クマに注意してください

三角山でクマが出たと聞いて仰天する。すすきのから歩いていける範囲だぞ。びっくりだなあ。しかし、待てよ、そういえば。

Googleマップ。




すすきの交差点をスタート地点として、三角山まで歩くと1時間49分と出る。歩いていけるというのは若干大げさだった。

そして思い出す。「三角山はすすきのから歩いていける場所」とインプットされるきっかけとなったできごとがあるのだ。

25歳の誕生日だった。私はそのころよく通っていたバーで、バーテンダーにのせられて、25歳だから記念に25年物のウイスキーを飲むぞとか言いながら、度数の強い酒を何杯か飲んだ。カルヴァドス(りんごのブランデー)など飲んだのはあの日だけだ。終電がなくなり、歩いて自宅まで帰ろうと(それもどうかという距離だ)、すすきのからまずは西のほうに歩いた。そして気づいたら知らない住宅街の、少し坂になった道の、ガードレールの上に腰掛けて寝ていた。

夜が明けかけて、空気はひんやりとした。現在地がわからず、まあ、坂なのだからひとまず降りようと思って、ふらふら歩き始めたのだがなかなか平地にたどり着かない。かなり歩いたらいわゆる碁盤の目っぽい町並みが出てきて、信号に表示されていた住所を見て、振り返るとそこはつまり三角山なのであった。

上で示したマップのルートのように、私は、すすきのからまずは西に歩いて、ドコソコ通りで曲がるつもりで、「曲がって」のところで曲がらずにずんずん歩きながら寝落ちして、寝ながら歩いて山登りに突入していたということである。

今、こうして思い出して書いているとなんとも情けない。もし仮に、自分の息子がこんな生活をしていると聞いたらがっくりと肩を落とすし、育て方を間違えたかと自分を問い詰める。しかしあの頃は、これをそこまで問題にも思わなかったし、なんなら武勇伝だとも思わなくて、ちょっと奇妙で間の抜けた「落語の失敗談」くらいにしかとらえていなかった。

視野が狭いとか思考が浅いといった「足りなさ」で当時の自分を語ってもよい。でも、なんとなく、あのころというのは、世界がどんなふうにできていて、どれくらいのことをすると殴り返され、どれくらいだと生暖かい目で見守ってくれるのか、その加減を探っていた時期だったのかなと思わなくもない。

学生街の雑居ビルで朝までだらだら酒を飲みながらサザンばかり流れている店内で店主にたしなめられていた頃の私。おそらくたくさんの人に迷惑をかけたし失礼なことも言ったし意味のない駆け引きをしたりいらない物を買って捨てたり脈絡のない思い出を作ってすぐに忘れたりした。それが役に立ったかどうかという話ではない。ただ、なんか、そういう、波が寄せては返すような感じの出し入れのころ、私はたしかに幼くて、でもその行動は今の価値観で測ってもどこかずれてしまうような気がする。

あらゆる行動の原理とか理由が、勝手に周りによって開示される社会性に暮らしている今、過去の自分のふるまいを「こうだったからだろう」と解釈しようと思えばできてしまうし、ネットに書こうものなら運が悪いと本当に、よってたかって解釈されて採点されてしまうだろう。でも、なんか、そういうものでもなかったのだろうなと、まだぎりぎり覚えている質感の記憶みたいなものが、蓋を開いて名前をつけようとしている自分を押し留める。




