さようならばだけが人生だ

むかしむかし。あるところで。偉い人に病理診断のコンサルテーションをお願いすることになった。

経緯としてはこうだ。


1.ぼくが参加している「研究会」で、ある施設の臨床医が提示した症例がちょっとめずらしかった

2.めずらしいので「これはなかなかめずらしいですね」と発言した

3.すると「どれくらいめずらしいですか?」と聞かれた(当然である)

4.どれくらい……かあ……うーん個人的には経験ないんだよな。その場は「ぼくは見たことないですね」と答えつつ、後日論文検索してみたのだけれど全然検索にひっかからない

5.ひっかからない=めずらしい、とは限らない。ぼくの観点で見ている人がいないからそもそも報告がないだけで、「現象としてはわりとたまにあるけど誰も気にしていない/論文にするほどではないと思われている」のかもしれない

6.\偉い人に聞こう!/ ワー ワー


というわけで偉い人にプレパラートを送って見てもらうことになった。しかしこの話が持ち上がったのは実を言うと1年くらい前である。今日、ようやくプレパラートを発送する算段がついた。なんだかんだで1年かかってしまった。経緯としてはこうだ。


1.偉い人に聞く(コンサルテーションする)ためには、プレパラートを院外に郵送する必要がある

2.プレパラート持ち出しの手続きをする

3.その施設の病理医にも許可を得る必要がある

4.悠久の時間がながれる

50000.病理医の許可得られる

50001.今後、染色を増やしたり、遺伝子検索をしたりする可能性もふまえる

50002.研究使用のための「倫理委員会」を通す

50003.悠久の時間が流れる

60万0001.倫理委員会の審査通る

60万0002.コンサルテーション先の偉い先生にメールをする

60万0003.ぼくがメールアドレスを書き間違えたせいで、臨床医の書いたメールが不着

60万0004.メール出しなおす

60万0005.悠久の時間が流れる

14億5000万0001.メールの返事がこない

14億5000万0002.ためしに偉い病理医に電話をしてみる

14億5000万0003.普通につながってあっというまにOKが出る(たぶんメール見てなかった)(←ここまで1年)


というわけで今回の教訓ですが、「メールより電話」です。よろしくおねがいします。



あとは……まあ……これから書くことは些末すぎるのであんまり読まなくていい。重箱の隅、というか重箱のフタの隅をこよりでつっつくくらい細かい。だから読み流していいです。今日いちばん言いたいことは、「メールより電話」。よろしくおねがいします。以下は余談。



研究会では、臨床医と病理医が集まって、臨床の画像(内視鏡、CT、MRI、超音波)と病理組織像とを見比べてみんなでいろいろ考える。視座が違うと見え方が違う。言語が違うと言ってもいい。言語どうしを照らし合わせると、翻訳のズレみたいなものがいっぱい出てきてもどかしさを感じる。しかしそれ以上に、いろいろな立場から病変を言葉にしてみることで、「こんなふうに言い表すこともできるのか」「こうやって解釈することも可能なのか」といったふうに、その病変の奥行きが感じられるようになる。学問的な深みだけでなく、日常の診療をちょっと良くするヒントやライフハックみたいなものもポロポロ拾うことができる。たくさんの臨床医たちに画像の読み方を教えてもらうことは楽しい。臨床医たちもぼくら病理医の言葉をふしぎそうに聞き、病理が提示するプレパラートの画像をわくわくとして眺める。感謝をし、感謝をされて、いいことばかりだ。

ただし、たまに、研究会に出ていない病理医が「あまりいい顔をしない」ことがある。そこに注意が必要である。たぶん前述の「悠久の時間」もそういうところに端を発している。


日頃、臨床医は自施設の病理医に検体を見てもらって診療を進める。この関係は、小説やドラマの「バディもの」をイメージしてもいいが、「相棒」とか「シャーロック・ホームズ」くらい力関係に差があるわけではなく、「ふたりはプリキュア」くらい対等である。

しかし、研究会においては、プリキュアの白い方(臨床医)が、ふだん組んでいる黒い方(病理医)を自分の病院に置き去りにしたまま、ほかの病院にいる別のプリキュア(例:はじけるレモンの香り)などとやりとりをすることになる。ここに嫉妬の関係が生まれる。

や、嫉妬というのは雑かもしれない。もうちょっと複雑な感情が沸き起こる。

そもそも臨床医と病理医のバディ関係において、病理医の言葉は「絶対」である。これは「絶対に正しい」という意味ではなくて、病理医の技術は専門性が高すぎて臨床医からすると病理の仕事の真偽を判定しようがないので、病理医の言った言葉は「絶対視」されるという意味だ。よく言えば信頼して任せてしまっている。悪くいうと盲信せざるを得ない。

しかしこの鵜呑みスタイルが、研究会では破綻する。ふだん一緒に働いているプリキュア(例:黒)が言ったことと、研究会にいるほかのプリキュア(例:はじけるレモンの香り)とが言っていることが微妙に違うことはありうる。

診断自体がひっくり返ることはめったにない。しかし、「言葉の深さ」が違うことはある。「がんですか?がんです。」程度のやりとりだったものが、「がんですか?はい、がんです。そしてこれこれこのようながんが、かくかくしかじかの背景に出現しており、その見え方はこうで、感じられ方はこうで……」になったりする。

研究会というのはそういうものだ。日常診療でのルーティン的取り組みを超えて深掘りするからこそ「研究」である。

キュアブラックにとってはいい気はしない。唯一のパートナーだった自分の居場所がおびやかされる。「ぼくの言葉が絶対じゃなくなる」。

そのため、一部のプリキュアは、自分の診断した症例が外部であれこれ問い直される「研究会」というものに警戒感を持っている。自分の目の届かないところで自分の診断をあれこれいじらないでほしい、という正当な防御であるとも言える。

そういう事情をふまえると、前述のケースは少し違った意味合いを帯びる。ある施設の病理医は、自分がかつて診断した症例が、自分のいない場所でいろいろと再検討されることを好まない。研究会でほかのプリキュアからいろいろ新しいことを言われて、「ではさらに別のプリキュア(例:知性の青い泉)にもコンサルトしてみましょう」まで話を進められるとさすがにいらっとする。結果として、プレパラートの貸し出しの手続きをねっとりチェックしたり、倫理申請を複雑にしたり、そもそもこんな症例は珍しくもなんともないのでは(私見)などのチェック機構を増やして、気持ち抵抗する(正面切って反対するところまではいかない)。


ぼくはこういうことをいくつか経験した結果、研究会に対してあらたな思いを抱くようになった。


全国の「ふたりはプリキュア!」に失礼にならないように、心配りが必要だ、ということである。


ぼくが、外からやってくる「はじけるレモン」になっていないかどうか、しっかりと気にするべきである。研究会に参加するタイプの臨床医や病理医はみな、自分の生活をなげうってでも患者や医学に邁進しようとする、ちょっと躁気味でちょっとのめりこむタイプの人間が多い。ぼくもそういうタイプだ。そういうタイプの人がずんずん学問に突進するとき、それを冷ややかに見ている「わりと普通の感性と体温を持った人」をバンパーの下に巻き込んでいたりする。結果、マイルドないやがらせ的抵抗にあってプロジェクト全体の進行が遅くなる。

心配りがいる。何につけてもいえることだ。若いときは「学問の前になにをみみっちいことを言っとるんだ!」とプチおこだったぼくもきちんと年をとった。調整こそが人生だ。これが経緯である。

ハードルはくぐれ

これを書いている日は全国的に風神様のごきげんがよろしくない。飛行機が欠航しまくっている。札幌発着のJRも運休だらけだ。稚内、釧路、函館、いずれの方向にも行けないようである。ぼくが移動する予定があるわけではないので、ちょっとだけ他人事なのだが、他人の視野を想像してかわりに心を痛めるくらいの共感力はさすがにこのところ少しは身についており、かわいそうだなあ、大変だなあと言いながら各社のホームページをだらだら更新して状況をチェックしている。遊んでいるわけではない。

ANAの欠航判断はわりと早いようだ。それにくらべるとJALは遅い。今日もそうだが経験的にもだいたいそうだ。家を出るときに欠航がわからないと不便なのだがJALはぎりぎりまで判断しないから、空港に向かう途中でスマホに連絡がきて「ああ、だったら最初から駅に向かっておけばよかった……」みたいにがっかりすることはよくある。とはいえJALの判断の遅さはあるいは新千歳・丘珠ローカル、あるいは本日限定の話かもしれないから、あまり総論的に語るのはよくないかもしれない。ほかの地域では大丈夫なんですか? よかったですね。

JRの運休判断はここんとこずっと早い。ちょっと風が吹くと止まる。潔いくらいに止まるので逆に想像がしやすいし計画も見直しやすい。ただ、こと、JR北海道に関しては、ホームページの更新が壊滅的に遅い。Twitter(現X)ですらろくな運用をできていない。テレビの地方局情報番組を見たほうが情報が早い(だから朝はテレビ必須である。家にテレビがなくて平気な人はJRをあまり使っていないのだろう)。JRはいつまでウェブに対してこの程度の取り組み方でやっていくつもりなのだろう。いつまでこんな見づらいUIを使い続けるのだろう。前から思っていたことだが、JR系列のウェブやアプリは企業の規模にくらべてかなり進歩が遅いように思う。アクセスする人数が膨大だからしかたのないことなのかもしれない。サーバーの維持だけでしんどいだろうしな。それにつけてもNintendoはえらい。7年前に出たSwitchのUI、今もなおキレッキレだ。老若男女への優しさだけで考えればAppleのUIより上だと思う。立派だ。というか、Nintendoがここまですごくなかったら、JRもまあそんなもんだよなと思ってあきらめていたかもしれない。NintendoがすごすぎるのでJRの稚拙さが目立ってしまう。JRかわいそうに。

