで、古い解析が意味をなさなくなるということもある。形状は変化し細かな傷が増えていく。

では文章のテクスチャとは何に当たるか。文章のキメの細かさとは。

話を物質に戻すと、テクスチャを見るにあたって二つの方法がある。一つは触ってみること。もう一つは光をあてて凹凸をはっきりさせること。

文章にあたってもこれと同じことを考えてみる。すると文章のテクスチャの正体がわかる。

まず、「触ってみる」というのは文章でいうと「自分ごとにする」ということであろう。触れられる文章、つまり自分と接点が多い文章だとニュアンスが伝わりやすい。手も触れられないくらい遠くにある内容を読んでもピンとこない。

では、文章に「光を当てる」とは。スポットライトを当てる、つまり、着目を集めるということか。多くの人に読んでもらっている文章は、それだけ、たくさんの反響を産み、あらたな感想を手にして、付随する意味を増やす。それはテクスチャを強調する行為になるだろう。

つまり文章のテクスチャとは読み手との距離や読み手の数によって変動する。より正確にいうと、内在する文章の性質があきらかになるために読み手側のファクターが影響するということだ。

文章が古びるというのを、文章のテクスチャがとらえづらくなることだと考えると、それは「文章と、読み手の体験との、接続の強さが弱くなること」と言い換えられる。読み手の体験に解釈をゆだねなければいけない文章ほど、時間とともに急速に古ぼけていくであろう。普遍的な話題、すなわち、ずっとスポットライトが当たり続けているような話題を選べば、それは古びない。でもそれだけではない。ずっとコスられ続けていても、ずっと寄り添われていないような話題を選べば、その表面構造はどんどん劣化して、くすんでいくだろう。



今日のブログは書き溜めのために、公開よりも二週間くらい前に書いている。ときおり、自分の書いた記事を、一~二週間開けて読むと、もうなんだか古ぼけてしまっている。今の私にしか刺さっていない内容を書くことで、二週間で古ぼける。手触りの失われた状態で公開することになる。

次は縁側もしくはエンガワを推す本

インドネシアを推す人々が書いた本「イし本」というのを買って読んだ。表現的なあやではなく本当に半分くらいの人が何を言っているかわからなくておもしろかった。インドネシアの地名、文化、飲食物の名前などが固有名詞としてこれまであまり見聞きしてこなかったリズムを持っていて、頭にスッと入ってこないのだ。FFXIIIの有名なネタというか事実に「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」というのがあるが、「ビーマがナガと戦っているワヤン劇のデワルチのシーン」というくだりを読んだときにまさに同じ気分になった。醍醐味である。本を読む醍醐味。機内で一気に読み終わった。アンソロ同人誌的なつくりの本なのだけれどこういうのをちょくちょく買って読みたい。文学フリマにいくとこれ系の本がたくさんあって楽しいんだよな。


https://neconosbooks.stores.jp/items/6741c4089b0fd515845d6441


で、「イし本」は、見る人が見ればすぐわかるだろうけれど、ネコノスの「推し本」や「牛し本」からのインスパイア本である。インスパイアのインドネシアである。ただし作ったのは浅生鴨ではなくてワタナベナオコさんという人である。私はひそかに推し→牛→ときて次に医師か石がくるかと思っていたらインドネシアだったので、こういう脱線というか転調こそ「浅生鴨ギャグ」の十八番だなあと思っていたのだが、そうではなく、鴨さんの知己であるワタナベナオコさんが「イし本作っていいですか!」とネコノスにかけあって作った本というのが正解らしい(「イし本」内にそのように書いてあった)。


「推し本」や「牛し本」もおもしろい本なのだけれど、「イし本」とは根本的なコンセプトが違う。

まず、「推し本」というのは、私の推しを書くという統一テーマがあるのだけれど、推される物は人ごとにまったく違うので、本全体で扱っているものがバラバラで、著者60名がそれぞれ全く違うジャンルのものを推している。

一方、「牛し本」のほうは、統一テーマが牛なので、牛を推している人もいれば推していない人もいるし、牛との距離感というか密着感というか、切迫感というか現実感というか、そういったものが著者ごとにぜんぜん違うので、全体として「ああたしかに牛の本だな。」という雰囲気はあるのだけれど、おおらかな脱力の繭みたいなものがそのさらに周囲をうすぼんやりと覆っている。

そして「イし本」は、著者全員が濃厚にインドネシアとたずさわっていて、全員がインドネシアを大好きという、強烈に煮詰められた味の濃いスープといった佇まいで、仮に「牛し本」の著者全員が牛を大好きだったらそれはきっと「イし本」と似た雰囲気になっただろうけれどもちろんそうはならなかったわけで、しかし、牛よりはるかにニッチであるインドネシアを扱った「イし本」という単ジャンル推し本が存在しうるという運命のふしぎさを思うとなかなかしみじみとする。

「推し」と「牛」には私は寄稿した。しかし、「イ」には寄稿できていない。私はインドネシアを推せるだけの熱意を持っていないので当然執筆者にはなれない。つまりはそういう「自分がまったく持っていないものを大量に読ませられる本」という意味でも、「イし本」はすばらしいと思うのだ。というか普通の同人系アンソロというのは本来、むしろ、「イし本」っぽいコンセプトで作られるものであって、推しと牛が異常なのだと言えないこともない。はたと気づく。

ドクロが書いてあったんだ

SNSで書くことではないと思うのでここに書いてしまうが、まちがった医療情報を発信してもいい、というか、「まちがった医療情報をしゃべってしまうこと」について断罪的でありすぎるのはよくない、と私は思う。「そういうまちがい」はよくある。まちがった医療情報を家族や友人に教えてしまった人がいたからといって、あるいは、タイムラインに流してしまったからといって、それに毎回こまかく拳をふりあげるのは、どうなのか。

「まちがった医療情報は全部殴っていいんだろ」という態度の医療従事者はいる。SNS中毒になって日々「不適切な医療情報を殴る!」みたいなことをやっているごく一部の瞳孔の開いた自称医師アカウントのことを言っているのではなく、もうちょっと、そうだなあ、体感としてSNSをやり続けている医療従事者の、8割くらいは、ちょっとやりすぎなのではないかと今の私は思っている。みんなわりと正しすぎるのだ。

たとえばテレビで芸能人の病気に関する話が報道されたときに、すぐ「まちがった情報をつぶやかないでください」「まちがった情報にまどわされないでください」みたいに方向修正をこころみる医師がたくさんいる。とてもわかるのだが、個人の医療従事者がくちぐちに声をあげることで「まちがった医療情報が蔓延することを未然にふせいだ」みたいな顔をしているのは、私は、うーん、だめではないと思うのだけれど、今はもう過剰なのではないかと思う。

