でかるとでからないとにかかわらず

有無を言わさぬ眠さに押しつぶされているときに、人格とか自由意志のことを考える。私が私である意味、プライド、特異性、そういったものが、「眠さ」によって暴力的になぎ倒されていくのがよくわかる。悩んで考え込むためには十分な睡眠が必要だ。存在の理由を問うとか人間の基本的な尊厳を語るといった七面倒臭いことは、良く寝て頭も顔もつやつやな状態じゃないと、前に進まない。

「結局いまこの瞬間になんとかさ~、さっきまでの自分と同じであり続けたいっていう惰性の代謝でさ~、テンポラリーに人間続けちゃってるだけじゃん? そんな、自分が自分であるためにどうするとか、偉そうなこと、一切今は考えないじゃん? それでも結局、生き続けているんじゃん?」

語尾も普段なら絶対つかわない中居正広になってしまう。生きている意味なんて知ったことか今私は眠い。筋の通ったことなどひとつも考え付かない。自分で言っていて自分の言葉がよくわからなくなる。そんな中でも呼吸は続き脈は拍動する。活かされているとか生を許されているといった美辞麗句が後退りする。生きていることの慣性によってそのまま生きている、ただそれだけなんだということが、「眠い」というお立ち台の上で燦然と輝いて、私はいやでも気付く。ああーかつて人間が、「我思う、ゆえに我あり」とか言いはじめたのは、あれ、よく寝てたからなんだろう。いったん眠気に負けてみろ。我なんにも思わないけど体は重いし仕事まだわりとあり。ヴァレリーは「私はときどき考える、ゆえに私はときどき存在する」と言った。ヤンデルは「私は眠くて考えられないけど仕事はいつも存在する」と言うだろう。

眠さは記号を奪う。言葉を越えて人は思考できないというが、そんなことはない。眠さによって記号の対応関係がぐっちゃぐちゃに壊れてもなお人間はふわふわとものを考え続ける。ソシュールもバルトもラカンもデリダもなんだかんだでよく眠っていたのではないか。眠気に負けてみろ、シニフィアンもシニフィエもとろけた場所で、それでもなお人間は思考をやめない。論理が破綻した状態のままでも脳はぱくぱくと口を喘がせどくどくと声に血を通わせー¥^^^^^^^^^^^^^^^ー^^^^^^^^^^^^^^ー¥^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーなんか右手のあたりで押ささった(北海道弁)。


顕微鏡を見て細胞のようすを言葉にして診断を書く。そういった一連の作業が眠くてだるくてまったく進まないときに、私はこうしてブログを書く。診断のときには、自分の考えていることを隙や漏れのなるべくない状態で連綿と書き連ねていくわけだが、そういった脳がクリアなときにしか行えないタスクは四六時中取り組めるものではない。惰性と反射で診断を書いてはいけないが、私はこうして今眠い、だから惰性と反射以外で脳も目も指もカーソルも動かなくなっている。そういうときにはブログを書く。我思わなくてもブログあり。寝ている間に妖精みたいなやつが出てきて靴屋さんのお仕事を手伝ってくれるあれ、あれ、あれこそが人間の生きる姿ではないかとはたと膝を打つ。コビト・出る・住む。膝を打つ衝撃で少しだけ目が覚める。おやすみ。

きゅうりは黙っているとズッキーニになる

サラリーパーソンの皆様ならなんとなく同じことを考えているのではないかと思うのだけれど、私たちはいつもうっすらと損している。

たとえば命じられて仕事で移動・宿泊するにあたり、飛行機や新幹線やタクシーさらにはホテルの料金を先に払っておいて、あとで精算して返してもらうというパターンをよく経験する。これ、「最終的に損はしないシステム」というけれど、精算してもらうまでの間はうっすらと自分のお金が減った状態になっている。結局私たちは人生の中で常に「あと1週間待たないとマイナスがゼロにならない」という時期ばかりを過ごしていることになる。たとえば今私が不慮の事故によって頓死したら、こないだの飛行機代を私が手にする前に私の人生は終わってしまうことになり、それはなんだか損した気分にならないですか。ものすごい損ではないがうっすらと損ではないですか。

Suicaにチャージするとかドトールカードにチャージするなんてのもあれはつまり先払いでカードの中にお金をすべりこませて他には使えない状態にしているわけだ。私は人生の中で必ず「どこかのカードにお金をチャージしてある状態」のまま暮らしている。このチャージをすべて使い切ってプラマイゼロ(もしくはポイ活の分だけお得)でぴったり死ねるかというとそんなことはおそらくない。やっぱり私はうっすらと損のローテを回しながら生きている。ヨドバシとかビックカメラのポイントを貯めるよりもケーズデンキの現金値引きのほうがいいのよネというマツコ・デラックスのセリフともつながる話だ。ちなみに私はテレビっこなので私の話を完全に理解しようと思ったら毎日欠かさずテレビを見る必要がある。いまどきSNSだけしか見てないなんて最近の若い人は遅れてるな。


私たちの命はデフォルトが「うっすらマイナス」なのだろう。何かを得てプラスを積み重ねて生きていくのではなく、黙っているとHPやらMPやらが少しずつ減っていってそれを補充して満タンにしてまたそこから減らしてを繰り返すのが生きるということだ。呼吸だって食事だってそういうこと。酸素が足りなくなって細胞が苦しくならないように息を吸って補充。腹が減って動けなくなる前にメシを食って補充。マイナス→ゼロ→マイナス→ゼロの繰り返し。最後は税率0%にしてメガロポリス! 今の私の話を完全に理解しようと思ったらシムシティの公式ガイドブックを読む必要がある。あなたがたにはシムシティの公式ガイドブックが常に足りていないのだ。マイナス→ゼロ→マイナス→ゼロ。スーパータイガー、お前のことだぞ。

私たちはもう少し「マイナス」であることに慣れたほうがいい。大人として生活するというのは、自分がうっすら損していても別に不平を貯めるようなことではないと理解することだ。右肩上がりとか積み重ねとか巨人の肩の上に立つといった言動は、人間や社会が年を経るごとにどんどん成長していくという前提のもとに成り立つ言葉であって、それは呪いの媒介装置なのである。別にマイナスでいい。補い補いしながら暮らしていっていい。畑仕事をやってみるといい。うっすらマイナスを補充していく暮らしというものが、農耕民族の基本的人権と密接につながっている。収穫したナスもきゅうりもトマトも、買ったほうが安い、人に作ってもらったほうが楽だ。自分で育てた野菜は形もぶかっこうだし雨に当たれば破裂してしまったりもするし虫だってやってくるし、ししとうに至ってはときどき唐辛子になってしまったりする(なんでなの?)。私たちは投資という言葉にころっと騙されて自分のマイナスをふくらませ、ゼロに戻せるほど回収できるわけでもないのに今年の畑はうまくいったなあなんて気持ちだけプラスに持っていく。芸当だ。私たちはいい芸を持っているのだ。

名前を付けてやる

「精神と肉体は不可分である」というしゃべりかたをした瞬間から精神と肉体をなんとなく別のものとして考える前提にどっぷりはまってしまっている。「心身」と書いたらもうそこには二種類の見方が生じているわけだ。不可分ならば言葉もいっしょになるはず。別の言葉をあてた瞬間から別様のものになってしまう。

パフェをパフェとしか言わないということ。ヨーグルト・コーンフレーク・いちご・バニラアイス(MOU)・いちごアイス(牧場しぼり)・冷凍ベリーミックスをどれだけマリアージュさせても、このように材料表示してしまった時点でそれはあくまでヨーグルト・コーンフレーク・いちご・バニラアイス(MOU)・いちごアイス(牧場しぼり)・冷凍ベリーミックスを混ぜたものであって、パフェという渾然一体のなにものかではない。

名付けてはいけない。「それを愛と名付けるみたいなことを平気でいうSNSのどぐされアカウント」を滅ぼそう。愛を語るために愛を分離してしまう罪。ちなみに今わたしは「それを愛と名付けるみたいなことを平気でいうSNSのどぐされアカウント」を名付けて世界から分離した。おかげで彼らに目が向いてしまう。私も名付けの罪を新たにひとつ背負う。

名付けてはいけない。私たちが行うべきは名前を付けることではなくすでにある名前を寿ぐことではないか。




友人の犬(略して人犬)が何を思ったかXにおすすめの文庫を載せていたのでそれを軽率に購入して順番に読んでいる。『季語の誕生』(宮坂静生、岩波新書)は非常によくて、特に冒頭の「浜頓別の俳人」の話が全編をつらぬくカウンターアクションになっていたところがとりわけよかった。「歳時記に載っている季語は浜頓別の季節とは合わない」という悩みに宮坂が撃ち抜かれてしまうのだ。新書の冒頭1行目から猛烈な勢いで奥襟を抱き寄せられ激しく大外刈りで畳に叩きつけられるような読書。しかも畳に転がってからはじわじわと花・雪・月について寝技のようにしめつけてくる。2時間くらいで読み終わるかと思ったのだがたっぷり4時間かかった。途中何度も考え込んだからな。和歌とは名付けである。季語とは分類なのだ。

次に『寝ながら学べる構造主義』(内田樹、文春文庫)を読み始めた。真ん中くらいのところで、おお、と立ち止まるフレーズに出会う。

”フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。”