そして刃物の先が自分に突き返される。医療系こそひどい、という話。でも人から言われるまでもなく内部のぼくらも思っている。電子カルテ、なぜこんなにもっさりしているのか本当に謎である。デザインもしょぼい。「うちは最新の電子カルテを入れたので、厚生病院さんのような古いシステムよりだいぶきれいですよ!」みたいな新築クリニックの電子カルテを見たことがあるが、なんか、RPGツクールで子供が作ったゲームみたいな見た目だった。これで最新なのか、と思う。ださい。まあそれよりうちの病院のカルテシステムのほうがさらにださいのだが。ださいのはまあいい。なにより機能がしょぼい。きちんと競争が起きていないのだろうな、と思わせる。選択圧によって不便な部分が削り取られるような闘いを経ていないのだろう。検査オーダー、結果の閲覧、病歴のまとめ、外注の処理など、いずれもWindows 95時代の使い勝手から特に進歩していない。人の命がかかっている場面でユーザーがいろいろ気をつけることが多すぎなのである。


ただし、電子カルテの進歩が遅いという理由で患者にかかる不利益よりも、「そもそも医療というサービス自体が多くの人にとって不快である」という点のほうがでかいよな、と思うことはままある。


「なぜこんなに待たせるんだ! 患者呼び出しシステムでもなんでもつけて快適にすればいいだろう!」というご意見をネットでもたまに目にするが、まったくそのとおりだよな、と思う。しかし人気の回転寿司屋で呼び出しシステム完備をしてても人気がありすぎると結局待合室に人があふれる。だったら病院だってどうせどんなシステム用意したってああなるんだよな、というあきらめもあるのだ。もちろん、「医療ってのは本質的に不快なんだからあきらめなさいよ」という一言で患者も職員をも説得できるとはぼくも思っていない。けれど、うん、これくらいの不便は未来永劫どこかに残っているんだろうな、みたいな俯瞰したあきらめみたいなものを持ち合わせている。


天気。交通。医療。税金。どうにもならない、不快と不満がまとわりついているものたち。そういうものにひとつひとつ、「なぜもっと良くならないんだ」という怒りを向けていくことで、実際にこれらをめぐる環境は少しずつ良くなってきているが、それらが良くなりきるということはないのだろう。「ままならんよねえ」「ままならんなあ」と言って眉をひそめながら、ほかのことで自分の機嫌をとる。ほかのことでカラッと笑う。ほかのことで気を紛らわせる。そうやってぬるぬるすり抜けていくほかないのだと思う。「この位置のトゲゾーがいつも不快なんですよ」と言いながら高速でマリオをぶっ飛ばしていくRTA走者がかっこいいと思う。障害がすべて消えることはなく、障害を克服し続けることは義務であり、障害を把握しながらそれ以外のところで少し笑うことが可能だ。そういう仕草に落ち着くことになる。それくらいの態度がほどよいのだと思う。

見た目が悪く味が良い定食

『胃炎の成り立ち』という本を買って読んだ。オタクの熱意が高密度で充満した本。設定資料集的。通読以外で読むことができないタイプの虎の巻だ。

胃カメラで胃を覗き込む消化器内科医、もしくは胃から細胞を採取してそれを観察する病理医。この2パターンの医者にのみ響く。耳鼻科や婦人科や心臓血管外科の医者がこの本を手に取ることはないだろう。同じ消化器内科医でも大腸を専門としていればこの本は読まないだろうし、おそらく病理医の98~99%もこの本を読まない。それくらい狭くて深いジャンルの話だ。

よく本として出したなと思う。ニッチすぎる。商売あがったりではないのか。

ヘリコバクター・ピロリ菌に感染している胃粘膜がどのように見えるか。ピロリ菌を除菌するとどう変化するか。自己免疫性胃炎というこれまであまり知られていなかった病態のこと。ピロリ菌以外のヘリコバクター、すなわちヘリコバクター・スイスやヘリコバクター・ハイルマニなどによる胃の変化。プロトンポンプ阻害薬を飲んだ患者の胃がどういうふうに見えるか(病的ではないのだが変化はするのだ)。

非常にむずかしい。文脈を知った上でなお行間を読むようにしないと文章についていけない。では、胃診療の文脈を知り、胃バリウム、胃内視鏡、胃病理に興味を持ち続けてきたぼくが読んでなお難しい。しかし加えて言うとこれがじつに楽しくてしょうがない。

スーパーマリオがいつまでも1-1の難易度だったらあんなに売れなかったはずだ。最初はみんなスタートのクリボーに突撃して死んだわけで、1-1をチュートリアル的に簡単につくることは重要だ。しかしその後もゲームをやり続けることを選んだ人たちは、4-1とか8-1とか8-3みたいな難易度を少しずつ乗り越えて、マリオにどっぷり浸かった。それといっしょだ。やりこんできた人がさらにのめりこむために必要な難度というものがある。

ちなみにこの本は人に勧める気はない。とにかくおもしろい本だ、しかし、おもしろい本なら常に誰かにおすすめすると思ったら大間違いだ。そもそもこの本を読んでほしいような人はすでにこの本の存在を知っているので勧めるまでもない。業界はすでにこの本に気づいている。

本のデザインについての話もしておく。本文の熱量が高すぎて、添付されている図とその説明が、文章の載っているページとだんだんずれてくるところが難点である。ささっと目だけ動かしてスッと理解することが難しい。本文を読み、それに対応する図版のために1,2ページめくって後戻りして、文章と写真とを見比べるのに、そこそこの手間がかかる。片手で持って読めないし、寝ながら読むにも向かない。以上の不満点については、編集とデザインでもう少しうまくやれなかったのか、と思わなくもない。でも、でも、文章にどっぷり潜り込んでいくと、こういう配置しかできなかったのかもな、ということがわかってくる。本来、猛烈な量のパワーポイントを、著者がばりばり解説しながら3時間くらいかけてぶっ通しで講義する、そういう形態でしか伝わらないようなことを本にまとめているのだ。はみ出て当然なのだ。書籍としてきれいに出来上がることが目標ではない。はみ出ようが漏れ出ようがなんとか本という体裁の中に押し込める。おもいきり締めたフタの隙間からニュルヂュル漏れてくる部分まできっちり濃厚なエキスが含まれている、そういうタイプの蜜壺を、世に出そうと思ったのだ、その心意気がよいではないか。読みづらいけど。どうせ隅々まで通読するのだからいっしょである。腹に入ればみな一緒、みたいな感じだ。ごちそうさま。おいしかったよ。



センサーディペンデントグランシング

雪の降るのの効果音は「もさもさ」が一番だ。さらさらでもふわふわでも合わない。立体的な雪の埋め尽くしによって風景の遠近感がふしぎになる様子もそうだし、積もった雪の体積にくらべて質量がそこまでではないふしぎな感覚もそうだし、行き交う人びとの服装や顔のまわりのふしぎな空気感などもそう。もさもさとはふしぎの効果音である。なぜ水が結晶化するだけで中にこんなに空気を含む構造になるんだろう。なぜ寒さによって出来上がる構造が暖かさをわずかに含むのだろう。ここでの「なぜ」はhowではなくwhyでありたい。安易な神の意志論ではなく物理学的にwhyを解明してくれる人も世の中には数人くらいいてくれるはずだ。そこんところの角度が120度だからだよ、で話を終えるのではなく始めるタイプの人。そこんところの角度が120度の物体によって流体が構成されることに熱力学的な安定があるんだよ、で話を終えるのではなく始めるタイプの人。だいじなのは、話を終えるのではなく始めてくれる人のほう。だいじなのは、もさもさとしたふしぎにhowだけではなくwhyに沿った答えを考えてくれる人のほう。


余計なことを話す人が嫌われるのは、自分のタイミングで話し始め、自分のタイミングで話し終わるからである。「聞く方が満足するまでとことん話し続けてくれる人」ならばそこまで嫌われないはずだ。ただし、この条件はいかにも厳しい。聞くという行為は受け身いっぺんとうではない。聞いている人は口こそ閉じていても心の中でいろいろと応じているし、ときには自らの耳から入ってくる言葉をほしいものだけよりわけて選び取るような能動性を、表面的に沈黙していながらも内部でごそごそとやっている。「聞く方が満足するまでとことん話し続ける人」というのは、つまり、そういう聞き手のひそかな能動性に応じる、「受動的に話す」能力を持っている。いつもではないがときにそういう能力が必要なのだと思う。


何かをし続けるのには忍耐とか持久力が要ると考えがちなのだがたぶん人体の各パーツを稼働させ続けるにあたって部品のこすれに関する耐久性だけ持っていても持続はできない。受け取りながら発し続けるのに必要なのはセンサーの感度である。こちらが発することで相手は口を閉じ、喉の下の部分でだけかぼそいボリュームで何事かをこねくりまわしている、その微小な振動を感じ取るだけのセンサーの感度、それによって、受け取りながら話し続ける、引き受けながら動き続けることが可能になる。低温でつくられた結晶があたたかさを含むように、受け取り続けることではじめて構造化される発信形式があるのだと思う。

要らないアリウープ

外付けキーボードのいいやつを買ってしばらく経つが、Windowsでいうところの「半角/全角」がないタイプなので、まだ手が慣れない。和文と英文が混在するようなタイプの文章を書くとすごく時間がかかってしまう。ストレスである。このストレスがぼくを立ち止まらせ、もやもやとさせ、文章の勢いが失われ、流れが離断され、我に返らせられ、トランス状態から覚めさせられる。結果として文章が読みやすくなったともっぱらの評判である。ええっ!! いい方にころぶの!?! びっくり。ぼくはこれまでノリで書きすぎていたのだ。前と比べると断然、今のほうが読みやすいのである。あぜん。ああぜんぜん。

ノリで書きすぎる、はぼくの個性なのだと思う。ノリ、の部分もそうだが「すぎる」の部分。過剰なのだろう。大は小を兼ねるが過剰は十全を兼ねない。中指だけが長かったら箸だってもちづらいし手袋だってうまくはめられない。無駄な動きが多いからよく家族にも失笑される。看板を見るたびにその文字を読むだけでなく指さししているらしい。そこまでしているだろうか。本当だろうか。ためしに先日、無意識でそういうことをしているかどうかを自分で監視してみた。むりであった。自分が無意識に何かをしているかどうかを意識的に監視するということはひどくむずかしい。観測した瞬間に観測されたものが変わってしまう。これはつまり不確定性原理である。違う。不確定性原理ではない。

文学とか哲学をやっている人たちがたまに、不確定性原理とか量子力学に言及することで自分は最新のサイエンス方面にも理解があるのだというふりをすることがある。量子力学って100年以上前に提唱されたんだぞ。別に最新じゃねえし「見立て」に使えるほどあいまいなものでもねえから。進化論、有意差、確率などにも言えること。そしてぼくらがたまにポパーがどうとかカントがどうとかベルクソンがどうとか言いながら科学の話をするのも、きっと向こうの人たちからは同じように見られているのだろう。リゾーム! 

