マルセルに物申す
うとうと
通っている美容室はいつ行ってもスカスカなのに、予約はいつ見てもいっぱいだ。店のサイズのわりに働いている美容師の数が少ないからだろう。いつもガラ空きの店でゆっくり本を読む。担当の美容師は、最初に近況などをふたこと、みことしゃべる程度で、あとは全くしゃべらない。もうかれこれ、10年以上の付き合いになるが、彼の出身地が道東方面であるということ以外の情報はいまだに持っていない。居心地がよい。できるだけ長くこの店にいてほしいと願う。
でもまあいつかいなくなるだろうなという予感もある。私と気が合う人だからな。このままひとつのところでずっといることはなく、いつか、特段の理由もなく、ふといなくなるだろう。これまで私はそういうタイプの人と仲良くなってきた。雑な統計学から導き出される推測である。
人間はなんどか居場所をやり直す権利を持っている。「自分にとって安定していられる場所」というものが、生涯おなじままである必要はないし、そこをあるときにぐっと変更するというのもおつなものだと思う。自分がそうしたいというわけではないが、仕事にしても趣味にしても、途中でがらりと変えてしまいたくなる瞬間に関して、共感はともかく理解はできる。
『銀河鉄道999』のコミックス(全21巻)をKindleで購入した。異様に細かい背景の書き込みとはっきり汚い鉄郎の顔、1話ずつ完結するストーリー、読者全員がメーテルを好きになる暗示が染み込んでいるコマ割り、ナレーションのうざさも含めて文句なしの名作でなるほど有名になる作品というのはやはりそれだけの理由と実力を備えているものだなとしみじみする。数巻分をダウンロードしたところで制限時間となり細胞学会北海道地方会に出席。途中のシンポジウムのひとつで、演者がみんな似たようなことばかり発表していてうんざりして失神するように眠ってしまった。夢の中の私は同じ学会にきちんと出席しており、演題に興味が持てないので999のマンガを読んでいて、「そんなに堂々とさぼらないでください」と座長に叱られる。そこで目が覚める。まぶたが落ちてからおそらく15分も経っていない。学会の最中に学会の夢を見て起きてまた学会なので呪われているような気持ちになる。私はふたたび目の前の演題に興味をなくして夢の中に戻る。またもそこは学会場なのだ。そして私は再び999のマンガを読む。そのことに気づいたのは次に目が覚めて数秒経ったところだ。同じ夢の中に入っては出てをくりかえす、ということがあり得るのかと驚く。それはつまり鏡面世界に出入りしているようなものではないか。もう一度まぶたを落として三度目の同じ夢を見たとしたら、それはもう夢ではないだろうと思いながら私は再々度目を閉じる。そこで現れたのは美容室の彼だった。「市原さん、今度、ぼく、釧路に帰ろうと思うんです。」ああいやだなあと思い、「出張でたまに行くので、今度は釧路で髪を切ってください」と返事しようとするがなぜか同じセリフを横にいた別の男が一語一句変わらず伝えてしまい、私はそれで尻込みをして、彼に何も言えないまま家に帰るために車に乗る。車窓の風景を眺めながら私は、これで自分が釧路に引っ越す計画から少し遠ざかったなと感じて隣に座っていたメーテルに理解を求める。目が覚めて時計を見るとやはり先程から7分くらいしか経過していない。となりにはメーテルではなく名誉教授が座っており私は彼を次元銃で撃とうと思ってカバンを探したがそこには手帳しか入っていなかった。
いつものように変でる
バッハが笑ったよ! バッハハハ! これくらいのギャグだと投稿する気がしない。雑だからだ。思いついたものを何でもそのまま投稿してはだめだ。俳句と同じである。今そこで起こっているできごとをただ羅列するだけで俳句になるわけではない。推敲が必要なのだ。たとえば今のギャグだとX向きにしようと思ったら何種類かの推敲パターンを試してみる必要がある。
笑うバッハ「バッハハハ」
機嫌のいいバッハ「バッハハハ」
バッハ「バッハハハ」
ゴッホ「ゴッホホホ」
ベートーヴェン「ヴィッヒヒヒ」
笑うバッハの母「バッハハハ」
こういった可能性を追求する。「続きまして」と言われて新たにギャグを考えるとき、必死でひねり出したギャグをついそのまま投下しそうになるけれど、ぐっとがまんして、いらすとやで程よいイラストを探している間もずっと推敲を続ける。
なおこういった構文がタイムラインにおいて一般的に見られる、いわゆる「調教されている」状態だと、逆に、「X向きの整えは飽きられる」。その場合はむしろ、
バッハが笑ったよ! バッハハハ!