そうか、そうなのか。ぐうの音も出ない。情報を取りまとめてストックするということは知的欲であるかと思っていたが、あれはつまり権力欲なのだ。めちゃくちゃに腑に落ちてしまった。ここで権力という言葉を取り出してくるのはうまいしずるいしいやだなあ。私のやっている病理診断学、中でも「分類」という仕事にはストックする側面があり、ストックを充実させていくことで私は確かにほかの医療者の前で権力的にふるまっている。そのことに気付かされて全身がきゅんと縮こまる。

名付け。仕分け。腑分け。申し分のない申し訳。私にこれらの行為をもっと前向きに、誇りをもって、堂々と為させてほしいがなかなかままならない。




”人間は名前によって、連続体としてある世界に切れ目を入れ対象を区切り、相互に分離することを通じて事物を生成させ、それぞれの名前を組織化することによって事象を了解する。このように「名づける」ことによって物事が生み出されるとすれば、世界はいわば名前の網目組織として現れることになるだろう。したがって、ある事物についての名前を獲ることは、その存在についての認識の獲得それ自体を意味するのであった。こうして諸々の物が名前を与えられることによって、たとえばそれが食物か毒物か薬物かを区分けされたとき、そこに成立する名前の体系は、人間とその物とのあいだに数限りなく繰り返されたであろう試験(試練)を含む交渉を背負っているのであり、それは「生きられる」空間が想像されたということであった。” 『「名づけ」の精神史』(市村弘正、平凡社ライブラリー)

18000円の価値

今を去ること10年前くらい、後部座席に家族を乗せて高速に乗ろうとしたとき、うっかり後部座席のシートベルト着用を頼んでいなかったために、高速乗り口で待ち構えていた警察に私は1点の反則を切られ、あわれゴールド免許を喪失した。

その後、安全運転に努めた私は5年ほど無事故無違反、まあそれはそうなのだ。スピードを出すわけでもないし危ない運転をするまでもない。次の免許更新ではなんとかゴールドに返り咲くだろうと期待していた矢先、ちょうど今から5年前、私はとある脇道から本道に合流する車線で、一時停止のラインを少し越えて右後方の本車線からやってくる車を確認しようとした。これをやるだろうと張っていたパトカーがサイレンをならして二度目の1点反則。あとちょっとだったのに。またもゴールド免許はお預けとなり2期連続での青色免許となった。頭を抱えた。それからの私はほんとうに一時停止に気をつけるようになり、なんなら速度制限もそれまで以上にきちんきちんと守るようになった。

そうして5年が経過。

次こそは、次の更新こそはゴールド免許だと意気揚々と運転していたつい先日のこと。

もうおわかりと思うが私は三度目の1点反則をおかした。深夜。ある大きな道で反対車線のコンビニに入ろうと大回りで転回をしたところ三たび張っていたパトカーがウーと鳴る。何が違反なのか瞬間的にはわからなかったのだが、その大通は終日転回禁止なのであった。こうして私は次の更新でもゴールド返り咲きは不可能となった。

3回連続でオリンピックで金メダルを逃した柔道選手はこういう気持ちになるのかなと一瞬思ったが、私ごときと一緒にしてはだめだ。あっちはたゆまぬ努力と勝負の世界。こっちはたるんだ無力と冗句の世界。あーあ。いつになったらこの自動車保険はゴールド免許特約になるんだろうなあ(遠視)(←遠い目のこと)。


深夜にネズミ捕りに熱心なポリスメンは、私があまりにあっさりと屈服するので拍子抜けしたようだ。おそらくこの展開禁止の場所で捕まる人びとはみんな抵抗するのだろう。私だって抵抗したい気持ちがなかったわけではない。公的権力と戦うのが大好きな内田樹なら口角泡を飛ばして哲学的に戦ったことだろうし、公的権力と戦うのが大好きなニュース23の小川彩佳なら冷静かつ皮肉な口調で「本当に必要なのでしょうか」とか言っただろう。でも私は別にそういうのはマジで時間の無駄だと思っている。なんというか、ウーとなった瞬間にチャンチャンということでさっさと次の夢の中をかけめぐっている感覚だ。あまりに粛々と手続きに入る傷心の私に、最初は怖い顔だったポリスメンたちもだんだん気遣うようなそぶりをみせはじめ、終いには「転回禁止って難しいですよね、パトカーでもやらかすことはあるんですよぉ」なんて軽口を叩きやがる。うるせぇ。たしかに私は見た、今私のことをウーとやったあと、君らのパトカーだってここで転回しただろう、それはいいのか? ……とか思わなくもなかったけれどでもまあそれは犯人を取り逃さないための速度超過はOK、みたいなルールがたぶんあるんだろうなと思ったし、ここでパトカーを道連れにして何か胸のすく思いを得たとしてそれはなにかの得になるのだろうかと私は妙に冷静だった。あまりに冷静すぎて、すべての切符の処理が終わった後に「ではこれで終わりとなります」と言ったポリスメンに対して私は一瞬「ありがとうございました」と言おうとしたのだ。自分から免許の点数とゴールドの資格と自動車保険の割引権利をかっぱいで行こうという人びとに対してなにがありがとうだ、とさすがにそこはやめたけれど夜中までこういう仕事をしなければいけないポリスメンたちも内心思うところはあるだろうなと思ったしまあお仕事ごくろうさん、くらいの会釈はしておいた。いちいち怒ってもしょうがない。怒るとしたらそれは交通ルールを知らない間に逸脱してしまった自分のおろかさに対してだ。


そして、正直に告白すると私はたぶんこれまで、このような警察の無慈悲な取締りによって結果的に3,4度ほど救われていると思う。

10年前、高速の入口でシートベルト取り締まりに引っかかったときにはあまりの悔しさに全身のアキレス腱をプルプルと痙攣させたものだが(※アキレス腱は2本です)、その後、もう捕まるまいと高速の入口を見るたびに同乗者たちのシートベルトを確認するようになった。そしてあるとき、高速で事故車が燃えていた影響で、突然の渋滞に巻き込まれたのだが、私はあまりの唐突な渋滞にブレーキが少し遅れ、衝突はしなかったもののけっこうなGを同乗者にかけてしまった。しかしその直前に私は後部座席の面々に「ちゃんとシートベルトしてね」と言っていたから事なきを得た。あのとき後ろに乗っていた他人の子どもたちを怪我させなくてほんとうによかったと思うし、その功績の半分はあの日私を捕まえた札幌南インター付近を担当する北海道警察のクソポリスメンが受け取るべきなのである。

さらには、5年前、一時停止のラインを数十センチ越えるところを今か今かと待ちわびていた伏兵にまんまとやられたときも脳内で孔明が「計算どおり笑」とか言いながら芭蕉扇みたいなやつをばさばさ仰ぎはじめ私は心の底から憤ったものだったが、その後、停止線だけは二度と破るまいと思ったおかげで斜め左からすっとんできた自転車を引かずに済んだことが2度ほどある。1度でも引いていたら私の人生はそこで270度ほど転回していたことだろう。うッ転回……ッ。しかし視覚からつっこんでくるウーバーイーツの自転車や高齢無灯火の自転車に衝突しなくて済んだ功績の半分はやはりあの日私を捕まえた札樽道出口付近を担当する北海道警察のビチグソポリスメンに譲渡するべきなのだ。

こういった経験たちは私に公的権力のやっていることの「ままならないありがたさ」を思わせる。なんでもかんでもお上のやること・権力のやることは許さないし許せないと怒りまくっている人たちの気持ちがわからないわけでもないのだけれど私はまあなんというか……ていうか普通に交通ルールを守ればいいだけの話なのでみなさんもこれを読んだことをきっかけに明日からはシートベルト、速度制限、信号、一時停止、転回禁止マークほかに気をつけて安全に運転なさってください。人間なにがきっかけで救われるかわかんねぇもんだからな。さっき泣きながら6000円おさめてきた。

とことんてんてこまい

とことん忙しくて、てんてこまいしている。ここでもちろん「とことんてんてこまい」というフレーズについて考えはじめることになる。

とことん、という言葉はリズミカルだ。てんてこまい、という言葉も踊るようである。そしてこれらはいずれも由来がぱっとはわからない。てんてこまい、のほうはなんとなく「舞い」のイメージがあるが、とことんの方はほんとうによくわからない。軽くググってみると、日本舞踊の足の音だと書いてあるページが出てくるけれども、それが「最後までしっかりやり切る」みたいなニュアンスを帯びている理由はナゾである。まあもう少し調べたらいいのかもしれないけれどそういうのは得意な人にまかせる。

とことんてんてこまい、とつなげると、意味としては、徹頭徹尾おおわらわ、みたいな感じになる。しかし口に出してみるともはや擬音だ。意味から離れていく感覚がある。Eテレ幼児番組のような、語感でクフフと楽しむ感じの音楽。

虫時雨とことんてんてこまいメール

のように季語などつけてみたりする。音とたわむれているうちに、とことん忙しくててんてこまいだった自分が後景に下がっていく実感がある。


家族と飲み、私が他人といるときに言葉がどうも出過ぎなのではないかという案件をしばらく語り合っていたらどうも深酒をしてしまった。夜中ほとんど起きることもなく、朝もあまり寝た気がしなかったのだが、家人は昨晩、天井をこつこつと叩いたり歩いたりするカラスかなにかの音がうるさくて夜に目が覚めたのだという。

