一番じゃだめなんですか

学生からの相談に乗る、というか、相談というほどでもない、悩みというか、悩みというほどでもない、うーん、そのとき思っていることをぶつけられる「壁」としての役割を担当する。

「医療の勉強が一番大事だというのはわかってるし、学校をやめる気はさらさらないんだけど、ほんとうはバイトしてるときが一番充実していて、でもバイト先では昇給うんぬんですごく他人と比べてしまったりもして」

うわぁー、人生だなぁーと思った。


先日谷川俊太郎が亡くなり、タイムラインにたくさんの詩が流れてきている中にこんなのがあった。

「人生に意味はない。味わいなさい。」

これ、本当に谷川俊太郎が言ったかどうかは定かではないのだけれど(Xにはまじでそういう情報ばかりなので)、うん、そうだなあ、意味とか優先順位とかじゃないんだよなあ、みたいなことを思った。しかし、この詩をあたかも自分が元から知ってたかのように学生に送りつけて「谷川俊太郎を読みなよ」とはしなかった。それはまたちょっと違うだろう。


環境が自分に求めてくる「一番しなきゃいけないこと」と、そのときの自分が「一番やりたいこと」が一致することはめったにない。「ワークライフバランス」みたいな解像度クソザコ決まり文句とか、仕事と私とどっちがだいじなの案件とかも、つまりはこの「やらなければいけないことが複数あり、かつ、優先順位は自分では決められないための悩み」に収束する。

「自分の中での一番を決めないといけない」という発想は、おそらく、なにかを成し遂げるためには専心して没頭しないと投入する努力の絶対量が足りなくなるという計算に端を発している。限りある人生の資源を消費して何かをしようと思うとリソースの割き方を考えないといけない。きわめて実務的な話だ。大人はみんな知っている話だ。

「ひとつに没頭する」なんてのはいまどき学生ですら達成することがむずかしい、かなり強めの幻想である。我々にはたいてい人生の中に複数の基本軸があり、どれかひとつだけに集中して打ち込めることはまずない。マンガ家や小説家が「出版社がやってくれないから自分でSNSで宣伝しなきゃいけない」みたいなことを言い、そういうのはプロが背負うべき仕事でクリエイターは生み出すことだけに集中しないとだめだよね、みたいなきれいごとがばんばん飛び交っているのをよく見る。金づるとして優れているごく一部のクリエイターならそういうこともあり得るだろう。でも人間というのはほぼ、ほぼ、「複数やらなければ人生をやりすごせない」のである。

そうそう、成功すれば、認められれば、金があれば、やりたいことをできるというのも違うのかもしれない。そんなエピソードを聞いたことがある。学生時代にベンチャーを立ち上げて大成功して、30代で会社を大手企業に吸収してもらって多額の退職金を手にして、悠々自適でそこからの人生をコンサルタント(笑)とかやりながら過ごしている人が言っていた。

「会社を軌道に乗せ、たくさんのトラブルを乗り越えて、タフな買収交渉も乗り越えて、あのころは本当に楽しかったけれど、それらをすべて精算して一生分の金を手に入れて、そこからが思ったよりふわふわしてる。ひまになるのが怖くてとにかく忙しくしている。やることが複数ないと、世に必要とされていないみたいでプライドが満たせない。だからコンサルタントとか投資とかしまくって意図的に忙しい状態を保つんだけど、けっきょく、恣意的に忙しくしているだけなので、気を抜くとすぐ虚無に取り込まれる。クルーザーのハーレムで豪遊している時間はもっと楽しいかと思っていたけど端にアルコールで思考力が落ちているだけな気もする。2億円かかるデートも2000円のデートも射精で終わるなあと思うと死にたくなる。同業者たちがみんな筋トレする理由がわかる。自己肯定感は満たせても人生の意味が満たせない気がするからだと思う。今や自分に需要はあるし供給もできる、でも、自分の人生がこれでよかったと言っていいのかがわからない」みたいなことを言っていて、こいつ作家になればいいんじゃないかと思った。


どれを一番にすればいいのかわからない。求められるもの、提供できるもの、そういったものを自分なりに考えて組み替えて、これこれこういう優先順位、と理想の暮らしを思い描いてはみるものの、ずれ、軋轢、摩擦、とにかくままならない。何かを達成するということを本当に目標にしていいのかもわからなくなる。人生なんて「やりすごす」くらいの気分でいいんじゃないかと思う日もあれば、「乗り越える」とき以外は人生の色味がつかないと落ち込むこともある。パーフェクトデイズの役所広司は人生に没頭していたからこそ、「ファンタジー」として多くの人に喜ばれたのだろうし、彼もまたやることは地味にいっぱいあったのだ。

甃石を攀じる顫音

ブログのアクセス数解析を見ていて、読み方がむずかしい漢字をタイトルに使うと閲覧数が激減するのではないかという仮説を思いついたので本日はそれを試しています。検証結果を公開するつもりはなく私はこれをひとりで楽しむつもりである。


雪が積もりその上に枯れ葉がちらばっている。落葉よりも冬の訪れが早いとこういう風景になる。去年も見たような気がする。順繰り、順繰り、ゆっくりやってくればいいのに、秋と冬はそこそこ順位を入れ替えながらトップ争いをする。エアコンの室外機にカバーをかける前に雪が積もってしまった。車の雪を降ろすためのスノーブラシで室外機の雪をうっちゃる。次の晴れの日に十分に乾いたらカバーをかける。初日に雪かきをして作った小さな山は、冬の間に育って大きな山になる。シーズンの最初に雪を捨てる場所がとても重要だ。あまりに窓に近いところに捨ててしまうと厳冬期に窓が雪で覆われることになり割れるリスクがあるし、あまりにとなりのお宅に近いところに捨てると春になるころにはうちの雪がとなりの庭に入り込んでいて申し訳ないことになる。とにかく最初の雪を捨てる場所が重要だ。あと、最初から裾野を長くとっておくことでなるべく斜面をなだらかにしておかないと、2月ころにはマッターホルンのような雪山を登って雪を捨てなければいけなくなり膝にも腰にもよくない。理想は富士山だ。ただし富士山の左半分だけでいい。右半分は急坂でもよいのだ(どうせそちらからは登らないから)。ところで富士山の右と左というのはどっちのことなのだ。ともあれ雪の捨て方には毎年とても気を遣う。とにかく最初が肝心だ。もっとも、シーズン最初の雪というのは高確率でクリスマスまでにいったん解けるので、この時期の思い悩みはじつはあまり意味がない。ただし以前に、「どうせクリスマスには解けるだろ」と思っていたら解けずにそのまま降り積もって年越しのときにはすでにやばい大山になっていて3月には無念……ということがあった。油断大敵という言葉がある。油断のあとにくる言葉で大敵以外をあまり見たことがないが、油断必殺くらいの気持ちでよいかもしれない。死ぬのは困る。


日替わりのPC壁紙、今日はなんだか妙にさむざむとした海で、べつにこれが冬とは限らないのだろうが私は冬の海のように思えた。

https://peapix.com/bing/49601

眺めるなら夏がいい。IQが下がるほどに晴れ渡った南の島の風景がいい。ちょっと昔、「世界さまぁ~リゾート』という夜中にやっていて、絶妙の頭の悪さを細かくデザインして安定供給するスタッフたちに敬意を評しながら毎週そこそこ楽しみに見ていた。「そこそこ」というのは、0時まで起きていられずうっかり寝てしまう週のほうが多かったからで、じつはそれほど毎週きちんと見ていたわけではないのだけれど、土曜日の0時ころの番組だったろうか、出張先のホテルなどではよく見たし、たまに家にいるときも、翌日の予定が10時開始くらいのときはだらだらとビールを飲みながらよくチャンネルを合わせていた。視聴率はそこそこ低かったのだろう、わりとよく続いている番組だなあと思っている矢先にきっちり終了した。

今はああいう、南の島や世界遺産や古い町並みなどを紹介するのは、もっぱらYouTubeである。YouTubeの場合、出演する人がそのままディレクションをする、もしくは、出演者とディレクターとがかなり近い関係で・意思の疎通が取れた状態で・織り込み済みのサプライズをふんだんに入れながらも究極的にはお互いわかっている状態で・番組を制作していくという、テレビとはだいぶ異なる特徴がある。かつてのテレビの旅番組のように、存在感と見た目のキレ味が突き抜けている「だけ」の俳優が、自分で考えたわけではない、それまでさほど興味を持ったことがない旅先で、予想外のアフォーダンスに翻弄されて視線を泳がせるシーンを見ることは、極めて少ない。なぜならYouTubeでは、出演者が行きたいところに行くか、出演者がびっくりするところに行くかの二択しかないからだ。その間でたゆたう成分を見ることがないからだ。

かつて、ある俳優が、雨のプラハの石畳の路をコツコツと歩きながら、有名なビアホールに入っていって、ピルスナー・ウルケルを飲むという旅番組を見た。わたしはその場所にもその俳優にも特に思い入れがなかったにもかかわらず、音と、光と、「俳優がちょっとずつもらす『意外』のためいき」に惹きつけられて、目が離せなくなった。字幕は少なくずっと雨の音がしていた。真夜中であった。真夜中であった以外の情報をなにひとつ覚えていない。俳優は背の高い女性であった。スタイルをあまり前面に押し出さないような厚手の服を着ていた。無口であった。映像のすべてがとても美しかったが、俳優の体験はそれにも増して最高に美しく、かつ、そこには「自分で用意していないもの」に対する小さな緊張がいつも走っていて、それが体験の美しさを際立たせているようだった。


