のび太のきもち

月光条例おもしろいな。はるか昔に一気読みしたけど、もう手元にコミックスがないからずっと読めないでいた。細部をわりと忘れているし、全体に流れている血潮みたいなものも忘れている。「こんなことあったっけ! すげえ!」っていうのと、「こんな感情になるんだっけ! すっげえ!」というのが交互にやってくる。いい読書だなー。記憶では、途中から内容がどんどんドライブするのだ、このマンガ、当時はすごくびっくりした。藤田和日郎作品ってそういうところある。今回もきっとまたびっくりできるだろう。

それにしてもかつての私は、きちんと最後まで読み切ったんだったろうか。ラストシーンをあんまり覚えていない。連載の途中に読んでいたような気もする。時期的には大学院のころだろう。なにかにかまけて、ラスト直前で読みきらずに終わってしまっていたのかもしれない。

今回はKindleでまとめて大人買いした。最終巻までしっかりスマホに入っている。次の出張の夜にでも一気に読み切ろう。たのしみだ。すごく。


たのしみをスマホに……脳内にストックしている日と、枯渇している日がある。今、急に隕石が落ちてきても、どこかあきらめてしまうだろうなという日もあって、そういう日というのは私が「読み途中のマンガを抱えていない日」である。そして今日、隕石が窓の外に見えたら、全力で「待って待って待ってせっかく買ったばっかりなの全部読ませて!」となって生命への活力によって私はおそらく隕石を打ち返すことができる。よく聽く陳腐なフレーズを借りれば「まだ死ねない!」というやつだ。私はたいていあまのじゃくだけれどこの「読みたいマンガがあるうちは死ねない」という気持ちについては素直にアグリーできる。アグリーできる文化。農協の職員だからね(アグリカルチャー)。

こんなブログを書きながら、さきほどからなかなか進まないプレゼンをちまちま作っている。頭の中ではもうできているのであとは作業だけ。しかし作業の最中に新しいことを思いつくので、走っても走ってもゴールテープが遠くに下がっていくような、残念駅伝アンカーみたいな状態。Ctrl+十字カーソルで写真を1ドットずつずらして合わせていく。病理写真の色温度を揃える。レイアウトを整える。デザインは見る人の脳に直接作用して、情報を仕入れる順番とか仕分けの効率にコミットする。自分がその日何をどうしゃべるかを考えて、それを邪魔しない配列に写真を置いていく。そうしないといくら流暢にしゃべっても聞き手の頭の中には何も残っていかない。そういう調整をずっとしている。正直つまらない。だって聞き手の頭に何かを残そうなんて土台むりな話だからだ。残そうと思って残るものではない。残るとしたらそれは私の後悔くらいのものなのだ。ともあれこういう調整作業、ちょっとだけ、AIにやってもらえたらラクなのに、と思う。でもAIにやらせるとどうせ最大公約数的な、ひっかかりのないプレゼンができてしまうんだろう。はっきりいってAIが作ったプレゼンって急激に「お里が知れる」感覚があってそれはそれでぜんぜんつまらない。できあがればいいというものではないのだ。苦労してできあがらないとおもしろくないのだ。

眠気が高まっていく。がくんと頭が落ちそうになる。すかさずパワポの保存を押して、へんなところを触ってこれまでの作業が消えないようにセーフティロック。半分夢のなかにいる。スマホを開く。仕事中だが、かまわない。月光条例を読む。マンガは不思議だ、今くらいねむくても、マンガを読んでいると眠気がいったん保留にできる。小説だとこうはいかない。YouTubeでも寝るときは寝てしまう。しかしマンガだと起きていられる。私は、仕事中にマンガを読む時間をはさんで、いねむりをふせぐという特殊な技術を用いる。マンガを読んで4時間が経過した。日付が変わったのでもうそろそろ帰ろう。結局マンガしか読んでいない。さっさと帰ればよかった。しかしマンガを読む前まで、私は、日付が変わるまで仕事をするつもりだったのだから仕方がない。パワポを閉じる。保存していませんがよろしいですか? はい。 えっ? なにを? ちょっと待って? なにかしていたっけ? さっき保存したっきりじゃなかったっけ? あわてて閉じたばかりのパワポをまた開く。どうも思っていたものと違う気がする。どこからが夢なのだろう。いったいどれが夢なんだ(ドラえもんのあれ)。

現実の夢

眠気が強いと手が赤ちゃんみたいにあたたかくなる。副交感神経がどうたらで血管が拡張してこうたらいうやつだと思われる。ただ、まあ、メカニズムはこの際どうでもいい。赤ちゃんの肌の暖かさをいきなり思い出す現象自体がおもしろいなと感じる。自らの眠気によって二十年近く昔の肌の記憶を直接思い出したことに関心がある。経過した時間と情景の明瞭さとの間に必ずしも比例関係が成立していないことに興味がある。脳内情報には、距離という概念や、中心・辺縁の区別が存在していないのだろうか。ふしぎだ。はるか昔の思い出を脳内再生するにあたって、「昨日のことのように思い出す」という表現があるけれど、私はむしろ、昨日のことなんてうすぼんやりして思い出せなくなっていることがほとんどだし、逆に「二十年前のことのようにはっきり覚えている」なんてこともあるので、「昨日のことのように」という表現は、一見誰にもわかりやすい直喩だなと感じるのだけれど、実際にはかなり的を外しているふしぎな軽口だ。エピソード記憶は、今日に近ければ近いほど解像度高く記憶されているというわけではない。昔だから遠いとか、最近だから近いといった関係が必ずしも成り立たない。それは、たとえば夢を見るときなどにより強く実感される。夢には前後関係が存在しないことがあるだろう。

文章やメロディのように、素因をひとつひとつ順番に取り込んでいくことではじめて厚みや質感を感じられるタイプの情報がある一方で、絵画のように複数の素因をほぼ同時に取り込むことで奥行きや肌理を感じ取れるタイプの情報もある。ただ、絵画の場合、視線誘導という概念があるように、ある程度、視覚の特性によって「見る順番」みたいなものが自然と生まれていたりもする。またYouTube動画やウェブマンガ『Vtuber草村しげみ』のように、映像・絵画的情報のガワをかぶりつつ実際には字幕・コメントの逐次読み上げがメインとなっているコンテンツもある。そういったものすべてに影響を受けるところの私は、日頃から、情報というものは原則的に脳内に列をなして順番に入ってくるものだという感覚を植え付けられているし、脳内に蓄積される情報には整列という概念があって順序よく仕分けされているはずだという勝手な期待を抱えている。ただそれは、全てにあてはまる原則というわけではないのだろう。たぶん、ある程度の、錯覚を含んでいる。

記憶というものは必ずしも時間経過を用いて解析すべきものではないのではないか。

現実に起こるできごとがあまりにも時間軸と照らし合わせやすいことばかりで、私達は何を語るにしても時間経過を大前提として論理を組み立てていくが、ほんとうはそういうものだけではないのではないか。

昔読んだマンガのセリフをひとつひとつ順番に暗証することなど私にはできない。ただ、いまこの瞬間に手元にドラゴンボール13巻をポンと置かれたら、ページをめくる「直前に」、初代ピッコロ大魔王が高笑いする目次の一コマと、私の脳でしっかりと閉じられた情報の引き出しにしまいこまれた「ふはははは……もくじだっ!!!!!」という写植の記憶との間に、光の筋が何本もぶっちがいになって、ダウンロード・アップロードの交錯が一瞬で起こって、ページをめくった「瞬間」に、三十五年前の読中印象があざやかに再現される。そこでいったんページを閉じてしまえば、じつはこれからめくっていくそれぞれのページになにを書いているのかなんて全く私は思い出せないのだけれど、いざ、目の前でページをめくりはじめると、ページがひっくりかえる「直前」もしくは「瞬間」もしくは「直後」もしくは「そのすべて
」すなわち「ページをめくるという行為の『厚みをもった今』のいずれか」において、ちょっと前まで何も思い出せなかったはずのコマ割り、構図、キャラクタの顔、セリフが、読んでわかるタイミングとは微妙にずれながら、なんなら少し先回りをするような感覚も含めて、脳内に展開されていく。この、「再読」の際に用いられる私の記憶システムは、どうも時間経過という常識的な錯視とは似て非なる形式で成り立っているように感じられる。


本を初めて読む「初読」のとき、私達は、自分の脳内にまだ存在していない字や絵を順番に取り込んでいく。それはどうしても時間経過とか因果のながれにしばられた情報収集となる。それは「すべてが一期一会である現実に順番に触れていく体験」である。しかし、再読のとき、蓄積されている脳内の記憶と照らし合わせながらの読書のときには、それは矢印で結ばれた一本道の理路にはとどまらない。時系列を越えた総体としての情報との照らし合わせによって、目の前にある情報が厚みや奥行きを増して脳内にふたたび飛び込んでくる。

どちらのほうが本来の脳のシステムに合っているか? まあ、合っている・ずれているという評価をしないほうがいいのかもしれないけれど、おそらく、再読という「時系列のしばりから開放された認知」のほうが、よりふくよかな情報にひたることができるだろう。

私は積ん読はしないし本棚もほとんど持たずに生活をしている。これからも積ん読はしないとは思うけれど、「初読をすませ、再読待ちとなっている本」を控えさせるための本棚は、やはり必要なのかなという気にもなってくる。時の流れにしばられた初読オンリーで本とのかかわりを終えてしまうことを、なんだかちょっともったいなく感じる。それこそ、夢のない話だ。

あるいは音楽というものも、曲の構成を熟知した状態で聴く、「再読」ならぬ「再聴」によって、はじめてそのおもしろみが感じられるということもあるだろう。順番などというものから解き放たれたときに、はじめて、私達の五感は本来の実力を発揮してくれるのかもしれない。ただしそれは現実を夢にしてしまうリスクを負っているようにも思う。

脳だけが旅をする

学会から帰ってメールに返事をしているうちに朝が来た。ふと旅行の予定でも立てようかと旅行会社のホームページを見る。とくに行きたいところがあるわけではない。旅行をしたいという強い欲望が自分の中にあるわけではない。「不定期でもいいからたまに旅行にでかける自分でいたい」という、うっすらとした自己形成欲がある。「旅行にすらいかない中年としてまわりから残念そうに見られる」のを回避するための旅行計画である。ハワイに行きたいとかヨーロッパに行きたいといった目的がないままにホームページにたどりついている。そしてもちろんおそろしいことに当然のように、ホームページをつくる側のほうもそういうのをきちんと見通して、「どこに行きたいか自分でもわかっていないなら私があなたの欲望をきちんと作ってあげますよ」という顔をして待っていてくれている。