とはいえ今、もし息子が同じことをやろうとしたら止めるし、やったら怒るだろう。なぜならクマはあぶないからだ。

研究をしよう

朝起きた瞬間に鳴っている音楽というのはどうにもアンコントローラブルで、サカナクションだとか米津玄師のようないかにも「頭にこびりつきそうな曲」ならばわかりやすいし、BABYMETALだったりJUDY AND MARYだったりするとおっどうした何の夢を見たんだと懐古主義的大脳旧皮質になんらかの気配を感じ取ったりもするのだけれども、ダンバインのOPテーマだったりがんばれゴエモン2奇天烈将軍マッギネスの城の音楽だったりするともはや困惑する。睡眠中の脳の活動の途中から、覚醒に伴い急速に因果の世界の辻褄合わせがはじまって、トンと着地する場所がオーラバトラー、それってどういうこと、AIにたずねてみればそれはそれでわかりやすいひとつのストーリーを捏造してくれるのだろうけれど、実際にはセル・シグナリングのパスウェイを図示するくらいの雑な近似にすぎなくて、私達はみな、遠因はわかるけれど原因はわからない世界にこびりついた油汚れのようなものなのだ。

とはいえ何もかもを複雑系のわからなさに持っていくのもほんとうは違っていて、たとえば音楽理論のようなものをしっかりやると、私が朝目覚めたときに脳内でリピりやすいタイプのリズムとか構成といったものにある程度の共通点があって、それはBPMとか調といった人間が測定のために設けた基準では到底語りきれないものなのだが、聴く人が聴いてセンモンテキによく考えれば、「なるほど、あなたの脳はこのタイプの共振を求めて朝方に自動的にこの音楽を鳴らすタイプなのですね」と納得してもらえる、そういう可能性もけっこうあるんじゃないかなとわりと真剣に考えている。

およそありとあらゆる研究というのはそういうものだ。「複雑すぎるから考えても無駄」と、世の大多数の人間が納得できてしまう程度には込み入ったものを、長い年月と深い執着によって見て、見すぎた、白目をバキバキに血走らせた好事家たちが、言語よりももうすこしコミュニケーションに向いていなくて、言語よりももうすこし解析に長けているなんらかの別の持続的インスピレーションをふりかざし、古い腕時計の機構を、伸ばしたクリップの先だけでほじくりかえして清掃してしまうように、「えっそこにストーリー浮かび上がらせられるんだ、ん、全部ではないんだ、なるほど、でもそれ使いやすいんだ、そして再現性もあるんだ、へぇすごいね」というかんじで進めていくものだ。

思えば誰がしゃべるどのような言葉にも表層的で通俗的な字義というのがあって、それはつまり、ある言葉に対する親密度が高い人にも低い人にも共通して納得できるだけのゲシュタルトを、有限の組み合わせの出力項にすぎない文字の羅列がまとっているということであって、それは本当に見事なものだと思う。でも、もっといえば、どのような言葉にも、私達が共通して納得している部分以外に、おそらく私達が自覚できない固有の雰囲気とかオーラとかスピリチュアルコーナーみたいなものが、あらゆる言葉の、内部、字と字の間、文字の見た目と音声の聞こえ心地のバランス、言葉の歴史や使われている状況の蓄積、誰がしゃべったか・どこで聴いたかといったメタ情報なんぞに細かく散りまぶされていて、そこはもちろんきちんと複雑系になっていて、「人の脳ではわからん、読み解けん」というレベルの複雑性を持っているのだけれど、でも、理屈はわからないが雰囲気でなんとなく組み合わせてこっちのほうがおさまりがいい、耳あたりがいい、みたいなことを、ちょっと自己満足的に、ちょっと幽玄な感じでやってきたのが詩歌だったりエッセイだったりするわけで、そうやって、理屈も構造もわからないがプロダクトのよさそのものはなんとなく人が触れたり感じたりできるというのが、おもしろいところだと思う。

つまりこの世の全部は、全部はわからない。

しかしだからといって、わからないから私の知るところではないとばかりに背を向けてしまっては、まだ聴いたことのない音楽に心を震わせる体験すべてを門前払いするような、もったいないことになるのではないかと思う。だから、とはいえ、しかし、それでも、私たちはおそらく、因果の読み解きなんてできないとわかっていても、因果の一端に指をすべらせるように研究をするべきなのだと思う。