「まちがった医療情報を放置しておくと世の中のためにならないだろ!」みたいに、大声で理路整然と、胸を張る、その圧、管理的態度が満ちること、背景が重苦しくなってきていること、室温・湿度が不快になってきていること、もうすこし丁寧に感じたほうがいい。結果的に、SNS上の医療情報に「すごく微妙な硫黄臭」がまとわりついている。からだにいいのはわかるけど瞬間的にウッとなってしまう温泉のにおい。慣れればむしろ体にはいいのよ、いやでも、慣れればね、そりゃ温泉好きにはむしろご褒美なんだろうけど、でもさ、みんながみんな、そのにおいを喜ぶわけではないじゃんね、いや俺は好きだけどさ。

気持ちはわかる。でも言い方をもっと変えたほうがいい。ほんとうにそんなライトなやりかたでいいのかと疑問に思うべきだ。そうやってすぐに声を上げることはとってもライトだ。気軽で、正しい。意図はもっともだが思慮が足りてない。まちがっているものをまちがっていると条件反射的につぶやくのにはたいした労力を必要としない。「やさしい医療情報をつぶやきつづけるって大変ですよね」……いや、そこはべつに、大変ではない。ただその自分のつぶやきが「めぐりめぐって変な空気まで作ってたりしねぇかな」みたいなとこまで考えるとなるとそれは大変なことだ。その大変さを経由せずに、「まあまちがってるものはまちがってるって言っとけば社会に対する義務は果たせるだろ」って短絡してしまった結果がこの空気なのだ。そのライトさは傷をつけている。



このような懸念を昔からずっと述べているのだがあまり理解されない。「そんなこと言ってるとマジでだましに来てる奴らのやりたいほうだいになるぞ」とか言われる。

たしかに「金目的でまちがった医療情報を(まちがっていると認識しながら)発信するやつら」はやばい。そういう人間のクズみたいなやつらの心臓がなんらかの魔法みたいなものでコンガリコトコト焼かれることに私はなんの反対もない。できるだけ苦しんで死んでほしい。臨死体験を100回くらい繰り返してそこから回復して明日退院だといって喜んだ日の夜から七日間かけて少しずつ視界が暗くなっていき聴覚に本来存在しない金属音が届くようなタイプの毒に侵されてゆっくりじんわり死んでほしい。最期の二十時間で一本ずつ順番に手足の指が骨折していき睡眠が阻害されるとなおよい。そういう魔法があったらわりとすぐ唱える。しかしそういう魔法はない。

そして、念入りに書いておくが、今の私の数行、こういう「諸悪の根源を暴力的に排除することが気持ちいい」みたいな言動こそがだめだ。そういう殺・伐感を不特定多数の医療従事者が「よかれと思って」発信している現状は、トゲが多すぎる。




ちなみに論点がややずれるのだが、金もうけ勢だけが問題かというとそんなこともなくて、よく言われていることなのだけれど、「自尊心を高める目的でまちがった医療情報を伝達する人々」についても考える必要がある。たとえば、がん患者の家族が患者のためにせっせとハーブ茶の増産体勢に入る、みたいな話だ。これはなんというか、それこそ、本人は「よかれと思って」やっていて、余計に始末が悪いという悲しい構造なのだけれど、ここを金のときと同じように「悪」と断じてしまえるほど、私は人間として成熟できていない。

今の社会は「おせっかい」に対する猛烈な反発心がある。それはかつてのような「おせっかいが許されすぎていた時代」に対する逆行である。この逆向きのベクトルもおそらくは勢いが強すぎる。おせっかいをすべて悪者扱いしてしまうとそれまで機能していた相互扶助の仕組みが弱体化して、めぐりめぐって自己責任論がきつくなっていく。

「正しいおせっかい」であっても嫌われる。ましてや「まちがったおせっかい」というのは本当に三族皆殺しにされるのではないかというくらいの悪者にされる。でもそれもやっぱり過剰なのではないかと思う。




やばいやつというのは一握りで、ただその一握りというのが爆弾を持っている。ひとたび爆発すると無垢の民がたくさんまきぞえになるので放っておくわけにもいかない。でもその一握りを攻撃するために「まちがった医療情報が世の中にはあふれている」という書き出しでたくさんの人の心にささくれを作ってしまう文章をダラダラ書くやりかたはわりと筋が悪いのではないかということを近頃はよく考えている。近頃ではないか。ずっとだな。医療情報の発信をたくさんの医療従事者がそれぞれに工夫しながらがんばっているという気持ちはいい。でも気持ちだけでは人は救えないのだ。ドクターくれはも言っていただろう。優しいだけじゃ人は救えない。それは私たちが病院で専門技術を駆使するときと何もかわらない。医療情報をタイムラインに流すときだってまったくいっしょなはずなのに、なぜ、情報となるととたんに、「とりあえず悪そうなアカウントを叩いとけ」とか、「とりあえず世に流れてる情報がまちがってるときにまちがってるって言っとけ」みたいに、まるでアミウダケを口に押し付けるような物言いになってしまうのだ。

アホのダンスをアフォードするざんす

デスクトップの壁紙を毎日勝手に変えてもらえるやつを使い始めてしばらく経つのだが、日によってけっこうハズレがあるのでおもしろい。not for meが自分のまわりにあること自体がおもしろくなっている。今日の壁紙はサイ同士がチュッチュしてるやつだ。なんだこれ。すごい写真ではある。これがデスクトップにでかでかと表示されるのがおしゃれだと思っている人が世の中にはいるということだろう。一部の自然や動物を愛する人がこういうのを好きだというのはよくわかるが、PCを使っている母集団の何%がこれに刺さるというのか。この理屈が許されるというならばそのうちアニメの美少女が表示される日があってもちっともおかしくない。書いていて思ったが、ほんとうに、ふしぎでもなんでもない。多様性というのはつまりそういうことだ。いいアプリだと思う。not for me, but for othersの世界を垣間見ることができるというのは、私のなにかをきちんと揺らしてくれる。


揺れればいいというものではない




能動と受動の話が気になっている。受動的にやってくる情報をある程度コントロールしてカスタマイズする、というやりかたはすごく身近になった。サブスクなんてまさにそういうものだろう。能動か受動か、あるいは中動的な受動か。このような切り分け方自体が、一般に行われている人間の基本的な活動原理の前ですでに前提条件化しているのかもしれないということを少しだけ思う。そして私は今もちょっとだけ、能動と受動の話、そこをコントロールしようとしてもできない私の性質・気質の話のことを気にしている。自分にいいことが起こりそうな受動の体勢をととのえるために何をするとよいだろうか? ヒントはWindows。答えはCMのあと。