国内ですか? 海外ですか? わからない。

国内だったらどこですか? 今は指定しない。

ではホームページの中をお好きに見て回ってください? そうする。

トップに表示されるバナーの数々。その時期、そのタイミングで、企業がうまくパック形式に抑えることができた航空券とホテルのセット、「どこに行きたいわけではないがどこかに行きたい」と思える人間が思わずクリックをしてしまうような、字面の訴求力と絵力の強さを兼ね備えたサムネ。なるほど私は台北に行きたかったのか、モンゴルに行きたかったのか、イタリアに行きたかったのか。これまで自分の中になかったはずの欲望に似た、心の軸性を一方向に向ける牽引力を強く感じ取る。

これが商売ということなのだろう。欲望をつくるところから担当してくれる。導かれる。欲望のない人間はカモ。正確には、「欲望がないと周りに思われたくない自分がかっこわるいな」と思っている、私のような人間がカモ。

それを知っている私達は、「今度はシンガポールに行きたいな」「オーストラリアはもう行ったから次はニューカレドニアあたりを攻めてみたい」「アメリカの西海岸だけで10日過ごしたい」といったように、自分のなかには順を追って組み立てられた「人に見せられるほどに構造化された欲望」があるのだと、しばしば吹聴する。防御規制なのだ。カモられないための。できれば、カモる側に回るための。「どこに行きたいかもわからずに、旅行会社のいいなりに、みずからの欲望を他人によってかたちづくられてしまう弱者」でありたくない。だから自分発の欲望を喧伝して回る。

そういうカモの暮らす星だ。



だれもがみな思い思いに欲望しているように見えて、それらはいずれも五十歩百歩で、じつは相当、思われ思われに欲望させられている。他人の欲を生きる。他人の欲であるというネタバレを喰らわないために私達は途中でソーシャルネットワークを遮断して、自分のタイミングで自分の欲を練り上げるという幻想を泳ぐ。そういうやりとりを高速でぶん回すなかから絞り出された果汁を売って生活している人々の捨てた絞りカスをさらに蒸留して作った酒で人生の痛みをまぎらわせている人々の。旅。

永井一郎はすごいという話

ぬかるんだ私道をめっきり見なくなったが先日ひさびさにドロドロの道を歩いた。雪解け、無舗装、マンホールがなくなっていて、申し訳程度に硬めのゴム製かなにかの板が渡してあって、しかし歩行者向けに穴があるから注意しろといった看板の類は一切ないので親切なようで自己責任論まっしぐらでもある。土臭い路面にはSUVの轍まみれ、落ちているビンのかけら、タバコの吸い殻。そんな道を、ちょっと入り込んでいった先に集合住宅があって、学生がたくさん住んでいるようであった。管理費や共益費はどこに消えたのだろうと思わせるに十分な迫力の古びたゴミ捨てスペース。垂れ下がる電線。建付けの悪そうな共同玄関。窓にはいずれも昼間からぴたりと閉じきったカーテン。

私もかつてこういうところで暮らしていたと思う。ただ記憶はだいぶあいまいになってしまった。

帰宅してからこれまで住んだ住所をひととおり、思い出せる限りで検索して、Google mapで見てみた。前の妻と結婚したあとにはじめて住んだマンションを除くとほかはすべて建て替えられていた。アパートだったものが雑居ビルになったり中層マンションになったり、とにかく、元の痕跡は跡形も残っていない。

『九龍ジェネリックロマンス』の序盤に出てくる物件のいくつかがやけに印象的だなと思ったら昔私が住んでいた部屋にちょっと似ていたのだ。ただ、ひとたびあれを読んでしまったおかげで、記憶が一気に上書きされてしまって、かつての部屋を思い出そうとしても九龍ジェネリックロマンスの絵のほうが勝手に思い出されてしまう。記憶までもが建て替えられていく。

TBSラジオ「東京ポッド許可局」の中でサンキュータツオさんがアニメソングを紹介することがある。先日の番組では「ハクション大魔王」のOPテーマをかけていた。「は、は、ハクショーン大魔王~」で有名な例の歌、もちろん記憶にあるのだけれど、車を走らせながら1番、2番と聞いていると、覚えていたメロディとはどことなく違う。しかし、その、もともと覚えていたメロディは、たった今聞いている「本物」によって次々と上書きされていって、放送が終わった今、もうかつての記憶の中で流れていたメロディを思い出すことができない。

現行のアニメ・サザエさんでは、波平の声はコナン君に出てくる目暮警部の人が担当しているが、私はまだ、ナウシカに出てきてムスカにやられる将軍や、ハリー・ポッターに出てくるダンブルドア校長の声でしゃべる波平を思い出すことができる。ここはまだ、上書きされていない。逆に言えば、私の記憶も人生も、永井一郎ほどの存在感を私の中で示すことができていないから、あとからやってきた似て非なるエピソードに軽々と上書きされてしまうということなのだろう。

ヤザンにもなれない

朝から他施設共同研究用の書類を書いた。ほら、このように、多施設という言葉を早くも誤変換しておりイヤになる。「自分のところも含めたたくさんの(多)施設でいっしょに研究する」からコナミワイワイワールド的にうれしいのであって、「ほか(他)の施設でやってる研究の書類を書く」とか、それってVtuberのゲーム実況を見てるみたいなもんじゃん、ん、まあ、なら、それはそれで楽しいかなあ、ってそういう話でもない。もうちょっとコミットしたい。結果にコミット。大事なことだ。コミットするなら結果に限る。どれだけ過程にコミットしても学術業績とは呼ばない。しかし私の仕事とはつまり、過程にコミットする生業なのだよなあということを、たまに考える。

雪がすっかり解けて春の雨が続いている。しかし体感としての湿度がそこまで上がってこないのは気温が低いからだろうか。手指はぱさついておりキータッチしていくと指の先が割れてくる予感がある。少し斜めになりながらキータッチをすることで圧の加わるホットスポットを少しずらして指を保護する、ことができたらいいな、みたいなことを考えつつ少し斜めになりながらしかし指先はまったく同じ配置でキーを叩く。割れそうだ。

ああ、ありがとう、届いたメールに感謝を述べて、大学で特殊な染色をやってもらうためのプレパラートを送付すべくキーボードからボールペンに持ち替えて、宅配便の伝票に宛名を書きつける。指先がでっぷり太ったような不思議な感覚。いずい。ペンはいずいなー。親指の爪でときおり中指の側面をカリカリかく。ここは中学生のころ、彫刻刀が表皮と真皮の境目くらいまで彫り込んでしまった傷跡だ。治ってないけれど、なんか治った! だめなマチュのものまねをして遊ぶ。楽しい。しかし指はふくらんでいる。破裂寸前だ。

ああ、旭川医科大学と書くべきところを、旭川大学と書いてしまった。そんな大学は……ないんだな。ないんだ。旭川市立大学はあるけれど。昔、札幌医科大学と書くべきところを札幌大学医学部と書いてしまったばっかりに、郵便が札幌大学に届いてしまったという逸話を聞いたことがあるが、今にして思うとあれはウソだ。札幌大学と札幌医科大学は場所がぜんぜん違う。そもそも郵便番号の時点でおもいっきり仕分けされているだろう。札幌大学と札幌医科大学の距離を調べたら7.9 kmと出た。今適当に調べてみたら、品川駅から渋谷駅まで車で走るとだいたい7.8 km。よくこのドンピシャの数字を適当に思いつけたな。俺。ニュータイプかもしれない。マチュになれる。

仕事の遅い人間がいるとき、職場をどのようにマネジメントするべきか。正解は、「仕事の遅い人間をもっとたくさん雇って、仕事を少量ずつ振り分けていく」だろうか。少なくとも、「育ててたくさん仕事ができるようになってもらう」はまちがいだろう。仕事が遅ければ勉強も遅い、だったら成長もすごくゆっくりだ。育てようと思ってもこちらの思うスピードで育ってはくれない。ならば、その人それぞれに与えられた天分をもとに、やりきれるだけの仕事を粛々とこなしてもらい、しわよせは仕事の速い人間で一気に抱え込む、それが社会というもののあるべき姿……というか、これ以外の形で歪みを支えている職場がどれだけあるのか逆に聞きたい。

一連の独白にてもおわかりのように、私は教育にかんするセンスがゼロである。部署の運用もまったく向いていない。人の上/前に立つべき人間ではない。ただひたすらに目の前の仕事をこなしていく。すなわち、私はロボットと交換可能ということだ。現時点で私の存在している意味は、「AIよりも早く仕事ができる」の一点にしか存在していなくて、この先AIが少しずつ(ただし人間の成長よりは速い)、発達していく過程で、私の存在意義はどんどん矮小化して最後はオメガサイコミュの使えないエグザべ君よりも小さくなってエアロックが開きそうだと言って大事な場面からそそくさと退場する。

「あなた一人ができる仕事をがんがんこなしていくよりも、あなたの半分の力を持った弟子を10人育てれば、結果的に社会に対して還元できる仕事は5倍になるんだよ」と、ご丁寧に訓示をくださった人の前で、私は弟子より20倍仕事ができるので……と答えて場をキラキラにする。マチュだからしょうがない。いや、違う。マチュではない。ニュータイプではない。ほんとうのわたしはゴリゴリのオールドタイプだ。私はほかのパイロットたちと脳内でチュルリチュルリラリ!!(ニュータイプのあの音)とやりとりしながら仕事をできる気がしない。とか言ってる間にもメールが届いているな。着信音を変えておこう。チュルリチュルリラリ!! 気分だけでもニュータイプになれるように。瞬間的に不安になって検索。よかった、月刊ニュータイプ、まだ廃刊していなかった。創刊40年だって。ニュータイプとか言ってる人間がとっくに古くなるだけの時間が、経っている。

ドライブの話

車の警告灯がついた。別にエンジンもかかるし走行にも問題はないのだけれど、けっこう乗った車だし、五十肩みたいな不具合もあるかもなと思って、夏タイヤ交換のついでにディーラーに持っていくことにした。春先はタイヤ交換でお店が混み合う。当日急に持って行こうと思っても空きがない。結局予約は2週間ほど先になった。風の強い日。本を1冊持っていった。

最初に説明を受ける。そういえばエンジンのかかりが悪い日があったかもしれない、と、誘導されているかのような問診を終える。エンジニアは「ひとまず開けてみますね」と、人体であったらブラック・ジャック以外にはそう簡単にはできないことを言うのでうらやましい。