今の「リゾーム!」が過剰なのだ。





毎日考えているのは病理診断のことである。実務的なことは実務の最中に考えるが、それ以外の時間は病理診断という営為について考えている。この作業は何のために為され何をもたらすのか。病理診断というものがシステムに組み込まれることで誰がどう助かっているのか。あるいは誰も喜ばないがないと困るという税金的なポジションなのか。病理診断でやっていることは、あいまいなものを名づけて分節するということだが、それを専任に担当する者がいることで誰の肩からどんな荷が降ろされているのか。あるいは逆に、いっそ、まったく他者と関係なく進む病理診断というものはあり得るのか。やはり病理医がいるというだけで観測できない領域で主治医や患者がうまく動いているという側面があるのだろうか、あってほしい、なかったらどうするのか。顕微鏡を見て何かを発見するということはあるのか。むしろ発明するということはないのか。こういうことがすべて過剰なのだとしたらそれはまあそうなのかもしれないけれど、さて、過剰に見えるものをレトリックで折り畳んでいくべきなのか、それとも畳まずに広げていくべきなのか、みたいなことを本当に毎日考えている。ブログを再開させた理由はこれらをときおり放ってみて、また自分の目で回収するという作業をやってみたかったからである。先日、NBAのニュースだったと思うが、シュートしたあとにリングの横のボードに跳ね返った球を自分でキャッチしてダンクする「一人アリウープ」をやっているプレイヤーがいて、それ許されるの? とびっくりしたがルール的には大丈夫なようだった。ああいうことをやってみたかった。書いて跳ね返らせて自分でキャッチしてリングに叩き込んでいくようなことができたらいいなと思う。冷静に考えれば、そんな芸当みたいなことをする技術があるならふつうに最初のシュートを入れればいい。ダンクしたって同じ2点だ。あれもまた過剰。過剰だと客は騙される。湧いてしまう。あとで振り返って、しみじみ思う。「結局何やってたのあれ笑」「シューター全盛時代に笑」

脳だけが旅をする

2024年の出張予定はすかすか。ほぼオンラインだ。現地にどうしてもいかなければいけない仕事などそもそもない。「脳だけが旅をする」とはよく言ったものである。


デスクワークだらけで体がなまる。病院内を歩くときにはなるべく無駄に筋肉を使うようにする。廊下で走るとあぶないし競歩も患者がびっくりするから、姿勢をよくしてひそかに腹筋に力を入れたまま深呼吸をしながら歩くようにする。マスクから息の音がもれない程度に調整することも必要。人間の体の中ででかい筋肉といえば太ももと背中と腹筋群であるが、足早に移動できないなら腹筋や背筋でしっかり運動をしていくしかない。四肢や顔面の筋肉を使うのとは違い腹筋や背筋なら服の下に隠せるから患者にも職員にもばれない(ばれていて無視されている可能性はある)。


頸椎症がやばいのはまあしょうがないとして、最近、夜寝るときに、どちらかの脚をもう片一方の脚の上に乗せたくなってしまう。なんとなく真っすぐ寝られない。体のゆがみが出ているのだろう。せめて、眠りに落ちるまでは姿勢良くいたいと思って、近頃は「封筒に鉛筆を一本しのばせたようなイメージ」で、ふとんの真ん中にまっすぐ寝転がって入眠するようにしている。秒で気絶して夜中になるとたいていどちらか横を向いているけれど、こういうのは気持ちの問題だ。


年度末に作らなければいけないプレゼンがいくつかある。「院内の職員が視聴を義務付けられる動画」はそのひとつで、10分程度、ナレーション付き、電子カルテシステムに組み込んでもらう。管理職になるとこういう仕事がどうしても増える。今回の動画の内容は「死因の判定と異状死」。動画視聴したらミニテストに答えてもらう。大事な内容であることには違いないが、どうせみんな動画のスクロールバーを高速で動かして見たことにするんだろうなと思って若干のむなしさを覚える。


講習会などを義務付けてもたいていの人はなんらかのかたちで抜け道を探ろうとする。専門医の更新要件などで受講必須とされている講習会だって、Zoomつけっぱなしにして離席してしまうドクターが多いし、学会の現地会場で開催したとしても席で寝てしまうので同じことだ。それを防ごうと思って「動画視聴ウインドウを非アクティブにすると動画の進行が止まるシステム」を採用していた学会もあったが無駄なことだ。「動画をおもしろく作ることで、飛ばしてみようと思った人もついじっくり見てしまう」以外の解はない。


小手先のテクニックでなんとかしようとしても結局メインストリームのまじめな努力にはかなわない。腹筋に力を入れたからなんなんだ。封筒と鉛筆を思い浮かべてなんになるというのだ。小仕事ばかりせずに健康維持のために自分の意識をしっかり使っていく、それが一番体のためになる。そしてぼくは体をほっぽらかしにして脳だけで旅をしてきた。

小田和正

顕微鏡で細胞を見たときの「癌と非癌のちがい」をどこまで言語化できるか。

先輩が診断の難しい症例を持ってぼくのところにやってきて、いっしょに顕微鏡像を見ながらぼくがどんどん言語化していく、というのをたまにやっている。

先輩は、ぼくが病理プレパラート上の細胞を解説していくのを聞きながら、「わかった」だの「なるほど」だの「イマイチよくわからない」だの「繰り返しになるけどさっきのこれはどっち?」だの「前には細胞密度が高いと癌の可能性があるって言ってたけど今回のは?」だの「腺頸部で腺管が密なのはおかしいってのはどういう意味でおかしいの?」だのとリアクションをする。

ぼくは、それらのリアクションに対してさらに言葉を探っていく。だんだん変な汗をかく。追求に答えきれなくなっていくのである。

言語を超えたところで感覚で診断している部分が必ずある。すべては言語化しきれない。現時点での所感は「究極的には形態学をぜんぶ言葉に置き換えるのは無理」。いつも最終的にはぼくが言葉にしきれないところで終わる。それがくやしいと感じる。

しかし、くやしいが、そういうものなのかもしれない、という思いもないわけではない。先輩もそのことは指摘している。



世の中には、多くはないがある程度の「病理学を学びたい人」がいる(※病理学とはここでは「顕微鏡で患者の細胞を見る学問」くらいの意味で使っている)。それは必ずしも病理医のタマゴであるとは限らず、皮膚科医が自分の患者の皮膚をより細かく知りたいと思って皮膚病理学を学ぶケースは多いし、消化器内科医や肝臓外科医などもしばしば自分が相手をする病気の病理組織学を独学で勉強している。ときには彼らが病理学の大学院などに短期的に留学して、病理医に付いて自分の興味のある病気だけを勉強するということも起こる。

つまり病理学の界隈には「知れるものなら知りたい」というニーズを持った人たちがそれなりに群がってくる。

そういった人たちがまず頼るのは本だ。世の中には病理学の初学者むけの本はたくさんある。しかし、誰に聞いても「本だけだとよくわからない」「病理医に直接たずねるんだけどそれでもしっくりこない」「最終的には経験を積まないとわかんない部分があるんだだろうなあ」「だから病理医っていう専門職があるんだろうなあ」などと感想を口にする。ニーズがあるのに本が足りない。これは著者がいないというわけではなくて、おそらく、病理学の「言葉にしづらさ」によるのだろう。

優秀な先輩たちが通ってきた道。誰かが言葉にできているならもうしている。ぼくごときが細胞の違和感をすべて言葉に置き換えられないというのは、ある意味、あたりまえなのである。

しかしあたりまえポイントで引き返すかどうかはまた別である。



これは、癌です。いえ、再生粘膜ではありえないですね。まずは腺管密度。腺管の密度がおかしいですね。炎症があって萎縮している胃粘膜で、腺管の密度がこれだけ上昇している時点でおかしいと感じるべきです。

しかしまあ腺管の密度だけで診断できるわけではなくて、やはり核の異型を見たほうがいいと思います。サイズがでかいですね。クロマチン量も多いです。さらに細かいことを言うと、核の形状もおかしくて、核縁の核膜も場所によって濃さが違います。

ただしこれらの所見をいちいち診断のときに全部箇条書きにしてチェックしているかというとそうではなくて、これは感覚的な部分をあとから言葉にしたらそうなる、というものなんですけれども、実際には、この領域に置いてプレパラートの色が濃いというか、テクスチャが他のところよりも濃い/ざらついている/ジャマ/違和感があるといったところで判断をしていて、ではなぜそのテクスチャがおかしくなっているのかというと、核の染色性とか核の密度とか細胞間距離とかに変化が出ているから総体としてテクスチャがおかしくなると思うんですよ。

でもこの部分はそうやって言葉で説明してもなお、癌と非癌の区別はつきにくいと思います。というか、この腺管だけを切り取って、「さあ、癌か非癌か、どっち?」とやったらぼくは診断できないです。やはりこの腺管といっしょに、まわりにこのような腺管がくっついているということ、この領域の上下左右で同じような核を持つ腺管がみっしり存在しているということ、それとすぐとなりにこのような明らかな非癌の腺管があるということから判断しているのであって、腺管ひとつとか核ひとつを拡大して判断しているわけではないと思います。

非癌の部分に炎症が加わって核が大きくなっているのと、癌の部分で核が大きくなっているのと、どちらが悪そうに見えるか?