のまま、さも投げやりに投下したほうが、目の覚めるような今更感によってフォロワーたちの生活が潤ったりもする。これはべつに、一切推敲していないのではなく、十分な推敲の末に、一周回って、「逆に」、達人の剣ほど削ぎ落とされてシンプルであるように、十牛図が循環して元に戻ってくるように。
ひとつのギャグを「図」と考えた場合、その「図」がどのような「地」に置かれることになるのかをきちんと考慮する。図と地の双方に目配りをせずに勢いだけで、ああ今思いついちゃった、バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのと、最近のダジャレの流れとしてカギカッコを用いた構文が多いなあ、だったらストレートに バッハが笑ったよ バッハハハ とやるのとでは、下ごしらえにかける手間暇がまるで違う。刺し身。刺し身といっしょだ。仕入れ、場所えらび、切り方、盛り付け、醤油、薬味、料理の出る順番、店のたたずまい、コースの料金、客層など、すべてがひときれの刺し身の味に影響する。それといっしょだ。ギャグの味わいは千変万化。推敲なくしてギャグはあり得ない。バッハハハ! おっバッハくん今日も楽しそうだね。なんだよ偉そうに。あんまりそうやってヴィヴァルディよ(いばるなよ)。これだ! いや待て! 考え直せ!
小骨
重めの原稿を書いていた。自分の指から出てくる順列に既視感があった。あっ、これ、進研ゼミで問いた問題だ! のイラストとともに私が思い出したのはbloggerの編集画面。そうか、この話題、前にブログで書いていたのか。急速に気持ちがしぼんで1ページ半くらい消す。
何度書いてもいい文章というのもあるが、今回私が扱うこの原稿については、「はじめて思索の荒野を切り開くときの気分で書く」ことが大事であるし本質である。「はじめて考えるふり」ではだめだ。初見の衝突がないと論理が駆動しないままに言葉だけがするするつながって中身すかすかの文章になる。その言葉の次にはその言葉がまあそりゃ来るよね、という、定石どおりの打ち回し。「著者の思い」を入試問題で問われてインタビューで「えっ、だったら、私もこの問題、解けませんねw」などとテンプレ通りに承認欲を満たして2ちゃんねるでコスられる。
ナタでブッシュを左右に切り分けながら道を確保。ナタを持った右手に枝先がかすって切り傷が無数にできる。そのじんじんとした痛みを無視しながらなおもガスガス下草を漕ぎ分けて進む。そういう感じの手順を踏まないとこの文章は完成しないだろう。まだ全体の10分の1にも満たない地点。思った以上に書けない。もっと早くできるかと思っていた。
考えて書くって大変なことだ。書けてしまってから後で考えることばかりやってきた。
「未知を既考に変える瞬間の爆発的な思考のこんがらかり」を書く。自分の実力を二歩くらい通り過ぎた場所の仕事をしている。
かれこれ1年くらい、ぬか床に沈められているWordファイル。ときどき取り出してもう食べられるかなと思うのだけれどいつまで経っても発酵が進んでいかない。さりとて腐敗もしない。蝋人形のように時の停滞した素材。はしっこをかじってブログに書いてまた戻して、を繰り返している。よくないのだろう。しかしブログをやめたところで文章が劇的に進んでいくだろうとも思わない。
たくさんの人に読んでもらうための手法を、雰囲気で嫌ってちょっとずつ排除することを、これまでもやってきた。でも今書いている文章ではそれがより顕著だ。「考え込みたい人だけに最適化した文章」をめざす。たくさんの人に読んでもらわない。読みやすさ、キャッチーさ、ポップさを、本当はそれがある種の栄養であるにもかかわらず、「小骨」だと思って取り除く。あまりそういう書き方をしたことがない。エッセイはもちろんだが教科書であっても私はこれまで八方に美しく思考が飛び散っていくのをそのままにしてまとまりのない文章を書いてよしとしていた。その雑多な部分にあるいは私なりの味付けがあった。美食ではなかったかもしれないがB級グルメにはなっていた。大トロ、中トロ、ホホ肉、中落ちみたいな名前のついたうまい部位だけでなく、まかない用の端材も含めて飯の上にのっける海鮮丼手法。でも今回は赤身だけだ。ミトコンドリアが一番多い部分だけだ。わさびも醤油も使わない。食通であってもそれはもったいないと嘆くだろう。しかしそういうものを書きたいと思っている。少年は赤身を目指す。だれが少年だ。こういうのが小骨だ。
フレイルランニング
察しろよおじさん
地方会の利便をはかるため、某大学講座のサーバに置かせてもらったデータ(個人情報削除済み)を参加者たちに周知したのだが、ファイルの都合上、ちょっとアクセスの仕方が面倒なものになってしまった。しょうがないので周知のメールにPDFを添付して、「これこれこのようにして見てくださいね」と図入りで説明をした。
しかし、アンケートには少数ではあったが、「ファイルが見られませんでしたので説明をお願いします」という感想がとどいた。
なんっにも読まねぇな! てめぇらはほんとに! 書いといただろ! 読めよ!