宵っ張りの烏とことんてんてこまい

だなと思ってそのように伝えたがまったく意味が通じなかった。なるほど私の頭の中でうるさくなり続けている言葉はこうして意味から外れて音のほうで遊び始めるのだな。ダジャレばかりつぶやくというのもつまりはそういうことなのだろう。なんだかひとりでずいぶんと深いところまで納得してしまった。そして私は今の短い記事を書きながらなんだか泣けてくるのである。深く深く暗く儚い部分にある自分の本質のようなものを理解してしまったことの「あがり」感に泣けてくるのであった。安い涙である。

ままならない体

われわれの体というのは非常に高機能で、どこに指先があるとか足のつま先があるとかが細かくわかるようになっていて、目の前にある爪楊枝をすかさず拾い上げることもできれば、小石を避けて歩くこともできる。まるで「絶対座標感」があるかのようだ。

しかし、そのような「自在に動く体」を、自分の思う通りのフォームで動かすことはじつは極めて難しい。ダンスでもボーリングでもゴルフでもなんでもいいのだが、だいたいこういうイメージで体が動いているはずだ…と思っていても、自分を動画撮影して見てみるとびっくりするくらいずれている。背筋の伸び方とか顔の位置とか、細かな体軸とかがぜんぜん思っていたのと違う。

ものを拾う、つかむ、よける、といった日常に必要な動きには何の苦労も要らない。しかしスポーツや美的観点などでボディコントロールをすることも自在かというとそんなことはぜんぜんないのである。

われわれの体は、思うように結果にたどり着けるようでも、実際にはぜんぜん意図的にはコントロールできていない。それはたとえばある動きの際に反射的に・無意識に発動するカウンターアクション(対立する筋肉や連動する筋肉の動き)のせいであったり、小脳あたりの微調整のせいであったりする。

そういった無意識のずれを経験的に・直感的に・理論的に補正することは、多くのスポーツで「フォーム矯正」として行われている。私は剣道で何年もその類いのコントロールを行ってきたし、たぶん部活やサークルなどでちょっとでも運動したことがある人なら必ず経験しているだろう。大人になってから新たに趣味でテニスや山登りをはじめた人などもきっと思い当たりがあることだろうと思う。

スマホで自分の動いている姿を撮影するのはとても役に立つ。昔は鏡を見るくらいしかなかったが、動画をその場で見直せるというのは大きなアドバンテージだ。しかしいくら動画を見ても結局自分の体はなかなか自分の思う通りには動いてくれない。

そのことをわかっている指導者は、独特の言い回しでボディコントロールの繊細なニュアンスを伝達しようと試みる。

たとえば剣道では、「左足のカカトの下には薄紙1枚が挟まるくらいのすきまをあけるべし」という言葉がある。これは、そういう心持ちで臨むと自分の体がいいフォームになりやすいという意味であって、実際には強い剣士のカカトはもう少し上がっている。つまりある意味「うそ」だし「おおげさ」なのだ。しかし剣士たちはわりと本気で「薄紙1枚分だけカカトを上げている」と認識しているし、それくらいでうまく体がコントロールできる。

臍下丹田に気を込めるというのもたぶんそういう類いの指導法の一つなのである。実際に気が集まるかどうかはあまり関係がないのだが、へその下に意識を向けるようにすると肩や背中に入った無駄な力が抜けやすかったりする。



で、同じようなことは、たぶん「話し方」などにおいても言えるのだろう。俳優や声優などの技術もたぶん「自在」の意味が私たちとは違うのだろうなと感じることがある。そしておそらくは「考え方」にだって、自らの無意識のずれやゆがみをコントロールする技術というものがあるんだろうな。


しっとりしたリズムとしっくりしたリズム

夜9時前には横になってうとうととしはじめていた。日中の疲れが熱帯夜で増幅されることでバイオリズムが波動関数から一次関数(※傾きは負)になっている。宿屋に180G払ってHPが半分になるような感じ。まあそんなものだろうつまり夏なのだ。酒量も減らして睡眠時間を増やす。趣味は仕事と寝ることです。こんなことを馬鹿正直に口にすると人生損してるねと言われる。人生を損得勘定ではかる時点で人生大損だろうと言いたいががまんする。室内の湿気が高まっていく。除湿オン。たまに思うこと:リモコンはリモートコントローラー、エアコンはエアーコンディショナーなわけだが、べつにエアーコントローラーでもよくない? だめ? 英語のニュアンス? そういうのは英語ネイティブの国でやればよくない?


ここ数年、通勤や退勤の車の中ではポッドキャストを聴いている。最近買い替えた車でようやくBluetoothでスマホ接続できるようになり(今まではできなかった)、エンジンをかけるとスマホが自動で接続されてSpotifyで「昨日の続き」が勝手に流れるようになった。便利だ。しかし落とし穴もある。思ったよりこの車、外に音が漏れるのだ。そのことに気づいたのはつい先日のこと。早朝、缶ゴミを捨ててから出勤しようと思って、路肩に車を留めてエンジンをかけたままゴミステーション(※北海道弁)にゴミ袋を置き、車に戻ってきたらなんかばっちり中の音が聞こえるのだ。うわっ……と思った。『熱量と文字数 600回記念』の企画はなぜか「腐女子最高会議」で、総受けの定義がどうとか言っているくだりが公共の場に流暢に流れている。こ、こ、これはなかなか……と思わずその場で立ち尽くした。車が走行している間はまだいいだろうが、横断歩道の手前で停止しているときなど、歩いている人の耳に普通に「国井さんの真のお仕事」とか「ひがもえるさんが仮縫いの糸がほどけるくだりを完全に予想してホールインワン」とか「「響け!ユーフォニアムのれいなの◯◯の色は空色」のような会話がバリバリ聞こえていたということになる。頭を抱えざるを得ない。ほかに車で良く聞くのはJ-waveの「Before dawn(燃え殻さんのFMラジオ番組)」や「感情言語化研究所(畑亜貴さんとサンキュータツオさんの15分くらいのポッドキャスト)」や「聖なる欲望ラジオ(豊島ミホのポッドキャスト)」や「おたがいさまっす(松岡茉優・伊藤沙莉)」なのだが、中でももっとも濃厚かつ一人で聴く以外の選択肢がない番組・熱文字を、閑静な住宅地を通過中に視聴している自分の生活リズム。いまさら車の防音不備などによって崩したくはない。今言うことではないけれど「さん付け」の基準が自分でもよくわからない。会ったことがあるかどうか? いや必ずしもそういうわけでもない。しっくりくるかどうか? しっくりって曖昧な概念だなあ。



「一番搾り糖質ゼロ」という青い色の缶ビールがある。このCMには中条あやみとトヨエツが出てくる。トヨエツが「ビールくらい糖質ゼロじゃないやつがいいなあ」的なことを言うと、中条あやみが「遅れてる 糖質がおいしいなんてのは考え方が古い」と苦言を呈して、トヨエツがちょっと渋い顔をしつつもビールを飲んでおいしいと言う、みたいなパターンがいくつも展開される。あのCMが少し苦手で、理由はおそらく「おじさんならば攻撃してもよいという風潮」をぎりぎりかすっているほんのりハラスメント風味がしんどいからだと思う。しかしタイムラインで例のCMが攻撃されているところを見たことがない。世間的にもあれはOKの範疇のようである。つまり、私の感覚がずれているということになる。たぶん世の中にはこれまで、トヨエツみたいな人にハラスメントを受ける立場の人が多くいて、トヨエツ的なものが声高に抑圧してきた人びとが今ようやく復権してきているという流れだ。中条あやみが代演する「世の怒りの意趣返し」が、さほど暴力的でもなくちょいシニカルにトヨエツをやりこめてスッキリするという流れに身を任せれば、あのCMはビールと同じようにスッキリ楽しめるのだろう。



ずれと鬱滞に対処する夏の日々。それってつまりは差異と反復ってことか。タイムラインを眺めると糸井さんが俳句を詠んでいる。ずれと鬱滞を俯瞰するのに俳句というのは効果的なツールなんだろうな。

誘われられる

中学校からの友人がゴルフを教えてくれるという。とはいえ彼も学生時代からやっていたわけではないそうで、30代半ばあたりで仕事の付き合いもありゴルフを練習しはじめ、まだせいぜい10年くらいのゴルフ歴だという。スコアは100をちょっと切るくらい。べらぼうにうまいというわけではないようだが、スマホで魅せてもらったフォームが非常にきれいで、その場にいたほかの同級生たちが口々に、「彼は教え方がとてもうまいから教わるといい」と言ってすすめてくる。これはちょっとおもしろいことになりそうだと思った。

私は剣道をやめてから20年以上、なにひとつとしてスポーツを続けることなくここまでやってきた。一時期契約していたスポーツジムも最後は半年くらいただ会費を払い続けている状態であった。前に一度、ゴルフをはじめてみようと思って打ちっぱなしに行ったこともある。しかしそのときは何が楽しいのかわからず、2回か3回か行ったっきりやめてしまった。

剣道以外のスポーツにはまることはもうないだろうと思っていた。

しかし今回は「もしかすると……」と思うふしがある。ゴルフが楽しそうだからはじめるわけではない、というのがミソだ。

この年でゴルフをはじめても、当然、ものにならない。一生へたの横好きだ。金と時間の無駄。しかしそういう損得の計算を乗り越えてなお、今回の私は、「もしかすると……今度は続くかもしれない」と思っている。