うーん。

表面の核のでかさやおかしさと、深部のおかしさでは、どちらが程度が強いのか。

うーーーん。

表面と深部とでは、同じ核所見であったとしてもその解釈は変えるべきだと思うんですよ。というか、無意識に診断しているときは、そこはもう自動的に、表面はこれくらいの核異型だと癌で、深部だとこれくらいでもまだ癌ではない、みたいなセレクションがかかっているはずなんですよ。

そしてたとえば、腺頸部にこの密度で腺管があるということはおかしいし、増殖帯らしくない場所で核が腫大しているのもおかしいです。あ、たしかに、胃底腺粘膜だと増殖帯は腺頸部にあるんですが、胃底腺粘膜の増殖帯の細胞は核腫大しません。腸上皮化生の腺管だと核腫大しますけど、あれは腺管の底部に出ます。これは腸上皮化生ではないのに腺頸部に腫大した核を有する腺管が密に存在するからおかしい、ということです。

でもうーん。いや、ここだけ拡大して言葉で説明しても癌であるとは言い切れないんですけど、ここの部分に関しては逆に弱拡大で見たほうが腺管の分布や配列が不整だとはっきりわかるんですよね。何に対して何が逆なのか? たしかに。今ぼくは何を省略したんでしょう。ただ、このプレパラートについては、ここの領域は「逆に非拡大のほうがわかりやすい」んですよ。これは……言葉にしづらいなあ。

頭蓋骨の裏

新しいデータを出していく仕事がやっぱりいちばんかっこいいしやりがいもあるんだよなー! と思いつつ、やってて自動的にアドレナリンが出そうな仕事はやる気のある若手にゆずるほうがいい。今のぼくは、常に響き続けているウッドベース、もしくはあのチリトリみたいなやつで静かに叩き続けるドラムみたいに、ちまちま一定のペースでなにかをこなし続ける立場である。これだと何ホルモンが出るのだろう。セロトニンか。プロラクチンか。ちがうか。

SNSではすぐに飽きるしリセットもしたくなるぼくだけど、仕事においてはルーティンに飽きない。ラッキーだ。まる16年同じように取り組んでいる仕事が複数ありいずれも苦にならない。才能というより相性だ。天職とはステータスバーの高値部分ではかるのではなく、精神のトルクが業務と噛み合っているかどうか、歯車のサイズ感ではかるべきである。

ここはかつて思っていた場所ではなかった。

とはいえかつてどれほど具体的に何かを思っていたかというと、それはきっとぼんやりふわふわの、似顔絵がへたな人の描く似顔絵くらいの解像度であったに違いない。少なくとも10代、20代の自分が思っていた将来像は今とまったく違う。もっといえば30代のそれとも違うし、2年前に思っていたのと今とでもたぶんけっこうずれている。

ところで、なぜか、「書く文章のクセ」は変わっていないように思えて、それがふしぎだ。脳内ほとんど入れ替わってるはずなんだけど、文体だけは保たれている。見返して比べたわけではないのだが、昔のぼくが何かを書くときにずっと感じていた、頭蓋骨のいちぶを指の腹で撫でるような感触、あのもぞもぞとした不快、というか不快ではあるんだけどつい何度も確かめてしまう、鼻毛を抜いたりくちびるのささくれをむしったりするのよりももっとずっともどかしい微弱で小憎たらしい違和感を、今も、今日もずっと発生させている。

ここか? ここがアイデンティティなのか?

いやー違うと思うけど、身体的な快・不快だって年を経るごとに変わっていると思うんだけど、でも、何かを書くときの頭蓋骨の裏をなぞっている心象風景、そのテクスチャのざらつきだけがどうも保存されているように思う。ルーティンワークを「しこしこ」こなすという擬音があるが、ぼくの場合はいつもの仕事を「なでなで」すませる。あるいは「なぜなぜ」でもいい。濁音が入ったほうがより近い。

瞳を閉じて君を描くよそれだけでWii

「ねえ ムーミン watch out your step」と、
「さっちゃんはね さちこっていうんだ born to be wild」は、
同じ系列のギャグである。



や、ま、ギャグではないかもしれないが。



こういう感じでなんでも分類。あれはあっちの箱、これはこっちの棚、形態学的に似たものを集める。似ているからには、たぶんその後ろに構造的なリクツがあり力学があるのだろう……まで考えを深めるのではなしに、単に「似てるなー」くらいのところで思考を保留する。浅瀬で踏みとどまったまま反復横とびするようにパチャパチャ思考を遊ばせる。


「牛乳石鹸 余に謁見」

これも形態としては一緒だ。「えっ、後半が英語になってないじゃん!」と構造主義者もポスト構造主義者も怒る。でもいいのだ。これくらいでいいのだ。音韻がもたらす帰結以外に思考を割く労力を惜しむ。ダジャレの荒野を着流しで練り歩く。




かつて、『分類思考の世界』と『系統樹思考の世界』という本があった。三中信宏という人の本である。10年ほど前にこれを読んだときにはおもしろいなーと思ってやみつきになった。先日読み返すと、なんだか、これに関する書籍を読みすぎて飽きてしまっていて(失礼)、初読のときほどの感動はなかったのだけれど、それでも水平方向の分類と垂直方向の樹形図トレースとで脳の使い方を変えるという方針は、ずっとぼくの中に目配りの方針として存在している。

病理形態学と遺伝子による分類でいうと、たとえばmalignant peripheral nerve sheath tumor (MPNST)はその名の通り神経系でまあよいとして、synovial sarcomaはsynoviumとはあまり関係がなくて実際にはMPNSTにむしろ遺伝子的背景が近い、みたいな話がある。では遺伝子による樹形図的な切り分けだけが至上なのかというと、意外とそうでもなくて、synovial sarcomaのbiphasic typeはやはり滑膜のような、上皮にちょっと似た(中皮の)細胞として診断していく「すり足でのにじりより」がわりと有効である。完全に遺伝子だけで話をすすめるよりも、形態学的な雰囲気で診断の方向を定めるほうが、結果的に1日くらい早く確定診断にたどり着ける、みたいなことがある。

分類と系統樹。系統樹だって分類じゃん、と言われると困ってしまうがまあそういう見立て。「意味なんかないさ うなじが松茸」は前述のギャグの子孫にあたる(選択圧を乗り切った強さが感じられる)。

診断関係リセット症候群

理論を学び経験で微調整する。そうやって診断の道程を歩む。

主観的すぎる診断はぐらつく。直感や反射だけでは取りこぼす。だから理論は大切である。骨格がしっかりしていないと歩けない。

とはいえ、すべてを構造化してくまなく箇条書きにすればよいのかというと、それはそれで物足りない。客観の骨に主観の筋肉を添えないと、診断は言葉になりきらず、臨床は孤立する。

体幹と四肢それぞれを鍛えてトレイルロードを歩く。理論と経験の統合。


広い守備範囲を目指すと深掘りが苦手になる。かといって一箇所ばかり掘っているとパノラマな絶景を見逃す。ジェネラリストすぎてもだめだしスペシャリストすぎてもいけない。俯瞰と接写は交互に。歩いている最中にどこを見通し、どちらに向かって歩き、どこで立ち止まりまたいつ歩き出すか。


スマートにはたらきたいけれど泥臭さをなくしてはいけない。ただしひたすらコツコツ歩いていれば十全かというとそうでもない。飛躍しないと渡れない川がある。しかしジャンプばかりでも転倒する。コツコツ朴訥でも美談にしかならない。


困難があり面倒があり、この仕事をしろと言われて眉をひそめる人がいる。だからこそ、この仕事を続けることで給料が発生するのだと思う。人の嫌がることをすすんでやると暮らしていける。ただし人が嫌がっていること自体が勘違いだと思うことはある。


これまでに遭遇した失敗の数々は、思い出のテクスチャをざらつかせる。しかしそれらのざらつきを把持することで今の診断の安定感が高まる。困難をロッククライミングにたとえるならば、失敗のざらつきに体重を乗せて切り立った岩壁を乗り越えていくようなイメージがある。失敗に対して、申し訳ないという気持ちがまずあるけれど、それだけではなくて感謝がかなりあるし、頼りになる手がかりだと感じていることもある。


自分の中に組み上がった診断回路には穴も抜けもあり、過剰だったり脆弱だったり偏っていたりする。しかし心配には及ばない。仕事で交わった他者が私とは違うネットワークを持っていて、私のそれと他者のそれとが交歓することで、環境により適した形状に変化する。網目構造が、自分の脳神経を超えた分散を示す。それでカヴァーされる。それが網羅につながる。

疾病や医療システムといった、非人格的な、あるいは無機の構造もまた、接続不可避のネットワークである。診断を続けるうちに、他者と交わるだけでなく、病理学とも交わるし損益分岐点とも交わる。私はネットワークの中でいつしか移動を繰り返し、自分がゼロ・ポイントであるような古典的な座標軸のイメージから解き放たれて不安=自由を手に入れる。


以上のような、知的運動の修得の過程は、あたかも「いいことづくめ」のように思える。理想論的ですらある。しかし、実際には当然のことながら、すごくいろいろ間違える。

体幹が弱いまま筋トレをしたり、ピント外れの筋トレをしたりすると、腱やらスジやらを痛める。それと同じで、不適切な理論や経験によって診断も歪むし傷がつく。右肩上がりに上達していくわけではない。間違いながらでこぼこ上がっていく。だから間違いを間違いと判断する能力が別に必要である。

しかし診断という行為においては、そもそも「どれが間違いか」を見極めるのがむずかしい。間違いにすぐに気付けるわけでもない。間違いが間違いとわからない状態は怖い。誤った筋トレを続けることで、少しずつ自分の体幹が歪んでいく。本当によくあることだと思う。

病理診断は「ゴールド・スタンダード」と言われることが多いが、それはつまり「誰も文句をつけられない」という意味である。病理が間違えていたことに気づかせてくれるのはいつも時間であり、基本的に他者ではない。何年も経って、「あの診断はやはりおかしかったのではないか」というように、半ば手遅れ的に診断の不備が指摘される。ちなみに、そうやって指摘できるのはむしろラッキーな方かもしれず、多くの場合はあとから振り返っても、その診断が「間違えていた」のか、「合っていたけど特殊な経過をたどった」のかは判別できない。

極論するならば、「正しい診断」をくだすよりも「正しいと思っていたが実際には不適切だった診断」を探し出すほうが技術的には難しい。自らが接続しているネットワーク全体に「必然的に間違う構造」が練り込まれていることもあって、「自動的にぶれの少ない間違いが量産される」こともある。それは現代医学の限界などと呼ばれて免責されることもある。しかし、こと、病理医は、ネットワーク全体の瑕疵に気づくべきポジションなのではないかと自戒する。身内に厳しすぎるだろうか?