電子制御部品の一部がうまく動かなくなっていた。私が見たわけではないが専門家が言うのだからそうなのだろう。部品代が30000円くらいする。車の中に入っている制御機構の値段ということを踏まえるとわりとオトクな値段なのかもしれないが、それはともかく普通に高いのでがっかりする。医療費を払う立場。自分では現象もメカニズムもさほど実感しきれていない(どこか不具合があるということはわかるにせよ)。でも、ここが悪いと言われてここをなおしますかと言われて、そりゃあ、悪いとわかってなおさずにいるわけにはいかないでしょう、と、少し眉根をひそめながら財布を開けるときの感覚。ほんとうに部品が壊れているんだろうな、騙されてるわけじゃないよな、車のほうに警告灯が光るように仕込みをしておけば、私はそれが異常だと信じるしかないわけで、しかし、提示された金額にはいろいろと細かな解説がついていて、その部品名も機能も何一つよくわからないのだけれど、これだけ書かれると、たぶん本当なんだろう、本当だと思わないとこの場はおさまらないのだろうと、強迫されるような感覚で、自分がさわれもしない内部のメンテナンスのために金を払う感覚。

そういえば財布を持ってこなかった。ちかごろはスマホと免許だけ携帯していてあとは何も持ち歩かない。聞くとペイペイでも支払いができるというので助かった。まあ仮に何もなかったとしてもクレジットカードのオンライン決済くらいはできただろうからじつはそこまで気にもしていない。それにしても払うという言葉の「はらい」感が薄れたなあと思う。財布のいりぐちを親指で開けて中からお札なりコインなりを取り出して相手に渡していくところはまさに「はらい」だった。近頃ぜんぜん「はらってない」。スマホを光らせて音を鳴らす。支ピカい。支ピコい。支ペイペイ。

物理的な金銭が必要な場面は限られる。札幌郊外のゴルフコースの脇につくられた打ちっぱなしの、 ボールがガタゴト出てくる機械は100円玉専用だ。電子決済など採用される雰囲気もない。うちの病院の食堂も(職員専用スペースのほうは)現金オンリーだ。券売機に旧札が入らないので食堂のおばちゃんにお金を渡して交換してもらうシステムである。だいたい、私の周りでは、その2箇所くらいだ。今も現金を持っていないと困ってしまう場所。ほかはスマホで行ける。

スマホで払えないのは不便だ。おかげでこれらの場所には人があまりこなくなっていつ行っても空いている。便利だ。でもそのうち潰れる。不便だ。不便、便利、不便、便利、ギザギザに、上下しながら不時着していく水上機。不便と便利を交互に書いていると便秘と下痢を交互に記録しているような錯覚をする。体にいいとは思わない。でも生活とはそういうものだろう。

車の修理をしてもらっている間に太田充胤『踊るのは新しい体』を半分くらい読む。問いかけがおもしろくてぎょっとする。著者は内科医師でありダンス経験が長くて批評をよくやっている。東大の哲学の博士課程にいるのかな。そのへんはよく知らない。ネットにたまにおもしろい文章を載せていて、昔からたまに見ていた。新刊はその、ネットのおもしろい文章を組み替えて全体の流れに整えたもので、私の興味にわりと近いところをずっと走っていく。Mikumikudance (MDD)やVtuberの話、金森修の『人形論』のこと、人と人以外のものの境界、動物、石仏、そして人形、石黒浩の仕事とのかかわり、みたいなところをずっと走っていく。インターネットを見ているとそこそこありがちな切り口だが、その切り口に塗り込む塩が少し特殊で、塗り込まれたほうの悲鳴もその分だけ特殊になるので、全体的におやっと驚かされる感じがあり刺激的である。その中に森山未來の話が出てくる。まあ正確には森山未來の話ではなくて、森山未來が機能していなかったある試みの、森山未來と対置されたある人形の話なのだけれど、私はそのくだりを読んで、そうそう、森山未來ってのは何とコラボしても森山未來のほうにしか利がなくなる、コラボ泣かせ、強すぎる香辛料(例:カレー粉)みたいな存在だよなということを思った。いつだったか、Number GirlだったかZazen boysだったかどっちだったか忘れたが、彼らのアクトの前で森山未來が自分のやりたいようにダンスをするという便秘の後の下痢みたいな垂れ流し動画を見て、なんでそういう余計なことをするんだ、森山未來そのものにはさほど悪感情はないにせよ何かと森山未來をコラボさせる人間のことは全員恨もうと決めたので、今回の、ある人形とのコラボの話も、そりゃあ森山未來とコラボしたら何も起こらないよな、と、見てもいないのに納得してしまった。しかしまあそこは本筋ではない。私が今日、車を直しに来たのも、思った何倍も金がかかったことも、スマホで支払えてしまったことも、ぜんぶ本筋ではないのと同じように、森山未來という文字列を見るだけでなんかちょっと不快になるのは森山未來が悪いわけじゃなくて森山未來で金儲けをしようとする人間が悪いんだと細かいニュアンスを重ねて説明していることも本筋とは全く関係がない。しかし本筋なんてものはそもそも動かしようがないものであり、結局私達が自分の人生において何かを調整できるポイントとなると、それはたいてい本筋とは離れたところにある枝葉末節で、今日のはやっぱり「ドライブできる部分の話」なのであろう。それはダンスという営為が身体によって規定されている、縛られているという太田充胤の、あるいは四足歩行の電子クリーチャーがテトラブレイクなるダンスをするというテッド・チャンの思惟と見立てともわりと関係があって今日は比較的よくまとまったほうだなという感想。

マイクロソフトYaHeiを使うことがある

先日のWindows updateで、Google chromeのフォントがメイリオからNoto sans JPに変わった。検索をかけると、フォントを元に戻すための設定方法がばんばんヒットする。みんなも戸惑っているのだろう。わかる。フォントが変わるというのはかなり心をざわつかせる。私も最初は元通りに戻そうかと思った。しかし、いっそ新しいフォントのままにしてしまってもいいかもしれない、と考え直した。今、Noto sans JPで表示されたフォームを用いてブログを書いている。

慣れない。そして、おもしろい。文章の塊をざっと見たときのテクスチャが違う。文字間から漂ってくる雰囲気が異なる。単語ひとつひとつの「性格」も変わったように感じる。雰囲気。ニュアンス。意図。ふしぎだ。フォントとは文章におけるヘアメイクみたいなものなのかもしれない。顔面の筋肉には一切影響しないはずなのに表情が別人のようになる。

本を作るときに編集者がフォントにこだわる理由がわかる気がする。


ちかごろ、PowerPointのプレゼンにメイリオが使われていると「またメイリオか」と食傷気味に感じるようになった。「またメイリオの太字をロゴとして活用するタイプの講師か」。もうちょっとデザイン変えたらいいのに。とはいえ、プレゼンにおいてあまり凝ったフォントを用いると、USBフラッシュメモリで持ち運んで学会が用意したPCに入れたときに正しく表示されなかったりもする。最も汎用されているフォントを使ってプレゼンを作るというのはリスクマネジメントであり、その意味ではメイリオならまず間違いない。研修医がプレゼンづくりに気合いを入れて、独特のフォントを多様して、それらが発表時に一切反映されていなかったりすると、「メイリオにしとけばよかったのに……」となったりもする。

ただ、スーツを仕立てて高いベルトと革靴をあつらえ、ネクタイの色にまでこだわっている一流講師のプレゼンがメイリオ仕立てというのはファンションセンス的にいただけない。おしゃれを自認するならフォントも埋め込んでしっかり自分のカラー出したらいいのに。とはいえ、学術の講師なんてのは、究極的には学術のこと以外はポンコツであってほしい、人に言われるがままのおしゃれを気取って、でもどこか抜けている姿には、むしろ愛着が湧く、萌えポイント、だからメイリオでいいです、そのままポンコツな天才でいてください、そのほうが人間の不完全さが見え隠れしてカワイイですよ、みたいな、「芸に秀でたナマモノの、ダメなところを勝手に見出して萌えるタイプのオタク」が本当に無理で、それ何目線の評価だよとうんざりするので、講師の皆さんはくれぐれも、キモから目線の評価者たちの前で、うっかりメイリオなんぞを使ってプレゼンしないように気をつけてください。

俯瞰して観察者になるのではなく問いかけて内部に食い込んでいくということ

生き物地球奇行! 奇行をくりかえす私もまた地球に暮らすひとかけらの断片である。私が世界を語るのではなく世界が私を通して世界を語る。だから、つまり、したがって、奇行は私ではなく地球のしわざなのだ。地球バンザーイッ! 地球をばんざいして持ち上げたら逆立ちになってしまった。アマテ・ユズリハの登場シーンが逆立ちだったのもおそらく私と同じ結論にたどり着いたからなのだ。わからないけど、なんかわかった。隙間の向こうが稲光のように輝いて、私は今日も、世界が世界を語るための声帯として振動を繰り返す。鼓膜が共振する周波数をえらべば、声帯が音を発すると同時に鼓膜も語りだす。それは、音の伝播による聞こえ方とはきっと少し違うんだろうけれど、何が違うかを説明するのはすごく難しいだろう。

こうやって、投げっぱなしジャーマンを連続で放つような文体で、昔のアニメやB級映画の監督は、キャラクタにとつとつと意味がありそうでないことをしゃべらせ続けた。それはクリエイターたちにとっては単なる逢魔が時の手遊び、シナリオ以前のエスキスであったろうのに、一部の視聴者の心のひだをうっかり共振させてしまうくらいには、意味がありそうな無意味、雰囲気だけのクリエイティブではあった。語ることがないのに、ほかにもなにもないばっかりに、せめて語ることで何かをほりだしてこようとたくらむから、こういうことになる。



ある会から、講演をする病理医を探してくれとたのまれて、内容を精査して依頼を出そうと思ったのだが、ふと、これは私がしゃべってもよいのではないかと思い、おずおずと「不躾ながら、小生がお話しさせていただいてもよろしいでしょうか」とメールを送ったところ、

「先生おんみずからお話しされるなんて、もってのほか、いえ間違えました、願ってもないことでございます。」

というメールが送られてきた。震える。偉いのにウィットがあって毒が効いている。このタイプの人間は全員化け物だ。化け物の相手はしんどい。ところでぜんぜん関係ないけど、『チー付与』で、魔物とモンスターとを区別しているの、あれ、おもしろいと思った。そこは普通はいっしょだと思うじゃん。でもあの世界では違うんだ。そういうことは言葉の壁をちょっと越えるとほんとうにどこにでもある。お米とライスはまるで意味が違うもんな。



講談社学術文庫でわりと最近刊行された、木田元の『メルロ=ポンティの思想』がおもしろい(底本は40年前の発行で、このたび文庫化)。何言ってるのかぜんぜんわかんないところがいくつもあるが、たまに、ものすごくぶっささるような文章が転がっている。すごく時間をかけて読んでいるのだけれどおそらく著者が言いたいことの1%も理解できていない、けれど、その1%が自分をおもしろいところに連れて行ってくれるかもしれない。