それはきっと、今の私が、「友人になにかを教わる」ということにわくわくしているからだ。



そんなの、趣味をはじめるときにはよくあることじゃないかとみんなは言うかもしれない。しかし私にはそもそも「友人・知人のすすめによる決断」というのをした経験がない。たぶん一度もない。つまりこれは私にとってはじめてのことなのだ。

友人にすすめられて何かを決めたことがないからといって社会的に致命的なキズが生じるわけではないので、私のこのような挙動にたとえば「発達障害」のような名前はつかないのではないかと思う。自分でも自身を特にめずらしいタイプだとは考えてこなかった。でも、振り返って考えると、友人や知人だけでなく家族や先生といった周りの人たちの言うことをほとんど聞かずにここまでやってきたことは、私の本質的な「ずれ」ではないかという気がする。

これまでのありとあらゆる選択の局面で私は他人の言う事を聞かなかった。

そもそも私は自分が選択をしたとすら思っていない。

推進力が強すぎて舵があまりよく効かない船。私は必死で面舵、取舵と腕に力を入れるのだけれど、せいぜい1度とか2度といった微調整しかできず、船はまっすぐぶっ飛んでいくばかりだった。ならばタービンの火を落としてスクリューの回転速度を落とせばいいのだが、そういうことができないというのがおそらく私の器質でありおそらく瑕疵だったのである。


そして私はついに速度を落とし始めた。理由は簡単で加齢によりエンジンが弱ってきたからだ。航行速度の落ちた船ならば私の腕力でも舵取りができて、まわりを見渡す余裕もできるし航路を大きく変えることもできる。


中学校時代からの友人たちとたまに会うようになったのはここ10年のことだ。30代なかばくらいまで私は小中高大の友人知人とほぼ没交渉でひたすら仕事ばかりしていた。10年前から縁あってたまに友人たちと遊ぶようになったのだがそれもせいぜい年に1度くらいのことだった。私はそのころもまだ水を蹴立てて爆走していた。しかし今年、というかつい先日、はじめて私は、「あっ、今は誘われられる」と感じた。それは友人たちとのキャンプの帰り、風呂で長話をしていたときのことだった。

私はそこで「もっと楽しんでいいと思うよ」というセリフを、生まれてはじめて素直に聞くことができた。

それはゴルフである必要はなくなんでもよかった。

私はとうとう友人の勧めで新しい世界に舵を切っていくのだなと思った。

私はその日、冗談でもなんでもなく、三度、四度と、泣きながらメールを打った。

メールの相手はみな仕事相手であった。私はとうとう、選択しはじめた。それは私が歩みを止めることと似ていた。どうしても涙が止まらず、しかし、私は同時に、「友人になにかを教わることを選べた自分」に本当にわくわくしはじめたのだ。

チンダル現象の仕事

自分のやっている仕事は「見出すこと」で、そういうタイプの職業というのはほかにもたくさんあると思うからさほど特別だとは思っていない。

たとえば清掃業者なんてのは目に付く汚れだけではなく「素人ではなかなか気づかないような汚れ」をみずから探しにいってきれいにする。

あるいは料理人とかもそうだ。いかにも食べられそうな食材をそのまままるかじりするのではなく「選別してカットして下味をつけて熱を加えて」と加工することで食材の可能性を引き出す。

これらはいずれも広い意味では「見出す」という仕事だと思う。ある種の価値はもともと世界に存在するが、そのままでは人に見出されないので影響を及ぼすこともない。探して手にとる。その見つけ方にプロの手さばきが潜む。



先日キャンプに行った。はげしいセミの声で朝4時半くらいには目が覚めてしまい、二度寝を試みたが陽光がぎらぎら照り返してもう起きろという。だからのそのそと起き出して、タープの下で友人たちが起きるのを待ちながら周りをぼうっと眺めていた。朝の光が角度を持って差し込んできている。しかしそのほとんどは背の高い樹木の葉っぱによって隠されており、キャンプ場はすずやかな日陰に包まれていて地面には細かなまだら模様が見えた。しばらくすると近隣のテントからよそのキャンパーたちが起きてきてそれぞれ活動をはじめた。煮炊きの白い湯気や煙がちらほら立ち登る。そのモヤによって、差し込んできた木漏れ日の筋が見えたり見えなくなったりする。

光というのは、もともとそこにあるんだけれど、私たちが普段「光の束」を見ることはない。空気中のチリや煙、もしくは水中の砂粒などがあると間接的に可視化できるようになる。

キャンプ場の朝、私はまずぼんやりと、ドラえもんに出てくる「道路光線」という道具のことを思い浮かべた。のび太がこの光線の中を歩いて月まで行こうとする話。私たちはみな、「まっすぐ何かを貫通していく光」を異常に愛する性癖の持ち主だ。早朝のやけに間延びした時間の中で、私は想像をまっすぐ遠くに貫通させていこうとした。

そして照らした先に仕事の風景が見えた。病理医の「見出す仕事」とは、木漏れ日の光線を煮炊きの煙で可視化するような作業だな、とふと思った。

光線はもともとそこにある。しかしそのままでは見えない。見えないからないというわけではない。あるけれど見方がわからない。そこにアクセスするための手法。煙を起こせば光路が浮き立つのではないかと考える。そのためにどうする? 火を起こして鍋をかけて前の晩に余った食材を用いてリゾットを作る。ほんとうは炭火やキャンプファイヤを使いたいところだがすでに火は消えているから家庭から手軽に持ち込んだ卓上ガスコンロを使う。鍋がゆっくり煮立って、湯気が立ち上り、元からそこにあった光の束が誰の目にも見えるようになる。それを遠くから眺めている誰かがいる。

見出すとはつまりそういうことをする仕事なのだと思った。必ずしも目をこらすばかりが仕事ではない。汚れをはっきりさせるために特殊なライトを当てるとか、味を引き出すために食材にあったカットを施すとか、細胞の異常を検出するために特殊な染色を用いるといった作業の末に見出すという行為が存在する。たしかに私は日頃から煮炊きをするような働き方をしているなと思った。

諸葛孔明が今ですって言うやつの元ネタがわからない

羽田空港が雷撃で強襲され航空便がマヒしたという。水属性の私は出ていっても相性的にラムウには勝てないので、あきらめて静観しているしかない。翌日は東京日帰り出張の予定であり、というかこれを書いている日がまさにその日で、雷がやばかったのはつい昨日のことなのだが、あと3時間で飛行機は飛ぶはずなのだけれど前日に飛べなかった/降りられなかった飛行機が全国で「本当は俺、こんなところにいるはずじゃなかったんだ……」と異世界転生に失敗した中年男性が居酒屋でくだを巻くように腐っているので、私の乗るはずの飛行機もどうなることかまだわからない。機材繰りがめちゃくちゃになっているだろう。まあ航空会社はいつも機材繰りを言い訳に飛行機を止めたり遅らせたりしているけれど今日はたぶん本当にやばいと思う。予定通りのフライトが飛べば仕事をするし飛ばなければ今日は休みということでいいのではないか。休むと大量のGmailにぺこぺこと謝る日々がまたはじまるのでそれが気がかりだ。


今日は有休をとっている。しかしうっかりいつものクセで出勤時にIDをタッチしてしまった。あとで◯◯課の人に「有休申請してるのにタッチしてますけどしなかったことにします」みたいな過去改変をお願いしないといけない。本日職場にいるのはあくまで自己研鑽が目的であり労務は一切していません。院内研修の動画を見ながら研究会の準備をしたりスタッフの病理診断の相談に乗ったりする。これらを私は仕事だと認識していません。どっちかっていうとこの言い訳のせいでかえって不誠実になるというジレンマに身をよじる。院内携帯はオフ。でも別に電源を入れてもいいのかなという気もする。きりがないは屈託がない。無理があるは夢がある。ダウチテクノの創業者ふたりがそれぞれ名前を持ち寄って社名にしつつ連名で掛け軸まで書いているというのが『宙に参る』の設定の深さでありすばらしさだ。


「休むときはしっかり休まないといい仕事ができませんよ」と私に述べてきた人が私より充実した仕事をできていた試しがない。まあそこまで直接私に苦言を呈した人自体がゼロなので「ゼロ分のゼロ」という意味で試しがないのだが述べた内容自体まちがってはいない。私にとっては仕事をすることが癒やしであり休息の要なのだから、あまり人の休みをとやかく言わないでほしいと思う。誰も言ってないけど。しかし体は正直だ。そもそも私は上の口も中の口も左右の口も下の口もすべて正直だが体は特に正直だ。ちかごろは毎日、全身がお湯を浴びたかのように痛い。これはたぶん過労である。ただ、この痛みは日によって異なり、お湯がの温度がぬる燗や人肌くらいのときもあれば釜茹での油くらいのときもある。まあ総合的には疲れてないよ。そうやって自分と産業医を言いくるめていく。

本当のところは毎日私の体の中から痛くないところを探すほうが難しい。仮に「腹筋は別に痛くないなあ」と思ったとしても、とたんに脳の中の諸葛孔明が「空城の計です」と言い出して、痛くないところに兵を誘って一網打尽にする罠だと進言するので、痛くないからと言って私は決して油断しないのである。今日は首が痛くない。だまされないぞ。今日は膝が痛くない。ハニートラップだろう。ハは要らなかったか。サッカーは関係ない。だまされないぞ。