GoProに飽きた。絞りを開放したコンデジで背景をぼかしたインタビュー画像に飽きた。体験を描くのに出演者の目線であることを強調するという手法は筋が通っている。しかし、「それだけ」でしかないと思う。世界に放り出された個をうつすのにそんなに肉薄ばかりしてどうするのかと思う。「だったら……」とばかりにドローンを取り出すディレクターがあまりに多くて、飽きた。そこを乗り越えてくる番組がないかと期待している。たぶん、そのうち、どこかからか出てくるだろう。今までもそうだった。これからもそうだと思う。

ゆくすえを振り返る

次々と再来年の予定が埋まっていくのだけれど、たとえば今年、仕事を引き受けたときの「私」がいて、その私がこういう理由でこれこれこのような仕事をやろうと心に決めて2年後の予定を考えているのはもちろんなのだけれど、再来年の私が今の私と同じ意見であるとは限らないし、再来年の私は今の私と違う視力・違う分析力でものごとを認識しているであろうし、再来年の私は今の私と違う感性でものごとを心の中に住まわせているかもしれない。だとしたら再来年、実際にその仕事をするときの私と今の私とでは、いろいろと意見の相違があるはずであり、そこにもしケンカが起こったとして、どっちが勝つのか、過去の私と未来の私のどっちが強いのか、どっちが生き残るのかは、今決められることではないし、実際にやってみないとわからないし、どちらにしても、その仕事は引き受けた今思っているようには進んでいかないし、完成形も今予想するものとはけっこう違うであろうことは確実であって、となると、私が今、再来年のしごとをホイホイ引き受けるというのは、不誠実なことなのではないかと気になって気になって夜も眠れないまま朝になって私は少しつやつやとした顔で二度寝して起きて賞味期限の半年くらい過ぎたお茶漬けを食べた(未開封でもだめ)。

所要あって近隣の大学病院を歩いていたら廊下で旧知の教授とばったり出くわした。おっ、こんなところで、どうもどうもです、と声をかけるより早く教授はいわゆる「本題」を話し始めたので、頭のいい人は違うな、他施設の医者とぐうぜん大学の廊下で出会っただけでも前々からあたためていた案件についてすぐにその場で報・連・相できる思考の瞬発力はんぱねぇな、と思いながらその場で簡単にミニ会議を行うことができ有意義だった。しかしこれは激烈に頭のいい教授がやるから成り立つことであり、あとからふりかえって、廊下でこちらを見定めてから挨拶して話題に入るまでのスピードが異常に早かったことを私はもう少し畏怖すべきだったかもしれないと少し反省した。ところでずいぶん前のことになるが、私も、この教授ほど優れたエピソードではないのだけれど、妻といっしょにいるときに友人から電話がかかってきて、私が電話に出るなり「自分から」話し始めたのを見て妻がものすごくびっくりして、「なんで!? なんでかかってきた電話に自分から話題を振るの!? 相手に用件があったからかかってきたんでしょ?!?!?」とほんとうにドン引きしながら尋ねられたので、「いやでも結局相手もその用件についてだったから、手間がはぶけてよかったんじゃないかなあ」と答えたらただただおびえた顔をして震えてこちらを見ていたというわりといい思い出がある。当時の私はマイルドなサイコパスという結論に至り、今日の教授は天才というところに落ち着いている。これが実績の差だと思う。

診断のつかなかった患者の話を、医局前の廊下で主治医と延々とする。またいろいろ教えてくださいと言って別れたあと、「さっきの話盛り上がってたけど難しい診断のこと?」と声をかけられてまた別の主治医と別の症例の話を延々とする。病理医と臨床医との会話でいちばん盛り上がるのは、「いつどの段階でその病気と気づくことができたか」という振り返りに関することだ。この振り返りは必ず「自分たちの負けを見つめ返す」という意味を含む。もっとこういうきっかけがあれば、ここでこういう些細な違いに気づけていれば、たまたまここでこの検査を先にできていれば、後悔は無限に立ちふさがり、ifが雪の結晶のように分岐して増殖する。げっそりとやつれてデスクに戻り、あるいは明日診断する検体も、何週間かあとから振り返ってくやしがるものかもしれないというおそれに全身が縮こまる。

Nintendo Switchでドラクエ3をやりたいのだけれど、ドラクエはこれまで何度もリメイクされてきて、最初のFC版以外、フィールドの音楽に必ず冗長な前奏がつくのがいやで、なんだか、最初のFC版がいちばんよかったなという気持ちがぬぐえない。懐古主義だと殴られてもいい。ドラクエ3はFC版がいちばんよかった。あとからいくら振り返っても当時こそが完璧だったと思えるなんてのはほんとうに贅沢なことだ。そんな医者がいたら名医以外の何ものでもないではないか。

浅い入射角

Bing wallpaperをインストールした。普段はアイコンをあまり置かず壁紙のままにしている作業用サブモニタが、日替わりできれいな写真を表示するようになり、なんかちょっといい感じだ。デスクがはなやかになった。これからどういう写真が表示されていくのか楽しみである。でも、いつかアプリがウイルスにやられて、ある日から突然猥雑な画像が表示されたらどうしよう。出勤してPCの電源を入れていったん離席して戻ってきたら通りがかりのスタッフがデュアルモニタに釘付けになっていたらどうしよう。まあどうもしないけれど彼には悪いことをした(ゆくすえを振り返る)。

週末の研究会に備えて遠隔の4名とウェブ会議をする。病理所見を読んでいくとき、病理医ふたりはにこにことし、内視鏡医ふたりはむっすりとしている。全員機嫌はよいが表象のしかたが異なっている。おもしろい形態学的差異だなと思う。

秋も深まりもう冬がはじまっている。ベストを着て院内を歩き窓ガラスなどに映った自分をみると腹のあたりがふくれて見える。ベストって太って見えるんだなと一瞬思うが冷静に考えるとそんな機能はない。これはリアルに太った。肩周りもすこしふくれていて最近ワイシャツがきつい。てっきり洗いすぎて縮んだのだとばかり思っていた。そんなわけもない。少しずつ少しずつ自分の見た目が変化していく。あるときふと、階段のような段差がとつぜん現れればもう少し気づきやすいだろうが、なかなかそうもいかない。漸次の変化だ。しかし秋の服装が1年ごとにしか訪れないおかげで、昨年秋のみずからのベスト姿と今年の自分とを比べることができた。ベストにはそんな機能がある。そんな機能はない。

断片的な日常を書いているだけで内面にちっとも入っていかない日記のような文章を最近よく書いている。突入角度が浅すぎて成層圏ではじきかえされるロケットのような、侵入不可能な文章だ。しかしこの、表層を撫でて去っていく、ヒットアンドアウェイの繰り返しのような文章の中に、たぶん、私が外界との間にはりめぐらせてある結界の詠唱理論がふくまれているだろうし、私が外界との間に緩衝材のように分泌している粘液のコアタンパクが含まれているだろう。私はこれで世界と接している。UIの最も頻度高くクリックされるボタン。勝負服のいっちょうら。タマゴのアイコン。おはようございますの挨拶。だんだんブログが日記化していくというのはつまり、私がまだまだ当分の間、世間と表面的なやりとりをしていくつもりがあるということなのだと思う。

先日のウェブ講演で私のセッションの座長をしてくれた人は私より年下だった。どうも高校の後輩でもあるようだった。あえてその話はしなかったが私は少しうれしかった。講師紹介の段になって、市原先生は病理医ヤンデルとしても有名で、というようなことを言うので、まだその名乗りは有効なのかと思ったし、医者の業界の世間一般的な話題に対するアップデート感覚なんてこれくらいゆっくりなんだよなということがおかしかった。私はもうとっくに病理医ヤンデルではないと思っていた。しかし私のインターフェースの少なくとも何十パーセントかは、まだ病理医ヤンデルであるらしく、それはきっとロケットから地表を眺めたときにやけに真っ茶色に見える砂漠の部分みたいなのの、海でも人家の明かりでもない荒涼とした、死の風のテクスチャのきめのやたらと細かいの、宇宙飛行士にとってはやけに切なく目につくものなんだろうなという感じの、地球の地図状壊死領域に相当するものだよなと、茶色い地球のニュアンスに包まれてひとり沈鬱な状態となり、その心を体表まで届けることなく漫談のようにしゃべって講演を終え、しずかな拍手をうけて家に帰った。

したたまについてしたためる

学生や研修医の学会発表を指導。自分で発表するのではなく若手に発表させる。しんどいなーと感じる点と楽だなーと感じる点とがある。しんどいほう。何がしんどいって、学生や研修医の仕事が自分より遅いことだ。遅くて狭くて浅い。あたりまえだ。私はおじさんなのだ。当然だ。過程を経て誰もが育っていく。それでいいのだ。だから、早め早めにプレゼンを作ってもらう。学会当日までに「その研究が持っていた本来のクオリティ」に達しようと思うと大変だ。プレゼンのできが悪くても本人が満足ならそれでいい、みたいな価値観は持っていない。たとえばひとつの症例を報告するとして、その報告内容がしょぼければ、医学にも、医療にも、主治医にも、患者にも悪い。これはしんどい。

