ホメオスタシスの要件

職場でストレスチェックを実行しなさいとの命を受けたので専門のシステムにログインしようと思ったのだが、指定のパスワードを入れてもログインができないのでストレスが大きくかかりPCを破壊して次元のはざまに放り込んだらすっきりした。アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう。これに対する考察がインターネットには載っているがたいしてレベルの高くないものばかりでまたストレスがかかる。

休日に出勤してメールチェックをする。書きたい原稿のことが頭をよぎる。書かずにメールの返事ばかりする。お断り。お断り。仕事を頼むと断られてばかり。理由が非常に納得できるもので、それはたしかに頼んだこちらのほうが悪いなと思えることばかりでがっくりとうなだれるばかり。私もできればもう少し違う人に、バリエーションを出すかんじで、いつも同じひとばかりではなしに、たまには違う切り口で、仕事を頼みたいと思う。そうやって思考して選択しつづけることがなにより大事だ。しかしいつもここで書いているように、私の人生は選択よりも微調整によってコントロールされている。今回は右、次回は左といったように、アイコンをずばずば切り替えるがごとくころっころっと違う方向にばかり目を向けていくような歩き方はまずできることがない。せいぜい2度。がんばっても5度。歩く方向を微妙にずらしながら全体としてはなんとなく同じ方向に歩いていく、みたいなかんじでしか人生をコントロールできない。それはあらゆる仕事においても言えることだ。私は似たようなことばかりしている。

拡大倍率を上げれば上げるほど差異は些細になっていく。さいがささいになっていく。おちゃのこ差異差異。再々些細。エルサルバドルみたいなリズムだ。先日の編集者との会話:市原がドゥルーズを参照してしまうと「説明できすぎてしまう気がするから違うと思います」。全く同感だ。私のもやもやと考えていることをドゥルーズをもちいて言い表すと「私がそこまで考えていなかった部分までなんかうまいこと言葉にされてしまう」ので、おそらく、私のしごと相手にとってはそれはいいことなのだけれど、私にとってはよくない。私はこれから自分の中にだけ響いている言葉を自分でしかできない形でじわじわ真綿でトライツ靭帯を締めるように他人にもそこそこ通じるストレスのかたちに整形していかなければいけない。そんなときに、ドゥルーズだと、ストレスが足りなすぎて、たぶんうまくいかないと思う。


田村尚子『ソローニュの森』がどこかに行ってしまったので書い直した。たぶん職場の本棚のどこかにあるのだ。しかし私は今読みたかったのだ。何冊あってもいいだろう。本が読みたいときに手元にないストレスほど大きなストレスはない。『ソローニュの森』は二周以上読むことが前提の本だ。私はこの本をおそらく百周くらいしている。少しずつ作者の言いたいことがわかってきたような気がしている。これで少しなのだからおそれいる。ままならないもの、コントロールできないこと、把握しきれない大きさ、見通しきれない暗さ。私の生命を維持するために必要なストレス。蓄積されることで「重し」になるものたち。

針のむしろ優しいとさえ言える尖り方

リツイートってうねってたけどリポストってちょっとこぢんまりしてる感ない? ない? あっそう。ないの。へっ。おもしれー女。これくらいの軽口でハラスメント認定される世の中である。ともあれ言葉というのは硬さとか弾力とかカドのとんがり具合みたいなものを内包しているから、リツイートがリポストになったときにスンってなった人はたぶん多いだろう。この感覚には多くの人々が散瞳してくれると思う。ブブー、誤字じゃないでーす、残念でしたァー。賛同じゃなくて散瞳でいいんですー(瞳孔がひらく)。

これくらいの文字数をだいたい20秒くらいで打ち込んでいる。ただしだいたい今のブロックくらいの量を書くとすぐに別の作業を一旦いれてしまう。気が散っている。5分くらい別のことをやって帰って来る感じだ。したがって、それなりの長さの文章を書こうと思うと15分や20分では書きあがらない。寄り道の時間を入れると倍以上かかる。むかしはブログの記事を書くのに30分もかけなかったんだけど、今はブラウザを開きっぱなしにして半日くらいかけてちょっとずつ書いてアップロードするという日が増えた。そうするとたまによいことがある。3時間くらい前に自分が書いた5行を、半分くらい忘れた状態で目にして、こいつ何書いてんだwとばかりに、過去の自分と他人行儀な関係になることで、ぜんぜん違うところから言葉の接穂が見えてきたりして、自分でいうのもなんだかひょうきんですっとんきょうな文章が作りやすい。そういうやり方ばかりしていると、徹頭徹尾ひとつのことを言うストイックな文章は書けなくなるし、文章の構成をきちんと整えることも難しくなるわけだが、まあ、そういうのはプロが金をとってやればいいことであって、素人がウェブに書き殴りするものが、刹那の享楽のつみかさねであって悪いことは何もない。いいこともないが。