あと10分で職場を出る。10分で書けるところまで書いておこう。昨日は夜に甲子園の中継を見た。延長に入るとはじまるあの……なんだっけノックアウトじゃなくてタッチパネルじゃなくてなんかビシソワーズみたいな……ええと……「甲子園 延長 検索」そうだ! タイブレーク方式だ! あのタイブレークというのはなんというか野球をエンタメに落とし込む装置だな。賛否両論あるだろうけれど夜間とはいえ蒸し暑い真夏の甲子園球場でいつまでもだらだら延長を繰り返していると選手も監督も体を壊してしまうからあってしかるべきシステムだ。それにしても両校の監督が選手以上に日焼けしているのを見てなんかぐっと来てしまった。とうとう選手より監督のほうに感情移入する年齢になってしまった。まあ昔から、野球部の人間なんてそもそも生きる世界が違いすぎるから年齢が近かったとしても感情移入なんてしてこなかったんだけど、それはそれとしてだ。若者の代わりに自分でバットを振ったりボールを投げたりを決してやらない監督を見ていると涙が出てくる。ユニフォームに腹がおさまらなくなって餓狼伝説のチン・シンザンみたいになっとるやないかと涙が出てくる。

ところで近頃は誰もが、なんというか、感情移入という言葉の便利さに甘えすぎな気はする。感情ってそんなに移入オンリーでどうこうするものだったか? レイヤーを重ね合わせるように扱って彼我の違いを際立たせる感情差分抽出のときだってあるだろうし、自分が成し遂げられなかった願いを勝手に人におしつける感情仮託のときだってあるだろうし、プラグスーツを来てエヴァンゲリオンのLCLに沈む感情搭乗のことだってあるだろうになんでもかんでも移入ってそれ思考停止だよね。この、「思考停止」という言葉もずいぶんと雑に使われすぎな気がする。思考徐行運転のこともあれば思考乗り入れ接続のこともあれば思考乗継便のこともあるだろう。ああそうか、羽田便が心配なら仙台か伊丹に切り替えて新幹線にすれば少なくとも行きは絶対にたどりつくことができたなあ、今ごろ気づいてももう遅い、なぜなら私はあと7分でここを出るわけで経路をどうこう考え直して早回しで移動するような気持ちにはぜんぜんなっていないからだ。思考ハムスター遊ぶ系ぐるぐる玩具。感情自遊。えっ、「いにゅう」で変換して「自遊」が出てくるのってどういうこと? Google変換の罠? 空城の計です。

このハサミはすごく便利でなんと紙だけじゃなくてマイナンバーカードとかも切れちゃうんですよぉ

野球のピッチングや守備を教えるときには、肘を張れとか張るなとか、腰を落とせとか落とすなとか、進行方向に踏み出した足の先を向けろといったように、「言語化」による指導を行うことがある。しかしそれよりも、「実際にうまく投げて見せる」ことのほうが大事だ、という話をたまに聞く。

ただし言うまでもないことだが、テレビでプロ野球を延々と見ていれば野球がうまくなるといった夢物語のことではない。「うまく投げて見せる」というのは「うまく投げるところを勝手に見せる」こととは違う。

コーチは、見るほうが理解しやすいようなデフォルメやスピードの変化を加えた動作を取り入れて学習者に映像的な指導をする。「肘はこのような角度で用いるのか、なるほど」、「思ったより上半身はひねらないんだな」、「自分とはグラブを持った方の腕の使い方が違うな」。これらは指導者が学習者と「対話しながら、しかし言外の部分で」やりとりをすることで伝わっていくニュアンスである。ニュアンスというかアフォーダンスと言ったほうがよいか?



こういう話をずっと続けると、「映像とか音楽のような非言語的なツールのほうがより多くのものごとをまとめて伝えることができるよねー」といった話に落ち着く。しかし、話をそこで終えずにもう少し先に進みたい。

学習者の前で実際にやって見せる指導者は、ときに、学習者よりもその競技がうまくなっていくことがある。高校生が友達と一緒に勉強すると「教えるほうが勉強になるよな」みたいなことを気軽に言うが、そういうことは学校の勉強だけでなく、非言語的な指導においてもあり得る。私は剣道を長年やっていたが、人に教える立場になってからのほうが確かに実力が伸びた。

これはなぜか。

指導をするたびに自らの動作を確認して反復することが上達につながるのか。

それはそうかもしれないが、それだけではないようにも思う。

指導する側は、言葉だけでは伝わらないものを説明しようと奮闘する。しかしいきなり言葉を置き去りにするのではなく、まずは、「それをなんとか言葉にしようとする」ものである。ここにカギがあるのではないか。より正確に言えば、「言葉で伝わるものは伝えておいて、それ以外の、言外の部分をなんとか動作で伝えようとする」という、試みの試行錯誤、言語と非言語の往還が大切なのではないか。

言葉を選び、言葉になりそうな場所を探し、言葉で伝えられるものならば伝えたいと奮闘し、それでも言葉からすり抜ける部分を行動で示す。このとき示される行動はすでに言語とタッグを組んでいる。タッグを組んでいるというのはリングサイドでロープをわしづかみにしながら相方の挙動に目を光らせるということである。レフェリーの目を盗んでツープラトンで浴びせ技やスープレックスをかける機会を虎視眈々とうかがうということである。

天網恢恢疎にして漏らさず、言葉の網目は粗だから漏れる。しかし、言語の粗い網目をすりぬけて、ネガとして浮き上がってくる部分を意識する。それはつまり、言語を間接的に特徴抽出に用いているということでもある。



なぜこんな話をしているかというと、病理診断学のことをずっと考えているからだ。大枠としては「医学を学ぶこと」「医学を教えること」、つまり医学の伝達に興味がある。そのジャンルのひとつとして病理診断学を学び教えることについて、細かい違和感が生じ始めておりそのことを毎日思っている。

「病理(形態)学の教科書は、医学一般の教科書的なにかとはあるべき姿が違うのではないか」という予感が私の中で大きくなっている。あまり主語を大きくしてもだめなのだが。

医師が医学をアップデートするにあたっては、最新の知見を常に取り入れて、診断や治療や維持管理における最善を、「科学(その時点での暫定解を常に求めて代謝しつづけていく仮固定のアーカイブ)」的に取り入れる。それはおそらくWindows updateよりも頻繁であるべきで、投資家が株の値動きを見ながらあれを買えあれを売れと毎秒気を張っているくらいの執拗さが求められる。となると「書籍」の形では不都合も多い。

病理学でいうならば、コンパニオン診断のための遺伝子検査や予後と関係するサブタイプ分類などは、おそろしいスピードでブラッシュアップされ続けていて過去の分類や検査はあっという間に使えなくなる、というか具体的に患者の不利益につながる。これらは、編集やデザインの末に刊行され簡単には改版のできない「書籍」には担当し得ない作業であり、最新の論文等でキャッチアップしなければならない。誰かが「総論」としてまとめたものが日本語訳されたあとに教科書になり、それを読んだ医療系Vtuberがわかりやすく解説したものが部分的にバズってそれをさらに切り取ったショート動画が出回って医学生が閲覧する、なんていうプロセスを経てしまえばそれはもう信じられないくらいに古びてしまってまるで使えない。

しかし、病理形態学の教科書は、必ずしもすべてがそういうスピード感を期待されているわけではないと思うのだ。

なぜなら病理形態学とは、ときに、「もうそこにあるもの」「前々から言われているもの」を何度も何度も語り直す営為だからだ。

これもまた医学なので常に最新のものが求められることに代わりはない。しかし、それは時代と並走するほど早い必要はない。

「常に新しい文学が生まれてくる」のと似ている。文学は時代と寝る。しかし基本的には文学は創造という死の激突が何度も何度も繰り返された先に飛び出てくる破片のようなものである。新しく出てくるものは以前のものと似て非なるものであるという意味ではたしかに「最新」だ。しかしそれはキャッチアップしてインストールして自分を新しくするという意味合いからは少し逃れている。「いつか誰かによって語り直されることで、本当はそれまでずっとそこに存在していた光にあらためて目が行く」ことを文学は成し遂げる。そして病理形態学もまたそういう成し遂げ方をすると思うのだ。

病理形態学もまた、真実を明らかにするための遠回しな行動である(医学とはだいたいそうである)。しかし、病理形態学のすべてが「まだわかっていない相関関係を見出すこと」には用いられない。「ずっとわかっている真実を過去よりももっとわかりやすく言い表す」ことに病理形態学の独自性がある。文学や芸術を経由した科学へのみちのり。



話を元(?)に戻す。

病理形態学を人に伝えるために一番有効なのは百の言葉を重ねることではない。「最高の写真を撮る」ことだ。言葉を尽くした先の部分でニュアンスが一発で伝わるようなピューリッツァい(造語:ピューリッツァー賞的な説得力がある、の意)写真を1枚載せることで世界中の病理医が「なるほど、これがこの病変を診断する際の勘所なのだな」とわかる。それはおそらく、野球のコーチが「実際に捕って投げて見せる」こととよく似ている。