CMが5億8000万年続くという可能性を考えていなかった。


なすためになされてしまう場に身を置くということ。アフォーダンスを選び取るという矛盾の中に身を置くということ。窓を開けるために窓をつくる。窓枠を通して見るために部屋の中に入る。そういった動きのこと。気にしている。窓の複数形だ。

そしてこれから私が気にすべきは他者なのかなと思う。行動の原理を自分の中に置きつつ、窓の外から飛び込んでくるものに恣意のふりかけをちょっとかけ、お湯を注いで粥にする、みたいな暮らしにおいて、自分の目でも言葉でもほとんど揺らいでくれないような他者、もしくはけっこう揺らいでしまう他者、私が外から飛び込んでくるものに揺らぐのと同じくらいに、私が外部として介入することでたまに揺らいでしまう他者のことを気にかけるのが当然の順番なのかもしれない。でも私は他者がぜんぶ嫌いなんだよな。もうここまででいいかな。いつも思うが結局どうしたかというと、答えはWebで。


仕込み一切なしです

エクスキューズが多いなあ。文章が長くなる。「これ全部言い訳ー」。岸京一郎が私の文章をざくざく刈り込んでいく。診断はまだいい。メールがやばい。長い。もっと簡潔に。多弁すぎる。もっと核をつかんで。そうやってできたらいいのだが。どうもテクスチャの、きめの、けばだちの、あわあわの、ざらりぬるぬる、そういった部分をそのときの温度と質感のまま残したいという気持ちが日に日に強くなっていって、メールが長くなる。

会話もやばい。日常会話はまだいい。講演がひどい。長い。時間オーバー。いろんな人に怒られる。人様のだいじな時間を頂戴してお話しさせていただくのだから、なにはなくても時間だけは絶対に守りなさい。そうやってできたらいいのだが。どうも熱意の、熱源の、火種の、火花の、火打ち石の、火打ち石を握りしめたときのひんやりとした感覚を手のぬくもりでいったん温めてから石を打ち合わせたほうが火が早く点くんじゃないかと思ったあの夕暮れの感情の、時間とともに冷えていく過程の微分の解をしゃべりたいという気持ちが日に日に強くなって、講演が長くなる。

私はどんどん不完全な方向に進んでいるのだなと思う。若い頃は、経験を積むたびになんとなくだが「完成に向かっていくのだろう」という漠然とした予感と、「完成に向かっていけたらいいな」という傲慢な夢があった。今はもうそれはまるで違うマジでマジで違う。歳を重ねるたびに私というスープに雑味が加わる。隠し味が多すぎて出汁の良さが消える。

システム屋が冗長性という言葉をポジティブな意味で使うと安心する。よかったァ、私も冗長だからいざというときの耐性が高いぞ! ご冗長でしょう、ファインマンさん。ファインマンって主人公みたいな名前だよな。ああちがった名字か。



改行を多くして



表現をとぎすませ



静寂の中にしずかにほうりこむ



3.14159265358979323846264338327950288419716939937520



今おぼえているかぎりの



円周率を



てきとうに書いてみたら



なんの仕込みもなく



さいごから2番目が



まちがっていて



小学校6年生のときに覚えた



この無意味な記憶もついに



46歳にして滅び始めているなとわかって



マジこの展開は予想してなかった



えっちょっとショック



こんな昔の芸能人のPHS閲覧用ホームページみたいな文章を書き散らしたほうがPVが増えるってんだから世の中のほうがよっぽどゴミの堆積場だよな。急に思い出したけど、クララとおひさま、あれ、いい小説だったな。

さよならを言う相手を一覧にしたものなーんだ

SNSが得意とするのはスピード。速報性。主観的なもの。「自分ごと」であると考えさせる力。ブラフ。はったり。軽薄さ=身軽さ。そういうタイプのツール。

……と、言ってしまうと、まるでポンコツで役に立たないと思ってしまうのだけれど、実際そのようなSNSが、私たちにとってかなり価値があるんだなと、みんなが気づいたのが震災だった。

なぜ震災だったのか。それは、「多くの人が」「波状攻撃的に」被害に遭うという特殊性によるものではなかったか。地震というのは一度来て終わりではなく余震がある。津波、停電、火災、治安悪化といった関連災害が時間をずらして次々にやってくる。交通や電波などのインフラの麻痺が狭い地域ごとに続々起こる。だからこそ、正確性には多少目をつぶってでも、「速報」をみんなが求めた。このとき、SNSの格が一段上がったように思えた。

一方で、感染症禍においては、SNSが各人のナラティブを拡散しまくったことが公益に寄与したかというと、わりと微妙だったのではないかと個人的には感じている。多くの人がうすうす感じてはいたけれど便利さの前に目をつぶっていた「速報の危険性」みたいなものが顕在化した。

「現場」で暮らす人々の主観それぞれが間違っていると言いたいわけではない。ひとりひとりの感じたものは、ひとつの真実だ。ただし、共有して何か意味があるものかというのはまた別の問題だ。


SNSで得ると役に立つ情報: 高速道路の渋滞。空港の混雑。細かい地域ごとの天気。今やっているスポーツ。読み終わったマンガ。見終わった映画: 速報性こそが大事であり、かつ、エッセイ・随筆的であっても情報としての意味が失われないもの。

これに対し、政治、経済、医療・健康にかんする情報は、早ければいいというものではない。理想を言えば「早くて正しい」ことが一番いいのだろうが、複雑系からの出力結果を「早く正確に出す」というのは、理論的に無理なのではないかと思う。

ヒロアカ最終巻の感動に「合ってる、間違ってる」はない。発売日にみんながSNSで盛り上がっている姿は、正解とか理想といったものとは別の次元の美しい形象だ。

それと同じで、「新型コロナワクチンを打ちたくない」という主観的な意見がSNSに流れることも、「合ってる、間違ってる」ではない。それは人の気持ちであり随意に執筆されてしかるべきものだ。それを引き受けるのがSNSであるというのは、私はアリだと思う。打ってほしいけれど、打ちたくないという考えが流れてくること自体は自然だ。


でも、SNSに、ジャーナリストを名乗る人間たちが、「【速報】をヘッドラインにした医療情報」を流してくるのはおかしいと私は思っていた。ずっと、「それは違う」と思っていた。速報を打っていい場面と、プロが手間をかけてきちんと裏を取ってから構造化された情報を出すべき場面とがあった。医療において【速報】を飯の種にするタイプの人間を、私は軽蔑した。そこの分別がないのかよ、とがっかりしたのだ。