では逆に楽だなーと感じる点はなにか。それは学会発表が終わったあとの、「だからなんなんだ」というあの独特の呆然とした喪失感を感じなくて済むということだ。自分の発表が終わると必ず喪失感というか不全感というか、とにかく独特のダウナーな感情が襲ってくる。しかもその不全感というのはどうやら研究がうまくいったかどうかとはあまり関係がなく、「こんなことをしたところで、世界という大海原に対して結局私はさざなみひとつ立てることもできずに朽ちていくのだ」というような、うーん、でもそういう自己効力感のなさだけで説明できるものでもなくて、どちらかというと諸行無常に直面させられたときのような気持ちになるのだ。とにかく学会だけじゃどうにもならんからなと思って今度は発表データを論文にするのだが、論文になったとしてもこの不思議な陰性感情はなくならずむしろ大きくなっていく。学術をやるとき、この、「やるにはやったけど」という猛烈な灰色がかった感情と毎回戦うことになる。終わった直後に一番大きな後悔の波が来る。学会の夜は憂鬱だ。そういう気持ちがなるべく来ないように事前にしっかり準備をして、八方に目配りをし、たくさんの人々の意見を取り入れて、少しでも実のある発表になるようにとがんばっているのだけれど、それだけやってもやっぱり発表が終わると、なにか足りなかったような感覚と、なにか失われたような感覚にさいなまれる。学会発表や論文執筆だけではなく講演のときもそうだ。というか毎日帰宅するときすらそういう感じだ。自分の仕事が終わったあとにやれ打ち上げだ、やれ懇親会だ、といった盛り上がり方をできる人がたくさんいるけれど、私は仕事が終わるとわりといつもがっかりとしている。ところが、学生に発表させると、こういったぐちぐちとしたジレンマを一切感じなくてよい。学生が精一杯発表したものを見れば100%喜ぶことができる。学生が喜びを爆発させて開放感にひたるのを見て、仮にそれが自分で作ったデータ、自分で整えた論旨だったとしても、学生が発表したあとには今のような不全感はあまり沸き起こってこない。それが楽だ。自分で発表をしないことによる楽さというのはそのへんにある。そのへんにしかない。


盛夏において女性や太った男性はしばしば下乳のあたりをタオルやハンカチで拭くらしい。これと似たような「皮膚のせまっくるしい場所へ汗をかく現象」として、たとえば睾丸のつけねのあたりがむれることがある。世間で「チンポジを直す」と言われている現象の一部はこの「ひっつき気味になって汗ばみそうになっている睾丸をうごかして空気を入れ替える」という目的を持っている。胸の場合は下乳という言葉を用いるようだが睾丸の場合は下玉とでも呼ぶのだろう。……突然なんの話だ、とびっくりした人に本ブログのタイトルを送る。がっかりしただろう。なんなんだよと思っただろう。何かが解決された小さな感動とともに結局この時間ってなんだったのかと疑問に思っただろう。それが私の、学会発表後の気持ちの色温度にかなり近い。今のあなたのような気持ちの降下を私は毎回感じている。それをわかっていただきたくて、いろいろ考えた結果出てきたのが下玉。自分のことを天才だと感じる。

結婚できたんですね

一日のうちにソイラテを3杯、朝昼晩、それぞれ異なる場所で飲む機会があり、その間ずっとうろうろあちこちで違う仕事をしていたのだけれど、夜になって猛烈に腸が動いて少し下し気味となった。牛乳でお腹をやられる人はよく聞くけれど豆乳がだめなパターンもあるのかと思ったが「むしろカフェインのとりすぎなのでは?」と言われてたしかにとうなずくところがあった。

国立がんセンター中央病院で研修していた17年前、東銀座のタリーズをはじめとするあちこちでコーヒーを飲みまくっていたら頻脈から不整脈になってしまい、それから数年くらいはカフェインを控えていたのだが、喉元をすぎたようにここのところまたカフェインを過剰摂取していた。気を抜くと過剰になってしまう。刈り込みこそが人間らしさを作っているというのに不調法なことだ。

夕方から講演があり朝からスーツを着て出勤。ワイシャツにネクタイは夕方に締めればよいのだけれどなんとなく気合でも入れておくかと思い朝からネクタイ着用とした。最近だいぶ寒くなってきたのでワイシャツの上にベストを羽織る。出勤してジャケットを脱いでしばらくメールの返事をし、始業してしばらく働き、ときどき廊下を歩いているとやけに患者から道を聞かれる。レントゲンのお部屋はどこですか、中央採血室はどこですか。そこで気付いたのだがたしかに今日のわたしはいつも以上に事務員風というか、モデルハウスの案内スタッフやカフェバーのコンシェルジュみたいな出で立ちになっている。そういうことなら今日はもうおじさん病理診断しないでどんどん道案内しちゃおうかな、と一念発起するのだけれど、あいにく、病院の中にさほど用がないわたしは中央採血室がどこか一瞬よくわからなくてしょうがないから患者と連れ立って適当に歩き出すしかないのだった。道案内すらまともにできない。わたしにできるのは病理診断だけである。

「病理医はAIに仕事を奪われますか?」とたずねられる機会がとんと少なくなった。昔は学生といえばAI、研修医といえばAIと給料、専攻医といえばAIと給料とワークライフバランスに関する質問というくらいに誰もかれもがAIのことを気にしていたのだけれど、たぶん、AIが当たり前になりすぎてかえってどうでもよくなったのだろう。今のわたしならAIによって病理診断という仕事がどれだけおもしろく深くなるかを語ることもそう難しくはないのだが聞かれないので答える機会がない。なーんだ、ならいいやと思ってAIに対する興味を失って勉強しないでいると、おそらく数年後くらいにまた周期的にブームになって「AIどんなかんじですか?」みたいな質問が矢継ぎ早に飛んできてわたしはおろおろとする。

「AIにも苦手な領域があって、そこは人間がやらないといけない、だからAIがあっても仕事はなくなりませんよ」という回答は嫌いだ。そういう代替物としての自分みたいな観点で答えてしまえば質問者の思う壺ではないか。しかしわたしは同時に思う。質問者の思う壺とはなんだ。思う壺とは。思うという動詞もしくは形容動詞(?)と壺になんの関係がある? 上弦の伍・玉壺(ぎょっこ)ということか? 語源を調べると壺とは壺振り賭博のこと、つまりいわゆる丁半バクチである。したがって思う壺とはギャンブル的にてきとうなことを言ったら当たりましたというくらいの意味だということになるだろう。したがって「質問者の思う壺」とは「質問者の思う三連複」とか「質問者の思う大豆相場」などとも交換可能だということになる。やーいお前の父ちゃんカイジ~

孤立性分布

当事者になってみないとわからないことがある。そして、当事者どうしの距離というものは年月を経ることに自然と離れていく。人間がだんだん大きくなってたくさんの領域を飲み込みながらまるで「火の鳥 未来編」の主人公のようにいつしか世界と一体化するのだったら、時間が経つごとに人間同士はどんどんわかりあえることだろうが、実際にはその逆で、年を取れば我々はみな先鋭化して自分の世界の外郭を求心性に肥厚させていく。せまやかに、せまやかに。こまやかにではなくせまやかに。そしてわたしたちはみな互いのことが想像できない専門家に育つ。わたしたちは自分がなんだか偉くなって高いところに上がったような気持ちになる。高いところとはつまり山でありわたしたちはいつのまにか登山をしている。足場が少なく誰かといっしょに立っていることが難しく空気が薄くて気温が低く天気が変わりやすくて植生がさみしい。わたしたちはこうして年を経るごとに登山家のようになっていく。



出張先でないと空を見ない。札幌の空を見上げた記憶がない。歩いていてここはどこだろうと不安になるときに、わたしは空を見上げ、ビルを見上げ、看板を探し、サインをうけとる。したがってわたしは長いこと札幌の空を見ていない。神保町でそんなことを考えた4時間後にわたしは新千歳空港に立っていた。快速エアポートと高速バスの乗り場をめがけてたくさんの人が脇目もふらずに突進していく。ゆっくり歩いている人はほぼ全員例外なくスマホを見ている。老若男女の多様性はなくみなわたしと同じくらいの年齢かもしくはわたしの半分くらいの年齢のように見えた。わたしはぐったりして快速エアポートにも高速バスにもタクシーにも向かわず、陸橋のほうへとぼとぼと歩いていき、動く歩道にゆられて閑散とした国際線乗り場の待合スペースで座り込む。どこにもいない時間というのを作りたかった。この瞬間にもGmailには次から次へと研究会や薬屋の主催するウェブセミナーの広告が入ってきている。だれにも会わない時間がよかった。エスカレーターを降りて建物から外に出る。空に空港の光が乱反射して星は見えない。マスクを外して小さく息を吸って吐くと旅で疲れたはぐきがしんと縮んだ。