-----終了-----

-----再開-----

つまりはこういうことだ。今のふたつの間のところで私はソイラテを飲んだりトイレに行ったり診断をしたり問い合わせに答えたりしてけっこうな量のin-outを終わらせて、さっきまでの私とかなり体内の組成が変わってしまった状態になって、で、さっき書いた文章を見てちょっと笑ってけっこう眉をひそめている。やはり私の、私たちの、いや私の、古典的2ちゃんねる的オタクの気心は、ぶつ切りの無慈悲な断裂によって特徴づけられるもろい連環だ。五島列島の島どうしの関係だ。いつでもどことでも個がつながることができるというシステムの理想のもとに、どことも誰とも必要以上には仲良くなれなくなってしまった悲しい一族だ。終了と再開を繰り返すような表現は雑にやっているわけでもアイロニーを気取っているわけでもなくて本質であり、つい本質という言葉を使ってしまったけれどこれは遺伝子と環境が互いに俺のせいじゃないと押し付けあったお荷物のような厄介物なのである。とはいえ終了再開反復マインドは決してADHD器質みたいな雑な人格表現で一元的に説明できるものでもない。思考の器質と行動の器質って完全に合致するかというとそうでもない気もする。

けっこう前のことになるが、大和書房の編集者がかつて私の書いた文章をそこそこ直してくれたときはすごくうれしかった。「ここは冗長でいらないですね」とばっさりカットされた部分の前後が、後に読者に「あそこおもしろかったです」と言われたりして、ははあーなるほどプロだなーと感服したものだった。しかしそれを除くと、ここまで私が書いてきたものは、どれもこれも素材丸ごと無編集のものばかりで、どうも私は文芸的な調整を加えずにスピードと勢いでニーズに合わせて強く強く拳を突き出すCHAGE AND ASKA的な執筆しかさせてもらえないし、同人誌の原稿をいそいで届けました、みたいなことをずっと繰り返している感もあって、そういうのが向いているというかそういうニーズがあるうちはそれでいいんだろうなと、近頃なんぞはもうあきらめていたというか、これはこれでありがたいじゃないと納得して鎮静がかかっていたのだけれど。いたのだけれど。いたのだけれど! 最近、ひとりの編集者が、私の文章を徹底的にいじりましょうと言ってくれて、しかもそれは居酒屋でその場の勢いで言った言葉ではなくて、ちゃんとあとからフォローのメールも入って、そこでも同じことを言われたのである。ばんざーい! ひさびさに! わたしは! 書き殴りじゃないものを! 世に出せるぞ! たぶん! 出ないかも! しれないけどな! よぉーし! ブログはこれまで以上に書きなぐるぞ! この文章、ここまでに3日かかってます。むしろどうやって。

記号サンドバッグ

言語化するときにはまずとにかくなんでもいいから言葉にしてみる、口にしてみる、思い浮かべてみるところからスタートする。それは「他人の言葉」であってもかまわない、というか、基本的に、借りてきた言葉をいったんあてはめてみる以外にやれることはないので、最初はとにかく人真似でもパクリでもいいから誰かがすでに用いている言葉でやってみるしかない。美しいものを見たらまずは美しいと、うまいものを食べたらまずはうまいと言葉にする。陳腐でもかまわない。オリジナリティなんて出てくるわけもない。そして言葉にした次の瞬間にすぐそれを疑う。

「すぐ」というのが大事だ。

「美しい、いやちょっと違うな」と、自分の口から出た言葉が印象になり刻印になってしまう前に手早く、仮に当てはめた言葉をすかさず否定する。その否定の仕草の最中に、「でもぜんぶ違うわけではないんだよな」と、とりあえずあてはめた他人の言葉の何が気に食わなかったのかを高速で検証する。ここにいちばんエネルギーを使うべきである。