今のタイムラインはアレンジがきつすぎて、いったんヒロアカについてポストすると「おすすめ」欄がヒロアカ以外なくなる。毎日そういう感じだ。おかげで、私が嫌っていた速報系医療ジャーナリストを目にする機会はない。今後もない。SNSで私はそういう情報を見ないようにしているから、もはや全く表示されない。汚れた洗濯物を押入れの中に放り込んで見ないようにしている。それができるのは私にとってはありがたいことだ。


押入れで思い出した。ドラえもんはなぜ、のび太の部屋の押入れで毎日寝ていたのだろう。なぜ、道具を使ってよい寝室を作ろうとしなかったのだろう。いくつか自説はあるのだが、急いで短文に仕立てあげて、速報気味に世に放り投げることに、さほど価値を感じない。急いで出すならダジャレだ。ダジャレこそはSNSにもっとも向いているコンテンツだ。速報というのはダジャレにこそ冠されるべき枕詞なのだ。

マルセルに物申す

「おちつけ」の企画や幡野広志さんとの対談、SNS医療のカタチのあれこれなどでほぼ日に何度か載せてもらったためか、毎年、年の瀬くらいにほぼ日手帳が届く。ありがたいしうれしい縁ではある。ただ私はほぼ日手帳を自分で買い、手帳カバーだって気に入ったやつに買い替えて使っている(今年はMOTHER2の革のやつだ!)ので、正直、送ってもらわなくていい。そのぶん別の誰かに送ってあげてほしい。

ただまあこれを直接ほぼ日に伝えても、「ではよろしければお近くのどなたかにお譲りください」とか言われちゃうんだろうなって思って、言えてない。言えない。

知らない人からいきなり送られてきた献本は自腹で送り返すことになんのためらいもないのだけれど、知っている人、一緒に働いた人から送られてくる手帳を送り返すのはさすがの私でも躊躇する。結局今年も受け取って、検査技師にあげた。ぐだぐだ言ったけれど総括としてはありがたい。正直にここに書いておく。それに越したことはない。



こういうやりとりから生まれる社会関係を、もっと素直に受け取れたら楽だろうなと思う。



贈与が関係をつくるなんてことを言いだした学者はなにもわかっていない。たしかに贈与はマジョリティにとって関係の要になっている。世界のところどころ、そのときどきの文化を、最大公約数的に評価すれば、互酬性のあるなしにかかわらず贈与がキーワードとして浮かび上がってくる。それはそうだろう。しかしそれは机上の空論というものだ(フィールドワークだから机上じゃないよとかそういうことを言いたいわけではない)。解像度が甘いと思う。論文にすることで失われる一例のあやを私たちは忘れてはいけない。「贈与と憎悪は一文字違いだね。よとおの違いってだけじゃなくて、yがあるかないか、くらいの子音ひとつだけの違いだよね」みたいなことを四六時中考えている、私のような人間が、世界各国で息を潜めて、贈り物を両手でうやうやしく受け取ってためいきをついている。どうせ関係をひもとくなら、ひもの結び目の間に挟まったワタゴミのような私のことまでなぜ目がいかないのだ。文化人類学者というのは自分の論文のつじつまがあった瞬間にフィールドからデスクに向かってダッシュで帰ってしまう。そういうところほんとよくないよ。それって医者とおんなじじゃん。医者もまた、自分の論説の矛盾がなくなったタイミングで観察を終了させてカプランマイヤーを書いて真実だと言い張る類の生き物である。あんたらたまに科学を嫌うけどそれ思いっきり科学の手口だからな。




受け取るのがいやだと言っているわけではない。それを言ったら渡してくれる人に失礼だから言わない。……いや違うな、これだと言ってることになる。そうじゃない。本当に、いやだという単純な感情では表せない。正面切っていやだと言いたいわけではない……ああもう、安岡章太郎(※まァいいや、どうだって、の意味)。「お金があるからそうやって、人からもらえるものを平気で要らないって言えるんでしょ」みたいなことをいうアルパカ(※バカと書くと怒る人がいるので最近はアルパカと書いている)の靴の中敷きの先端部に新種のカビとか生えてほしい。そういうことでもない。

この複雑な部分と向き合うのがめんどくさいという気持ちくらいは、もう少したくさんの人に共有したい。わかってもらえることは少ないだろうな。

とはいえ「人から物が送られてくるストレス」を感じることは、決してネガティブな意味だけにはおさまらないだろう。人間がレジリエントであるためには「ままならない刺激」をそれなりの頻度で受けるほうがいいのではないか。自分で意のままに設定した一定の刺激というのではなく、忘れた頃に、意図していない方向から、意表を突く感じで飛び込んでくる、ちょっと迷惑でちょっとわくわくする扱いづらい刺激、そういうものを受け止め続けることで、皮膚の角質がほどよく機能して表面に居着いた常在菌ごと剥がれ落ちて結果的に肌がきれいでしなやかで防御力も高い状態で保たれる。そういうことは確かにある。



人に物を送りつけるタイプの人全般が苦手だ。DMは滅んでいいし、封書を送ってくるとかまじでアルパカ(唾液がくさそうなバカ)。しかしこうやって書きながらも、かつてたまに西野マドカから送られてきた本だけはいつも楽しみだった。むずかしいな。言い表すことが難しい。いや、簡単なのか。単純なのかもしれない。こじらせた子どもなのかもしれない。ゴジラがこじらせたらコジラだな! えっなんでコジラって一発でカタカナ変換できるの?

うとうと

通っている美容室はいつ行ってもスカスカなのに、予約はいつ見てもいっぱいだ。店のサイズのわりに働いている美容師の数が少ないからだろう。いつもガラ空きの店でゆっくり本を読む。担当の美容師は、最初に近況などをふたこと、みことしゃべる程度で、あとは全くしゃべらない。もうかれこれ、10年以上の付き合いになるが、彼の出身地が道東方面であるということ以外の情報はいまだに持っていない。居心地がよい。できるだけ長くこの店にいてほしいと願う。

でもまあいつかいなくなるだろうなという予感もある。私と気が合う人だからな。このままひとつのところでずっといることはなく、いつか、特段の理由もなく、ふといなくなるだろう。これまで私はそういうタイプの人と仲良くなってきた。雑な統計学から導き出される推測である。

人間はなんどか居場所をやり直す権利を持っている。「自分にとって安定していられる場所」というものが、生涯おなじままである必要はないし、そこをあるときにぐっと変更するというのもおつなものだと思う。自分がそうしたいというわけではないが、仕事にしても趣味にしても、途中でがらりと変えてしまいたくなる瞬間に関して、共感はともかく理解はできる。