臨床医たちとのネットワーク、学会におけるネットワーク、学術活動で開いたネットワーク。複雑に癒合して生成変化を続ける曼荼羅の中で闊達に振る舞うことは難しい。都会の一方通行だらけの交差点で、2ブロック先のビルに行きたいだけなのにタクシーがいつまでも左折や右折を繰り返してなかなか目的地につかないかのように、網目の中ではしばしば自分の思うとおりの動きができない。しかしそこで「人間関係リセット症候群」を発動させてしまうことはもったいない。曼荼羅は圧であるし抵抗である、しかし、それらから解き放たれて「自分がゼロ・ポイントであるシンプルな座標軸」に戻ったところで納得のいく診断などできるはずもないのだ。SNSをぜんぶやめてまた戻ってくるのとはわけが違うのである。リセットしたってどうせまた飛び込んでいくしかないのだ。

表面的な教え

多くの人は、「教わりたい」と感じることがあるだろう。

これは単なる予想であって確信ではないので、「そんなことないです」と反論されたらすなおに引き下がる。

しかし、たとえば、本当に優秀な人というのは得てして「教わりたがり」なのではないか、と思う。

いや、待て。

優秀かどうかに関係ない。人はみな、本質的には教わりたがりなのではないか。

ああ、「本質的には」と書いてしまった。

自己嫌悪がおそってくる。

何事にも本質があると考えるのは典型的な短絡思考だ。

本質的の反対語はなんだろう。「表面的」? 細胞のことを考えると、皮膚にしても消化管にしても、表面ほど分化する。表面をあなどってはいけない。表面から得られる情報は膨大だ。深部の変化を反映したなにかが露出してくる場所こそが表面である。逆に言えば「本質」なんてものは、すぐに病変に針を指して内部の細胞を観察すれば診断がつくと思っている人間の使いがちなつまらん言葉である。表面を語れ! 表面こそ語れ! 表面で語れ!

話がずれた。

人はみな、人柄のごく一部か大部分かの差はあれ、「教わること」を待っている。表面的にはそう見える。本質とか内心とかをいったん忘れてもらって、表面で見る限り、だれもが教わりたがっている。ぼくからはそう見える。内面までは見えないが。




さて、ふしぎなもので、あちこちにいる「教わりたい人」が、「教えたい人」から教わることは少ないのではないかと思う。

教えたい人は自分が言いたいことしか言わない。それが良くないのだと思う。

教えたい人から教わるには技術がいる。テクニックが必要だ。「めちゃくちゃ優秀、かつ、教わりたい人」は、「教えたい人」からもいろいろ学ぶ。ラカンとかは結局そういうことを言っているのではないかと思うこともある。や、うーん、どんな人であっても、「教える立場の人」さえいれば、なんらかの形で学びは発生するのかもしれないが。

少なくともぼくは、「教えたい人」がまず登場するような場所で何かを教わることは、難しいなと感じている。

「教わりたい人」がまずあって、そこから引っ張り出されるようにして教えが発生する。この前後関係というか順番が重要なのではないかと思う。

今のくだりを表面的にくりかえしておく。

「教わりたい人」がまずあって、そこから引っ張り出されるようにして教えが発生する。



教えることは難しい。

「教わりたい人」の存在なくして、自分が「教える人」にはなれないと思うことが多い。

ぼくが「教える人」になるためには、「教えてもらいたそうな顔」をしている人と出会うことが必要だ。

自分が「教えたいなあ!」と思っても、そうかんたんには「教え」は発生しない。

自分から教えたいなーと思うとすべる。

教わりたくなさそうなタイミングの人に教えをぶつけても表面で跳ね返ってしまう。

「教わりたいです!」と顔面から醸し出している人がやってきてはじめて、「あっ、教える側に回れるかも……」という期待が出現する。

カギは、表面にある。

顔だ。

「教わりたい顔」をしている人のおかげで、ぼくはときどき教える人になれる。極めて表面的に。

教えを引っ張り出してもらうことができるのだ。表面の、少し奥のあたりから。

手前から語る

キャンサーボードと呼ばれる会議がある。各科のドクターが一同に介して、患者のあれこれを話し合って診療方針を決める(キャンサーというのはがんのこと)。先日、肺がんのキャンサーボードに出たときの話だ。


細胞診断の結果を説明した際に、ある臨床医が質問をした。「先生その……細胞が盛り上がっていると腺癌かもしれないってのは、どういうことですか。」

ぼくは答える。

「プレパラートの上にですね、細胞がもりもりと……盛り上がっているというか積み重なっているんですよ。こんなかんじで(顕微鏡像をモニタに投影)。このように細胞が積み上がる状況というのは、腺癌の細胞でよく見られます。まあ、盛り上がってれば絶対癌というわけではないんですけど、あっここに癌があるかもしれないな、というヒントにはなります。生体内で、細胞が規則的に配列する状況だと、こういう無秩序な盛り盛りパターンというのはとりようがないんです。盛り盛りになっているということは、配列の異常がある、無秩序な増殖があると考える。悪性=癌を疑う根拠になる、ということです。」

すると、臨床医はうなずきながら、少し考えて次の質問、というか疑念を口にする。

「それは……ええと、今のその検査では、細胞はプレパラートの上に積み上がることがあるってことですか。薄く切っているのに? いや、切らないのか。」

ああそうか、そうだな、と思う。

「あっはい。ぼくらの検査には二種類あります。組織片を薄く切ってガラスに乗せて顕微鏡で見る『組織診(そしきしん)』と、細胞をそのままガラスに乗っけて、切らないで観察する『細胞診(さいぼうしん)』です。細胞診の方は切らないんですね。採ってきたものをそのままガラスにのっけたり、あるいは、いったん液体に懸濁してからフィルターを通して、フィルターの上に乗っているものを見たりします。切らないほうは、体の中での細胞配列を3次元で観察できます。ただし、切らない分、細胞内部の情報がとりにくいこともあります。」



キャンサーボードを終えて廊下を歩いて病理に帰る途中、先輩がふとこのようなことを言う。

「あの質問してきた先生、すっごい頭いい人だと思うんだけどさ、あの質問の仕方、基礎研究の切れ味ある人とおんなじだね。」

「どういうことですか?」

「細胞診についての質問って、自分の専門外の、他部署でやってる検査だよね。その結果だけを聞いて満足するんじゃなくて、実際にどういうことをやっているのか、結果に至るまでのプロセスをまるごと尋ねるような質問を、本当はしたいタイプだと思うんだよ。」

「なるほど?」

「だからね、いっちーがさ、細胞が盛り上がってると癌かもしれないって判断するのはなぜですかって質問されたときにさ、『それは正常組織よりも癌のほうが配列が異常になりやすいからです』って答えたあとにさ、あの先生は『それはつまり、細胞の厚さとか盛り上がりを見られるような検査をしているからってことですか』みたいな質問をしたじゃない。」

「あっはい。そうでしたね。」

「あそこでもしいっちーがさ、最初の質問をしたときに、その前提となる『検査の性質』から順を追って説明してたら、最初からめちゃくちゃ納得してくれたと思うんだよ。『細胞診というのは細胞を切らずにそのままプレパラートに乗せる検査ですので、性質上、細胞のとる三次元構造が見られるのです。そこで盛り盛りになる細胞集塊というのには意味があります。』から話し始めたら一発でめちゃくちゃ深く納得したんじゃないかな。」

「!!!」

「基礎研究やってる人でもたまにああいう質問するタイプの人いるんだよ。ああいう人たちがなにか質問したときに、答えるほうが、『その答えのひとつ手前の情報からきちんとメカニズムごと答える』と、すげえ納得して理解してくれるんだよね。」



度肝を抜かれた。習慣に風穴が開くような話だ。

正直、この15年くらい、ぼくは「相手から聞かれた質問にだけ答える自分」のほうが望ましいと思っていた。聞かれてもいない裏話までぜんぶ答えるなんて、オタクムーブというか、病理医ムーブというか、自分勝手というか、とにかく、時間のない臨床医に病理のシステムを全部話してマウントをとるような行為は避けようと思っていた。

どことなく、「SNS的」というか、「ブログ的」というか、瞬間的なインパクトでわっとわかってもらう方向がかっこいいという雰囲気に身を委ねていたのだと思う。

しかし、たしかに、さっき質問してきた医者は、いつもぼくに病理の話をたずねるとき、一度の答えでは納得しないのだ。思い返してみればそうなのだ。

我々がやっている病理診断の、根底のところにある具体的な作業の流れとか、性質とか、システムとか、思考回路みたいなところまで全部開示してはじめて納得してくれる。

そういう人たちの最初の質問というのはいつも極めてシンプルで、「これがこうなのはなぜですか?」からはじまる。

それに対してぼくは、ほかの(さほど熱心でもない)医者や、ほかの(まだ若くてそこまで考えが及ばない)研修医と同じように、シンプルで短く必要なことをサッと答えることで済まそうとしていた。

何度も質問を受けているうちに気づくべきだった。

この世界には、たまに、「こちらのやっていることを本当にすべて知りたいと思っていて、でも最初はおずおずと短い質問からはじめるタイプの頭のいい人がいる」ということに。


先輩はそのことにたった一度のやりとりで気づいた。病理診断の世界に来る前に20年間、研究領域でさまざまな人とやりあってきた経験を、こちらの世界に輸入してくださった。