このとき、本ブログ冒頭の語りを念頭に置いてさらに言うならば、「最高の1枚の写真を撮る前にまず千の言葉で試行錯誤をする」ことが望ましいし、「写真を撮る前に言葉を用い、写真を撮ってからもなお言葉を用いる」というタッグ関係が必要だ。細胞質と核の濃淡とか不同性を語るだけで満足しては「病理学の教科書」は成り立たない。いつもと構造の密度が違う、間質に存在する役者の頭数と上皮の相関が狂っている、下層に生じた乱れが上層に波及している……細胞の異常や違和をあらわす言葉は尽きることがない。それらを片っ端から試して、ああでもないこうでもないと自分の中で網をさんざんっぱら張って、そこから漏れ出してくるニュアンスをまるごと映像で引き受けて写真を1枚バシャーと撮る。さらにそこからまた語り直す。そういったプロセスを記載したものが病理学の教科書であるべきだ。

病理形態学の教科書は「昔書かれたことがある」からといって古びるものではないし、「最新の論文ほど早くない」からといって蔑まれるものでもない。病理形態学は「道具」であり、ハサミやボールペンやペーパーナイフが今日もなお改良を重ねられてヒット商品が生まれているごとく改良され続けていくべきだし、なんなら「思いもよらなかった新しい道具」だって発明されるべきである。そして医学の一端を切り開くためのツールとして用いられ続ける。ここに私は病理形態学が書籍の形で語り直され続けることの必要性を感じる。



しかし本当にそうなのだろうか、みたいなことを、毎日思っている。もっと語れるのではないか。ブログ記事にまとまったものを読んで「言葉では伝わらない感覚があるなあ」という印象を新たにしている。

ファンベースではない側の大人

10年くらい前にはじめて自分の口から出た言葉を今も「たしかに……」と思い出すことがある。なにかというとそれは、

「SNSがうまい人というのは結局のところ受信がうまいのだ」

ということだ。その意味で私が前のTwitterアカウントを運用していたときにはSNS強者だったと思う。タイムラインの隅々に目を配りフォロワーのアイコンも15万人ちかくほとんど把握していて、いいツイートを見つけるのが人より少しだけ早かったぶん、リツイートも愛されていた。私をフォローしておけば私以外の優れたネタアカウント(?)や医療従事者アカウントの情報を得られることがべんりだったと思う。あのころの私はSNSの「ハブ空港」として機能していた。ハブ空港というのはスケートを上手に滑れるとか将棋が強いとかマングースと対決するという意味ではなくてつなぎ目としてのハブ。インチョン空港やチャンギ空港がアジア中に飛んでいく便利な中継点であるのと同じように、たしかにあのころ病理医ヤンデルはSNSにおける軟式広報や医療情報のハブであった。

さて、私が今、こうしてなんの役にも立たないダジャレアカウントになった最大の原因は、じつは「ダジャレしかつぶやいていないから」ではない。ほかにある。はっきり言うが受信が弱くなったのだ。私はSNS弱者だ。SNSでほとんど受信をできていない。

以前とくらべるとはるかにタイムラインを見なくなった。同業他者の小粋なポストを見出すことがなくなった。友人の動向も追いかけられていない。するとどうなるか。私をフォローしている人たちが「ほかの医療者が言った役に立つこと」を知る機会が減る。私よりもつまらなくて妙にクセになるダジャレをいうネタアカウントをかつての私はばんばん拡散していた。今はそういうことをあまりできていない。となれば私のフォロワーが得られるものは、「私のつまらないギャグオンリー」となってしまう。

病理医ヤンデルは昔も今もずっとギャグ言ってるよね。それはそう。しかし大幅に変わったことがある。それは「病理医ヤンデルをフォローしても病理医ヤンデルの話題しか手に入らなくなったね」ということだ。これは広くたくさんの人と交流することを目的としたSNSにおいてはかなり致命的な変化だ。

かつての私はもう少し、ほかの医者や医学生などが行っている情報イベントを積極的に見に行ってRTを手伝った。今はできていない。そもそも見つけるのがとても下手になった。医者が医療者のやることを応援しなければ業界は縮小する。「てんでばらばらなところで暮らす医者たちが異口同音に言っている情報なら信用できる」というSNSの集合知性みたいなものを、あなたも感じたことがあるだろう。そういった雰囲気づくりに近頃はちっとも貢献できていない。

そしてこのことは私だけではなくてけっこうな医療系アカウントにおいても同様に言えることではないかと思う。

タイムラインにおけるポスト表示のアルゴリズムが変わったからというイーロン・マスクイコールウンコ案件と結びつけてもいいのだが、たぶんそれだけではなくて、かつて、Twitter医療情報発信全盛期にSNSで活躍していた人びとが単純に歳を取ってTLを見なくなったのだ。みんな偉くなった。出世した。忙しくなった。もっとも、SNSばかりやってクラファンで人気取りに励んだあげく本職の評判を落としてアカウントを削除したり転生したりしたアカウントもいる。悲喜こもごもだ。ともあれ、10年も経てばみんな暮らし方が変わるのだから、そこはやむを得ない。

そして変わったのは暮らし方だけではなく社会におけるお互いの距離もなのだ。かつてよりもはるかに、「同業のやつらががんばっているから応援しよう」というムード自体がレアになりつつある。たとえば、医学生がほかの医学生の活動を応援するシーンを私はほとんど目にしない。「自分の発信も伝わらないのに人の発信なんか応援しない」的な空気が前よりも強まっている。首都圏の大学でフリーペーパーを作っているサークル同士がぜんぜん連携しないためにフリーペーパー文化が大きなものに育っていかず内輪の文化祭のノリを超えられないといった構図に似ている。ノブレス・オブリージュ? そうやって意味もわからず外来語でかっこつけるから分断は深まる。コミティアの支え合い文化? そうそう必要なのはそういうことだと思う。意味もわからずオタクムーブで距離を取って分断を深めてしまったな。

自らの言いたいことを広めるためには、似たようなことを言っている他者を応援することも必要だ。それはオプションではなく主戦場である。そのことを理解していた人びとは当時Twitterという特殊な場を劇場にすることに成功した。

ちなみに、自分のことしか発信せず他者の活動に関心を持たない原理は、じつは昔から存在した。そういう人びとは基本的にサロンを作成して少数の濃厚なファンを囲い込み、毎月の会費によって自分のぜいたくな暮らしを維持することにステータスを全振りしていい服を着ていい物を食べた。今やサロン文化は高度に孤立してクローズドサークル内でエコーチェンバーの温床となっている。本人たちは勝ち切り、逃げ切りできるから今生はそれでいいのだろう。でも医療情報を伝えたいと思うときにその手段は使えない。

私がかねがね医療情報の発信にクラファンを使うことに反対なのは、クラファンというやり方がクラウドファンディングなだけでなくクラウド内にファンを形成するファンベースのやり方と縁が深いからだ。ファンベースのメソッドは、自分とその身近な人びとの幸せを増加させる役に立つし、コンテンツを扱う商売すべてにおいて有効だと思うが、はっきり言って公益に与することを目的とした医療情報の共有においてはデメリットも有すると思う。ファンが集まって場を固めれば「発信者」は盤石となるけれど、医療情報において盤石にしたいのは発信する我々ではなくて「受信対象者」、というか国民全員だ。ファンベースでやっていくと発信者がかなり支えられるので持続性という意味ではほんとうに得難いやりかたなのだけれど、一部の人だけが幸せになる方式だからパブリックを見据えた発信とは相性が悪い。そのあたりのバランスに身悶えした私は、かつてSNS医療のカタチで、クラファンはやらない、でもグッズ販売はお手伝いしてくださったクリエイターの方への恩返しの意味でもやったほうがいい、グッズというアイコンが文字や言葉以上に印象を語ることはあるから医療情報発信においても継続的なビジュアルアイコンを設定することはやったほうがいいだろう、それにしてもチケットを有料にして情報イベントをやるというのはどうなのだろうか、それは今後無料のYouTubeの集客を高めていくためのアクセントとして必要なのだからやむを得ない……こういうことを毎日毎晩考え続けて七転八倒した。転げ回っているうちにいつしか私はタイムラインを眺めて他者の発信に目配りすることができなくなっていった。


「SNSがうまい人というのは結局のところ受信がうまいのだ」


この言葉は自分の口から出たがやはり振り返ってみても至言である。現在、XやThreadsやBlueskyといった中年のためのSNSで私はうまく受信をできない。それは多くの中年や老人たちにも言えることだ。一方で若者たちは高確率でXのフォローゼロフォロワーゼロアカウントを持っており、トレンドのチェックをするためにXアプリを開いてインプレゾンビの中から芸能情報やスポーツニュース、マンガの新刊情報などをチェックするが、もはやここをコミュニケーションの場には使っていないし、まして公的情報の収集には一切用いていない。では私たちも若者にあわせてBe Real.やTikTokに主戦場を移すべきなのか? 私はそうは思わない。そこで私たちが新たな「発信」をできるかもしれないが結局「受信」はできないだろうからだ。それではだめだと思うのだ。