『銀河鉄道999』のコミックス(全21巻)をKindleで購入した。異様に細かい背景の書き込みとはっきり汚い鉄郎の顔、1話ずつ完結するストーリー、読者全員がメーテルを好きになる暗示が染み込んでいるコマ割り、ナレーションのうざさも含めて文句なしの名作でなるほど有名になる作品というのはやはりそれだけの理由と実力を備えているものだなとしみじみする。数巻分をダウンロードしたところで制限時間となり細胞学会北海道地方会に出席。途中のシンポジウムのひとつで、演者がみんな似たようなことばかり発表していてうんざりして失神するように眠ってしまった。夢の中の私は同じ学会にきちんと出席しており、演題に興味が持てないので999のマンガを読んでいて、「そんなに堂々とさぼらないでください」と座長に叱られる。そこで目が覚める。まぶたが落ちてからおそらく15分も経っていない。学会の最中に学会の夢を見て起きてまた学会なので呪われているような気持ちになる。私はふたたび目の前の演題に興味をなくして夢の中に戻る。またもそこは学会場なのだ。そして私は再び999のマンガを読む。そのことに気づいたのは次に目が覚めて数秒経ったところだ。同じ夢の中に入っては出てをくりかえす、ということがあり得るのかと驚く。それはつまり鏡面世界に出入りしているようなものではないか。もう一度まぶたを落として三度目の同じ夢を見たとしたら、それはもう夢ではないだろうと思いながら私は再々度目を閉じる。そこで現れたのは美容室の彼だった。「市原さん、今度、ぼく、釧路に帰ろうと思うんです。」ああいやだなあと思い、「出張でたまに行くので、今度は釧路で髪を切ってください」と返事しようとするがなぜか同じセリフを横にいた別の男が一語一句変わらず伝えてしまい、私はそれで尻込みをして、彼に何も言えないまま家に帰るために車に乗る。車窓の風景を眺めながら私は、これで自分が釧路に引っ越す計画から少し遠ざかったなと感じて隣に座っていたメーテルに理解を求める。目が覚めて時計を見るとやはり先程から7分くらいしか経過していない。となりにはメーテルではなく名誉教授が座っており私は彼を次元銃で撃とうと思ってカバンを探したがそこには手帳しか入っていなかった。

いつものように変でる

バッハが笑ったよ! バッハハハ! これくらいのギャグだと投稿する気がしない。雑だからだ。思いついたものを何でもそのまま投稿してはだめだ。俳句と同じである。今そこで起こっているできごとをただ羅列するだけで俳句になるわけではない。推敲が必要なのだ。たとえば今のギャグだとX向きにしようと思ったら何種類かの推敲パターンを試してみる必要がある。


笑うバッハ「バッハハハ」


機嫌のいいバッハ「バッハハハ」


バッハ「バッハハハ」

ゴッホ「ゴッホホホ」

ベートーヴェン「ヴィッヒヒヒ」


笑うバッハの母「バッハハハ」


こういった可能性を追求する。「続きまして」と言われて新たにギャグを考えるとき、必死でひねり出したギャグをついそのまま投下しそうになるけれど、ぐっとがまんして、いらすとやで程よいイラストを探している間もずっと推敲を続ける。

なおこういった構文がタイムラインにおいて一般的に見られる、いわゆる「調教されている」状態だと、逆に、「X向きの整えは飽きられる」。その場合はむしろ、


バッハが笑ったよ! バッハハハ!


のまま、さも投げやりに投下したほうが、目の覚めるような今更感によってフォロワーたちの生活が潤ったりもする。これはべつに、一切推敲していないのではなく、十分な推敲の末に、一周回って、「逆に」、達人の剣ほど削ぎ落とされてシンプルであるように、十牛図が循環して元に戻ってくるように。

ひとつのギャグを「図」と考えた場合、その「図」がどのような「地」に置かれることになるのかをきちんと考慮する。図と地の双方に目配りをせずに勢いだけで、ああ今思いついちゃった、バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのと、最近のダジャレの流れとしてカギカッコを用いた構文が多いなあ、だったらストレートに バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのとでは、下ごしらえにかける手間暇がまるで違う。刺し身。刺し身といっしょだ。仕入れ、場所えらび、切り方、盛り付け、醤油、薬味、料理の出る順番、店のたたずまい、コースの料金、客層など、すべてがひときれの刺し身の味に影響する。それといっしょだ。ギャグの味わいは千変万化。推敲なくしてギャグはあり得ない。バッハハハ! おっバッハくん今日も楽しそうだね。なんだよ偉そうに。あんまりそうやってヴィヴァルディよ(いばるなよ)。これだ! いや待て! 考え直せ!

小骨

重めの原稿を書いていた。自分の指から出てくる順列に既視感があった。あっ、これ、進研ゼミで問いた問題だ! のイラストとともに私が思い出したのはbloggerの編集画面。そうか、この話題、前にブログで書いていたのか。急速に気持ちがしぼんで1ページ半くらい消す。

何度書いてもいい文章というのもあるが、今回私が扱うこの原稿については、「はじめて思索の荒野を切り開くときの気分で書く」ことが大事であるし本質である。「はじめて考えるふり」ではだめだ。初見の衝突がないと論理が駆動しないままに言葉だけがするするつながって中身すかすかの文章になる。その言葉の次にはその言葉がまあそりゃ来るよね、という、定石どおりの打ち回し。「著者の思い」を入試問題で問われてインタビューで「えっ、だったら、私もこの問題、解けませんねw」などとテンプレ通りに承認欲を満たして2ちゃんねるでコスられる。

ナタでブッシュを左右に切り分けながら道を確保。ナタを持った右手に枝先がかすって切り傷が無数にできる。そのじんじんとした痛みを無視しながらなおもガスガス下草を漕ぎ分けて進む。そういう感じの手順を踏まないとこの文章は完成しないだろう。まだ全体の10分の1にも満たない地点。思った以上に書けない。もっと早くできるかと思っていた。

考えて書くって大変なことだ。書けてしまってから後で考えることばかりやってきた。

「未知を既考に変える瞬間の爆発的な思考のこんがらかり」を書く。自分の実力を二歩くらい通り過ぎた場所の仕事をしている。

かれこれ1年くらい、ぬか床に沈められているWordファイル。ときどき取り出してもう食べられるかなと思うのだけれどいつまで経っても発酵が進んでいかない。さりとて腐敗もしない。蝋人形のように時の停滞した素材。はしっこをかじってブログに書いてまた戻して、を繰り返している。よくないのだろう。しかしブログをやめたところで文章が劇的に進んでいくだろうとも思わない。