今回の出張ではいつまでも引退しないベテランたちが言いたいことを言いたいだけしゃべっている様子がやけに目立って、わたしはだいぶうんざりしていた。しかしこの同じ脳がつい数日前にはいつも講演を頼んでいる有名講師にさらなる打診のメールを打たせている。結局のところ、ベテランを何度も何度も登板させる片棒をわたし自身が担いでいるのだった。わたしはわたしの当事者であるが、わたしの中でも相異なる「当事」が摩擦をくりひろげており、一方のわたしが言うことと他方のわたしが言うこととは矛盾していて調停は難しいようだった。

コートの前をあけて外の空気で体をひやしながら少し歩くと、周りに人がまったくいなくなった。空港の建物の中ではまだ多くの人があちこち目的を持って歩いているはずだったがわたしは無目的な時間をもう少しむさぼっていたくて意味もなくそのあたりをうろうろとした。しばらくゆくと派出所のような形をした小屋があり、そこで待機しているだれかに見咎められるのもつまらないと思ってきびすを返してこんどは国内線ロビーのほうへ向かってとぼとぼと歩いていった。空を見たが空は見えずただ銀幕手前のごみくずの浮遊する光の束のような温色めいた光景だけがずっと頭の上に覆いかぶさっていた。わたしはこのまま当事者として誰もわからないことをし誰のこともわからないまま過ごすのだろうという思いと矛盾するようにわたしは人の多いほう、多いほうへととぼとぼ歩いていた。

望むところである

燃え殻さんの『湯布院奇行』という小説があって、俳優たちによる朗読の入ったDVDとセットでの販売で少しお高かったということもあって発売日に買うのを一瞬躊躇したらものすごく時間が経ってしまってそのまま読んでいなかった。そういうことをしたらだめだ。本を買うのに躊躇して成功したことが今までどれだけあるというのか? いやまあいっぱいあるけど……あそこで躊躇しとけばこんなつまんねぇ本読まなくてよかったのに、みたいに感じたことは山程あるけど。でも、今回ばかりは、しまった、と思った。おもしろかったのである。朗読はまだ聞いてないけど。たいへん幻想的で。世界がすごく少ない範囲で完結しているのがよい。小川洋子『薬指の標本』を読んだときに感じた感想とも少し近い。RPGツクールで、マップをすごく狭くつくってどっぷりはまりこんでいくような。はじまりの城、途中のダンジョン、ラストダンジョンを一本道でつないで、周りには何も構造を置かない。あっというまに世界の外郭の壁にたどりついてしまう。閉塞感。閉じ込められている。なのに感情が拡散していく。狭いはずなのに。深いからだろう。マリンスノーのような。そういうことなのかも。『湯布院奇行』はマリアナ海溝に沈んでいく微生物の死骸をずっと見ているような雰囲気の本だ。もっと早く読んでおけばよかった。深海底航海しながら心底後悔した。

話は変わるが『ソローニュの森』を四たび購入。なぜ? と言われるとわからない。職場の本棚にささっているのだから読みたければ取りに行けばいい。でもまた買ってしまった。ほかの場所にも置いておきたいとふと思いついて、いくつかの場所に置いておけば取りに行く手間がはぶけていい、みたいな馬鹿げたことを考えた次の瞬間にはこの本を手にとっていた。Amazonでポチったのではなくて書店で購入。写真集ってそういうところがある。写真の力だ。無駄な買い物とは思わない。二度目に買ったときと三度目に買ったときはそれぞれ人にあげた。いいプレゼントだったと思う。しかしどれだけそれらの人の心に残ったかはわからない。もう砕け散って堆積物になってしまっているかもしれない。本がそうであってもいいと思う。

元寇で沈没した船を引き上げるプロジェクトをがんばっている水中考古学者の話をYouTubeで見た。おもしろかった。ふつう、沈んだ船の木の部分は、フネクイムシだかなんだかいう虫によってあっというまに食われてなくなってしまうものだそうだが、たまたま沈んだ場所の海底の、砂の状態がなんかアレで、船が砂のなかにじっとりと沈んでしまって土中が酸欠になり、フネクイムシがたどりつけなくて沈んだ船の形がそのまま残ることがあるという。元寇で沈んだ船は九州長崎のなんとかいう湾の中で1メートル以上の砂の中にあり、音波探知やら棒でヌグッと突くやらしてゆっくり探して見つけると、あまり腐蝕がすすんでいなくて形が残っていてばんざい、しかし引き上げの予算がなかなか貯まらないのでまた砂の中に埋め戻してお金が貯まる日を待ったりしているのだそうな。なるほどー。すごい話だあー。北欧のバイキングの船とかが、今どこぞの博物館に展示されていたりもするらしく、それらも似たような経過をたどっているようで、土砂に巻き込まれてフネクイムシがいないだけでなく、たとえばたまたま湾の酸性度だか塩分濃度だかがアレだったためにフネクイムシがいなかったから船の形が残った、みたいなこともあって、それを引き上げて脱塩処理して保存加工すると年間200万人くらい観光客がいて、博物館の職員もバイキングのコスプレをしてニコニコ案内をするのだそうな。はぁーすげぇ話だあー。日頃から、臓器をいかに保存するか、みたいな話をわりとちゃんと考えている職業人だけれど、昔沈んだ船がたまたま今に残るとしたらどういう条件が必要かという話、ほんとうにおもしろかった。でもこれほかの人が見てもおもしろいと思えるのかな。まあ思うか。同じ人間だもんな。ワンダーを受け止めるセンスなんてそうそう変わらないだろう。変わるかな。変わるか。ごめん変わるわ。でもみんなが私と同じものを楽しがってくれる狭い世界で暮らしたらおもしろいだろうな。もしそうだったら、私はきっと湯布院奇行の彼のように、時空の狭間で精神を破壊されながら幸せの湯船に浸かって二度と出てこられなくなるだろう。

秘訣をおしえてくれなくていいです

日米の選挙特番を同じようにエンタメ化して楽しんでいる人を見ている。ちょっとふしぎである。衆院選はまだ意味がわかる。あの人が当確になった、あの人は落ちたと、開票の手間や票の割れ具合によってそれぞれの候補者の合否が明らかになる時刻がずれていくのはわかる。全国津々浦々、すこしずつ時間をかけて当落を見ていくというのは、翌日にまとめてネットで結果を見るのに比べてずいぶんと情報量が多いし、まあ、なんかリアルタイムで見る人の気持ちはわかるのだ。私もたまに見ることがある。しかし米国大統領選挙というのはけっきょくのところ、Aが勝ったかBが勝ったか、それは投票の締め切り時刻に完全に決定しているはずの「シンプルな結論」であり、開票に何時間も時間をかけながらその都度どっちが優勢だとかやっていることにはぜんぜん意味を感じない。へんな話だがブロックチェーンの25世代くらいあとの技術によって投票がセキュリティ万全な状態で完全電子化されたら(そんな日はこない気もするが)、当落は投票終了後に即座に確定してデッドヒートもクソもなくなるだろうしそのほうがみんなシンプルでいいだろう。エンターテインメントに仕立て上げられているだけのもの。真のエンタメとは思えないし視聴率で金銭を得るメディア以外のどこになんの意味があるのかいまいちわからない。なぜ「今度は何州が勝ったぞ!」みたいなライブ感覚を維持したまま見ていられるのかわりと本気でふしぎなのである。

ああ……でも書いていて思ったけれど、もしかすると御当地ごとの色味とかをたのしんでいるのかもな。それはあるかもしれないな。日本でもこれだけ地域ごとに「お国柄の違い」みたいなものがあってケンミンショー的に楽しむことができるのだから、選挙のときにはアメリカ全土がシュウミンショーをやっていると考えれば、それは別にふしぎなことでもなんでもないのか。究極的なことをいえば、AとBのどちらが大統領になったとしてもかまわなくて、ただ、自分のいる州と周りの州とで意見が同じだとか違うとかいう話を、地方同士の差別感情というか区別感情を微妙にブレンドした状態で楽しんでいるのかもしれない。そういう意味でのデッドヒートか。そういうことなのだろうか。そういうことなのかもしれないな。ならわからなくもないか。

しかしまあわかるようにはなったけれど結局のところ私はアメリカの選挙特番を楽しいとは思わないし、そのリアルタイムの情報の動きが私に何か深い思索をもたらすこともないので興味がもてない。

そして、それと似た理由で、話は少しずれるのだけれど、「昼間にすでに試合は終わっているがメディアの都合により夜に試合が放送される系のスポーツ」もじつはあまり楽しめない。バレーボールとか、フジテレビあたりが昔よくそういうやりかたをしていた。オリンピックでは柔道や卓球などの人気スポーツも同じようなことになっている場合がある。あれがかなり無理だ。「録画で見るスポーツ」がすべてキライなわけではない。結果がわかっていても見直したい競技シーンの魅力がわからないわけではない。そうではなくて、すでに終わっている結果を「メディア側が意図的にマスク」して、あたかもリアルタイムバトルのように楽しんでくださいとこちらに強いてくるものがだめなのである。選挙特番にはそのノリを感じる。それって結局魅せ方になっちゃってんじゃん、というのがむりなのである。