とは言えかくいう私も最近は「説明書」を読まない。書いてあれば読むなんてのはもはや幻想なのかもしれない。
むかしの私はファミコンを買えばファミコンの説明書を読み、カセットを買えばカセットひとつひとつの説明書を読み、プラモを買えば組み立て図の横に書いてある文章も読み、親父が買ったビデオデッキや扇風機の説明書までたんねんに読んだ。しかし、あのころの習慣はちかごろ一切発動しない。雀踊り百まで忘れずではなかったのか。雀じゃないし踊りでもないからしかたないのか。なんかいつのまにかこうなっていた。
スマホの説明書も自動車の説明書も読まない。PCほど高価なものであっても読まない。マウス程度の小さな説明書だって読まない。
読まなくなった理由はなんだ。活字なら何でもそれなりにおもしろさはあるはずなのに。うーん。「どうせ言い訳しか書いていない」という目で見ているからかな。いまどきの説明書は、売る側の都合、売る側の免責ばかり説明しているように思う。使う側が知りたいことは書いていない。だから読む気がしない。
つまりはメーカーの怠慢なのか。そんなこともない。なぜなら知りたいことは検索した先で見つかるようになっているからだ。冒頭から順序立てて読まなければいけない説明書よりも、検索で一発頭出しできるウェブの説明を潤沢にしたほうがサービスとしては優れているだろう。
検索のほうがべんり。通読のシステムはどんどん廃れている。長文の説明書なんてもはやエクスキューズにしか使われていない。私自身も検索しかしないのだ。そのくせ、人にはPDFを送って「読めよ!」とか言っているのだから、まったくしょうがない。
私がメールに添付したPDF、果たして何人が開いて読んだのだろう。ほとんど読まれていないのだろう。とはいえ、単発の研究会の資料をくばるのにいちいちFAQをオンラインに解説してGoogle検索でひっかかるようにできるわけもない(会員にだってその発想はない)。読まないPDFを配り続けるしかない。
個別具体的な情報の伝達が世界中でちょっとずつ鈍化してきているのかもな。
鈍化している? いや、違うか。これがデフォルトなのか。
私がこれまで、自分の言葉の通じやすいコミュニティに引きこもっていたために、ローカルで最適化されたコミュニケーション手法によって過剰な情報しかやりとりしてこなかったために、いまさら社会の「通じなさ」に驚いているだけか。PDFいっこ添付すれば全部伝わるだろ読めよとか言っていたけれど、それは本来、社会に適したコミュニケーションの方法ではない。そりゃそうか。気づくのが遅いなあ。
社会のあちこちに断層がある。インピーダンスの異なる物質に満ちあふれていてレイリー散乱まみれでスペックルにうずもれている。私たちはノイズでぼんやり見づらくなった状態でしかお互いを見られない。ノイズの除去は理論的に不可能だ。なぜなら彼我にはかならず距離があるからで、距離があれば必ずそこには場があり、場があればそこにはかならず間質があって、間質は常に多様でアンコントローラブルだからだ。したがって単一の観察方法に頼っている限り、私たちはお互いのようすをノイズ混じりでしか捉えることができない。だからこそ私たちは、いつも無意識に、複数の角度から情報を集めて組み上げようとする。可視光線で情報を拾いきれないのなら、音とか、温度とか、空気のながれといった、異なるモチーフによって別様に世界をまさぐる。そうすることで、ノイズの向こうでなにやら動いてしゃべっている人たちが、どんな表情で何に臨んで何を望んでいるのかを、総体として感じ取ることができる。できることがある。それが社会における本来のコミュニケーションだ。今も昔も変わらない、本来のやりとりとはそういうものだ。