たくさんの人に読んでもらうための手法を、雰囲気で嫌ってちょっとずつ排除することを、これまでもやってきた。でも今書いている文章ではそれがより顕著だ。「考え込みたい人だけに最適化した文章」をめざす。たくさんの人に読んでもらわない。読みやすさ、キャッチーさ、ポップさを、本当はそれがある種の栄養であるにもかかわらず、「小骨」だと思って取り除く。あまりそういう書き方をしたことがない。エッセイはもちろんだが教科書であっても私はこれまで八方に美しく思考が飛び散っていくのをそのままにしてまとまりのない文章を書いてよしとしていた。その雑多な部分にあるいは私なりの味付けがあった。美食ではなかったかもしれないがB級グルメにはなっていた。大トロ、中トロ、ホホ肉、中落ちみたいな名前のついたうまい部位だけでなく、まかない用の端材も含めて飯の上にのっける海鮮丼手法。でも今回は赤身だけだ。ミトコンドリアが一番多い部分だけだ。わさびも醤油も使わない。食通であってもそれはもったいないと嘆くだろう。しかしそういうものを書きたいと思っている。少年は赤身を目指す。だれが少年だ。こういうのが小骨だ。

フレイルランニング

「ふだん、箸より重いものを持たないんで……」みたいな言い方の亜種として、病理医はしばしば、「プレパラートより重いものを持たないんで……」と言うことがある。これはつまり言い換えると、「患者の命より重いものを持たないんで……」ということだ。趣深い宣言だ。たしかにそれより重いものを持つ機会はそうそうない。

ふと手を見る。竹刀を振らなくなって20年以上が経ち、左手の小指のつけねの筋肉はすっかりぺらぺらになった。重いものを持っていない手。使わなければおとろえていく。タンパク質だけに限った話ではない。一人暮らしの台所を一切使わないまま数年くらしていたときのあの独特のさびれかたを思い出す。油汚れが浮かず水垢と綿埃が溜まっていく感じ。「廃用性萎縮」の原風景、北海道大学北18条門から徒歩10分、北19条西5丁目、第一野村荘2階204号室。いまや跡形もない。使わなければ消え去っていく。ハイヨー。

毎日の仕事が終わるとカラッと忘れてまたすぐに次の仕事にうつっていくような暮らしだから海馬も萎縮している。短期記憶が持たない。現在を維持するにあたって遠い記憶ばかり反芻している。いまどうしてるかを書き始めたはずのブログに過去が入り乱れる。私の正体は緩慢な走馬灯なのだが、そこからまわりに灯りが漏れているだけなのに、自分が灯台であると勘違いをしている。

LINEのスレッドをときどき消す。これ誰だっけと忘れた状態でアイコンを見ると傷つくから、忘れる前に消しておくとよいのだ。人付き合いの廃用に関する姑息的なライフハックである。無理に点滴してむくみをふやすようなことをせず、乾かしたままで、おだやかにコミュニケーションの末期をささえる。アレクサ、看取って。

なぜかはわからないのだが定期的に西日本の旅行会社からの営業メールが古いメールアドレスに届く。いつ、どこで、なんのパックを組んだ際に、メールアドレスを登録したのだろう。札幌に支社があるかどうかもわからない中堅どころのツアコンだ。長崎とか高知とか石垣島への旅行はいかがですか。HTMLではなくテキスト形式の営業メール。届くとすぐにポインタを乗せてデリートしているのだけれど、なぜか、いまだに、配信停止の手続きをとらないでいる。中高の友達は切ったのにトラベル会社の営業は切らないで残している。惰性という言葉で十分だと思う。いずれ、残しておいてよかったと思うものなのだろうか。残しておけばよかった数々の記憶の残骸をかきわけながら、ああ、これは残っていてよかったと、安堵する日がくるだろうか。こうしてブログに書いてみてああもういいやと思ってたった今、配信停止のリンクを押した。2つタップしてこれでもう届かない。ハイヨー。

察しろよおじさん

地方会の利便をはかるため、某大学講座のサーバに置かせてもらったデータ(個人情報削除済み)を参加者たちに周知したのだが、ファイルの都合上、ちょっとアクセスの仕方が面倒なものになってしまった。しょうがないので周知のメールにPDFを添付して、「これこれこのようにして見てくださいね」と図入りで説明をした。

しかし、アンケートには少数ではあったが、「ファイルが見られませんでしたので説明をお願いします」という感想がとどいた。


なんっにも読まねぇな! てめぇらはほんとに! 書いといただろ! 読めよ!

とは言えかくいう私も最近は「説明書」を読まない。書いてあれば読むなんてのはもはや幻想なのかもしれない。


むかしの私はファミコンを買えばファミコンの説明書を読み、カセットを買えばカセットひとつひとつの説明書を読み、プラモを買えば組み立て図の横に書いてある文章も読み、親父が買ったビデオデッキや扇風機の説明書までたんねんに読んだ。しかし、あのころの習慣はちかごろ一切発動しない。雀踊り百まで忘れずではなかったのか。雀じゃないし踊りでもないからしかたないのか。なんかいつのまにかこうなっていた。

スマホの説明書も自動車の説明書も読まない。PCほど高価なものであっても読まない。マウス程度の小さな説明書だって読まない。

読まなくなった理由はなんだ。活字なら何でもそれなりにおもしろさはあるはずなのに。うーん。「どうせ言い訳しか書いていない」という目で見ているからかな。いまどきの説明書は、売る側の都合、売る側の免責ばかり説明しているように思う。使う側が知りたいことは書いていない。だから読む気がしない。

つまりはメーカーの怠慢なのか。そんなこともない。なぜなら知りたいことは検索した先で見つかるようになっているからだ。冒頭から順序立てて読まなければいけない説明書よりも、検索で一発頭出しできるウェブの説明を潤沢にしたほうがサービスとしては優れているだろう。

検索のほうがべんり。通読のシステムはどんどん廃れている。長文の説明書なんてもはやエクスキューズにしか使われていない。私自身も検索しかしないのだ。そのくせ、人にはPDFを送って「読めよ!」とか言っているのだから、まったくしょうがない。


私がメールに添付したPDF、果たして何人が開いて読んだのだろう。ほとんど読まれていないのだろう。とはいえ、単発の研究会の資料をくばるのにいちいちFAQをオンラインに解説してGoogle検索でひっかかるようにできるわけもない(会員にだってその発想はない)。読まないPDFを配り続けるしかない。

個別具体的な情報の伝達が世界中でちょっとずつ鈍化してきているのかもな。



鈍化している? いや、違うか。これがデフォルトなのか。

私がこれまで、自分の言葉の通じやすいコミュニティに引きこもっていたために、ローカルで最適化されたコミュニケーション手法によって過剰な情報しかやりとりしてこなかったために、いまさら社会の「通じなさ」に驚いているだけか。PDFいっこ添付すれば全部伝わるだろ読めよとか言っていたけれど、それは本来、社会に適したコミュニケーションの方法ではない。そりゃそうか。気づくのが遅いなあ。