それは剣道の技を稽古で修正していく作業とかなり似ている。

虚空に向かって素振りをするのではなく、藁とか竹で作った打ち込み台にまずは打ち込んでみる。そして打突した瞬間に手のひらや腰に伝わってくる感触をすかさず確認して今の打突の改善点を急速にチェックして次の打突のときにそこを変更する。左手の絞りが最後に足りてなかったから剣尖が伸び切らなかった、とか、左腰が開いた分だけ前方への運動量が相殺されて衝撃が発散した、といった違和のポイントを回収し、次の打突のときにそこを直してみる。左手の絞りを気にすると僧帽筋や広背筋に対する気配りが少し減るので前傾姿勢の確度が変わったり首の位置が微妙に不適切になったりすることがわかる。左手を絞った分、右手で補正するその強さがまだフィックスしきれてないなと気づく。左腰を入れると右のかかとがもちあがり気味になって体幹全体が少し上下にぶれたかもしれないと考える。そうやってまた次の打突に備えて微修正を行う。

こうして何度も何度も打突練習を繰り返すような心持ちで言語化を繰り返す。知性を用いないと筋肉に乱れたフォームを教え込むことになってしまうので、繰り返すことに主眼を置くのではなく、毎回高速でフィードバックして連続で微調整を続けることを肝に銘じる。



Xで流れてきた言葉。「安易な言語化はしてはだめです。人から借りてきた言葉をかんたんに使ってしまうと、できごとの実感が安直な言葉におきかわってしまって、生の感触を忘れてしまうからね。言語化というのはもっと丁寧に、だいじに、自分の言葉を探して……」

はーまあそういうタイプの人もいるのかもしれないけどその程度の言語化でこれまで済んできたってことだろと感じる。じっと瞑想して自分の理想の剣士を思い浮かべて何度も何度もそれを頭の中でこすったあとに一刀だけ居合で切ると藁束がきれいに切れる、みたいなニュアンスだなと思う。そんなわけないと私は思う。試技を繰り返すことなしに理想の一刀にたどり着けるわけがないのだ。言語化というのは安易にやるべきである。そしてその安易さをすぐに自分で否定するのだ。「理想の言葉」を無から生み出すのではなく、流木のような素材をまず提示してそれを心のノミでがんがんに削り出して中から観音様を掘り出すようにして言葉を顕現させるのだ。

「口数は少ないけど心に刺さることを言う人」なんてのは存在しない。仮にそういう人があらゆる他者の前でめったにしゃべらないのだとしても、心の中に学校の体育館のように音が響く中腔があって、そこにかの人の言葉は常時響き続けている。ずーーーーっとうるさい。反響してかえってくる自分の言葉をああでもないこうでもないと猛烈な勢いでいじくっていくのに忙しいからいちいち他人と会話しないだけである。口数。手数。言語化する前の模索の動きと言語化した後の精査の動きを両方とも膨大な量行ったすえに人前でぽろっと結果をひとつだけ落としてまた黙る。それはうるさい人間のやることだ。それはものすごく口数の多い人間の仕草だ。扇風機の羽が早く回ると反対方向にゆっくり回って見えるようになるのと同じだ。

愛のリズムは心拍の誤認

本日のB定食がきのこスパゲティだった。ふりかえってみると私は長いことパスタを食べていない。食堂では定期的にラーメンやそばなど麺類が提供されるが、パスタを選んだ記憶がない。たぶん5年は食ってない。下手すると10年口にしていないだろう。べつにパスタがキライなわけではなかったのだが。居酒屋でパスタは出ないしイタリアンで飯を食わないからまるでチャンスがなかった。そもそもうちにパスタの備蓄もない。唯一、私の目の前をスパゲティがたまに通りがかるのが当院の食堂だ。しかしまあ長いこと食わないできたものだ。

最近ラーメン食ってないな、とか、最近餃子食ってないな、みたいな気配りはするほうの人間だ。たまに店でパン買ってみるかとか、ソーメンひさびさにゆでたいな、なども思いつくことはあった。しかしパスタにはぜんぜん愛情がなかった。これまで食ってきたうどんの1/3くらいはパスタに置き換えても人生としては問題なかったはずだ。しかしパスタは完全に無視というか、パスタの存在を心が検知できないままここまできた。

私が食べていない食べ物なんてほかにもいくらでもある、ヤムイモとかパパイヤあたりは食べた記憶がないわけだし、世の中のあらゆる食材を口にしなくてもどうということはない。ただパスタほど一般的なものをねえ、へえ、ふしぎなもんだねえ。世の中への普及度合いと私の経験の少なさのミスマッチがおもしろい。生活というものは、黙っていれば平均に収束していくというわけではないのだな。複雑系の果てにいるはずなのに。