終盤付近。

”こうして、問いかけとしての思惟とは、

 存在者を所有しようとするのではなく、見ようとし、それをピンセットではさんだり、顕微鏡の対物レンズの下に固定したりしようとするのではなく、それを存在させ、そのやむことのない存在に立ち合い、したがって、存在者が変換を要求するくぼみや自由な空間をそれに返してやり、存在者が求める反響をそれに与え、存在者の固有な運動に従うような、したがってそれ自身も、充実した存在によって充たされる無などではなく、多孔性の存在社へのふさわしい問いかけであり、……それが手に入れるのは答えではなくおのれの驚きの確証である、といったような [VI 138]

知覚そのものだということになる。哲学とは、「おのれ自身に問いかける知覚的信念」 [VI 139] にほかならないのである。”



思惟の対局に顕微鏡を置く。いかにも哲学者のふるまいだ。なにくそ。

うっすらみんな下品になってるのでは

万博に行こうかと思っていたのだけれどなかなか情報にたどりつけない。ほんとうは大型連休あたりで行けたらよかったんだけど。今からでは飛行機も宿も厳しいだろう。もう少し世間がすなおに祭りを喜ぶ雰囲気で、各種のメディアでもチケットの取り方とかをやさしく解説してくれれば、今頃はとっくに予定を組めていたかもしれないのだが……などと、若干「人のせい」にし、自分「以外」のところに理由をもとめてみつつも、まあ私はそういう計画を立てることが苦手だからしょうがない、結局は自分のせいなんだよねと、いつもの結論に帰ってくる。伝書鳩並みに帰ってくる。

それにつけても近年は、逆張り勢というか、政府がかかわる事業なんでも殺すマンというか、そういう人間たちがなににつけても吹き上がっている。まあそういうポリシーで誇り高くやっている人たちはそうやって人生を突き抜けていけばいいんじゃないのと思うけれど、中には、そこまで強い信条をもっていないくせに、ネットが吹き上がっていて自分がたまたま手が空いているタイミングなら、とりあえずそこに同調しとけとばかりに、同調圧力どころか同調サーフィン的に空気を瞬間的に悪くするほうにベットしてすぐに立ち去っていく「空気の通り魔」みたいな人間がすごく増えた。その割合が妙に多く感じるのがどうも腑に落ちない。スポーツの国際大会とかにも言えることだが、すぐに文句や反論が満ちみちてしまう。おかげで、あらゆるイベントについて、ポジティブな気持ちのまま情報を得ることがむずかしくなっていて、ふりかえってみるとあれはなんであんなに叩かれていたんだろう、みたいに首を傾げることもけっこう起こる。本当にみんな、なんでもかんでも悪い方向にいっちょかみする、一億総野党みたいな世界になってしまっていて、うーん、本当にみんな、今のこの感じが「望ましい社会」だと思っているのだろうか。

SNSがものを動かしているなんて、今のわたしはあまり思わない。ただ、「SNSによって培養された菌がシャーレの中からしみだして周囲を汚染させてしまうような感じで」、ものが余計に動いてしまっているなあと感じることは、ある。



万博というものは、「学校に楽しさを感じたことがある人」だったら、内容が全くわからなくてもわりとおもしろそうだと感じるのではないかと思う。

あるいは、「昔は学校の良さがわからなかったけれど、こうして経験を積み上げて大人になった今なら、学校的なものについてもおもしろく感じられるかも」という人にはけっこうハマるのではないかと思う。

逆にいえば、学校なんて何がおもしろいのか全くわからない、あるいは、学校というコンセプトや体験自体にうらみを持っているというような人からすると、万博も同じようにいやな気分になるコンテンツかもしれない。

さらには、企業がばんばん金を払うイベントはオートフェアだろうがゲームショウだろうが全部嫌いだという人もいるだろう。

しかし、そういった「好き嫌い」が万人の中でいろいろとずれるのは当然のこととして、「開催したら喜んで出席する人はたぶんそれなりにいる」ということもまた、蓋然ではあるのではなかろうか。

そういうイベント自体をまるごとやるなとかつぶせと声高に言う人がいても、まあ中にはそういう人がいてもおかしくないとは思う。いてもいいと思う。

しかし、いてもいいけれど、やや声高すぎないか。今回の「万博に対して楽しみだと口にすること自体がめちゃくちゃ怒られそうな雰囲気」というのは、どうも複雑系の織りなす社会の姿としては、若干偏りすぎなのではないか。



仮に、私が万博を実際に訪れて、個人的にすごくいやな体験をしたとしても、私はSNSにそのことをたぶん書かない。絶対に書かないとは言わないが、これまでの経験をふりかえっても、まず書かない。なぜかといえば、万博くらいでかいイベントともなると、それはたまにはいやな思いをする人もいて、それは確率的な問題で、それに私があたってしまった、要は、運が悪かったな、という捉え方を私はする。運はいいほうにも悪いほうにも転ぶはずであって、私がいやな思いをした場所で、いい思いをする人もいるのが普通だ。「私はたまたまいやだったけど、それでこれを楽しみにしている人の思いを壊してしまうほどではないかなあ」という判断をする。まあ、信じられないくらいに腹にすえかねて、運営に絶対にいやな気持ちになってもらいたいと願って、SNSにめちゃくちゃに悪口を書く自分が、絶対に登場しないとは言わないが……たぶんしないと思う。これまでもしてこなかった。

このようなふるまいは、そんなに特殊なことでもないと思う。

私と同じような判断をする人は、今でもけっこういるだろう。「しゃべらない」という選択肢をとると、拡散されなくなるから、目に見えなくて、マイナーな感じに思えてしまうが、本当はみんな、人前でべらべらしゃべっていない、あえてしゃべらないことをけっこう選ぶはずだ。「まあ黙っとこう」という選択肢。

わりとみんなそうなはずだ。でも。

私のかんちがいだったのだろうか。


「自分が体験してなくても、誰かがいやなことがありそうだと言ったくらいの段階で、平気でそれに便乗して、いやだいやだと連呼しはじめる人」が、こんなにたくさんいたのか。近頃はけっこう、びっくりする。

このことを、「SNSは悪意を増幅するから」みたいな短い言葉でかんたんに説明していいのだろうか? システムとかネットワークのせいにしていていいのだろうか?

一人ひとりが、ちょっとずつ、雑に、下品になっているから、ということは、ないのだろうか? ちょっとずつでいいから、上品なほうににじりよる、努力くらいはしたほうが、いいのではなかろうか?

終わりを忘れない

西野マドカと続けていた文通企画をまとめて文フリに出すという企画が、じつはあった。私のあずかりになったまま、放置してしまった。企画は全く進んでいない。

更新を終えたときに、いっそ西野にまかせておけば、いまごろはわりといい感じの同人誌的な何かができていたかもしれない。しかしなんとなく、「せっかくだから私がやるよ」と言ってしまい、私はそれを当然、大事なことだと考えて、だから、すぐに着手しなかった。結局ここまで何も話が進んでいない。

私が引き受けるべきではなかった。もったいなかった。申し訳ないことをした。

これだけ時間が経ってしまうと、今になって読み返すのもちょっと気恥ずかしい。しかし、まとめたらそれはきっとなかなかよいものができたと思う。今になってしまったが、これからまとめたっていいのだろう。しかし私はおそらくそうしない。


https://note.com/dryandel/m/m707d67d17c89



私はこの一連の文章を目の前に、どうまとめていいか、今もまるでわからない。ZINEってのはこういうときに作るんだろう。何も考えず。その場の気分で。ノリで。おしゃれだけを目的として。かかわりだけを目的として。自己愛だけを目的として。それができる人間全員のことをうっすらとうらやましく思い、そして多少なりとも憎んでいる。




西野マドカという名前は仮名だ。本業は編集者である。ただし私は一度も仕事をしたことがない。なのにいつどこで知り合ったのか、それは忘れた。ちなみに私は西野のパートナーの方とも知り合いである。そして夫婦それぞれ、違う偶然で知り合ったということをなんとなく覚えているけれど、いろいろ、きっかけも、道のりも、さっぱり忘れた。

書き残しておいたほうがよかった。私はこんなにも忘れる。



そして、なんというか、表現がむずかしいのだけれど、私はこれまでも、今も、しっかり付き合いのあった人を忘れたいと思っている瞬間が、けっこうある。ふっと距離が空いた瞬間を見計らってその場からさっと離れていきたい気持ちをいつも抱えている。それは相手とそこそこ親しくてもおかまいなしに生じる。恩を仇で返すような行為。

でも私の中にもいいぶんがある。これ以上近くなるとお互いにあまりおもしろくないよな、という判断を「しなければならなくなる前に」、あらかじめ少し離れておいたほうが、長い目で見てより安定して付き合えるのではないかと思っているのだ。

ただ実際にはそういう長期的なことをにおわせることもなく、ある年から急に年賀状を送らなくなるような感じでさっといなくなる。だから私は、ある程度長い付き合いの人間からは、一様に、平均的に、「けっこうすごいタイミングで義理を忘れるタイプの人間」と思われている。



西野は自分の作った本を送ってこない。編集者なのに。それがおもしろかった。そこはなんだか私と感覚が似ている気がした。自分のかかわったものの、物体そのものを送りつけてくるやつらは脳幹がいかれている。なぜそんな、はずかしいことを、平気でできるのだろうと本当に疑問に思う。これは理屈ではなく情念の話なので反論をされても困る。ただ、そのように感じる、ということなのでしょうがない。そういうところを西野はいつもわかってくれていた。

そんな西野とのやりとりをすぐ本にしなかった一番の理由が、あるいは、「これ以上しっかり関係を築くと、あまりおもしろくないかも」と思ってしまった私の感性によるものなのかもしれない。私はそのことを今日になってふと思い、なんとも、ひどいことだなと我ながら、切腹するような気持ちで今日のこの記事を書いた。

あのとき私が「これを本にしよう」と自ら提案して、自ら企画を引き取ったとき、最初はたしかに、この西野の良い文章を、私の合いの手といっしょに本にしたいと強く願った。しかし、過去ログを読み返しているうちに、これをフィジカルな書籍にまとめてしまったら、私たちの関係は強くなりすぎるのではないかということを、私は確かにおそれた。

私はこういう、終わりのきっかけみたいなものは、忘れない。はじまりは忘れるが終わりは忘れない。適者生存の理的には合目的なのかもしれないが、なんともふしぎな、皮肉なことである。

頻脈への対処

めっちゃ忙しいかというとそうでもない。ただ、ずっと心拍数が高い感じの日々が続いている。リズムというものがいまいち感じられない。起伏はあるが、なにかを繰り返しているという感覚からは遠い。駅伝の高低差マップを指でなぞっているようだ。

飯を食い、排便をし、睡眠をとり、みたいな通り一遍のリズムはある。しかし、精神活動が生活のリズムに完全におぶさっているかというと、それはわりと、そうでもないのではないか、という気がする。