社会のあちこちに断層がある。インピーダンスの異なる物質に満ちあふれていてレイリー散乱まみれでスペックルにうずもれている。私たちはノイズでぼんやり見づらくなった状態でしかお互いを見られない。ノイズの除去は理論的に不可能だ。なぜなら彼我にはかならず距離があるからで、距離があれば必ずそこには場があり、場があればそこにはかならず間質があって、間質は常に多様でアンコントローラブルだからだ。したがって単一の観察方法に頼っている限り、私たちはお互いのようすをノイズ混じりでしか捉えることができない。だからこそ私たちは、いつも無意識に、複数の角度から情報を集めて組み上げようとする。可視光線で情報を拾いきれないのなら、音とか、温度とか、空気のながれといった、異なるモチーフによって別様に世界をまさぐる。そうすることで、ノイズの向こうでなにやら動いてしゃべっている人たちが、どんな表情で何に臨んで何を望んでいるのかを、総体として感じ取ることができる。できることがある。それが社会における本来のコミュニケーションだ。今も昔も変わらない、本来のやりとりとはそういうものだ。


しかし私は社会に出ないまま大人になった。そしてまんまと「こっちは全部情報出してんだから察しろよおじさん」になっていた。いやになっちゃうね。もっと社会にやさしくならないとね。と、これだけ説明書きをしておけば、とりあえず読んだ人にとって私は「がんばって世界とコミュニケーションを試み続けている心のやさしいおじさん」として認識されることだろう。読まないやつのことは知らん。読まないほうが悪い。

ダーウィンの不始末

ちかごろ、研究会や勉強会で発言するときに、抑制がうまくかからない。わりと辛辣になってしまう。せっかくみんな勉強のために忙しい中集まってきて精一杯がんばっているのだから、もっとナアナアな雰囲気で、誰かが多少おかしなことを言ったとしても「いいよいいよ、がんばってるもの」みたいに、広い心で、相互扶助の精神で、1に交流2に交流、34がなくて5に直流くらいのイメージで。

と書くといかにも皮肉っぽくなってしまうのだけれど、実際、時間外によかれと思って勉強のために集まってる人々のことは大事にすべきだと思う。学術的な正しさを追求するためなら人をどれだけ傷つけてもいいなんて理屈は今の時代にそぐわないし昔だって本当はだめだった。

そういうことを、よくわかっているのだけれど、どうも、最近は抑制がうまくかからない。

若手が怖がっているように思う。私はそういうタイプの人間だったのだなと悲しい思いもある。

私に厳しく突っ込まれた人がこれを読んだら、「人をさんざんこきおろしておいて何を……」と鼻白むかもしれない。

私としては人を攻撃しているのではなく論理を攻撃しているつもりなのだけれど、「罪を憎んで人を憎まず」みたいな標語にも言えることだが人の言葉や論理というのは口から出た瞬間に肉体と切り離されるわけではまったくなく、結局はその人の人格というか内面と切り離せないものなので、「学問の話題では真剣勝負、終わったらノーサイドで称え合う」なんてのはしょせんはきれいごとでしかない。

人の考えを受けてそこを高めていくような知性を身につけるまで、少し、話す回数を減らして「予防」をするべきかもしれない。

しかし、研究会や勉強会、と書いたけれど、そういうときだけではなく、普段から、だれかとしゃべるときにトゲが出てきている可能性もある。ここにきてコミュニケーションの仕方が雑になってきているかもしれない。私が若いころにあちこちで見た、「歳を取っているというだけで居丈高」に見える人たちと、今の私とはどれくらい違うのだろうか。わりと一緒なのではないか。




ウェブ日記をはじめた。「がんユニ」という。


URLが無粋で、ばれてしまうのだが、医学書院に作ってもらったサイトだ。ただし更新はすべて私がひとりで行う。書くのはもちろん、公開作業も、告知もだ。告知はだんだん減っていく可能性もある。

診療の毎日についてのことを主に書く。何月何日にどうこうしたと書くと個人情報ホゴホーにかすりはじめるので、記事の執筆した時期と公開日とをランダムに組み替えている。Wordpressのプラグインを用いて小さな工夫をしている。こんな内情をいちいち書かなくてもいいのだが、書かないと掴みかかってくる人もいて、まあ掴みかからせておけばいいのだが。

いずれ診療のことだけではなく出張についても書く。人に会って話を聞く仕事の。編集者が音声データから文字起こしをしたものを私が原稿にまとめる過程を、すでに一年くらい続けており、あと一年くらい続く。見通しがだいぶ立ってきた。

まとめた記事の中にまじりこむ私のエゴをとりのぞく作業に手間をかけている。ホタルイカの下ごしらえでくちばしや軟骨や目をとりのぞく作業に似ている。私がかかわる企画である以上、私から染み出す「味」を無にはできないが、まじりこんだそれが「魚骨」であってはならないし、「スパイス」くらいだとまだまだ多いし、「出汁」でも濃いというかうっとうしいというか、「椀の模様」でありたいとも思わないし、「箸置き」くらいでありたい。

そうやってとりのぞかれたエゴの部分がボウルの中に山積みになっている。ホタルイカの否可食部なら捨てるしかないけれど、エゴは別の料理に使える薬味として使えなくもない気がした。刻んでそろえて冷やしておくくらいならいいかなと思ったのが、ウェブ日記をはじめた理由である。



直接人と向き合わないコミュニケーションは達者になった気がする。選択圧によって残った変異、私の場合、そういうものだったのだなあと思う。

村田英雄

ZAZEN BOYSのライブのことを考えている。サイボーグのオバケはやらなかったな。あれ聴きたかったな。SI・GE・KIもやらなかったな。あれ聴きたかったな。Asobiをやらなかったな。あれマジで聴きたかったな。それ以外は完璧だった。いつものことだ。ユニゾンとかハーモニーとかいう言葉だと違和感がある。グルーヴというのがよいのだろうか。でも世でグルーヴという言葉を使っている人々のことがあまり好きではないのでほかの言葉をあてたい。ギグとかにも言えることだ。考えている。こんなことに脳を使っている。空白ができないように考え続けている。