ぼくはいつの間にか現場ですれていたのだ。

お互いに見通しがよくなるようなやりとりこそが望ましい。

質問され、答え、また質問が生まれていくなんて、すばらしいことだ。

病理医としてやれることがまだまだあるようだ。まいったな。助かる。

ふいんき←なぜかしんだんできる

「周辺の雰囲気」を使って診断することがある。なにかを病理診断するにあたって、ある病気であることを決定づけるドンピシャの細胞像が見つからなくても、診断をあきらめなくていいということだ。


プレパラートに癌細胞が見つからなくても、「あれ……この間質のふんいき……近くに癌細胞がいそうだぞ」とピンと来るかどうかが重要である。プレパラートに乗っているのは、向こうが透けるほど薄く切られた4 μm厚の切片だ。技師さんに、「もう一度プレパラートを作ってください」とお願いすると、技師さんは組織片をあらためてカンナのおばけのようなミクロトームと呼ばれる装置で切って、次の切片をガラスの上に乗せてくれる。たかだか4 μmの差とあなどるなかれ。ミクロトームで組織を切るときに、面をならすようにシャッ、シャッと粗削りをすることで、組織片は少しずつすりへっていく。この数十μm~百数十μmのずれが、新たな風景を見せてくれる。


癌細胞の少し横を切って観察しているときに、「この奥に癌細胞が潜んでいるかもしれない」と考えられるようになったら中級者だ。勘を研ぎ澄ませる必要がある。そして、勘に理屈を並走させるとなおいい。


癌細胞が浸潤する場所では、癌の周囲に間質が誘導される。多かれ少なかれ、癌細胞の周りに変化が起こる。露払い的な変化と言ってもいいし、場のひずみのように見えることもある。癌細胞は浸潤・進展の際に、周囲にサイトカインなどを分泌し、間質に変化を起こしてみずからが生き延びやすいように環境を整える。「がん微小環境」と呼ばれる一連の変化は、かならずしも顕微鏡で見極められるとは限らないが、雰囲気の違いとしてなら感じ取れる。


どことなく、普通の間質よりも浮腫が少ないな……。


なぜ、この部分だけ血管の走行が変なんだろう……。


本来ならば等間隔に粘膜の成分があるべきなのに、このへんだけすかっと空いているのはなぜだ……?


どうしてこの周りだけ炎症細胞の密度がおかしいのだろう……。


線維芽細胞の雰囲気がちょっと違う……?


こういった違和感をとらえる。「癌じゃないなら関係ねぇや」と見過ごしてはだめだ。これまでに見てきた癌の「周り」にどんなことが起こっていたかをあらためて思い出す。そして手を打つ。標本を作り直す。そうやって見つける


「ウォーリーを探せ!」では、ウォーリーの周りにたいてい、眉をしかめた女の人と片眉を釣り上げた男の人がいる、と聞いたらあなたは驚くだろうか? 仮に、絵本のページにコーヒーをこぼしてウォーリーが見えなくなっていても、周りの人をチェックすればおのずとウォーリーの居場所がわかる……みたいな感じだ。

(※ウォーリーのとなりに決まった女の人や男の人がいるというのは、でまかせです。)





むかし、ある皮膚病理診断の達人に、コレステロール塞栓症という病気の診断を教えてもらった。「コレステロール塞栓症」という名の通り、皮下組織の小さな血管の中にコレステロールが詰まって、血流が途絶えて、皮膚が障害を起こすという病気である。最初に顕微鏡を見た私は、


・皮膚に障害があるなあ

・炎症はまあふつうだなあ

・血管はなんともなさそうだなあ


という感じでばくぜんと顕微鏡を見た。しかし、後に見た達人は、こう言った。


「血管には何もなさそうには見える……んですが……この、検体のはしっこにある血管、ちょっと壁が厚くないですかね?」


ん? まあそうかな。言われてみればそうだな。でも詰まっているというわけではないんじゃないかな。


「そして、周りに好酸球がいますよね。」


ん? 好酸球? それがなにか?


「好酸球って、コレステロール塞栓症のときに、なんか周りをうろちょろするんですよね。だからこの切片、切り直して、あとEVG染色も加えてみましょう。」


私は半信半疑で言われたとおりにした。はたして、切り直した切片にはコレステロール塞栓症とぎりぎり診断できるくらいの、わずかな血管変化が出現した。私はびっくりしてしまった。コレステロールが見られないのに、コレステロール塞栓症って診断できるのか!


「まあ……コレステロールって……標本上だと溶けて流れちゃいますからね。周りを見ないといけませんよね。」


私はそれ以来、「ご本尊」がなくても周りになにか、露払い的なものが見つかっていないかをきちんと探そうと心に決めた。決めたけど……まあ……たまに忘れるけど……なるべくがんばって思い出すようにしている。毎日、顕微鏡の電源を入れるときに、「まわりまわり。」「雰囲気雰囲気。」と唱えるようにしている。なおこのとき、同時に、「メラノーマメラノーマ。(※診断が難しい病気。毎朝となえて見逃さないように心がけている)」「Epithelioid hemangioendothelioma epithelioid hemangioendothelioma.(※診断が以下略)」「TFH TFH(※診以下略)」などとも唱えている(ほかにもある)。

極小のミーム戦

人の本棚には興味がある。なぜならそこには自分が読んだことのない本がささっているからであり、自分が読んだことのある本もささっているからだ。探したり見比べたりするのが楽しい。


しかし、自分の本棚には興味がない。なるべく小さく保つ。知人からなにかの記念日にもらった本は取っておくが、ほかはどんどん入れ替えていく。


本棚をきれいに整えている人たちの気持ちはよくわかる。とてもわかる。でも今のぼくはそうしない。昔は本棚を整えていたけれど、ここ数年でどうでもよくなった。


何度も読み返したい本はKindleに入れる。紙で買って、あっこれ手元に常時ほしいな、と思ったらKindle版も買う。マンガの大半はKindleだ。医学書もKindleがいいのだが、医学書の場合は臨床医や同僚に貸すこともあるので、紙で買って職場の本棚に置いておく。


読み終わった本の大半は人にあげるか捨てる。売ってもいいのだけれど売りたい本屋が思いつかない。そういう付き合いができる古本屋が見つかったら売りにいくかもしれない。そのためには古本屋を歩いて巡るという習慣が必要である。そのうちなんとかする。


2022年に前橋のブックフェスに読み終わった本を箱で送りつけたのは楽しかった。それ以来、次の開催に備えて、これぞという本を「送りつける用のダンボール」に入れている。ダンボール投入基準は「他人が読んでもおもしろそうな本で、自分もおもしろいと感じたが、1年以内に自分が読み返すことがない本」、もしくは「他人がどう読むかは知らないが、自分はおもしろいと感じたし、でも1年以内に自分が読み返すことはない本」。


ダンボールは医局のデスクに積んである。休み明けにはいつも、家で読んだ本を職場に持っていく。ダンボールの中に本を、なるべく損傷のすくないように入れていく。帯のずれなども直しておく。ふと、ここに、Bloodthirsty butchersの写真集なんかをぶちこんだら急に格調高くなるだろうなーなんてことを思う。でも入れない。


たまにだが、手元に置いておきたい本というのもある。そこはぶっちゃけ、ゼロイチではない。ある程度、あいまいな部分は残してある。本棚なんてどうでもいいと思っているわけではない。しかし本棚に人生を投影するような暮らしがしたいわけでもない。そこは両方だ。そこは両方とも違う。どっちともとれる。どっちかで一本ブログ記事を書くことはできる。そういうことをしない自由を享受する。


詩集とか並んでたらかっこいいとは思うよ。そりゃあ俺だってな。

相互換装

正月明け。家で読み終えた本を抱えて階段を登ったり降りたりしていると、足首がだいぶ固くなっていることに気づいた。一切どこにも出かけずに本ばかり読んでいたのでしょうがない。腹回りも少し緩んだ。体重も1キロほど増えたけど、70キロ弱の体にとっての1キロなら水分量の誤差で済ませてよいだろう。ここから数日働きながら体を戻していく。


タイムラインにそれなりの頻度で書き初めをしている人がいらっしゃることにおどろく。大人の書き初めとか、大人の水彩画とか、大人の版画とか、そういったものをなさっている方を見ると、ああ、人生を広げているなあと思ってうらやましくなる。今年は年賀状に返事を書かなかった。もうこれで一生書かないだろう。あああ。勇者ああああ。


職場においてあるNintendo Switchの充電が切れていたので充電器に指す。スマホと同じジャックを使えるので、デスクの端に常時伸ばしているケーブルを使えばいいから楽だ。なんでも互換する時代である。PCのデータをスマホで見ることができるし、地下鉄にもJRにも同じSuicaで乗れる。そうやってさまざまなボーダーを低くして、2秒ずつもうけた時間を貯金して、極めて不親切な哲学の本を読んで消費する。なぜここまでわかりにくく書かなければ伝えられないのだろうかと疑問に思わなくもないが、このわかりづらさのおかげで息をしている人たちが、これまでに何万人もいたのだから、見事というほかはない。


互換すればいいというものではない。いいい。勇者いいいい。


「周囲と自分とが互換しない場所」というのも、ときに必要だと思う。10代の頃から思っていたので、我ながら、いわゆる反抗期かと思っていたけれど、どうもそういうことでもない。なんでもかんでも横に繋げられるとしんどいのは今でも変わらない。言語の目的はコミュニケーションだと堂々と胸を張って言われると鼻白む日もある。言語がないと思考できないという考えかたもそこそこ横暴ではあるが。


今のぼくは10代のときの自分の心とコミュニケーションする術をもたない。その意味では、かつて恐れていた「自分は将来どうなっているのだろう」という懸念、あれはピント外れだったし、根源的でもあった。「昔のぼく」はもうわからない。今のぼくは昔のぼくと互換していない。ACアダプタの種類が変わる程度の断絶で、昔のPCを気軽に起動できなくなる、それとおなじだ。