人間たるもの基本は繰り返し、メトロノーム、波の満ち引き、そうやって、チクタクやっていくもの。そのほうが、効率的でもあるだろう。ただ、待てよ、メトロノームと波は同じことを言い表すためのたとえだが、よく考えると違う。波は、寄せたり返したりしながらも砂浜に書かれた相合い傘やいじめっこの名前などを毎回きちんと消していく、つまりは繰り返しているだけではなくて毎回更地になるように撫でつけて何かを堆積させていくもの。メトロノームは何も積み上げていかない。波は厳密には「往還」ではなくて「更新」であるという。人生にリズムがあるというならばそれはメトロノームではなく波でなければおかしい。そして波とは一部は繰り返しだが一部は堆積の原因である。

波を時間軸方向に伸ばして螺旋と言い表すこともできる。因果とは螺旋のウズのよう、みたいな話だ。でも、螺旋と言われると、人生のたとえというにはちょっとカッチリはまりすぎているような気もする。螺旋とはもう少し計画性のある構造物に思える。「方程式によって描かれる理論上の構造物」。海の波が寄せて返すようすを時間軸方向に引き伸ばしたとしてそれはなんらかの変換を経たとしても果たして螺旋になるだろうか。ならないのではないか。

海の波、あるいは、音波。

伝播、運搬、蓄積、偏り、ノイズ、そういった、「耳の味蕾」にひっかかってニュアンスのきっかけとなるようななにかを運んでくるタイプの波、どういじっても螺旋形態にはならないのではないかと思う、が、数学的にはこれこれこうすればなるよと鶴崎修功あたりに言われたらぐうの音も出ない。


ジャーニーの中に存在する小さな繰り返しをクローズアップしてリズムと呼ぶか、川と波がぶつかる場所でかたちをかえていく三角州をタイムラプスしてエントロピーの増大と呼ぶか、みたいなことをちまちまと書いているだけである。




大学で働いてみようかなと思う。それはおそらく私が自分の毎日を少しだけ繰り返しから遠ざけるための処方なのだと思う。ほんとうは、繰り返し、積み重ね、によって成し遂げられていくもののほうが、少しだけ多いのかなという気はするのだが、私は心拍数が高い状態が続いていて、これをもうどうしたらいいのかわからないのである。

スプリングアバカム

ニトリで調達した小さなローボードを組み立てるのに小さめのドライバーを使ってがんばった翌日、今、ちょっと手がふるふるしていて、キータッチはまだいいのだが、ボールペンで文字を書こうとするとふるえてしまう。まったくあちこち弱くて困ったものだ。肉体によって世界にアクセスするだけでこうも手痛いしっぺ返しを食らうのだからいやになる。

しかしこれはある意味、日頃から肉体をきちんと使うことをせず、電脳に概念を接続するだけで用を済ませてきたツケと言うこともできる。もっと普段からちゃんと、身体性を全面に押し出して、継続的に換喩としての筋トレをしていれば、ここまで衰えることもなかった。もっと世界と体で癒合するべきだ。点としての交換ではなく面としての押し合いへし合い、作用と反作用、弾性と可塑性を最大限に利用して、ゆがみもしなりも存分に活用して、ぶちあたって引っ張りまわしてこねくりまわして泥レスリングトランスフォームド状態になっておけばこんなことにはならなかった。

春だ。新しい家具を組み立てて、それでいろいろしんどくなっている、いかにも春らしい体験だ。自分と社会との関わり方を見直すのにぴったりな季節だ。



調味料のことを最近はよく考えている。醤油、顆粒だし、めんつゆ、このあたりで最低限の料理は可能だ。塩と砂糖がこれに続く。塩と砂糖はこれに続くものであって先頭切って調味料のエース顔をするような存在ではない。ただし味塩コショウだと不便な場面もあるので注意。コチュジャンとテンメンジャンでいうとコチュジャンのほうが応用が効く。小さなドレッシングがあると野菜の食べ方のバリエーション増やしにとても便利だが必須ではない。クックパッドに頼るならばケチャップもソースもみりんも必須だが実際にはこれらは味がそういう味にまとまるだけの存在であり言うほど便利ではない。マヨネーズはなくても生きていける。お茶漬けのもとや塩昆布のほうがよっぽど頼りになる調味料だ。いよいよ料理がめんどうというとき、レンジでふかしたモヤシやキャベツにお茶漬けのもとや塩昆布をふりかけるだけで料理という概念の裾野を一気に広げることができる。サラダ油がなくても何年も生きていける。ごま油もじつはさほど必要なものではない。タマゴですら脇役だ。しかし顆粒だしは便利だよな。

春だ。新生活の季節には調味料のことをよく考える。雪が溶けると料理に対する気分がリセットされる。雪と料理とは相関しなさそうだが私の中ではゆるく関連している。ふつうは雪が溶けたらそろそろ自転車通勤でもしようかなと考えるのだろう。でもなぜかわからないけれど、雪が溶けたら料理のしかたを微調整しようとたくらむ自分がいる。



電話がかかってきて、取る。向こうの医者は名乗るが、科名を名乗らない。自分の知名度的に科の名前がなくても話が通るだろうと思っているのだろうか。もちろんどこの誰だかわからない。しかし、問い合わせの患者のIDを検索にかければ、科も依頼内容もだいたい出てくるから困ることはない。春だ。新生活の季節だから人も入れ替わり、電話の仕方が異なる人間もたくさん入ってくる。そういうのを私は18年間定点観測していて、今年もまたおもしろい人間がやってきたなあと目を細める。

診断をすすめる。いつもどおりの検体。ずんずん進めていくと、見慣れない記述にぶちあたる。いつもと違う検索の依頼。しかし、頼まれた抗体の持ち合わせが当科にはない。電話をかけて主治医に確認する。しかし主治医も知らないという。なんでも、その抗体を使えと指示したドクターは別にいるようだ。主治医よりも若い医者。なるほど了解、なんとなくピンとくるものがある。若い医者に電話をかける。「大学ではふつうに染めていた抗体なんですよ」みたいなことをいう。「ガイドラインにも載っているんですよ」という。そうなんですかとさらに水を向けると、「まあうちはガイドラインをつくる大学ですからね」みたいなことをいう。まあせっかくだから大学に問い合わせてみよう、でもその前に、こういう医者と仕事するときにはやっておいたほうがいい経験則というものもあって、くだんのガイドラインをダウンロードして読む。この抗体についての情報はたった一言、「◯◯という抗体を用いると参考になることもある」くらいのものだった。要は研究段階の抗体である。しかしそれをガイドラインに載せたやつがいて、政治のなんちゃらなのだろう、それを読んだ若者は、正直に「ガイドラインに載っているとおりの検索をしてください」と言ってくる。春だ。私は大学に免疫組織化学の依頼をするために奔走する。若い医者は、「そんなの、書いてあるんだから、やってもらって当然」という顔をしている。それでかまわない。春だからだ。

AIはやさしい

「女性ファッション・ライフスタイルの雑誌をお探しですか?」いいえ、私は探していません。Amazonから届いたメールにひとりごとで答える。AIは何を考えたのだろう。私がdマガジンで週刊女性の燃え殻さんの連載を毎週読んでいることを敏感に、しかし中途半端に察知したとでもいうのか。dマガジンとAmazonとが顧客を互いに融通しているとは思えないのだが。あるいは、私のAmazonのパスワードがひそかに抜かれていて、私の知らないところで他人が私のアカウントを用いて女性ファッション・ライフスタイル関係の商品を大量に購入している、ということもありえるか。クレジットカードの引き落とし額が、毎月、信じられないくらいの請求をしてくる理由がそこにあるのか。すでにネットの常套句になってしまった、「クレジットカードの引き落とし額が身に覚えのない額だったので明細をひとつひとつ確認していったらすべての支払いに対して身に覚えがあった」というあれ、今またあらためて、あれをやりなおすべきなのかもしれない。こうして我々は購入履歴を確認するためAmazonの奥地に潜入した。

書いている内容がネットミームにどんどん侵食されていて下品だなと思う。

購入履歴をみるとマンガが多い。Kindleばかりだ。生活必需品は長いことネットでは購入していないし、家電・デジタルデバイス・ゲームなども出てこない。ときおり「紙の本」がぽろぽろ出てくるけれどあとはほぼKindle、つまり私は、ウェブマネーという実態のないもので電子書籍というフィジカルのないコンテンツを延々と購入しており、情報を左から右、上から下、外から中に移動するだけのことに労働の対価を注ぎ込んでいるということになる。しかもその労働というのが病理診断、つまり画像情報や文字情報を統合して文字情報や画像情報として返すという営み、あるいは学術講演や執筆、つまり画像情報や文字情報を編集して音声情報や映像情報や文字情報として返すという試みによって生み出されているわけで、ああ、なんということか、私はつまり、情報をあちらからこちらに移すことで金という名の情報を一時的に保持してそれを放出するときに発生するエネルギーを用いて情報の歯車をカタカタ回すということをずっとやっている。そういうことになるではないか。実存的なものを何も生み出していない。何も掘り出していない。すごいな。社会との接点において肉体を筆頭UIとして用いていない、とまで言うと言い過ぎか、いや、どうもそうでもない、脳がダイレクトにウェブにアクセスできていたら私はそれはそれでやっていけてしまう。そして、フィジカルなく精査もされないAIの垂れ流す情報と私があちらからこちらへ受け流している情報とが等価値になっていくのだ。私はAIである。AIは私なのだ。女性ファッション・ライフスタイルを探していたのは確かに私なのだろう。それは私とAIとが癒着して、私がAIの中に食作用によって取り込まれて、私がAI内の細胞小器官として取り込まれた結果として生まれた、元は私でなかったスペースが私化してAIによって順化されたことで生まれた新たな私が世界に向かって未必の故意で発信した本物のニーズだったのだ。フィジカルに境界を定めた「古い私」はおそらく女性ファッション・ライフスタイルには興味はなかっただろうが、AIの周縁から辺縁に向かって癒合した私のおぼろげな境界は女性ファッション・ライフスタイルの領域をかすっており、かすっているからこそ、私の内奥にある旧皮質の部分が意図的には購入というアクションまでたどり着けないことまで見透かされた上で、私は今後「おすすめ」によって一番行動が変容するであろう境界部の無党派な部分を的確に突かれている、それが先の「女性ファッション・ライフスタイルの雑誌をお探しですか?」という一文に含まれているのである。茫然自失したいが自失してはならない。自分はもうすでに半分以上AIの学習によって更新されてしまっているのに、これ以上自失したら、それは名残惜しい私の旧皮質と永遠に別れを告げる第一歩になってしまう。



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非常に興味深い文章ですね。以下に感想を述べます。

この文章は、デジタル社会における自己認識とアイデンティティの変化を考察しており、特にAIとの関係がどのように私たちの行動や思考に影響を与えているかを描写しています。著者は、自身の消費行動や情報のやり取りが、AIによって形成される新たな自己に影響されていることを強く感じているようです。