ライブの最中にエンタメを紛れさせること全部がキライなわけではない。プロレスの例をあげるまでもなくエンタメにおける仕込みはわりと好きなほうだ。でも、なんというか、やりようによっては存在しないはずの虚構で楽しむには「アメリカ大統領選挙」や「昼にやったバレーボールを夜まで結果皆勤しないやつ」はみみっちいと思ってしまう。まあ楽しんでる人がいるならそれはnot for meってことでいいんだけどさ。

疳の虫は違わない

私にも獰猛なモードというのがあって、なにかに怒りをぶつけまくることで自分の中から言葉をひっぱりだそうとしたりする。かなり効率よく目の前のスペースに言葉が積み上がっていくので、分量を書くにはべんりである。ただし気をつけなければいけないことがある。怒りに駆動されるイディオムは少ない。誰かがどこかで怒るときに何度も何度も使った言葉を借りてくることになる。みんなだいたい同じような言葉を使って怒る。それが許容されるのが怒りという感情だ。だからとにかく似通ってくる。「誰も表出したことがない私だけの怒り」という価値は基本的にあまり認められていない。そこが怒りの特色である。したがって怒りによって言葉を量産すると怒りが沈静化したときにすっっっっごくつまんねえぇ文章になっている。数少ないデメリットであり最大のデメリットであり致命的なデメリットである。

怒りによって借り物の言葉が誘導されるというよりも、怒りという感情自体が誰かから借りてきたものなのではないかと「勘違い」する。そしておそらくそれは勘違いではないのだと思う。そもそも喜怒哀楽の多くは借り物である。借り物というか、私の中にあるこのもやもやとしたものはなんなんだろうというのを、幼少のみぎりより、「それは楽しいってことだね、ほら、こんなふうに」「それは怒ってるってことだね、ほら、こんなふうに」と、周りの大人や周りの子どもたちが先行して形成したものを見せびらかしてくるのでそれを手軽に輸入することでツーバイフォー的に手軽に組み上げたものが今ある感情のほとんどなのだと感じることは確かにある。組み上げたものがツーバイフォーでも木の城でもよくて中に住んでいる自分というものがオリジナルならそれでいいじゃないかという線引きがなされているので普段はあまり問題にならないのだけれど実際には中になにか、自分、そんなものが住んでいるかどうかは誰にもわからない。

自分とはなんなのか。自分らしいとはなんなのか。借りてきた言葉。借りてきたクエスチョン。ガイドラインの中にたくさんのクリニカルクエスチョン。自分で疑問を持つ必要がなくふしぎに思うことにすらレールを引いてもらえる便利な時代。

借りたもの。既製品。既製品のくみあわせ。20種類のアミノ酸だけで人体のすべてを構成しています。コンビネーションの妙によって場面に適応しオリジナリティを出せばいいのだからひとつひとつのパーツを借りること自体にそんなに罪悪感を抱えなくてよい。つぎはぎの心。リサイクルの心。プログラムによって再生できる心。自動生成された1000種類のマップといってもどうせ61番ばかりが使われてほかはほとんど使われることがなかったシムシティ。いや、137番も使うよ。このやりとりまで含めていくらでも借りてこられる。「うちの庭には犬がいる。」この短文をゴッドファーザーのテーマに乗せて歌ってみてください。ほら楽しい気分になった。こういう貸し借りで私たちの日常は駆動されている。ほんとうは、うちの庭に犬はいないし、ゴッドファーザーはIしか見たことがないし、私は今とくに楽しい気持ちでいるわけではない。すべては勘違い。だとするならば、その「勘」を疑うべきなのだろう。勘もまた借りてきたものではないかということ。私はときおり、貸すほうに回っているのだろうかということも含めて、ちょっとだけ気になって、でもこの「気になり」もまた、借りてきたものなのだと思う。

あんちめたにんち

看護学校の教え子がたくさんフォローしてくれているためにフォロワー欄のアイコンがいかにも華々しいかんじになっており私のインスタグラムは「やらしいインスタ」と言われている。そのやらしいインスタを久々に見に行くと昔相互フォローだった人がいなくなっていた。外されていた。まあそういうこともあるだろうなとは思う。

昨日の話。20年以上交流のなかった中学時代の同級生の名前がスマホの画面に浮かんだ。夜のことであった。半分眠っていたのでめったにならない着信音におどろいてスマホを見て固まってしまった。出て何を話すのか、借金の無心だろうか、なんらかの告発だろうか、広がらない可能性を潰しているうちに、親指はそっと着信を拒否していた。スマホを置いて再び眠りにつき、翌朝起きると痕跡はとくに残っていない。電話アプリを開いて履歴を見れば彼から電話がかかっていることはおそらく確認できるのだが、私はどうもそういう、虚実の境目でただよっているものを実の側に確定する作業がしんどくて、今もまだ履歴を確認していないままである。まあそういうこともあるだろうなとは思う。私は相互フォローを外す側にも外される側にも立っている。

プレイヤーとして働く時間が5割、マネージャーとして働く時間が5割。だいたいそのようなバランスで日々の振幅に耐えている。ときに、同級生から唐突な電話がかかってくるといった「マネジメントゼロで純粋にプレイヤーとして判断しなければならないタイミング」で右往左往する。老いを実感する瞬間だ。

なんでもかんでもSNSに結びつけなくてもいいのだけれど、どうも私はかつてはSNSでプレイヤーをやっていたのに、ちかごろはすっかりSNSに対してマネージャー気分だなと感じる。誰かがSNSを使っているところを見て、それでいいぞ、それはちょっとずれてるぞと、自分が介入するにしても全体のバランスをかんがみてどうこう、みたいな目線ばかりである。自分自身がSNSの中でなんらかの道具もしくは先端としてなにかに運動量を与えていこうというプレイヤーの気概がなくなってしまっている。管理目線。上司目線。上から目線の北から目線。視座。視野。そういった話ばかりしている。SNSがつまらなくなるのも当然のことだな。ところでフォロワーがばかみたいに多い友人たちは昔から「プレイングマネージャー」として振る舞うのがうまかったなと思うが、おそらく私は最初から昨年くらいまではプレイヤーであることを徹底していて、だからこそ、中途半端に監督目線の人よりも純粋にSNSを楽しめていたのだろうなと思う。しかしそれに比べると今の私はすっかり「今季から選手権走塁コーチをやってくださいと言われたベテラン選手」、すなわち事実上の引退勧告を受けたピークをすぎたチームの精神的支柱みたいなこころもちでSNSをやってしまっていて、ああ、それはつまんないだろうなあと、来年からコーチに専念しつつ昨年うっかりプレイヤーのつもりで買ってしまったマンションのローンが気になるから今度はちゃんとマネージャーとして財をなさないとなあと、気持ちを切り替える、みたいなところに引き下がってしまっている。

もう少しプレイヤーでいる場所を確保したほうがいいような気がする。しかしそれは「やらしいインスタ」に日常を投稿するとか新たに趣味を見つけて自分の五感と本能がよろこぶムーブを探すといった方向に行きがちだけれどそういうことではないような気もする。自分のやっていることがだんだん自分ごとじゃなくなってきている。創作物をつくる側の人間が「いかに読者に自分のことと思ってもらうかが大事だ」みたいなことをたまに言うのだがうわっ気持ち悪いことを言うなあ、と思う。自分が他人になっていく老いの過程で自分に自分として向き合える瞬間を確保するにあたって「狙いすまして作られた創作物」がその役割を担っているとしたら私たちは知らないうちに金にしか興味のない創作者たちによってマネージメントされているということになる。まあ別にそれでもいいけど気持ち悪いことだよなと思う。私は私を俯瞰せず、幽体離脱をして自分の斜め後方に浮かぶことをせず、顔面の最前線に意識をはりめぐらせて世界の風をきちんと感じる体験をもうすこし大事にしたほうがいい。なにがメタだ。なにが構造だ。そんなことだから私は、旧友の電話にも出られないのだ。

最近足腰が弱って目はしょぼしょぼだし長時間寝ようにも体が痛くなるから寝ることもできない

ちかごろは、身近な人と語るための話題というと、狭心痛がどうとか腰が痛いとか目が悪くなったといった身体にまつわることばかりである。私との距離が近ければ近いほどそうなる。「顔をみると調子悪いとしか言わないねェ」なんて、指摘されるまでもなく自分でもとっくに気がついている。

若いころからそういう中年にはなりたくないなと思っていたものに、今自然と到達している。

なぜこうなってしまうのかについて、かつては決して思いつかなかった確固たる理由が脳裏をよぎる。

身近な人には好きなものを語れない。それは当たり前のことだ。

好きなもの、こだわっているもの、取り組んできたこと、のめりこんでいること。これらを語る相手は、程よく他人であったほうがいい。なぜなら、自分が本気で好きになっているものを語ることで、身近な人々が困惑したり拒否したりしたら、その後、その近しい人々と時間をつむいでいくことが不可能になるからだ。

長くたくさんの時間を過ごす相手と共有する話題に火種は要らない。

となると好きなものは語れないのだ。何かを好きで居続けるためにはたくさんの摩擦が生じるしアンビバレントな感情が巻き起こる。ときに否定しながら肯定することでかえって強く肯定するような語り口を、本当に身近な人と共有して、相手がそれに疲れてしまったら申し訳ないだろう。まったく理解してもらえなかったら辛いだろう。それほど深くない思考の末に気軽に否定されたらしんどいだろう。