今後私たちは……私はどうするか。ふたつの考え方がある。ひとつは越し方を振り返り古き良きTwitterというものを神格化して現代にブーブー文句をタレながら以前の自分を真似て中途半端な受信を繰り返すこと。もうひとつは、Xを……まあいいや、もうひとつはいい。やめておく。それよりもXではまだやり残したことがある。まだXにはかつての私のように「ここで医療情報をなんとかする」と思って奮闘している人たちが残っている。私はまず、そういう人たちを少しでも受信できるように日々の生活を見直すことからはじめなければいけない。日々ランニングをすることが体にいいのになかなかできないでいる私が、日々タイムラインを見続けようというのだ。体にだって悪いし精神にだって悪い。それでも誰かの役には立つかもしれない。となれば仕方ないなあよっこいせと、かつて「ぼのぼの」に描かれていた、かくれんぼをする子どもを探しにいくときの大人のふりをするしかないのだ。なぜなら私は確かに大人なのだから。

できあい万華鏡

書くものがいくつかあり、脳内で同時に進行している。詳しくは書かないがひとつは履歴書のような建付けで、ひとつは偉人の伝記のような構造で、ひとつはnoteのクソエッセイと五十歩百歩である。それぞれまったく違うところから別の理屈で依頼されたものなのだが内容がときどき混線する。だいたい似たような時刻に3つの文章のことを考えているからよくないのだ。効率が悪い。なにより、相異なる仕事を「根底で貫く哲学」のようなものに頼りたくなってしまう瞬間があり、そんな自分を上品ではないと感じる。

「先日ぜんぜん違う場所でこのような体験をしまして、ああ、これって今日の話にも通じるなあと思って……」みたいな話の組み上げ方は、語り手に昏い快感をもたらす。自分で伏線と名付けて自分で回収する仕草。私もたまに使ってしまう。でも、聞いているほうからするとなんだかあざとい。「はいはい、結局そうやって自分の信条につなげたいんでしょ」みたいな気持ちになる。

脳内にある複雑な迷路。入口も出口も何通りもある。ここに思考のたびに違う液体を流し込んで異なる流路をつくりあげ、その都度違う渦の模様を見る。これが思考だと思う。一方で、毎回違う液体を流し込んではいるのだが、入口と出口を決めてしまっていて、ルーティン的に同じ順路で流路を作り上げていくような「いつも決まった理路で思考する」ということもやろうと思えばできる。でもそんなのは思考としてはずいぶんつまらないほうのやり方だ。一見異なる世界の話を通り一遍のやりかたで解析していくタイプの自己啓発本やセミナー講師。人間の脳の可能性をそこでおしまいにしてしまうのかと悲しい気持ちになる。金銭という明確な目標が脳をありふれたパチンコ台に変えてしまう。なんともさみしい話だ。


万華鏡を見るようなものだ。みずからの肌や実感から遠いところで勝手に生じている乱反射を眺める。他人がつねに同じようなやりかたで画一的な思考に回帰するとき、あたかも、子どもが自由研究で作った万華鏡のように、「ある程度くるくる回しているうちにパターンが凝り固まってしまった点対称の模様」と同種のつまらなさを感じて放りだしたくなる。かつて、民俗資料館に古くから伝わる古びた万華鏡がすごいと思ったのは、回しても回してもひとつとして同じ模様が出てこないことだった。本来脳というのもそういう作り物なはずなのにな、と、タイムラインに「月末にあわてて更新したnoteの数々」が猛スピードで流れていく中で少し肩を落とす。でも、世の中は捨てたもんじゃない。あの作家のnoteを見ろ。あの漫画家のnoteを見ろ。ほら、いつも、自らの脳を電気の流れる針先でつんつんとつついて、やれ左手の薬指が勝手にはねたとか、背骨の下から3番目が急にかゆくなったと、思いも寄らない反射を目にしてケラケラ笑っている。万華鏡の新しい模様が私の視界に広がっていく。出来合いの万華鏡を捨てて溺愛の万華鏡を手にする。

医療者の給料が上がらないのは国民が医療費の抑制のために医療者の給料を抑えるべきだとわりと本気で思っているから

歯磨きをしたあとに口をゆすごうと前かがみになるときに自然と左手を洗面台のへりに突く。腰に重さを感じており、前屈すると腰骨のひとつが後ろにポコンと外れてしまいそうな恐怖がわずかにある。それらを自覚するより先に左手が予防的に動いており、みずからの左手が動いていくのをなぜだろうと感じた私の意識があとから遅れて「腰、お前だったのか」と悲しきごんぎつねのように解釈を付け加える。そして次に同じ行動をするときには、左手が自然と動くより前に「そういえば前回はここで左手が自然と洗面台のへりを掴んだんだったなあ」と意図が先行するようになる。そのまた次の回には「私はこのあと左手が自然と動く理由を動作よりも先に考え始めるクセがついているなあ」といった感じで、意識と無意識とが乱取りするような激しいチキンレースを繰り広げる。どうでもいいけど乱取りーチキンレースって書くとタンドリーチキンカレーと80%くらい相同だなと思った。タンドリーチキンのタンドリーって何?



乱取りとタンドリーで思い出したがコインランドリーには靴の乾燥機がある。自分で使ったことも二度ほどあってそれは確か猛烈な雨の中を歩いてぐちゃぐちゃになったスニーカーを洗って乾かすのに専用の乾燥機があるよと教えてもらったことがきっかけだった。これがまた安い。あきらかに業務用のマシンなのにこのお値段で本当にやっていけるの? と思ってしまう。スニーカー乾燥させにくる人なんてこの近所にどれだけいるというのだろう。減価償却費を払いきれないだろうにと心配になる。

家でできないようなお洗濯サービスをワンコイン程度でなんとかしてしまうコインランドリーは現代の物価高についてこられていない。まあ安い分にはありがたい、で思考をやめてしまうのも悪くはないがちょっとおかしな話だよなと思う。だってこれで稼いでご飯を食べている人だっているはずだろう。しかし洗濯、掃除あたりの物価はなかなか挙げられないのだという。マイナスをゼロに戻す仕事はお得感がないから、消費者が料金を高いと感じがちなのだろうな。

医療もいっしょだ。具合が悪くなって機嫌も悪くなって病院に行って元の元気な状態に戻してもらってお金を払うというのは泣きっ面に蜂そのものである。医学が進歩すればそれだけ料金も高くするべきなのだがそこは絶対に値上げしてほしくないと誰もが願っている。「医療費ってほんとうにバカにならないよ、毎月これで800円もとられるんだからね」、まあそうなのだけれど野菜だって魚だって昔から高くなっているのに科学の粋を集めた医療費がそんなに上がっていないことを「ラッキー」としか思わずに日々を過ごすというのも奇妙な話ではないか。しかしゼロをプラスにする仕事と同列には語れないわなあ。


大学時代さいしょに一人暮らしを試みた部屋の家賃が17000円であった。木造2階建てで玄関には共同の靴箱があり、業務用のカーペットが敷かれた階段を上がって廊下の左右に部屋が並んでいて、ドアを開けると一部屋に申し訳程度にキッチンがついているが給湯器はない。ちなみにドアの施錠はプチンと押し込むボタンタイプ。合宿所の便所といっしょだ。1Kと1Rの中間くらいの部屋で、冬は左右と下の部屋からぬくもりが漏れてくる安普請。トイレは共同。風呂はなくシャワーがコインで借りられて30分300円くらいだった。私は風呂を銭湯や実家で済ませて、コインのシャワーを使う機会はとうとうなかった。その体験に300円は高いと思った。銭湯のほうがもう少し高くて確か当時は380円とか400円とかそれくらいだったと思うのだけれど、私にとってボロアパートのシャワーはマイナス100をマイナス5くらいににするものでしかなく、銭湯はマイナス100をプライチくらいに上げるものだった。その差は大きかった。

学生や単身者向けの下宿にコインのシャワーというのは今もあるのだろうか。コインで支払う文化のままということもあるまい。黒ずんだタイルの貼られたシャワー室内に「ペイペイ!」なんて響き渡ったら私は恥ずかしくてもうそこを使えなくなるだろう。とはいえ物価高に伴いコインシャワーを北里柴三郎シャワーにしますと言われたらやはり私たちは怯んでしまう。北里柴三郎シャワーってなんだ。

悲しいサーフィン

世界はつねにどこかが未熟で過渡期でありどこかは飽和して空洞化しつつある。それはたとえばコーヒーにクリープを入れ続けるみたいなもので、流体の中で濃度差ができて渦を巻き続けるように、いつか遠い未来に空間が冷え切って物理的に死ぬまで、気が遠くなるほど長い先の先まで、全体が均質になることはない。完熟して枝から落ちた実のそばに芽吹いた若葉が育つ過程でアブラムシに食われてしなびて死んだ結果土壌のバイオダイナミクスが充実したところをミミズがかき回す、みたいなことがミクロでもマクロでもほうぼうで起こっている。

仮に私たちが世界を均等に見据えることができたら、平等を感じるだろう。だってすべては移り変わるものなのだから、あなたのいる場所も私のいる場所もいつかは過渡期でいつかは停滞する、そこに差別も区別もできないのだから。

しかし、私たちは残念ながら神や仏の目線をもたず、世界の中の偏ったどこかを限られたいつかに眺めることができない。となれば生まれてから死ぬまでの間に、

「世界は幼いなあ」

と感じるか、あるいは、

「世界は倦んでいるなあ」

と感じるかの、どちらかにしかたどり着けない。そこは均霑化できない。


そして私たちはどうやら資質・指向性みたいなものによって、「できればなるべく未熟な領域にコミットしたい派」と、「できればなるべくマンネリな領域にコミットしたい派」に分かれているように思う。前者は説教臭く後者はアイロニカルだ。私はどちらだろうか。なんとなくだがアイロニカルでシニカルなほうに少し重心を傾けているような気がする。