手が少しむくんでいてキーボードが打ちにくい。まぶたの上にゼリーが乗っているような重さを感じるし、耳のまわりがほかほかとあたたかくて、眠気に頭から飲み込まれつつあるような状態だ。デスクで5分ほど過眠をとる間に大鍋で麺を茹でる夢を見た。眠りが浅すぎて夢というよりは覚醒時の連想というか妄想に近いようにも思うがまあわかりやすい夢である。昨日は某社の編集者にひとつ原稿を見てもらった。「100点のところと20点のところが交互に出てくる原稿です」という評価をもらった。あらかじめ蛍光色でマークした原稿をちらみさせてもらうとたしかに私の文章はよいところとよくないところが交互に出てきている。これはバイオリズムなのだろうかとそのときはふと思った。しかし今にして思うと、「波があればそれは生命のリズムである」というのも雑な話だ。たとえばさっきのスパゲティの話をむしかえしてもいい。あるいは私が運動もせず仕事ばかりやっているといういつもの話でもいい。生命はバランスよく、交互に、まんべんなく、リズミカルにホメオスタってるわけでは必ずしもないと思う。放っておけば偏る。放っておけば淀む。放っておけば変化を嫌う。放っておけば遺伝子のプログラムした範囲でしか動かなくなる。複雑系だからこそカオスエッジからどちらかに傾いたらあとは真っ逆さまというほうがリアルなのだと思う。私の書く文章に波があるのは自然なことではなくたぶん「無理をしている」からなのだ。私はくだんの文章できっと自分を大きく見せたりかしこく見せたりしようとした。本来私の考えていることが求める文字数よりも、オファーされた文字数のほうが多いから、それにあわせて言うことをふくらませようとしたり盛ろうとしたり飾り付けようとしたりしたのだろう。それがまだらにあらわれたから一見「リズミカルに成功したりすべったりを繰り返している」ように見えたのだろう。


私は無理をしてスパゲティを食う。「たまにスパゲティ食べるとうまいよね」と言うタイプの人間になりたいからわざわざスパゲティを食っているのだと思う。本当は米とうどんがあれば十分なのだ。そば? そばでもいいね。そばを食ってる自分ってかっこよく見えるもんね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。ピザ? たまに食いたくなるよね。たまにピザを食う自分でありたいよね。そういうのはもういらないのだ。米とうどんがあれば十分なのだ。米だけでもいいかもしれないが私はうどんに対してはきちんと愛がある。ただし愛というのは常設されているものではなくてある程度のリズムをもって脈動するものである。うどんも後付けなのかもなあ。

今使っておるのがその10倍界王拳なのだ

Scheuerという病理医がいて、肝臓の専門家でとても有名だったらしく、今も原発性胆汁性胆管炎の分類などに彼の名前が残されている。読み方を正確には知らないのだが、先輩からは「ショイエル」と呼ぶのだと教わった。なので私は肝臓の生検をみるたびに思い教科書を背負って歩きながら「これくらいなら……しょい得る!」と気を吐く老病理医の姿を思い浮かべるのである。人生は重い荷を背負って歩く山道が如し。しょい得る! 元気が湧いてくるフレーズだ。


ところで元気が湧いてくるというのは必ずしも喜ぶべきことではなくて、これは本当に個人の感覚としてふわっと感じているだけなのでわかってくれる人は少ないかもしれないけれど、元気というのは表面に湧き出すとまわりに影響を与えながら何かを動かすことができる大切なエネルギーである一方、外に出せば出すほどじゃんじゃん減っていって中身が枯渇していく、いわばシャンプーとかボディソープみたいな物性のもので、「うおおお元気が湧いてきたぜ」と言って手にとってワシャワシャ泡立てて顔とか頭とかをワシャワシャやっているうちに中身がすっからかんになることに注意しなければならない。元気は無尽蔵に湧いてこさせてはむしろいけないものだという認識をもつ。常に詰め替えのストックを2個くらい洗面台の下のスペースに常備しておく。それくらいの気構えを持って扱うもの、それが「元気」なのだ。だから「元気が湧いてくるフレーズ」なんてのはむしろ害悪なのである。