しかし私は社会に出ないまま大人になった。そしてまんまと「こっちは全部情報出してんだから察しろよおじさん」になっていた。いやになっちゃうね。もっと社会にやさしくならないとね。と、これだけ説明書きをしておけば、とりあえず読んだ人にとって私は「がんばって世界とコミュニケーションを試み続けている心のやさしいおじさん」として認識されることだろう。読まないやつのことは知らん。読まないほうが悪い。
ダーウィンの不始末
村田英雄
ZAZEN BOYSのライブのことを考えている。サイボーグのオバケはやらなかったな。あれ聴きたかったな。SI・GE・KIもやらなかったな。あれ聴きたかったな。Asobiをやらなかったな。あれマジで聴きたかったな。それ以外は完璧だった。いつものことだ。ユニゾンとかハーモニーとかいう言葉だと違和感がある。グルーヴというのがよいのだろうか。でも世でグルーヴという言葉を使っている人々のことがあまり好きではないのでほかの言葉をあてたい。ギグとかにも言えることだ。考えている。こんなことに脳を使っている。空白ができないように考え続けている。
数日前の夜、というか日の出まであとちょっとという時間に目が覚めた。意識のフォーカスが暗闇に合うまでの間、耳の裏側のあたりにキーンというかシーンというか、とにかくそういう超高音域のモスキート音のような音がずっと響いているのがわかり、それがあるときにぴたっと止んで完全な無音となった。まだ寝ぼけていたのだけれどとても驚いた。そうか、私はいつも、これだけのバックグラウンドノイズがずっと響いている中で何も知らずに笑って暮らしていたのか、と思った。無音はそれくらい、ほんとうに何もなかった。しかし、次の瞬間にはまたキーンというしずかな音がなりはじめて、たった数秒程度の完全な無音はそれっきり二度と戻ってこなかった。そうか、うん、いまのは夢だったのだろう、と思ってまた二度寝をした。
早朝、目が覚めて、耳の向こうをたしかめる。やはりずっとキーンという音がなり続けているような気がした。それは段ボールの表面のテクスチャのように、そういうざらつきがあるのが当たり前といった雰囲気で、試薬の調節に使う精密秤のゼロ・ポイントを指定するときのように、私の無音というのはこのノイズ以外の音が何もしていない状態なのだと自分でフィックス・定義されているのだなということがぼんやりとわかった。
私の目も耳も肌も、すべて、空気や光の圧力があることを前提として、それらが自動的に生み出すノイズをあらかじめリダクションした状態で、世の中をはかっている。重力に対する内蔵のふんばりも、室温をふまえた細胞の代謝も、あらゆるものからの影響を「あることはもう前提として」、私はときになにものからも自由になってたゆたっているような自分の姿を思い浮かべている。心臓伝導路における心筋の微弱な興奮も、錐体路の末端におけるシナプス間隙の些末な放出も、胃底腺の管状構造内におけるペプシノーゲンの微量の分泌も、すべて音を奏でているけれど、私はそれらをデフォルトで無音の条件だと思い込んでいる。
差分でしか認識できないという話を最初に提案したのは哲学者ではなくアニメーターであったろう。昔のアニメでは草むらから何かが飛び出てくるシーンでその草だけが色が違っていて、ああ、ここから何かが出てくるのだなということが子供心にわかりやすかった。
変化をみる。変化だけを見極める。変わらないのはカシオマンのギターだけだ。変わらない場所はいつか基線にされる。完全なハーモニーは聴いていないのと同じになり、狂った鋼の振動が音楽だとみなされる。内閣総理大臣 ジェリー・ガルシア。国家公安委員会委員長 ジョン・ベルーシ。農林水産大臣 マイルス・デイビス。それが基線となるような世界においては、とうぜん、陸軍中野学校予備校理事長は村田英雄。
すぐ写メんな
くしゃみや咳の音が複数、頻繁に聞こえてくる。「その部屋」で蔓延している。ある意味なつかしく牧歌的である。それを人々が問題と思わないくらいには日常になったということだ。あれだけ大変な日々だったのになんだかもう物語の中のようだ。私たちは急速についこの間まで起こっていたことを額縁の中に入れてそれっきり目線をやらなくなっていく。