数日前の夜、というか日の出まであとちょっとという時間に目が覚めた。意識のフォーカスが暗闇に合うまでの間、耳の裏側のあたりにキーンというかシーンというか、とにかくそういう超高音域のモスキート音のような音がずっと響いているのがわかり、それがあるときにぴたっと止んで完全な無音となった。まだ寝ぼけていたのだけれどとても驚いた。そうか、私はいつも、これだけのバックグラウンドノイズがずっと響いている中で何も知らずに笑って暮らしていたのか、と思った。無音はそれくらい、ほんとうに何もなかった。しかし、次の瞬間にはまたキーンというしずかな音がなりはじめて、たった数秒程度の完全な無音はそれっきり二度と戻ってこなかった。そうか、うん、いまのは夢だったのだろう、と思ってまた二度寝をした。

早朝、目が覚めて、耳の向こうをたしかめる。やはりずっとキーンという音がなり続けているような気がした。それは段ボールの表面のテクスチャのように、そういうざらつきがあるのが当たり前といった雰囲気で、試薬の調節に使う精密秤のゼロ・ポイントを指定するときのように、私の無音というのはこのノイズ以外の音が何もしていない状態なのだと自分でフィックス・定義されているのだなということがぼんやりとわかった。

私の目も耳も肌も、すべて、空気や光の圧力があることを前提として、それらが自動的に生み出すノイズをあらかじめリダクションした状態で、世の中をはかっている。重力に対する内蔵のふんばりも、室温をふまえた細胞の代謝も、あらゆるものからの影響を「あることはもう前提として」、私はときになにものからも自由になってたゆたっているような自分の姿を思い浮かべている。心臓伝導路における心筋の微弱な興奮も、錐体路の末端におけるシナプス間隙の些末な放出も、胃底腺の管状構造内におけるペプシノーゲンの微量の分泌も、すべて音を奏でているけれど、私はそれらをデフォルトで無音の条件だと思い込んでいる。

差分でしか認識できないという話を最初に提案したのは哲学者ではなくアニメーターであったろう。昔のアニメでは草むらから何かが飛び出てくるシーンでその草だけが色が違っていて、ああ、ここから何かが出てくるのだなということが子供心にわかりやすかった。


変化をみる。変化だけを見極める。変わらないのはカシオマンのギターだけだ。変わらない場所はいつか基線にされる。完全なハーモニーは聴いていないのと同じになり、狂った鋼の振動が音楽だとみなされる。内閣総理大臣 ジェリー・ガルシア。国家公安委員会委員長 ジョン・ベルーシ。農林水産大臣 マイルス・デイビス。それが基線となるような世界においては、とうぜん、陸軍中野学校予備校理事長は村田英雄。

すぐ写メんな

くしゃみや咳の音が複数、頻繁に聞こえてくる。「その部屋」で蔓延している。ある意味なつかしく牧歌的である。それを人々が問題と思わないくらいには日常になったということだ。あれだけ大変な日々だったのになんだかもう物語の中のようだ。私たちは急速についこの間まで起こっていたことを額縁の中に入れてそれっきり目線をやらなくなっていく。


今日は飲み会の予定が入った。飲み会! 緊張感のない日本語。飲みの会でも飲む会でもなく、「飲み会」! ゆるみきった心象。だらけきった概念。とはいえ正直ちょっとだけ楽しみだ。けれどそれ以上に面倒である。燃え殻さんがかつて、あらゆる予定は直前でキャンセルしたくなると書いていたがとてもよくわかる。楽しみと面倒は、同じ坂道の途中に咲いている花だ。高低差のあるロングトレイルを走るより遅く歩くより早い速度でえっちらおっちら辿るとそこかしこに見えてくる。少し楽しみだけど面倒なこと。少し楽しみだからこそ面倒なこと。ぽつん、ぽつんとこなす。いくつもの山を越えていく。えっちらおっちら越えていく。飲み会の翌週の仕事を発熱ですっ飛ばしたらコトだ。飲み会のメンバーとの距離感を間違って話題を選び損なってもコトだ。周りとペースをあわせて飲食する量を揃えていかないとコトだ。じっくりコトコト煮込んだスープ。


『フラジャイル』の医療監修をするようになって、役得的に原作やネームを見せてもらう機会があり、雑誌連載時の初読の感動を奪われて、それはまあその本当にまじで迷惑なんだけど、でもそれはおくとして、こうした場に携われることはとても光栄なことだし、なにより、あの原作の「台本」からこんな構図でこんな奥行きの絵が出てくるのかという驚きをいつもしみじみ味わっている。小説がドラマや映画になる場合もあって、文章が実写ではああやって表現されるのか、というのを照らし合わせ・答え合わせすることを我々はしばしば試みるが、いわゆる「失敗作」は抜きにして、すばらしい実写化を果たした「成功作」をいくつか思い出してみても、そこまで文章と実写とで大きな逸脱はないし、そこまで大きな驚きを得たこともない。「見事な実写化」がまったくないとは思わないが、映像的な魅せ方はともかく脚本が原作を凌駕した実写化というのは少なくとも私はこれまでほとんど見たことがない。「役者」がはまり役だとかうまいとかいう評判はわかる。実写の性格をふまえたうえでの脚本の変更というのもわかる。でもそれはあくまでそこまでの話だ。しかし、ひるがえって、『フラジャイル』に感じる原作の咀嚼と代謝を見ると、これはもう、本当にすごい。これまで見てきたあらゆる原作付きドラマが「原作通りだな」もしくは「意図的に原作とバトってるな」の雑な二択に分類されざるを得ないレベルでフラジャイルの作画担当の原作処理能力は異様に高い。なんというか、その、うーん、アウフヘーベンしているのだ。いや違うか……昇華している? うーんもうちょっと複雑なニュアンスで。サナギが蝶になるような? 変態? 変態は変態だが。

草水敏がひとりで書き上げた原作はたしかに美しく、そのままテレビドラマの脚本になるクオリティである。それが恵三朗の脳を介すると「まるで違う風景が脳内に展開されるが確実に原作のニュアンスを踏まえたもの」になる。抜群におもしろい。原作をなぞるだけのマンガでは全くない。言い方は乱暴だが、「原作ストーリーテラー公認の原作作画担当者による同人誌」かよ、という感じまでする(本当に変な言い方だ)。原作の設定を神聖に扱いつつ、原作をはるかに膨らませた妄想の世界が広がっている。しかもその辻褄が完全に合っている。怖い。怖いオタクの所業でまれに見るやつだ。正直、私は、『フラジャイル』の医療監修をする前までは、草水敏と恵三朗の作品に対する貢献度は6:4くらいなのかなと思っていた。しかし原作と完成品とを両方見ると、これが5:5に変わる。4:6ではなく5:5だというのがエグい。2名の強い個性がぶつかって5:5で安定しているというのがエグい。これが協同で作るということ。すばらしいものを見ている。

こんなすごいものを「日常」の一部で見るようになった自分のおかしさを思う。おっかしいよ。額縁に入れんな。