年末読んだのは言語や名付けに関する本が多い。『知覚の呪縛』(渡辺哲夫)、『「名づけ」の精神史』(市村弘正)、『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』(中村昇)、『続・ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門)』(中村昇)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(谷川嘉浩)、『ポストモダン●ニヒリズム』(仲正昌樹)。ときどき値落ちしながら読み終えた。1月3日、読む本がなくなり、そういえばこれがあったなと、11月に買ったテッド・チャンの文庫本『あなたの人生の物語』に手を付けた。SF系の短編集。ところがなんと表題作がまんま言語学にかんする話なので笑ってしまった。互換するときはする。

ブルースの加速

バートランド・ラッセル『幸福論』の話が出た後に萩野先生がブルーハーツ「TRAIN-TRAIN」の歌詞をタイムラインに流した。もしや、あの歌は『幸福論』と何か関係があるのか? なるほどそういうこともあるかもしれない……と思って、「ラッセル TRAIN-TRAIN」で検索。次の瞬間表示されたのは、膨大な量のラッセル車(線路を除雪するための特殊車両)のYouTube動画であった。

カラッと笑って仕事に入る。

3日以上の連休があるとき、休日の初日に出勤して「切り出し」という作業をする必要がある。今日はその日だ。

臓器をホルマリンに漬けることで「固定」がなされ、腐敗や変性を防ぐことができる。しかしあまりに長くホルマリンに付けると細胞内のDNAやRNAがへたってしまい、タンパク質の抗原性も失われ、遺伝子検査や免疫染色などができなくなる。これを過剰固定、ないしは過固定と呼ぶ。細かいことはどうでもいいが、要は、3日以上ホルマリンに漬けるとよくないということである。

よく、博物館やマッドサイエンティストの部屋(?)などで、動物や人体の一部などがホルマリンに漬かったままビンの中に保存されているような絵面を見ることがある。あんなものはもう遺伝子もタンパクもぜんぜん調べることができない。細胞の形態自体は保たれるので(だから固定と呼ぶ)、剥製のように外見を観察するには役に立つし、プレパラートを作って顕微鏡で見てみれば何十年前の臓器であっても観察は可能だが、ケミカルな意味でしっちゃかめっちゃかになってしまうので科学研究にはあまり向かない。博物館はよいとしてマッドサイエンティストはそのへんちゃんとわかってるんだろうか。

臓器の過固定を防ぐ方法は簡単だ。「切り出し」をして病変などの重要な部分をピックアップし、ホルマリンではなくパラフィンというロウの中に封じ込めてしまえばいい。たったこれだけのスイッチで、RNAはともかくDNAはかなり長い間保存することができるし、タンパクはほとんど変性しなくなる。マッドサイエンティストだってホルマリンビンなんか飾ってないでさっさとパラフィンブロックにしておけばよいのだ。マッドだから忘れちゃったのかもしれないが。

というわけで、連休の初日には、前日に手術されてホルマリンに漬けられた臓器を切り出す。休みが終わるまで待っていると過固定になってしまうからだ。連休が一日減るがしょうがない。当直よりは楽だし、当番制でやれば個人の負担も減る。とはいえここ数年はほとんどぼくがやっている。たまに出張などでどうしても切り出しができないときは人に頼む。ぼくはもともと出張が多くていろんな人に不在をカヴァーしてもらっているから、その恩返しみたいな意味合いもある。

連休の切り出しでは、出勤ついでにメールに返事しつつ研究案件を進めたりする。平日と違って問い合わせの電話がかかってこないし研修医がプチ疑問について突撃してきたりもしないのでいろいろはかどるのである。ただ、最近は切り出し以外の仕事は控えるようになってきた。昔は土日祝日を問わずずっとパワポで講演や病理解説のプレゼンを作っていたけれど、そういうことは減った。仕事のスピードが速くなり、平日だけで作り終えてしまえるからというのが理由のひとつだが、ぶっちゃけ疲れたからだ。

代わりに医学雑誌などを読んで過ごす。ネテロ会長は祈る時間を増やしたがぼくは読む時間を増やした。医学書や論文を読むにはこういう「休みなんだけど休めない日」をうまく使うといいのだ。

ほかのジャンルは知らないが、病理診断については、文献を読んだことがあるかないかでその後の思考の幅がだいぶ変わる。○年○月のあの雑誌を後回しにしているうちに読みそびれ、何年も経って、いつも苦手にしている□□病の診断をするにあたって、何かいい資料がないかなと思って調べたら、昔読むのを飛ばした雑誌の中にすごくいいヒントが隠れていて、悩んでいたこの数年はなんだったんだとブレイクダンス的に悶絶して頭を抱える、みたいな経験を3回ほどくり返すと、読まないという選択肢はなくなる。

しかし今日読んでるやつはつまらないな。がんゲノム関連の論説って9割くらいハズレの印象がある。当たり外れで語ってはいけないのだろうけれど。ぼくの性に合わないのだろう。未来の医療のど真ん中にいるんだけどな。



栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう。はだしのままで飛び出してあの列車に乗っていこう。それはもちろんだけど、でも、乗ったあとどうやって過ごしたらいいのだろうかということを一人静かに気にしていた。みかんでも食べるのか。車窓の向こうの電線の上に忍者でも走らせるのか。今のぼくならきっと、届いたばかりの『病理と臨床』やら『胃と腸』やら『American Journal of Surgical Pathology』やらを読んで過ごす。臓器の写真が出てくるページがあるとほかのお客さんに見えないようにそっと隠しながら読む。あるいはこれもひとつの幸福のかたちなのかもしれないが、ただ、もう少しだけ風景を写真に撮るような楽しみ方を身につけておいてもよかったかなとは思う。栄光に向かって走っているからといって栄光で停まってくれるかどうかはわからない。旅路そのものを楽しむ人間を目指しておくべきだったと悔やむ日がないわけではない。

どうのつるぎとたびびとのふくと50ゴールド

学会仕事を減らし中である。ハイブリッドであれば引き受け、オンラインで出席できない仕事は断る。現地開催のみの学会で、因果応報もろもろで断れないパターンであっても、宿泊はせずに日帰りにする。飛行機のダイヤ的に日帰りが無理なときも、学会会場のある土地には泊まらず、できる限りでその場から離れる。


ウェブ連載なども12月ですべて打ち切りとさせていただいた。はじまったばかりの連載もあった。何年も続けて次の展開を準備していた連載もあった。


痛恨である。しかし、本当に申し訳ないのだが悪いことばかりでもない。前にも書いたけれど今のぼくは楽だ。仕事が減ったからだ。執筆の時間が減っただけではなく、次はどこに何を書こうかとデフォルトモードネットワークがずっと緊張していた状態から解放されたのが大きい。本を続けて読む日もある。映画を見に行く日もある。


たくさんの人に迷惑をかけて自分が少し楽になっていることへの自己嫌悪がある。けっこう猛烈なかんじである。そのせいか、あるいは単に冬だからか、肌から尋常じゃない量の水分がふきとんでしまい難儀している。顔、首、指、ふともも、頭皮などがつっぱって、化粧水やクリームが欠かせない。無意識に同じ場所をひっかくせいで容易に出血する。さすがに眼球は乾かないが睫毛のつけねが乾くのでずっと目をこすっている。

デスマッチのレスラーは有刺鉄線などで何度も傷つくと、容易に血が出やすくなり、かつ容易に止まりやすくなると、プロレスブログが何かで読んだことがある。長いことそれを信じていたけれど、医学的に考えてそんなことあるだろうか、ちょっと疑わしい。何度も傷つくとそこは不良肉芽となり、あるいはケロイドとなる。


学会に行くのをやめたのは待ち伏せされたからだ。電話もLINEも解約したのは番号が出回ったからだ。連載をやめたのは編集部に問い合わせが来たからだ。これらはすべてシンプルに「こうだからこうした」がある。一方で、Xをやめたのには複数の理由があって、自分でもなぜやめたのかと聞かれると説明が難しい部分もある。しかし再開した理由はシンプルだ。どこかにアカウントがないと、これまで一緒に仕事をしてきた人たちへの問い合わせ(例:「どこに連絡すればつながるのか」「代わりにこの言葉を届けてほしい」など)が止まないからである。




先日、教え子の中のひとりがこんなことを言った。「先生が悪いわけじゃまったくないんですけど、先生のやりかただと、勘違いする人は絶対出ますよね」。そんなもんかなと答えると、すぐに続けて「親身すぎるんですよね」という。指摘そのものにもドキリとしたが、なにより、「先生が悪いわけじゃない」という前置きをきちんと入れてくるあたりに強い配慮を感じた。気遣いのレベルがぼくらの世代とは段違いである。

思い起こせばぼくはここまで気遣いができていなかった。SNSならこの程度で十分だろうとむしろ能動的に配慮を減らしてすらいたと思う。かつて千葉雅也が書いたような、「ギャル的なふるまい」、すなわち自分の全てではなく一部分だけを用いて、コアの部分を温存したままで表面的に多くの他者とコミュニティ内で付き合っていくふるまい。そういうのがSNSには合っていると信じていた。決して自分のすべてを出すことなく、軽薄に、浅薄に、自分のすべてを使わずにやっていけばそのほうがTwitterにはマッチするだろうと、どこまでも安直で安楽であった。その結果、こちらの言うことなど一切聞いていないにもかかわらず誰よりもぼくのことを知っていると思い込んでいる人たちに追いかけ回されている。

本当の「ギャル世代/SNS重活用世代」はぼくよりはるかに慎重で丁重なのだ。ぼくのほうがよっぽど子どもだった。今はSNSの使い方をいちから学び直しているところだ。経験はあてにならない。集めた武器もすべてピント外れだ。弱くてニューゲームである。スライムやおおがらすを倒すやりかたがわからない。「ぼうぎょ」をしても1ターン無駄になるだけなのかなあ。

ウザさの効用

いくつかの場所で講師を担当している。以前、ある場所で指導をする前に、「学生など若い人からプライベートな質問が来ても、自分ひとりでなんとかしてやろうという俠気(おとこぎ)を出さないでください。」という注意を受けたことがある。