今日は飲み会の予定が入った。飲み会! 緊張感のない日本語。飲みの会でも飲む会でもなく、「飲み会」! ゆるみきった心象。だらけきった概念。とはいえ正直ちょっとだけ楽しみだ。けれどそれ以上に面倒である。燃え殻さんがかつて、あらゆる予定は直前でキャンセルしたくなると書いていたがとてもよくわかる。楽しみと面倒は、同じ坂道の途中に咲いている花だ。高低差のあるロングトレイルを走るより遅く歩くより早い速度でえっちらおっちら辿るとそこかしこに見えてくる。少し楽しみだけど面倒なこと。少し楽しみだからこそ面倒なこと。ぽつん、ぽつんとこなす。いくつもの山を越えていく。えっちらおっちら越えていく。飲み会の翌週の仕事を発熱ですっ飛ばしたらコトだ。飲み会のメンバーとの距離感を間違って話題を選び損なってもコトだ。周りとペースをあわせて飲食する量を揃えていかないとコトだ。じっくりコトコト煮込んだスープ。
『フラジャイル』の医療監修をするようになって、役得的に原作やネームを見せてもらう機会があり、雑誌連載時の初読の感動を奪われて、それはまあその本当にまじで迷惑なんだけど、でもそれはおくとして、こうした場に携われることはとても光栄なことだし、なにより、あの原作の「台本」からこんな構図でこんな奥行きの絵が出てくるのかという驚きをいつもしみじみ味わっている。小説がドラマや映画になる場合もあって、文章が実写ではああやって表現されるのか、というのを照らし合わせ・答え合わせすることを我々はしばしば試みるが、いわゆる「失敗作」は抜きにして、すばらしい実写化を果たした「成功作」をいくつか思い出してみても、そこまで文章と実写とで大きな逸脱はないし、そこまで大きな驚きを得たこともない。「見事な実写化」がまったくないとは思わないが、映像的な魅せ方はともかく脚本が原作を凌駕した実写化というのは少なくとも私はこれまでほとんど見たことがない。「役者」がはまり役だとかうまいとかいう評判はわかる。実写の性格をふまえたうえでの脚本の変更というのもわかる。でもそれはあくまでそこまでの話だ。しかし、ひるがえって、『フラジャイル』に感じる原作の咀嚼と代謝を見ると、これはもう、本当にすごい。これまで見てきたあらゆる原作付きドラマが「原作通りだな」もしくは「意図的に原作とバトってるな」の雑な二択に分類されざるを得ないレベルでフラジャイルの作画担当の原作処理能力は異様に高い。なんというか、その、うーん、アウフヘーベンしているのだ。いや違うか……昇華している? うーんもうちょっと複雑なニュアンスで。サナギが蝶になるような? 変態? 変態は変態だが。
草水敏がひとりで書き上げた原作はたしかに美しく、そのままテレビドラマの脚本になるクオリティである。それが恵三朗の脳を介すると「まるで違う風景が脳内に展開されるが確実に原作のニュアンスを踏まえたもの」になる。抜群におもしろい。原作をなぞるだけのマンガでは全くない。言い方は乱暴だが、「原作ストーリーテラー公認の原作作画担当者による同人誌」かよ、という感じまでする(本当に変な言い方だ)。原作の設定を神聖に扱いつつ、原作をはるかに膨らませた妄想の世界が広がっている。しかもその辻褄が完全に合っている。怖い。怖いオタクの所業でまれに見るやつだ。正直、私は、『フラジャイル』の医療監修をする前までは、草水敏と恵三朗の作品に対する貢献度は6:4くらいなのかなと思っていた。しかし原作と完成品とを両方見ると、これが5:5に変わる。4:6ではなく5:5だというのがエグい。2名の強い個性がぶつかって5:5で安定しているというのがエグい。これが協同で作るということ。すばらしいものを見ている。
こんなすごいものを「日常」の一部で見るようになった自分のおかしさを思う。おっかしいよ。額縁に入れんな。