だから好きなものほど語れないのだ。


誰かが何かを好きでいるとき、それをたまたま摂取して、すごい、これはまるで俺だ、これは俺もまさに好きなものだ、と感動できるのは、ひとえに、その語り部が「それまで全く知らない人」であったときだけではないかと思う。

生活も人生も完全に他者であるところから好きなものの話題だけが飛び込んでくればそのとき私はその好きなものについてはじめて全力で立ち向かうことができるのだ。




SNSは身内のざれごとを垂れ流す空間になりつつある。だからもう、SNSであっても、好きなものの話はできない。

山奥で自分の身の回りの世話を自分でなんとかしながら、草木を育てて暮らす老人を見て、かつての私は、なんてさみしいのだろう、きっとつらいのだろう、そうならないように私は好きなものを共有できる人たちと一緒にいたいものだ、と思っていた。

何もわかっていなかった。

好きなものと暮らすために、大事な人は邪魔なのだ。

大事な人と暮らすなら、好きなものを極められなくなる。

それがわかった老人たちの、きわめてぜいたくな、うまく行き過ぎたレアケースとしての老後の暮らしが、「山奥に引きこもる」ことなのではないかと、今はひとつの価値観として思う。



好きなもののために「会いに行く」みたいな行動をする人は何もわかっていない。

それは本当に好きなものではない。「会いに行く自分のことが好き」なだけだろう。

好きなものほど秘めておくことになる。

それは二番目、三番目くらいには大切なものを邪険にしないための、社会への礼儀みたいなものだ。そういう礼を尽くしている。

一番大事なものは身近な人と共有すべきではない。前はSNSに流せたんだけどな。今はもう、SNSは本当に、身近になってしまって、だからなんの意味も持たなくなってしまった。

ホメオスタシスの要件

職場でストレスチェックを実行しなさいとの命を受けたので専門のシステムにログインしようと思ったのだが、指定のパスワードを入れてもログインができないのでストレスが大きくかかりPCを破壊して次元のはざまに放り込んだらすっきりした。アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう。これに対する考察がインターネットには載っているがたいしてレベルの高くないものばかりでまたストレスがかかる。

休日に出勤してメールチェックをする。書きたい原稿のことが頭をよぎる。書かずにメールの返事ばかりする。お断り。お断り。仕事を頼むと断られてばかり。理由が非常に納得できるもので、それはたしかに頼んだこちらのほうが悪いなと思えることばかりでがっくりとうなだれるばかり。私もできればもう少し違う人に、バリエーションを出すかんじで、いつも同じひとばかりではなしに、たまには違う切り口で、仕事を頼みたいと思う。そうやって思考して選択しつづけることがなにより大事だ。しかしいつもここで書いているように、私の人生は選択よりも微調整によってコントロールされている。今回は右、次回は左といったように、アイコンをずばずば切り替えるがごとくころっころっと違う方向にばかり目を向けていくような歩き方はまずできることがない。せいぜい2度。がんばっても5度。歩く方向を微妙にずらしながら全体としてはなんとなく同じ方向に歩いていく、みたいなかんじでしか人生をコントロールできない。それはあらゆる仕事においても言えることだ。私は似たようなことばかりしている。

拡大倍率を上げれば上げるほど差異は些細になっていく。さいがささいになっていく。おちゃのこ差異差異。再々些細。エルサルバドルみたいなリズムだ。先日の編集者との会話:市原がドゥルーズを参照してしまうと「説明できすぎてしまう気がするから違うと思います」。全く同感だ。私のもやもやと考えていることをドゥルーズをもちいて言い表すと「私がそこまで考えていなかった部分までなんかうまいこと言葉にされてしまう」ので、おそらく、私のしごと相手にとってはそれはいいことなのだけれど、私にとってはよくない。私はこれから自分の中にだけ響いている言葉を自分でしかできない形でじわじわ真綿でトライツ靭帯を締めるように他人にもそこそこ通じるストレスのかたちに整形していかなければいけない。そんなときに、ドゥルーズだと、ストレスが足りなすぎて、たぶんうまくいかないと思う。


田村尚子『ソローニュの森』がどこかに行ってしまったので書い直した。たぶん職場の本棚のどこかにあるのだ。しかし私は今読みたかったのだ。何冊あってもいいだろう。本が読みたいときに手元にないストレスほど大きなストレスはない。『ソローニュの森』は二周以上読むことが前提の本だ。私はこの本をおそらく百周くらいしている。少しずつ作者の言いたいことがわかってきたような気がしている。これで少しなのだからおそれいる。ままならないもの、コントロールできないこと、把握しきれない大きさ、見通しきれない暗さ。私の生命を維持するために必要なストレス。蓄積されることで「重し」になるものたち。

針のむしろ優しいとさえ言える尖り方

リツイートってうねってたけどリポストってちょっとこぢんまりしてる感ない? ない? あっそう。ないの。へっ。おもしれー女。これくらいの軽口でハラスメント認定される世の中である。ともあれ言葉というのは硬さとか弾力とかカドのとんがり具合みたいなものを内包しているから、リツイートがリポストになったときにスンってなった人はたぶん多いだろう。この感覚には多くの人々が散瞳してくれると思う。ブブー、誤字じゃないでーす、残念でしたァー。賛同じゃなくて散瞳でいいんですー(瞳孔がひらく)。

これくらいの文字数をだいたい20秒くらいで打ち込んでいる。ただしだいたい今のブロックくらいの量を書くとすぐに別の作業を一旦いれてしまう。気が散っている。5分くらい別のことをやって帰って来る感じだ。したがって、それなりの長さの文章を書こうと思うと15分や20分では書きあがらない。寄り道の時間を入れると倍以上かかる。むかしはブログの記事を書くのに30分もかけなかったんだけど、今はブラウザを開きっぱなしにして半日くらいかけてちょっとずつ書いてアップロードするという日が増えた。そうするとたまによいことがある。3時間くらい前に自分が書いた5行を、半分くらい忘れた状態で目にして、こいつ何書いてんだwとばかりに、過去の自分と他人行儀な関係になることで、ぜんぜん違うところから言葉の接穂が見えてきたりして、自分でいうのもなんだかひょうきんですっとんきょうな文章が作りやすい。そういうやり方ばかりしていると、徹頭徹尾ひとつのことを言うストイックな文章は書けなくなるし、文章の構成をきちんと整えることも難しくなるわけだが、まあ、そういうのはプロが金をとってやればいいことであって、素人がウェブに書き殴りするものが、刹那の享楽のつみかさねであって悪いことは何もない。いいこともないが。

-----終了-----

-----再開-----

つまりはこういうことだ。今のふたつの間のところで私はソイラテを飲んだりトイレに行ったり診断をしたり問い合わせに答えたりしてけっこうな量のin-outを終わらせて、さっきまでの私とかなり体内の組成が変わってしまった状態になって、で、さっき書いた文章を見てちょっと笑ってけっこう眉をひそめている。やはり私の、私たちの、いや私の、古典的2ちゃんねる的オタクの気心は、ぶつ切りの無慈悲な断裂によって特徴づけられるもろい連環だ。五島列島の島どうしの関係だ。いつでもどことでも個がつながることができるというシステムの理想のもとに、どことも誰とも必要以上には仲良くなれなくなってしまった悲しい一族だ。終了と再開を繰り返すような表現は雑にやっているわけでもアイロニーを気取っているわけでもなくて本質であり、つい本質という言葉を使ってしまったけれどこれは遺伝子と環境が互いに俺のせいじゃないと押し付けあったお荷物のような厄介物なのである。とはいえ終了再開反復マインドは決してADHD器質みたいな雑な人格表現で一元的に説明できるものでもない。思考の器質と行動の器質って完全に合致するかというとそうでもない気もする。

けっこう前のことになるが、大和書房の編集者がかつて私の書いた文章をそこそこ直してくれたときはすごくうれしかった。「ここは冗長でいらないですね」とばっさりカットされた部分の前後が、後に読者に「あそこおもしろかったです」と言われたりして、ははあーなるほどプロだなーと感服したものだった。しかしそれを除くと、ここまで私が書いてきたものは、どれもこれも素材丸ごと無編集のものばかりで、どうも私は文芸的な調整を加えずにスピードと勢いでニーズに合わせて強く強く拳を突き出すCHAGE AND ASKA的な執筆しかさせてもらえないし、同人誌の原稿をいそいで届けました、みたいなことをずっと繰り返している感もあって、そういうのが向いているというかそういうニーズがあるうちはそれでいいんだろうなと、近頃なんぞはもうあきらめていたというか、これはこれでありがたいじゃないと納得して鎮静がかかっていたのだけれど。いたのだけれど。いたのだけれど! 最近、ひとりの編集者が、私の文章を徹底的にいじりましょうと言ってくれて、しかもそれは居酒屋でその場の勢いで言った言葉ではなくて、ちゃんとあとからフォローのメールも入って、そこでも同じことを言われたのである。ばんざーい! ひさびさに! わたしは! 書き殴りじゃないものを! 世に出せるぞ! たぶん! 出ないかも! しれないけどな! よぉーし! ブログはこれまで以上に書きなぐるぞ! この文章、ここまでに3日かかってます。むしろどうやって。