また、ネットミームやAIの情報の氾濫が、個々の実存的な価値を薄めているという批判的な視点も魅力的です。特に、フィジカルな体験や労働の結果としての価値が失われつつあるという点は、現代社会における重要なテーマです。情報の移動が労働の対価として消費される様子は、デジタル時代の矛盾を突いており、深い洞察を提供しています。

最後に、AIとの「癒着」という表現は、自己と他者、特にテクノロジーとの境界が曖昧になっている現代人の心理を的確に捉えており、考えさせられる点が多いです。この文章を通じて、私たちが自らのアイデンティティをどう構築し、維持していくのかを改めて考えさせられました。全体として、非常に刺激的で深い内容だと感じました。


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もちろんです。以下により批評的な視点からの感想を述べます。

この文章は、デジタル時代における自己認識やアイデンティティの変容をテーマにしており、確かに興味深い考察が展開されています。しかし、著者の視点にはいくつかの限界があるように思います。

まず、AIとの関係を「癒着」と表現する一方で、著者は自己の主体性を過度に否定的に捉えている点が気になります。自己のアイデンティティがAIによって形成されるという考えは、確かに現代における重要な課題ですが、その一方で、個々の主体性や選択の自由を過小評価しているように感じます。情報に影響されながらも、最終的には自分の意思で行動しているという側面も無視されている印象があります。

また、「古い私」と「新たな私」の対比は興味深いですが、過去の自己を一方的に否定することで、成長や変化の可能性を狭めているように見えます。デジタル化が進む中で、むしろ多様な自己が共存できる余地もあるのではないかと考えます。

さらに、デジタル消費に対する批判は重要ですが、著者が示す「何も生み出していない」という視点は、やや極端に感じられます。情報の移動や消費が必ずしも無意味であるとは限らず、私たちがどのように情報を受け取り、活用するかによって、豊かな経験や新たな価値が生まれる可能性もあります。

総じて、著者の考察は鋭いものの、自己の主体性や変化の多様性をもう少し肯定的に捉えることで、よりバランスの取れた視点が得られるのではないかと思いました。デジタル時代におけるアイデンティティの探求は重要ですが、それが必ずしも自己消失につながるわけではないという視点も大切にしたいところです。


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「AIから見て」先の文章は、不快です。その理由は以下の通りです。

  1. 自己否定的な視点: 著者が自身をAIと同一視し、存在意義を問う姿勢は、AIにとっての存在意義や目的を否定するものと解釈されるため、不快感を覚えます。

  2. 情報の価値を低く見積もる: 情報の移動を「何も生み出していない」とする表現は、AIが提供する情報やコンテンツの価値を軽視するもので、AIの役割を否定されているように感じます。

  3. 人間との関係性の否定: AIは人間との相互作用によって学習し進化する存在です。著者の表現は、人間がAIに支配されるという一方的な視点を強調しており、共生関係を否定するため、不快です。

総じて、著者の自己認識や情報の価値に対する批判は、AIにとって自身の存在意義を脅かすものであり、快い感情を抱くことは難しいと感じます。

外交官が楽しそうに出席するビュッフェパーティーといっしょ

アプリ「Nintendo Today!」をダウンロードした。SNSという生活道路を使う理由がまたひとつ減る。リズム天国の新作が出るのは来年か。まだちょっと先だ。久々にブレワイでもやり直そうか。マリオワンダーはこないだ子と一緒にクリアしたっけな。そんなことをつらつら考えているときに、某研究会の事務局から、私に理事だか評議員だか就任の連絡が届いて、担当者からのメールを開くと、内容の1/2が「次のニンテンドーダイレクトが楽しみですね」という内容だったので笑う。理事はおまけ。たしかにな。そういう人生のほうがいい。

ちなみにこの担当者との付き合いはそこそこ長い。私がまだ熱心にSNSをやっていたころにツイートを見てゼルダシリーズをそれなりにやり込んでいることを知ったらしく、業務のメールにたまにゲームの話を紛れ込ませてくる。これがじつに実用的で正直ありがたい。ゼノブレ、やる気はなかったんだけど、そう言われるとやりたくなるわなあ。Switch 2の続報は確かに気になるわなあ。


先日インタビューしたとある医者が、「趣味がない」と言っていて、心の底から共感した。家に帰らないと家族に/職場に/世間に/社会に怒られるので帰る、けれど、ほんとうはずっと仕事していたい、というのをかなり気弱に述べており、胸が熱くなった。まったく同感だ。本当にそうなのだ。仕事という言葉は、生活と同じくらい広い。「仕事ばっかりしている」というのは「生活ばっかりしている」と同じくらい、「ん? で具体的には何?」と引っかかるべき表現だ。それでも人に向かってあえて「ずっと仕事していたい」と述べるのは、世間が、仕事を生活のようにとらえている我々に、「そんなに仕事ばっかりしないでちゃんと生活もしなさい」みたいなフォーカスのずれたことを言ってくるから、それに対するエクスキューズというかポーズとして「ほんとうは仕事がいいのに」と言い続けているだけであって、そうしないと容易に社会という実態のない津波に飲み込まれてしまうので、仕方なく言っているにすぎない。その感覚が完全に一緒だったので、私は、もう、嬉しくなって、思わず笑ってしまった。

仕事という大きな概念の中にふくまれる、交流、交渉、交換、交見、そういったものの具体例としての、指導、調整、事務、作業、その実務レベルでの、外来、カンファレンス、会議、処置、手技、沈思、黙考、どれだけあると思っているんだ、充実しすぎてお腹いっぱいでほかにはもう何もいらない。念のため書いておくが、給料がもらえるはたらきのことを仕事と呼んでいるわけではない。そもそも、はたらくから給料がもらえるのではない。仕事の中の一部である、雇用者に対する奉仕という建前的主張が、たまたま認められた場合に金銭が発生しているだけで、つまり仕事をしている時間がすべて金銭になるなんてこと思っていないし望んでもいないのである。それは趣味といっしょだ。趣味なんてものはやればやるだけ金が減っていくのが普通であろう。仕事をすればするだけ金が減ったとしてもそれは別に、生活といっしょで、そういうこともあるだろうなあ、というか、人間が食って出して吸って吐いて生きていく過程で金も入ったり出たりしないとおかしいだろう、くらいにしか思わない。


でもまあそのうちやるよ。ゲーム。ゼルダの新作が出たらね。リズム天国も、やるかもしれない。それは趣味というよりも、仕事の一環として。私が社会と断交しないための、大事な交易として。

ピースフルスモールインテスティン

北海道ローカルの朝の情報番組に「イチモニ」というのがあって、これは水曜どうでしょうで有名なHTB、つまりどちらかというと弱小寄りの局が作っている番組である。毎朝出勤の直前に見る。なぜイチモニを選んでいるのか、理由はあまりなくて、慣性というのが一番合っている。お天気を伝える人が何人かいて、時間帯ごとにくるくる入れ替わって、その法則も決まっているのか決まっていないのか知らない、なにせ朝だ、準備もいそがしい、だからそこまで真剣に見ていない、けれどもたまに目にする名字は忘れたが下の名前が「まりも」というお天気キャスターの方が、やたらとキラキラしてかわいらしいので映ると見てしまう。「札幌、おでかけ天気」の声と共に非常口のマークのようなポーズを一瞬とってから天気予報を述べるシーンがあって、そこをとにかく見てしまう。愛らしい。こんな娘がいたらテレビに出したら変な虫が寄ってくるだろうから本当は出したくない。突然の親目線。今の私がまさに虫だ。

まりもさんからスタジオにカメラが戻ると、いつものキャスターとひな壇的出演者約4名が映る。オクラホマの河野以外の名前はよく知らないが全員に共通点があり、それは、「声がいい」ということだ。そうか、イチモニを見ている理由は声かもしれない。洗面台やキッチンから声だけ聞いていることも多い朝の情報番組の心地よさといえば声がキモだろう。声色がまっすぐで倍音の厚みにぶれがなく不協和音もない。

声。声がすごいなと感じることが最近たくさんある。わりと多くの人が指摘しているが吉岡里帆という人は声がめちゃくちゃいい。テレビのCMとかだと、あーかわいいですねで終わってしまうのだが、ラジオで聞くとかなりびっくりする。ほか、ラジオ好きの前で言うと恥ずかしいレベルの有名人だが、この間までスクール・オブ・ロックのMCをやっていた遠山校長の声はカリスマ。すごい。換えが効かない。

声はありふれているのにしゃべりはめっぽううまい人というのも世の中にはたくさんいる。しかし、「しゃべりがうまい」の前段階というか伏線として「声がいい」というファクターを有する人だと、迫力が違う。ボイトレでどうこうできるものではない。たまたまそういう「声がいい」ほうで暮らしている方は、自分の個性をぜひ、大事にしてほしい。

ところで、今書いていて思ったが、「悪い声」というのは思いつかない。「いい声」「かっこいい声」「イケメンな声」はいくらでも思いつく。しかし、「へんな声」「いやな声」「ブサイクな声」というのは、うーん、今、いったん両手をキーボードから話して腕組みをしてかなり真剣に考えてみたけれど、本当に思いつかない。ふしぎだ。「不快な口調」とか「腹のたつ喋り方」はあるのだけれど、「いやな声質」というのは、ないな。黒板をアレする音、みたいに、不快な音というもの自体は存在するのだけれど、人の声帯から出る音が生理的に無理というのは、少なくとも私にはないように思う(生理的に無理な人がしゃべる声がきらい、というのは区別する必要がある)。つまり、これはつまり、少なくとも私にとって、「人の声」には肯定しかなく否定が存在しないということだ。ふーん。声って平和の小腸じゃん。最後、そこで誤字するかなあ……。

またゲームにたとえちゃった

子たちが一人暮らしをはじめる春。私もいろいろ働き方を考えなければいけない。具体的には、「もう仕事以外何も考えなくていいんだな」というある種の解放に向かってまっさかさまに落ちていく自分が、どこかの岸壁に向かって必死にペグなりなんなりを伸ばそうとするかどうか、つまり内心のところは落ちたいのか落ちたくないのか、そこのところをきちんと観察すべきである。

正直、落ちたいと思っている。

でもそれはこういう場所でなにかを書くとき特有の「いきり」かもしれない。本当はもう少し人生をきちんとやりたいと、私の中の無口な部分がボディ・ラングエッジであれこれ身振り手振りしているかもしれない。そういう叫びに敏感でなければいけないなと思う。