「元気が出る曲100選」みたいなプレイリストを作る自称DJはなにもわかっていない。「元気を買い置きする曲100選」がまず必要であるし、理想を言えば、「元気がなくても勝手にものごとがうまくいく曲100選」とか、「元気がなくても自力がありすぎるので仕事が進んでしまう曲100選」のほうがはるかに実効性が高い。出して使うのはちびちび。ドバッと出してはもったいない。イオナズンにしろギガデインにしろ、近くに回復スポットがあるとか、もうこいつがラスボスだとわかっているとか、いのりのゆびわを10個くらい持っているといった環境だからこそ連発できるのであって、まだどれくらい冒険が続くかわからない道中の雑魚相手にメラゾーマやベギラゴンを連発していてはいつMPが尽きるかとハラハラして探索が落ち着かない。それと似ている。元気を気軽に湧かせてはいけない。

はっきり言ってしまうが「元気が湧くようなもの」というのは迷惑だ。ショイエルのダジャレなんか一番よくない。こんなもので気軽に元気を出すなんて愚の骨頂である。そもそも出ないが、出ないなら出ないでそれはそれで失望するからよくない。ショイエルのダジャレは害悪である。

私は元気を小出しにして日々を乗り切っていきたい。結果的にMPが半分以上余った状態で宿屋にたどりつき、別に回復しなくてもまだ冒険できるんだけど念の為といって一晩泊まる、いのりのゆびわを結局余したままゾーマまで倒してしまうような勇者でありたい。それはいわゆる「エリクサーもったいないから使わない問題」とはちょっとニュアンスが違う。「自分が十分に強くなるまで冒険を先に進めないので、防御力もHP上限も推奨レベルよりはるかに高い状態で冒険を先に進めるため、結果として効果の高い回復アイテムが要らなくなる」というのが理想だ。「元気が湧いてくるような◯◯」なんてのは必要ない。ブーメランをひとなげするだけで雑魚敵全員に一撃死ダメージを与えるほど強くなっておけば、MPなんかゼロでも冒険に支障はないし、そういうときでもたまにかつて訪れた街をルーラで連続でおとずれて、さらに昼と夜で住民のセリフが変わるのならばラナルータもばしばし使って、追加セリフが更新されていないかどうかを定期的に確認するために膨大なMPを使うがそれでもまだぜんぜん残MPには余裕がある、みたいな暮らしをしたい。元気を湧かせるな。私の元気を引き出そうとするな。伝説のマンガ「ドラゴンボール」で最低につまらなかった話のタイトル「思いがけないスーパーパワーアップ」の界王神みたいなことをするな。油断も隙もありゃしないな、Scheuerの野郎は……。

明日もオンライン

少し前の話になる。とあるアーティストのコンサートが配信されていてそれを見ていた。いいクオリティのライブで十分に満喫し、終わったあとはしばらくスマホを開いて、ほかのファンたちがどんな感想をポストしているのかを眺めながら酒を飲んだ。

ライブ終了後、かなり早い時間にひとりの人がつぶやいた内容の中に、おっ、と気になるようなフレーズがあった。なるほど、今のライブは確かにその視点でみるとおもしろいなあと納得できるような内容だ。ほかにも感想は10件くらいあったのだけれど、その1名の言葉だけが浮き上がって見えた。なんというか、際立っていた。私はその言葉がライブ終了後に自分の口から出たらさぞかしかっこよかっただろうなと妄想をした。

それから20~30分くらい、私は別にマンガを読んだりしながらXをちらちら見て、少しずつ増えていく感想を追いかけていた。すると、人々の感想が少しずつ変化しはじめた。

たくさんの感想が投稿されているのだけれど、内容が多様になるどころか、少しずつ似通ってきている。かなりたくさんの人が、「私がさっき気に留めたフレーズ」と似たりよったりのことを書くようになっていた。

みんな同じような感想を持ったんだな、とは思わなかった。

だって、最初の15分くらいの感想はもっとバラバラだったからだ。

今、感想を書いている人たちは、私と同じように、「ライブ終了後にあの人の感想を目にして、私と同様にゆさぶられた人たち」なのではないかと思った。

あの人の言葉をリポストするのではなく、自分のタイムラインに自分のポストとして表示させた人たちなのかなと思った。

なんか、いやらしい発想なのだけれど、そう思った。

思えばパリオリンピックも野球のクライマックスシリーズも、大河ドラマも選挙も、たまに、「SNSで見た言葉をそうとわからない程度にパクってうまいこと自分でいったふうにしている」人がいたなと思う。