記号サンドバッグ

言語化するときにはまずとにかくなんでもいいから言葉にしてみる、口にしてみる、思い浮かべてみるところからスタートする。それは「他人の言葉」であってもかまわない、というか、基本的に、借りてきた言葉をいったんあてはめてみる以外にやれることはないので、最初はとにかく人真似でもパクリでもいいから誰かがすでに用いている言葉でやってみるしかない。美しいものを見たらまずは美しいと、うまいものを食べたらまずはうまいと言葉にする。陳腐でもかまわない。オリジナリティなんて出てくるわけもない。そして言葉にした次の瞬間にすぐそれを疑う。

「すぐ」というのが大事だ。

「美しい、いやちょっと違うな」と、自分の口から出た言葉が印象になり刻印になってしまう前に手早く、仮に当てはめた言葉をすかさず否定する。その否定の仕草の最中に、「でもぜんぶ違うわけではないんだよな」と、とりあえずあてはめた他人の言葉の何が気に食わなかったのかを高速で検証する。ここにいちばんエネルギーを使うべきである。

それは剣道の技を稽古で修正していく作業とかなり似ている。

虚空に向かって素振りをするのではなく、藁とか竹で作った打ち込み台にまずは打ち込んでみる。そして打突した瞬間に手のひらや腰に伝わってくる感触をすかさず確認して今の打突の改善点を急速にチェックして次の打突のときにそこを変更する。左手の絞りが最後に足りてなかったから剣尖が伸び切らなかった、とか、左腰が開いた分だけ前方への運動量が相殺されて衝撃が発散した、といった違和のポイントを回収し、次の打突のときにそこを直してみる。左手の絞りを気にすると僧帽筋や広背筋に対する気配りが少し減るので前傾姿勢の確度が変わったり首の位置が微妙に不適切になったりすることがわかる。左手を絞った分、右手で補正するその強さがまだフィックスしきれてないなと気づく。左腰を入れると右のかかとがもちあがり気味になって体幹全体が少し上下にぶれたかもしれないと考える。そうやってまた次の打突に備えて微修正を行う。

こうして何度も何度も打突練習を繰り返すような心持ちで言語化を繰り返す。知性を用いないと筋肉に乱れたフォームを教え込むことになってしまうので、繰り返すことに主眼を置くのではなく、毎回高速でフィードバックして連続で微調整を続けることを肝に銘じる。



Xで流れてきた言葉。「安易な言語化はしてはだめです。人から借りてきた言葉をかんたんに使ってしまうと、できごとの実感が安直な言葉におきかわってしまって、生の感触を忘れてしまうからね。言語化というのはもっと丁寧に、だいじに、自分の言葉を探して……」

はーまあそういうタイプの人もいるのかもしれないけどその程度の言語化でこれまで済んできたってことだろと感じる。じっと瞑想して自分の理想の剣士を思い浮かべて何度も何度もそれを頭の中でこすったあとに一刀だけ居合で切ると藁束がきれいに切れる、みたいなニュアンスだなと思う。そんなわけないと私は思う。試技を繰り返すことなしに理想の一刀にたどり着けるわけがないのだ。言語化というのは安易にやるべきである。そしてその安易さをすぐに自分で否定するのだ。「理想の言葉」を無から生み出すのではなく、流木のような素材をまず提示してそれを心のノミでがんがんに削り出して中から観音様を掘り出すようにして言葉を顕現させるのだ。

「口数は少ないけど心に刺さることを言う人」なんてのは存在しない。仮にそういう人があらゆる他者の前でめったにしゃべらないのだとしても、心の中に学校の体育館のように音が響く中腔があって、そこにかの人の言葉は常時響き続けている。ずーーーーっとうるさい。反響してかえってくる自分の言葉をああでもないこうでもないと猛烈な勢いでいじくっていくのに忙しいからいちいち他人と会話しないだけである。口数。手数。言語化する前の模索の動きと言語化した後の精査の動きを両方とも膨大な量行ったすえに人前でぽろっと結果をひとつだけ落としてまた黙る。それはうるさい人間のやることだ。それはものすごく口数の多い人間の仕草だ。扇風機の羽が早く回ると反対方向にゆっくり回って見えるようになるのと同じだ。

愛のリズムは心拍の誤認

本日のB定食がきのこスパゲティだった。ふりかえってみると私は長いことパスタを食べていない。食堂では定期的にラーメンやそばなど麺類が提供されるが、パスタを選んだ記憶がない。たぶん5年は食ってない。下手すると10年口にしていないだろう。べつにパスタがキライなわけではなかったのだが。居酒屋でパスタは出ないしイタリアンで飯を食わないからまるでチャンスがなかった。そもそもうちにパスタの備蓄もない。唯一、私の目の前をスパゲティがたまに通りがかるのが当院の食堂だ。しかしまあ長いこと食わないできたものだ。

最近ラーメン食ってないな、とか、最近餃子食ってないな、みたいな気配りはするほうの人間だ。たまに店でパン買ってみるかとか、ソーメンひさびさにゆでたいな、なども思いつくことはあった。しかしパスタにはぜんぜん愛情がなかった。これまで食ってきたうどんの1/3くらいはパスタに置き換えても人生としては問題なかったはずだ。しかしパスタは完全に無視というか、パスタの存在を心が検知できないままここまできた。

私が食べていない食べ物なんてほかにもいくらでもある、ヤムイモとかパパイヤあたりは食べた記憶がないわけだし、世の中のあらゆる食材を口にしなくてもどうということはない。ただパスタほど一般的なものをねえ、へえ、ふしぎなもんだねえ。世の中への普及度合いと私の経験の少なさのミスマッチがおもしろい。生活というものは、黙っていれば平均に収束していくというわけではないのだな。複雑系の果てにいるはずなのに。



手が少しむくんでいてキーボードが打ちにくい。まぶたの上にゼリーが乗っているような重さを感じるし、耳のまわりがほかほかとあたたかくて、眠気に頭から飲み込まれつつあるような状態だ。デスクで5分ほど過眠をとる間に大鍋で麺を茹でる夢を見た。眠りが浅すぎて夢というよりは覚醒時の連想というか妄想に近いようにも思うがまあわかりやすい夢である。昨日は某社の編集者にひとつ原稿を見てもらった。「100点のところと20点のところが交互に出てくる原稿です」という評価をもらった。あらかじめ蛍光色でマークした原稿をちらみさせてもらうとたしかに私の文章はよいところとよくないところが交互に出てきている。これはバイオリズムなのだろうかとそのときはふと思った。しかし今にして思うと、「波があればそれは生命のリズムである」というのも雑な話だ。たとえばさっきのスパゲティの話をむしかえしてもいい。あるいは私が運動もせず仕事ばかりやっているといういつもの話でもいい。生命はバランスよく、交互に、まんべんなく、リズミカルにホメオスタってるわけでは必ずしもないと思う。放っておけば偏る。放っておけば淀む。放っておけば変化を嫌う。放っておけば遺伝子のプログラムした範囲でしか動かなくなる。複雑系だからこそカオスエッジからどちらかに傾いたらあとは真っ逆さまというほうがリアルなのだと思う。私の書く文章に波があるのは自然なことではなくたぶん「無理をしている」からなのだ。私はくだんの文章できっと自分を大きく見せたりかしこく見せたりしようとした。本来私の考えていることが求める文字数よりも、オファーされた文字数のほうが多いから、それにあわせて言うことをふくらませようとしたり盛ろうとしたり飾り付けようとしたりしたのだろう。それがまだらにあらわれたから一見「リズミカルに成功したりすべったりを繰り返している」ように見えたのだろう。


私は無理をしてスパゲティを食う。「たまにスパゲティ食べるとうまいよね」と言うタイプの人間になりたいからわざわざスパゲティを食っているのだと思う。本当は米とうどんがあれば十分なのだ。そば? そばでもいいね。そばを食ってる自分ってかっこよく見えるもんね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。ピザ? たまに食いたくなるよね。たまにピザを食う自分でありたいよね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。米だけでもいいかもしれないが私はうどんに対してはきちんと愛がある。ただし愛というのは常設されているものではなくてある程度のリズムをもって脈動するものである。うどんも後付けなのかもなあ。

今使っておるのがその10倍界王拳なのだ

Scheuerという病理医がいて、肝臓の専門家でとても有名だったらしく、今も原発性胆汁性胆管炎の分類などに彼の名前が残されている。読み方を正確には知らないのだが、先輩からは「ショイエル」と呼ぶのだと教わった。なので私は肝臓の生検をみるたびに思い教科書を背負って歩きながら「これくらいなら……しょい得る!」と気を吐く老病理医の姿を思い浮かべるのである。人生は重い荷を背負って歩く山道が如し。しょい得る! 元気が湧いてくるフレーズだ。