大学や専門学校の講義、あるいは職場見学、インターン、そういった場面で、われわれは若い人に頼られるとすぐに、「よーし、ここはひとつ、おじさんが一肌脱ぐか!」と興奮しがちだ。それを見透かされているような気がした。

二十以上も歳の離れた後輩達から素朴に質問され、経験豊富な大人にまかせなさいとばかりにドヤってしまうのは、実際、危ない。たとえばいまどきの大学には必ず学生相談課があり、専門の職員が専門の技術をもって控えているから、そっちにまかせたほうがいい。

職場見学だと相談窓口みたいなのはないが、少なくとも同僚を交えるなどして複数人で考えるようにする。とにかくひとりで答えないほうがいい。大意としてはそんな感じであった。


最初これを聞いた時には、ずいぶんとタンパクな話だなあ、べつに気軽な悩みに軽く答えるくらいいいんじゃないの、と思った。しかし話は想像以上に深刻なのである。「相談を送ってきた学生との距離感がバグるのが良くない」。「ああ、講師と学生とのいけない関係に発展するってことね」と想像する人もいるだろうが、別に性的な話だけに留まらない。「あの先生は優しくて、親身になって回答してくれた」という関係が簡単に立ち上がってしまうことで、さまざまなズレや傷付きにつながるという。


・学生の「親に言えない相談」に乗っていたところ、学生が親の望まない進路を選び、講師の責任だとブチ切れた親が職場に凸った

・研修医から切り出した就職相談に何度か乗っていたが、ある日研修医が同期に「あの中年講師やたら熱心でたまにちょっとキモい笑」と軽口を叩いたところ、拡大解釈されて噂になりハラスメント対策委員会に呼び出された

・学生が詳細を伏せたままバイトに関する相談をして、「へえ、時給いいじゃん」と答えたところ実はおもいっきり反社系のバイトで、学校側がそれに気づいて学生に注意をしたら「あの講師に相談したらいいじゃないって言われた」と証言されたために責任を問われた

・軽く恋愛相談に載ったら学生のパートナーから逆恨みされて車のタイヤを切られた


これらはすべて実例(だと言われたが多少盛られている可能性あり)とのことだった。えっそんなこと言ったら小学校とか中学校の先生なんてやってられないじゃん、と思わなくもないけれど、やはり成人前後の人たちの相談に乗るというのは子どもとはワケが違うのであろう。


闇バイト、薬物、管理者のいない性売買といった案件が若年者の間で蔓延する中で、世間から無数に到来する鋭利かつ浅薄な刺激にさらされながら、自律と規律の間で揺れ動く若者たちの、未だ低分化だが増殖性のある悩み・困りごと・懸念・心配に、たかだか40数年しか生きておらず自分の人生のマネジメントで手一杯であったはずのわれわれが、場に即した的確な言葉をかけられるわけもない。

けっきょく、中年に許されるのは、誰も傷つけない軽薄なギャグ、そして、我ながらこの結論が意外だけれど「自分語り」なのではないかと思う。

私自身、若い頃は、中年がここぞとばかりに自分語りするのウゼーと思っていたのだけれど、ウゼー以上のトラブルを招くことはないのだから、むしろそれは安全なのである。自分語りは所詮は中年のごく個人的な経験でしかなく、他人に適用できるものではないからこそ逆に若者の意志や行動に介入しすぎない。若者から相談を受けたときには、軽薄で自分のことばっかり考えててうっとうしいなあと思われるダメージを背負うことで、逆に若者の自由な旅路をジャマしないという高度な戦術が望ましいのではないか。ああ……そうだったのか……世の中年たちって偉かったんだな……。

除雪アラウンド

まとまった量の雪が降るとわかっていたので、就寝前にアラームを1時間半ほど早くした。目が覚めると思った通りの景色であった。1時間ちょっとで終わるかと思った雪かきは、ポッドキャスト1本分ではまるで終わらず、10分番組をひとつ挟んでもまだ終わらなかった。明けの明星が見え、周囲が休息に明るくなっていく中、未聴のポッドキャストがなくなったので音楽に切り替える。サカナクションは冬の朝にぴったりだ。イヤホンから音が漏れない程度の爆音がいい。冬の朝、遠くから聞こえる除雪機の音をぎりぎり消すくらいがちょうどいい。

ベンチコートの中が熱気で蒸れる。フードを脱いでチャックを少し開けると、とたんに耳周りや首筋に冷気が直撃する。フードをかぶったままだと髪の毛がぺちゃんこになってしまって、このあと出勤するときに面倒だ。それに、最後は少し顔を冷やすくらいでないと、室内に戻ったときに汗が止まらない。とはいえ、いくら体が温まっていても、このまま10分もすれば凍える。「湯冷め」にならないぎりぎりの頃合いを見計らうのが肝心だ。

「雪かきでは決して痩せない」と言ったのは数年前のぼくである。これだけ汗をかいてもたいしたカロリー消費にはならないのが不思議といえば不思議だ。

除雪作業に必要なのは筋力ではない。20年前のぼくよりも今のぼくのほうが確実に雪かきは上手だ。丁寧だし、何より早い。腕も足もふにゃふにゃで、一度に運べる雪の量は以前の2/3くらいではないかと思うが、それでも早い。子どもと大人では箸の使い方にだいぶ差があるように、20代と40代ではスノーダンプの取り回しに差がある。脊髄より下位の神経や筋肉が適切に連携を取っているぶんうまくなっている。いくら脳にノウハウを入れてもたぶん成人直後ではこのような動きはできないだろう。

もっとも、みもふたもないことを言うと、自己肯定に必要なのは筋力なのだ。どれだけうまく家の周りの雪をまとめて動かして山にしても、弱々しい筋骨の仕事はどこか控えめでナヨナヨしていて、いくら家族にほめられようが「春が来ればどうせ溶ける」という徒労感にじわじわと抱きしめられる。俺は俺の筋肉でこれを為した! という喜びでもあれば話は別なのだが。経験でこなすことのデメリット。半自動的に体が動く作業では、能動性が失われて達成感も半減する。やはり筋肉が正義なのだと思う。ぼくは悪である。

「最低限の興奮でなんかうまいことやる」という、居合道の達人みたいなスタイルにあこがれる人間が、ことのほか世の中に目立つけれど、ぼくはそういうのは特に信用していない。「スッと抜ける快感」が一番気持ちいいなんてことはあり得ない。ジグソーパズルでピースがぴたっとハマったときの快感よりも、「いつでも復元できるスイッチがあるから好きにしていいよ」と言われてどでかい花瓶を叩きつける快感のほうが純粋に大きい。まあそんなスイッチはどこにもないのだが。

あらかた雪かきが終わったら、車の窓についた氷をガリガリと落とす。昨晩、帰宅時の車の余熱で、夜に降った雪がいったん凍り、それがふたたび氷結するからしっかり落としておかないとワイパーごときではどうにもならない。車の全周をまわってガラスの氷を落とし、スノーシャベルで車の周りの雪をふきとばして、ふと顔を上げると玄関前の雪にまだ手を付けていなかった。曲順はアルクアラウンドで、Spotifyは今のアルバムを聴いていたはずなのにいつのまにか昔のアルバムにぶっとんでいるから迷惑だし、これくらいのランダム性があったほうが結局いいのかもしれないなと無課金のひとりごとに興じる。だいぶ明るくなってきた。早く出勤しないと道が混む。

世界の心身

少しずつ少しずつ、世の中が「傷」に対してやさしくなっている。3歩進んで2.5歩下がるくらいの微弱前進であろうがよくなっていることは間違いない。個別の事例ではいまだに多くの人が傷ついているのだがトータルで見ると以前よりはマシになっている。群れをひとかたまりで観察するとわりとよくやっている認識である。「俺の周りはよくなっていない!」という人もいるかもしれないが、そういう人のいる群れを取り囲むもっと巨大な群れのことを考えると、やっぱりちょっとだけよくなっているとぼくは信じたい人間なのである。


話は変わるしじつは変わらないのだが、先日、名著『タコの心身問題』の続編であり高度なバージョンである『メタゾアの心身問題』を読んでいたら、タコの神経系についての考察が書いてあった(※前著のほうがよっぽど丁寧でわかりやすいので、前者を読まずに後者を読むことはおすすめしない)。タコは、きちんとした脳を持っている生き物なのだけれど、じつはその脳とつながる8本の足のそれぞれにもかなりの神経・ニューロンを持っている。そして、ヒトのように脳が中央集権的に手足を自在に動かすというのではなく、足のつけ根に「小型の脳」ほどに増大したニューロンのかたまりがあって、それぞれの足が連携をとりつつ脳とは別に稼働しているという。まるで分散型ネットワークのようだな、と瞬間的に思ったし、アリや鳥などが群衆になってあたかもヒトカタマリの生き物のように振る舞う姿にも似ている。

ぼくは世の中がよくなるというのと、タコが全体として楽しそうに生きている姿をなんとなく重ねて考えている。8本の足のうちの1本は岩場に挟まって大ケガをしているかもしれない。しかし残りの足でてきとうにゆらゆら進んでいく。ピーター・ゴドフリー・スミスは習慣的にダイビングをしてタコとかコウイカとかカイメンなどを観察し続けているのだが、彼によると、タコがずんずん進んでいくとき、足のいくつかはまるで移動とは関係ないなぞのゆらゆら動きをしていることがあり、もしやタコには心が一つだけあるのではなく、「1+8」、もしくは、「1+1(8本の足がリング状に接続してひとかたまりの脳のようになる」などの特殊な心の有り様をしているということはないのか、みたいな話をずんずんと、科学と哲学の知見を用いながら考察していく(だから「心身問題」なのである)。それを読みながら、ぼくは社会にも群体(あるいは軍隊?)としての心があるだろうと感じるし、その心は中央集権的に1つに統一されているわけではなく、自由気ままに分散したり統合したりをくり返すタコの心のようなものなのだろうなと思う。