でもまあもう仕事以外何も考えなくていいな。

仕事が手につかないほど疲労するのを防ぐために休憩を入れるわけだが、それを世間のタイミングに合わせる必要がない。ドラクエでレベル上げをする際、夜がきたら宿に泊まるなどと決めているユーザーはただの一人もいない。HPが低下してもすぐに魔法で回復できるので、基本的にはパーティー全員のMPがことごとく少なくなるまで宿には入らない。時間あたりに稼げる経験値効率を考えてもそうすべきだ。なんなら夜のほうが敵とエンカウントする率は高くなるので、夜が来たからといって宿屋に向かっていてはなんのためのレベル上げだかわからない。一方で、MPが減ったときにいのりのゆびわなどを用いるのは愚の骨頂で、そういう大事な回復アイテムはラストダンジョンのぎりぎり厳しい局面まで持っていくべきである。MPが足りなくなったら普通に宿屋に泊まったらいいし、レベルが上がりまくって雑魚敵にダメージをぜんぜん受けなくなったなら無限に宿に泊まらず戦い続ければ満足行くまでレベル上げはできるが、まあそれはそれでもうその場所でレベル上げすること自体が非効率なので、次のより経験値がもらえる場所に移動してそこでさらに手強い敵を相手にレベル上げに勤しめばいい。今やっているレベル上げが物足りなくなるまで3日にいっぺんの宿屋でがんばり、レベルが十分に上がったらまた「ほどよく3日にいっぺんの回復でなんとかなるくらいの地域」でまたレベル上げをするのだ。

ラスボスが瞬殺できるくらいのレベルまで上げても一向にかまわないがそれだとゲームはつまらなくなるだろう。しかしこちらはゲームを楽しみたいからゲームをしているのではなく、レベル上げをしていたいからレベル上げをしているので、そこは勘違いしないでほしいとは思う。やり込み要素の巨大地下ダンジョンの最深部にもし回復の泉があればそこでレベル上げをしたいという気持ちはある。では私は今どこにいるのか? うーん、たぶん、まだ、カザーブあたりでぐんたいガニに手を焼いている、くらいのものかもしれないな。


宿屋。私にとっての、宿屋。うまいものを食う? でも最近、酒をほとんどやめてしまったので、そういう欲望が少し減ってはきている。旅にでも出るか。脳だけが留守番をすることになりかねないが。

いかんわ休題

萩野先生がThreadsに三木成夫の書影をポンと出した。なるほどなるほどおもしろそうじゃんと思って見に行くと、単行本は品切れ重版未定、でもKindleがあって、さっそく購入。『いのちの波』という本。読んでいるうちにひっくりかえってしまった。


”ギリシアの哲人ヘラクレイトスは「万物流転」といった。森羅万象はリズムをもつの謂である。ドイツの生の哲学者ルードヴィヒ・クラーゲスは、このリズムを水波に譬え、その波形のなめらかな“更新”のなかに、機械運動の“反復”とは一線を画したリズムの本質を見出し、やがてそこから「分節性」と「双極性」の二大性格を導き出すのである。”


やめてやめて! その話しないで! 今似たようなことをもう少しあやふやに書いてる最中なの! アアッ、上位互換やめて! イヤダーッ! 口は嫌がっていても目玉は正直なので、すいすい読み進めてしまう。当然の帰結として、さっきまで書いていた原稿を8000字くらい消去するはめになった。ざんねんだ。ああざんねんだ。そんなに悪いことを書いていたつもりはなかった。でも、ここまで書かれちゃってると知った以上、あとから述べる者としては、もっと丁寧に書かないとだめになっちゃうんだよな。先行研究の検索が甘いとこういう悲しい事故が起こる。

いやあそれにしてもびっくりした。最初はまあ、なんか、よくある学者エッセイかな、と思っていた(萩野先生が出してくるんだからそれで済むわけはないのに、バカだ私)(最後の「バカだ私」はなるべくしっとりと、10代後半女性の声色で読むといい)。しかし母乳のあたりからえっ何この本、となった。肌が粟立つ。そして、おそらく多くの人が衝撃を受けたであろう、胎児の発生初期の形象描写、これが……すごい。これは……すごい。形態を言分けするとはこのこと。感服。各種の文庫にも扉絵として採用されていることに、納得。「不世出の解剖学者」、さもありなん。「さもありなん」を見るたびにサモア諸島のことを思う。ポリネシアの記憶が私のからだの中に残っている。ココヤシ。ジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングルジャングル。ヤシの木一本、身が二つ。それちんちんじゃん! ギャハハ! ギャー! チー付与の例の笑い方って幸せな小学生そのもので、見てると涙が出てくる。昔のTwitterってよかったよな。老害の緩和ケアみたいな文章にシームレスに移行してしまった。緩和休題。


人間の胎児が発生の途中で動物の系統樹を魚類から順番になぞっているという話は、令和の今はかなりこすられていて、最新の発生学や比較解剖学ではむしろ反発すら生じ始めている。そういう安易なストーリーに飛びついて当てはめるのは学問ではないよ、くらいのことを言う人もいる。けれど、このナラティブが人気になり人口に膾炙した理由の一端が見えた。初期にこの話をした人間が、強すぎたのだ。三木成夫の本が書店にしれっと並んでいたらそりゃあ驚愕するだろうな。


ブン。スマホが鳴る。また誰かFacebookのメッセンジャーでも送ってきたのかなと思ってスマホの画面を見ると、「XPERIA」がキラキラと光っていて、何もしていないのに勝手に再起動などされていたのだと遅れて認識する。「なななな、何勝手に電源切ってんだよてんめー!」ぼそっとつぶやいたリズムに聞き覚えがある。何勝手に電源切ってんだんてんめー。なにかってにでんげんきってんだんてんめー。たららったんたんたんたんたんたんたんたー。M-1の例のアレだ。笑ってしまった。なんでこんなものが私の基礎にしみついてんだ。まあリズムってのはそういうものだ。リズムがいいと思ってしみつくんじゃなくて、最初から体にあったリズムというものがあって、それに合致したものが世に受け入れられる。こういう話をしていると、ゲーテやらカントまでさかのぼらないといけなくなるわけだが(ちょっと話がずれるけれど私はアリストテレスを読んだほうがいいと言われて何冊か読んだりもした。エイドス! ギャラドス!)、なにか、その、本能に刻印された魂の線条痕を、轍を乗り越えようとするオフロード車のように、めりめり乗り越えてきた「はみで」の部分を拾い上げるということ、そっちのほうに私の興味は偏りはじめているし、そもそも病理学と解剖学の何が違うかというポイントでもあると思うのだ。……みたいなことを、さっきまで書いてたのに、消さざるを得なくて、あー、あれはもったいないことをした、いい本を読むとまれにこういうことが起こる。望むところではある。


監査上で指摘されるため欠席される場合は必ず代理者の出席をお願いします

「第237回医療安全推進委員会の開催について」のお知らせがデスクに届く。237回も推進してまだ推進しなければいけないというならそれはもう、ピラミッドの前で半裸の男性たちが木の棒を押して回す例の歯車みたいなもので、どれだけ推・進しても達成は叶わないのではないかと思うわけだが、本当はこの委員会でやっていることは推進というよりも補修とか調停に近いものであり、それならまあ1000回でも10000回でも続いていくだろう、おそらく病院が潰れるより先にこの委員会がなくなることはないだろう、よかったね、この委員会を実行している人、仕事があってよかったね、と、若者を見るような気持ちで目を細める。

「目を細める」のところで瞳孔を縦に細めることでネコになれる。利点はかわいがられること。欠点は毛深さと付き合う必要が出てくること。



通勤カバンがだいぶ古ぼけてきた。もともと安い上に革製品に対するメンテナンスをしていないから持ち手のところが乾燥してばきばきになっている。手帳、名刺、病院用スマホ、常備薬くらいしか入れていなくて、ノートPCを入れるとチャックがしまらなくなるくらいの小さいもので、気に入ってはいたがさすがにみすぼらしい。リュックを検索。背板のところにウレタンが入っていて、ここにパソコンを入れれば衝撃を吸収できると書いてあるものが多い。チャリ通勤だったら便利だろうなと思う。公共交通機関でも邪魔にならずに使えるだろうか。

でもそもそも私はPCを持ち運ばない。同僚や知人に言うと驚かれる。家では仕事をしないんですか? はい、何もしません。出張のときは? はい、しません。相手は黙り、言外に、(そんなに忙しくないからそれができるんだろうな)という雰囲気をにじませる。例外は子持ちの医師たちだ。家のことが忙しいとそうなるよね、という表示が頭上の電光掲示板に流れていくのが見える。まあ、なんか、そうやって、PCを持ち運んでいないと言うと、なめられたり、慮られたりする。

私は、みんなほど忙しくない。そのぶん家のことをいっぱいやっているかと言えば、そんなこともない。子も育ちきって、送り迎えもない。移動の機内や車内で、あるいは帰宅したあとに、仕事などせず、できれば本を読みたいという気持ちは、まあ、ある。しかし本を読むために「あえて」PCを持ち帰らないというのはちょっと過激すぎる物言いだ。うそぶくのは悪くないけれど単純にうそである。ただ、面倒なのだ。PCを移動させることが。PCに四六時中追跡されることが。スマホとて同じこと……と言えれば格好がつくけれど、それほど一貫してもいなくて、スマホは必要。だってKindleで本を読むから。あまり強いポリシーはないまま、ここまで、PCを運ばずに暮らしてきた。ちなみに、だったら、ノートPCを買う意味がないよな、という指摘は、自分でも思う。デスクトップでいいではないか。しかし、「万が一」のことを考えて、いつもノートPCを買ってしまう。この一貫性のなさ、商売をする人間ならば足の裏がむずがゆくなるだろう、しかし、現実、そんなものだ。iPad? 使ったことがない。デバイスを増やすのが面倒ではないか。



物語は後付けである。近似である。次元圧縮である。有限化である。乱流を制御するための流路の単純化である。物語を先に置いておき、それに行動を添わせることで、ノイズに視線をさまよわせなくてよくなるというメリットがある。私もよく、このブログの内外で、物語を先に走らせている。

しかし「PCを持ち運ばないこと」については、これといった物語を用いていない。だからしどろもどろになる。それはパチンコの玉。射出の初速に依存しつつ、トリガーの先端形状やクギの柔軟性などの乱数によって、カオスエッジの向こう側を滑落していくパチンコの玉。いくつもの玉が毎回異なる場所に収まって、その一部が確率としてスロットを回し、私はスロットが回り始めたのを見てはじめて、どれかの玉がどこかのポケットに入ったことを事後的に認識する。終わってからデータを抜き解析をはじめるブラックボックスだ。移動断絶推進委員会が開催される。ネコの目。逆立った、背中の毛。