ところで元気が湧いてくるというのは必ずしも喜ぶべきことではなくて、これは本当に個人の感覚としてふわっと感じているだけなのでわかってくれる人は少ないかもしれないけれど、元気というのは表面に湧き出すとまわりに影響を与えながら何かを動かすことができる大切なエネルギーである一方、外に出せば出すほどじゃんじゃん減っていって中身が枯渇していく、いわばシャンプーとかボディソープみたいな物性のもので、「うおおお元気が湧いてきたぜ」と言って手にとってワシャワシャ泡立てて顔とか頭とかをワシャワシャやっているうちに中身がすっからかんになることに注意しなければならない。元気は無尽蔵に湧いてこさせてはむしろいけないものだという認識をもつ。常に詰め替えのストックを2個くらい洗面台の下のスペースに常備しておく。それくらいの気構えを持って扱うもの、それが「元気」なのだ。だから「元気が湧いてくるフレーズ」なんてのはむしろ害悪なのである。

「元気が出る曲100選」みたいなプレイリストを作る自称DJはなにもわかっていない。「元気を買い置きする曲100選」がまず必要であるし、理想を言えば、「元気がなくても勝手にものごとがうまくいく曲100選」とか、「元気がなくても自力がありすぎるので仕事が進んでしまう曲100選」のほうがはるかに実効性が高い。出して使うのはちびちび。ドバッと出してはもったいない。イオナズンにしろギガデインにしろ、近くに回復スポットがあるとか、もうこいつがラスボスだとわかっているとか、いのりのゆびわを10個くらい持っているといった環境だからこそ連発できるのであって、まだどれくらい冒険が続くかわからない道中の雑魚相手にメラゾーマやベギラゴンを連発していてはいつMPが尽きるかとハラハラして探索が落ち着かない。それと似ている。元気を気軽に湧かせてはいけない。

はっきり言ってしまうが「元気が湧くようなもの」というのは迷惑だ。ショイエルのダジャレなんか一番よくない。こんなもので気軽に元気を出すなんて愚の骨頂である。そもそも出ないが、出ないなら出ないでそれはそれで失望するからよくない。ショイエルのダジャレは害悪である。

私は元気を小出しにして日々を乗り切っていきたい。結果的にMPが半分以上余った状態で宿屋にたどりつき、別に回復しなくてもまだ冒険できるんだけど念の為といって一晩泊まる、いのりのゆびわを結局余したままゾーマまで倒してしまうような勇者でありたい。それはいわゆる「エリクサーもったいないから使わない問題」とはちょっとニュアンスが違う。「自分が十分に強くなるまで冒険を先に進めないので、防御力もHP上限も推奨レベルよりはるかに高い状態で冒険を先に進めるため、結果として効果の高い回復アイテムが要らなくなる」というのが理想だ。「元気が湧いてくるような◯◯」なんてのは必要ない。ブーメランをひとなげするだけで雑魚敵全員に一撃死ダメージを与えるほど強くなっておけば、MPなんかゼロでも冒険に支障はないし、そういうときでもたまにかつて訪れた街をルーラで連続でおとずれて、さらに昼と夜で住民のセリフが変わるのならばラナルータもばしばし使って、追加セリフが更新されていないかどうかを定期的に確認するために膨大なMPを使うがそれでもまだぜんぜん残MPには余裕がある、みたいな暮らしをしたい。元気を湧かせるな。私の元気を引き出そうとするな。伝説のマンガ「ドラゴンボール」で最低につまらなかった話のタイトル「思いがけないスーパーパワーアップ」の界王神みたいなことをするな。油断も隙もありゃしないな、Scheuerの野郎は……。

明日もオンライン

少し前の話になる。とあるアーティストのコンサートが配信されていてそれを見ていた。いいクオリティのライブで十分に満喫し、終わったあとはしばらくスマホを開いて、ほかのファンたちがどんな感想をポストしているのかを眺めながら酒を飲んだ。

ライブ終了後、かなり早い時間にひとりの人がつぶやいた内容の中に、おっ、と気になるようなフレーズがあった。なるほど、今のライブは確かにその視点でみるとおもしろいなあと納得できるような内容だ。ほかにも感想は10件くらいあったのだけれど、その1名の言葉だけが浮き上がって見えた。なんというか、際立っていた。私はその言葉がライブ終了後に自分の口から出たらさぞかしかっこよかっただろうなと妄想をした。

それから20~30分くらい、私は別にマンガを読んだりしながらXをちらちら見て、少しずつ増えていく感想を追いかけていた。すると、人々の感想が少しずつ変化しはじめた。

たくさんの感想が投稿されているのだけれど、内容が多様になるどころか、少しずつ似通ってきている。かなりたくさんの人が、「私がさっき気に留めたフレーズ」と似たりよったりのことを書くようになっていた。

みんな同じような感想を持ったんだな、とは思わなかった。

だって、最初の15分くらいの感想はもっとバラバラだったからだ。

今、感想を書いている人たちは、私と同じように、「ライブ終了後にあの人の感想を目にして、私と同様にゆさぶられた人たち」なのではないかと思った。

あの人の言葉をリポストするのではなく、自分のタイムラインに自分のポストとして表示させた人たちなのかなと思った。

なんか、いやらしい発想なのだけれど、そう思った。

思えばパリオリンピックも野球のクライマックスシリーズも、大河ドラマも選挙も、たまに、「SNSで見た言葉をそうとわからない程度にパクってうまいこと自分でいったふうにしている」人がいたなと思う。

でも今回のライブ後の感想をリアルタイムで更新しているとき、あれ、この、微妙なパクリムーブって、もしかして思った以上にずーっとたくさん、日常的にやられていることなのかな、という気持ちがわいてきた。


気持ちがわからないわけではない。

私も、自分がたった今見たライブを、自分以上に味わっている人の言葉を借りることで「より強い感動」にできるとわかっているから、ライブ終わりにほかの人の感想を検索している。

誰かの言葉を借りて自分の心を知るというのは当然のことだ。

でもそれをあたかも自分の感想かのように発信しはじめたら、それはなんかちょっと踏み越えちゃってる気もする。


「誰が最初にいいことを言ったか」の採点やチェックが辛い領域だと、こういうムーブはむしろ少なくなるかもしれない。パクリ疑惑はそうとう早い段階で見つかって糾弾につながる。

でも邦楽ロックなんていう、Xのトレンドに乗るほどの爆発力をもたないごく普通の優良コンテンツだと、「しれっと人の言葉でいい感想を言う人」はいるんだろうな、それもたくさんいるんだろうな、ということを、この日の私はなんだかすごくさみしく感じた。

ああ、スマホ置いてライブハウスに行きたいな。

でもいまどきライブなんてスマホでチケット表示させるのがあたりまえなんだろうな。

オンライン、オンライン、あーあ。オンラインかあ。

つまんねぇなあ。

HPといえば病院の略です

「2015年3月から10%中性緩衝ホルマリンに変更」とだけ書かれた付箋をデスクの前に貼ってある。この知識を使うことは五年に一度もないけれど、たまーに、というかまれに、「おたくの検査室の検体固定はいつから遺伝子検査に最適化されたものになっていますか」という質問を受けることがあり、それに備えているのだ。


そして今私はあきらかに「備えているのだ」という言葉で、ふわふわとした異なるニュアンスを平らにならして押しつぶして意味を狭い範囲に確定した。実際にはそれほど強い理由はなくこの付箋はここに貼ってある。たった一度だけ外部から聞かれたことに答えるためにいろいろ調べて得た情報を、なんとなく手癖でデスクに貼ったあと、それをいつ剥がしていいかわからず、貼ったままにするとか剥がすといった積極的な行動をとることえず、なんとなくそのままにしていただけの付箋に「備え」の意味などない。しかし私は今こうして「備えているのだ」と書いてしまったので、その瞬間からこの付箋は「備えとして貼っているもの」になる。なり下がる。そういうことがある。







メルロ=ポンティも次のように言っています。「もし記号という現象を、あたかも煙が火の存在を告知するように自分とは別の現象を告知する現象だと解すれば、まず第一に、コトバは思考の記号ではない。(……)両者は互いに包み合っているのであり、意味はコトバの中にとり込まれ、コトバは意味の外面的存在となっているのだ。同様にして我々としては、一般にそう信じられているように、コトバとは思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だとかは、とても認められない。」(『ソシュールを読む』丸山圭三郎/講談社学術文庫)






メルロ=ポンティを逆から読んだらティンポ=ロルメだなとずっと思っている。ソシュールを読むかい? そーしゅる! そろそろウンベルト・エーコを読み直そう。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』は装丁がおしゃれだという以外の感想が残っていない、記憶が腐ってやがる、読むのが早すぎたんだ。『薔薇の名前』を読んでみたい。言葉によって確定することで言葉で表せなかったはずのものが影響を受けてそれがまた言葉を引っ張ってくるみたいな、二重らせんが互いを縛るような心象について今の私はわりと興味がある。なじみの編集者が、7,8年ほど前だったろうか、「市原はそっち(ベルクソン)じゃなくてまずユクスキュルを読んだらいいと思う」と言ったのはおもしろかったし確かにそうだったなと思う。ユクスキュルやギブソンを通らなければ私は自らの硬く凍った因果のまなざしを疑うことができなかったはずだからだ。そして今どうしても記号のことを考える。記号というかコトバのことを毎日考える。思弁的でありたいわけではなくて日々の手さばき、というか声帯さばきの中でみずからの口から出たり出なかったりするコトバが何をどう狭めているのかということをプラクティカルに考える。「下手な考え休むに似たり」。えっマジで! へたに考えるとHPが回復するってコト!?