でも今回のライブ後の感想をリアルタイムで更新しているとき、あれ、この、微妙なパクリムーブって、もしかして思った以上にずーっとたくさん、日常的にやられていることなのかな、という気持ちがわいてきた。


気持ちがわからないわけではない。

私も、自分がたった今見たライブを、自分以上に味わっている人の言葉を借りることで「より強い感動」にできるとわかっているから、ライブ終わりにほかの人の感想を検索している。

誰かの言葉を借りて自分の心を知るというのは当然のことだ。

でもそれをあたかも自分の感想かのように発信しはじめたら、それはなんかちょっと踏み越えちゃってる気もする。


「誰が最初にいいことを言ったか」の採点やチェックが辛い領域だと、こういうムーブはむしろ少なくなるかもしれない。パクリ疑惑はそうとう早い段階で見つかって糾弾につながる。

でも邦楽ロックなんていう、Xのトレンドに乗るほどの爆発力をもたないごく普通の優良コンテンツだと、「しれっと人の言葉でいい感想を言う人」はいるんだろうな、それもたくさんいるんだろうな、ということを、この日の私はなんだかすごくさみしく感じた。

ああ、スマホ置いてライブハウスに行きたいな。

でもいまどきライブなんてスマホでチケット表示させるのがあたりまえなんだろうな。

オンライン、オンライン、あーあ。オンラインかあ。

つまんねぇなあ。

HPといえば病院の略です

「2015年3月から10%中性緩衝ホルマリンに変更」とだけ書かれた付箋をデスクの前に貼ってある。この知識を使うことは五年に一度もないけれど、たまーに、というかまれに、「おたくの検査室の検体固定はいつから遺伝子検査に最適化されたものになっていますか」という質問を受けることがあり、それに備えているのだ。


そして今私はあきらかに「備えているのだ」という言葉で、ふわふわとした異なるニュアンスを平らにならして押しつぶして意味を狭い範囲に確定した。実際にはそれほど強い理由はなくこの付箋はここに貼ってある。たった一度だけ外部から聞かれたことに答えるためにいろいろ調べて得た情報を、なんとなく手癖でデスクに貼ったあと、それをいつ剥がしていいかわからず、貼ったままにするとか剥がすといった積極的な行動をとることえず、なんとなくそのままにしていただけの付箋に「備え」の意味などない。しかし私は今こうして「備えているのだ」と書いてしまったので、その瞬間からこの付箋は「備えとして貼っているもの」になる。なり下がる。そういうことがある。







メルロ=ポンティも次のように言っています。「もし記号という現象を、あたかも煙が火の存在を告知するように自分とは別の現象を告知する現象だと解すれば、まず第一に、コトバは思考の記号ではない。(……)両者は互いに包み合っているのであり、意味はコトバの中にとり込まれ、コトバは意味の外面的存在となっているのだ。同様にして我々としては、一般にそう信じられているように、コトバとは思考の定着のための単なる手段だとか、あるいは思考の外被や着物だとかは、とても認められない。」(『ソシュールを読む』丸山圭三郎/講談社学術文庫)






メルロ=ポンティを逆から読んだらティンポ=ロルメだなとずっと思っている。ソシュールを読むかい? そーしゅる! そろそろウンベルト・エーコを読み直そう。『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』は装丁がおしゃれだという以外の感想が残っていない、記憶が腐ってやがる、読むのが早すぎたんだ。『薔薇の名前』を読んでみたい。言葉によって確定することで言葉で表せなかったはずのものが影響を受けてそれがまた言葉を引っ張ってくるみたいな、二重らせんが互いを縛るような心象について今の私はわりと興味がある。なじみの編集者が、7,8年ほど前だったろうか、「市原はそっち(ベルクソン)じゃなくてまずユクスキュルを読んだらいいと思う」と言ったのはおもしろかったし確かにそうだったなと思う。ユクスキュルやギブソンを通らなければ私は自らの硬く凍った因果のまなざしを疑うことができなかったはずだからだ。そして今どうしても記号のことを考える。記号というかコトバのことを毎日考える。思弁的でありたいわけではなくて日々の手さばき、というか声帯さばきの中でみずからの口から出たり出なかったりするコトバが何をどう狭めているのかということをプラクティカルに考える。「下手な考え休むに似たり」。えっマジで! へたに考えるとHPが回復するってコト!?