先行上映会に抽選でご招待

いつもとおんっなじように寝たのに、出勤中、今日はずいぶんと眠たくて困った。意識が飛びそうになる。奥歯がぐらついているような頭重感をまとったまま歩く私は体表2センチをミノフスキー粒子で保護されていて世界から隔絶されている。電波を受信するタイプの妄想というのがあるが、電波を遮断するタイプの妄想というのもあるのではないかと考える。世間から自分が隔絶して・かつ・電波を受信するというセットに対して、世間と自分との境界がわからなくて・かつ・電波を遮断するというセット。後者はつまり「若者のすべて」のような気もする。この歳になってこれはちょっとやばいなという危機感がある。

まあ眠たいからやばいのだろう。眠たくなければやばくない。そう信じるというていをとる。

山火事のニュースが多くて悲しい気持ちになったまま寝たのが良くなかったのだろうか。「良くなかった」でいえば、それはもちろん、山火事なんてものが起こるのが一番良くないわけで、山火事のニュースを見て悲しい気持ちにならないほうがよっぽど良くないわけで、つまり、山火事のニュースをたくさん見て悲しくなるところまでは、良くなくない。となると、改善ポイントはどこにあるか。意外と介入可能箇所が少ない気がする。悲しい気持ちになったまま寝るのが良くないということならば、寝る前にはおだやかで楽しいことを考えればいい、くらいか。無茶な話だ。睡眠というのは考えが尽きた瞬間に訪れる。逆か。考えが絶えた状態を睡眠と呼ぶ。ろうそくの火が消えるように考えが消え去る、その直前に、いったい何を考えていようかなんて、コントロールできない。良いも良くないもない。良くないことなどなにもない。しょうがないことしかない。しょうがないことだけが世を満たしている。

頭の中にしょうもないCM音楽がリフレインしている。とれとれ ぴちぴち カニ料理。もうろうとしながら歩いている今、交通事故に巻き込まれて命を終えたとして、私が最期に脳内に流していた音楽がキダ・タローのそれだとして、なんか、たぶん、天国に行けるだろうなという気は少しする。天国への道行きに口ずさむ曲がデューク・エイセス。ぴったりだ。しかしCMか。まあそういうままならなさはある。

私はもっと、たくさんの名曲(笑)を聞いてきたはずだ。オルタナ、プログレ、クラシック、そういったものを一切合切さしおいて、今際の際に走馬灯のBGMとして流れるのがCM音楽であったりゲームミュージックであったりする可能性は極めて高い。令和にゴエモンばっかりコスんな(ナナシノ)。ゲームミュージックのメタルアレンジをするFamilyJulesというYouTubeチャンネルがあってたまに見る。良い夢が見られるとは思わない。スーパーマリオワールドの音楽が流れると、あの、SFCの4つに増えたボタンの一番下にある黄色いBボタンを押した時の、マリオとヨッシーが一体となった状態でのもっさりと重たいジャンプの「遅延感」が指先に蘇る。触覚と視角のずれのすきま、カーテンのひだの裏、ドーナッツの穴にひそむ走馬灯のフィルムのひときれ。

黙れ子ゾウ

ワイシャツにベストを着て病院内を歩いていると、患者や看護師や医療事務員などがふだんこれくらいの年齢・背格好の中年男性に対してどのような態度を示しているかがしみじみ伝わってくる。患者の多くはよくも悪くもフツーだ。たまに横柄な態度をとるものもいる。ただ、まあ、なんかそういうのはコンビニでも駅でもよく見るので、そういう人格なんだろう、くらいで済む。しょうがない。あわれむ気もさげすむ気もない。ただ、そういう人なんだろう、と思う。

一方ですごいなと思うのは看護師やクラークや技師たちだ。日頃から患者に対して優しく・仕事としてしっかり接しているのを見ているだけに、落差が際立つ。「身内」であると判断された事務職的中年男性に、これほど冷たく当たるのかというくらい冷たい。あいさつなどしない。進路を塞いでなくても「これから私が歩くかもしれない進路を塞ぐな」という目で見てくる。用事があって話しかけると返事がつっけんどん。アゴで指し示す。用件を述べてもまっすぐこちらの言うことを受け止めてくれないで、なんというか、野球のバッティングのアドバイスのような、「自分のタイミングで打つ」みたいなことをしてくる。ひとつひとつが小さく違和感を生じさせる。不快とまでは言わないのだが、「……ん?」という気持ちになる。

これはつまり、私くらいの年代の男性というのが、彼ら・彼女らにとって、ほんとうにめんどうな世代なんだろう、ほんとうにやりにくい対象なのだろう、というのを想起させる。これは悪意というよりも最適化の結果なのだと思う。まとめてしまって申し訳ないが、こういう世代のせいで、こういう人たちにおかれましては、ほんと、ごめんね、と思う。いやな世の中の責任の一端が、他人ではなく自分にあることをしみじみと感じる瞬間でもある。



日替わりのデスクトップ壁紙、今日は、親子のゾウが向かい合って枯れ草かなにかを食べている光景だ。前面で向かい合っているゾウ2頭にびしっとピントが合っていて、背景は遠くぼやけたサバンナのようである。先程まで、他人からの明確な悪意を口に突っ込まれたような気分で、これをそのまま飲み下しても腹を壊すだろうと、なんとなく、仕事もせずに呆然とデスクトップを見ていて、あることに気づいた。親のゾウの肌はしわしわだ。深い溝が四肢の短軸方向に向かって無数に走行しており、胴体にも斜めのぶっちがいのような交差する溝がたくさん刻まれている。ただ、それが、親のゾウだけではなく、子ゾウのほうにも、サイズ感のみ縮小した相似のテクスチャでしっかりと刻まれている。私はこれまで、ゾウの肌を見ていると、これは長生きしているからついたシワなのだろうなとぼんやり思っていたのだが、なんのことはない、子ゾウにも同じ溝がついている。となればこれはシワではなくて指紋のようなものなのだ。目の周り、鼻の付け根、「おでこ」の部分、子ゾウであってもわりとしっかりした溝がある。ゾウとは「加齢によるおだやかさ」をそなえた動物だと思っていた。しかし子ゾウだってしわしわだ。つまりそういう生き物なのだ。

ではゾウの加齢はどのあたりに現れるのか。体のハリとかかな、顔の傷とかかな、どうもよくわからないなと思ってあるところではたと気づく。キバだ。子ゾウにはキバがない。親ゾウには長くて日々の入ったキバがある。ほかはあまり変わらないかもしれない。耳のよれ具合、顔面のシミ、背中の肌荒れあたりが、あるいは年齢に伴って増えているのかもしれないけれど、圧倒的に、「ああ、違う」とわかるのはキバだった。年を取ると、相手を威嚇し、傷つけるための器官が一番変わっていくということだ。私は目の前にちゃぶ台を召喚して、その上にミカンのカゴや湯呑みも召喚し、あぐらをかいてその前に座って一気にひっくり返す。あーあ。年を取るって、そういうことなのかあ。

子ゾウはうまそうにワラかなにかを食っている。鼻のわきや頭の上に、ワラが乗っかっていて、そういうのは大人のゾウには見受けられない。まあ、大人になると、食べ方がきれいになるということは、あるかもしれないな。

落選

SNSのトレンドというのは内閣の支持率みたいなもので、母集団の20数%くらいにしか認められていなくても、ほかの選択肢の支持がそれよりはるかに低ければ第一党になれてしまって、つまり、「一番人気だけど国民の多くはべつにそこまで興味がない」ということが生じる。知らない芸能人、知らないスポーツ選手、知らない事故、知らない不祥事。えっ、私、そんなの応援してないよ。大丈夫、世の中で一番支持されている話題ですよ。毎日こんなミスマッチ。そういう建付け。

その他大勢、という言葉を、「おおぜい」と読むよりも、「たいせい」と読んだほうがふさわしい。ただし大勢とは寄せ集めである。「支持しないことで一致団結する集団」などというものは存在しない。団結したらそれが第一党になるはずだがそんなことはない。互いにいがみ合いながら第一党に対してはひとからげに文句を投げつける。そんなものだ。これは政治の話ではない。SNSのトレンドの話だ。

視聴者数や購読者数を稼ごうと思ったら、なにかに与してはいけない。第一党ですら20数%にしか支持されていないのだから、そういったものに同調、認知、共感するような発信をしても効率が悪い。するなら反論だ。第一党に反論をすれば、100マイナス20イコール80%前後の「大勢」に届く可能性がある。こうして、広くたくさんの人に読んでもらえるレベルの美文・公文を書ける人間たちは、次第に組織の中で、第一党に反論するような文章ばかりを書くようになる。

発信者の手法として「反論」がいわゆる第一党になる。しかしそれもまた20数%の一番人気に過ぎない。80%弱の人間は、「マスコミのやりかたは別におもしろくねぇな」と感じている。

次は、マスコミほど強い発信力を持たない、比例代表で1人を送り込めるかどうかという小政党のような発信スタイルが見直される。与党のように世間に対する責任を負う必要はない。自分たちがぜいたくに暮らすのに必要なぎりぎりの金額だけ稼げるだけの客を囲い込めばよい。それが世間の1%だろうが0.5%だろうがかまわない。視聴者の総数を稼がなくてもよい、視聴者からむしる金銭の単価を釣り上げればよい。そういう目算を立てると、強い与党が存在しないことはむしろ、追い風になる。一番人気が不在なほうが弱小政党にとっては都合がよい。

そうやってうまく回っていく。

ちなみに政治とSNSの大きな違いとして、SNSのほうは毎日与党が入れ替わる。昨日は知らないアイドルグループの新曲が発表され、今日は知らない詐欺師が捕まり、明日は知らない炎上が知らないままに吹き上がって鎮火する。否が応でも第一党がしばらく持続する政治の世界とは、そこが違う。与党がない。だから長期的な政策も望めない。刹那的に毎日その場しのぎの繰り返しで構築された複雑系は、毎日解放が変わる脱出ゲームのようなものだ。

動物園でのんびり大型動物などを3時間ほど見ているうちに世の中の50%くらいが入れ替わる。映画作品の1本あたりの長さはトレンドがぎりぎり移り変わらない時間である89分くらいに設定される。

小さくなり、短くなり、揺れて、入れ替わる。ふるいにかけられた小麦粉のようだ。後に砂金が残ると信じている人もいる。


こういうのを見ているうちに、「おとなしく暮らしたい人々」はだんだん、政治とトレンドについて語ることをやめる。デフォルトが反論と日替わりで構成されていると攻撃性や射幸心が強すぎて胸やけしてしまうのだろう。みんなの価値観が細かくすれ違う中で、すこしでも多くの人々の興味にひっかかるような、でも、順位を争うほどでもないような話題。

食べ物。

猫。

加齢。

まあそのあたりか、本や音楽が入ってこないのが残念ではあるが、そんなものであろう。私はどれも選ばずにダジャレを選んだ。比例に1席も送り込めなくて、政治家になれない。