オリンピック選手への誹謗中傷が止まらないというニュースを見て、おなじ社会で暮らしているはずなのに受動と反射のバランスがこうも違う人びとが世の中にはいるんだなということをあらためて感じた。巾着袋をうらがえすように内面を外部にさらけ出す手法が一般的となった現代、自らの立ち位置、あるいはそこから見える風景を不足だと言って騒ぎ、あるいは逆に過剰だと言って騒ぐ。

世界は渦の中にあるのだから波はいつだって立っているし凪いだ場所も幾秒か後には次の波に飲まれる。しかし、その理の上で私たちは、幼若にも腐敗にも寛容であるべきなのに、残念ながら、心の中で育て切っていない未熟な言葉を過剰に空間に失禁することで成り立つマネーゲームに参加してしまっている。

世界は悲しい暴力を別の波で洗い流すためになおさらうねる。そこで次の若さや老いに殴りかかるべく人びとは次の漁場に向けて波を蹴る。

悲しいサーフィンに終止符を打つためにできることはないのか。

世界がうねり続けることは人には止められない、しかし、そこで誰に向かってどう言葉をかけるかかけないか、脊髄反射の微調整みたいなことをおろそかにして何が知性か、何が人間かという気はずっとしている。本当にあなたがたはそうやって腕を振り下ろすためにこの世の中に生まれてきたのか。

アニメーターが描いたものしかアニメには映らない

ブログの書き溜めが3本しかなくなっていた。ここのところ時間のかかる原稿にかかりきりだったのでブログをいったん書かなくなっていた。そういうことがあってもいいように6,7日分くらいの書き溜めはしているのだが、さすがに3日分しか残っていないというのは異常事態だ。たとえばここで私がコロナとかインフルにかかればぴったり3日分くらいのストックは消え去る。感染対策をいくら心がけても体調が悪くなるときは悪くなるからそこまで織り込んでおくべきだろう。私は自他ともに認めるミスターホワイト企業で、自分が3日くらい病欠しても仕事に支障がないように常日頃からゆとりを持ってはたらくことをモットーとしていて、そのために夜討ち朝駆けを問わず意識あるかぎり自分の仕事を前倒しにすることが日課となっており、明日やる分の仕事を昨日のうちに終わらせる。Do yesterday what you can put off till tomorrow.



時間のかかる原稿のひとつはインタビューだ。私が考えたことを私が自分でまとめるのとは勝手が違う。人にたずねた内容をまとめることはとても時間がかかる。職業ライターは偉いなあ。感心ばかりだ。尊敬する人間に会って話を聞き、文字起こしした内容を読んでどのような順番でまとめるかを考えるとき、紙面的に・読者的にわかりやすい組み合わせをまず考える大脳新皮質と、語り手の奥に隠された真の意図をちら見せするにはどうしたらいいかと呻吟する脳の古い部分とが鍔迫り合いをする。みんなにこれを読んでもらい、なにかに役立ててほしいという気持ちはいつだってあって、それは私が文章を書くことで考えたことを人に伝える仕事(※病理診断)をしているから当然のことだが、しかし、インタビューのときに感じた言語化しえない畏怖や尊敬の念、「なんかよくわかんないけどこの相手がこうやっていることで世界はきっと変わっていたのだろう」と気付いた瞬間のざわつく伏線回収感みたいなものをまったく無視して、「言語の共感性」だけに依拠して文章をまとめていくことに、私は罪悪感をおぼえている。共時性さえ保てれば共感性なんてじつは要らないのではないかと思うことがしばしばある。

「この人の言っていることを今はわかりきらないけれど、あのときあの人がああやって言って考えていたということを覚えておこう」と思わせるような文章。私はそういうものを書いたほうがよいのではないか。

「伝えたいことを伝える」ことが、常に一番大事なのだろうか。

「そこにあったという事実と時刻だけをきちんと書き留めてあとで何度も掘りに戻れるようにする」ことも書く仕事の大事な使命なのではないだろうか。

そういったことを考えつつ売れないものを書いてもしょうがないのだという圧倒的な経験則が私にバランスの微調整を迫る。だからどうしても時間がかかる。



時間のかかる原稿のもうひとつは教科書だ。原稿というか原稿になる以前の資料集めの段階でかなり苦労している。幾人かの人に協力してもらって症例を集積し、それらを見通して共通点とか相違点とかを浮き彫りにするという、これまでたくさんの人がやってきた普通の仕事を私も普通に行っているのだが今回はいつも以上に時間がかかっている。「そこにないものを見落とさない」ということがむずかしい。症例のリストを眺めて、あれもある、あれも手に入った、あれも大丈夫、と確認するよりもはるかに大きな労力をかけて、あれがない、あっちも足りない、あれがなければ意味がない、という不足分への目配せに膨大な時間をかけている。

すぐれた教科書というものにはいくつかの種類があり、理屈に無理がなく洞察がするする流し素麺のように進んでいく通読に向いた教科書を私は好むが、それはそれとして、網羅性が高くて「あんなことも書いてある、こんなことまで書いてある」と読む人をおどろかせるような百科事典的な教科書もすばらしいと思う。私は今回「百科事典を通読できるように編む」ということをやりたいのだけれどどうも力不足ではないかとおびえる日が多い。ちなみにこの仕事はどこから依頼されたわけでもなく編集者もついていないしそもそも出版の予定がないのだ。しかしやっておきたいので勝手にやっている。



ある(べき)ものをある(べき)ままにすべて記すということをやるには文章は不向きなのではないか。いっそ写真などでまとめてバシャリと撮ってしまえばいいではないか。私はかつてそのように考えていた。しかし写真家の方々の話を聞くと、写真だって撮りたいものを撮るには技術と訓練が必要だし、現像とはつまりは編集なのであるから写真も文章もある意味では同じように悩まなければいけない。絵画や音楽のように言外のニュアンスで包括するという手もあるのだろうが私には荷が重く、であればやはり、あるものをあるままに記すために私がやるべきは、プロの写真家が1000枚写真を撮ってからクライアントに3枚渡すのと同じように、1000回文章を書いてそのうちの1回を世に出すという物量攻撃なのではないかと思う。

デフォルトアプリ全部消す派

人間のさまざまな生理現象は、さまざまな選択圧の末に今こうしてこれくらいの範囲におさまっている、といった類のものである。これだけ顔も身長も性格も食べ物の好みも異なる人間たちの体表体温が36度5分前後に集中していて、せいぜい上下1,2度ずつくらいしかぶれないというのもすごいことだ。体内の酵素活性や流体の粘性を現在の複雑さをそこなわずに保てる至適温度がほぼ37度である。30度とか46度とかだと生体の長期メンテに悪影響が出る。

頸椎の数が決まって7個なのには、おそらく骨格の構造的に一番荷重に耐えうるのが6個でも5個でもなく7個だからという理由はあるだろうが、それだけではなく、頸髄後根が担当する神経の数と分布がこれ以外の数だと狂うという理由だってあるだろうと思うし、というかそれは理由というか結果的にそうだったのだと思う。私たちの首がフクロウのように360度回らないことにも頸部の血管や食道・気管を守るためにはこれくらいの回旋範囲がちょうどよかったのではないか、すなわち可能な範囲だけでなく制限がかかっている範囲にもおそらくすべてなんらかのメリットがまぶされているのである。

これらの「人体構造」は決して「先に目的ありき」だったわけではなく、進化の気まぐれによってたくさんのバリエーションが生まれては適者生存の理によって淘汰されてきたものと考えられ、膨大な試行と錯誤の結果、いまたまたまこうなっているという暫定解である。ただその暫定解に至るまでの時間が爆裂に多いからいまさら私たちが人生という短い制限時間内にあらたな人体の可能性を切り開くことはなかなか難しい。6本目の指や3本目の足を生やしてもそれを長期間にわたって使いこなすことに利点は見出し難く、ただ、ここがじつにおもしろいところなのだが、たとえば指1本とか足が片方使えなくなった状況に陥っても私たちはすぐに破綻することなくなんかうまいこと脳がそのへんを補正して、把持における指の使い方をチューンナップしたり重心とのかねあいで体軸の傾きを変えたりということを無意識に行える。「ベストの状態をうっかり外れてもそこそこ補正できる」という能力すら備わっているのだから進化恐るべしと言わざるを得ない。

そういったことを考えに考えているある日、大事な会議の最中に鼻毛がくるんとまるまって自らの皮膚を刺激してくしゃみが止まらなかったり、その日の夜にうっかり若い頃のような気分で飲みすぎてトイレで吐いたりする。今のこのくしゃみはどう考えても生きていくうえでなんの役にも立っていないだろうとか、飲みすぎて吐きそうになるのをなんとか意志の力でおさえこみつつ今この反射消えねぇかなと呪ったりするとき、人体に備わった無数の適者としての機能も万能ではないなとためいきをつくし、でもこうしてくしゃみをしたり吐いたりする能力が備わっていたからこそ乳児のころの私が偶然生き延びたということもあったのだろうなとか、この先私がうまいこと老いてからもまだまだ老い続けるために必要な反射ではあるのだろうなというように自分をなぐさめていく。車酔いとか、汗っかきとか、緊張しぃとか、そういうのもぜんぶ、気付かないだけで私たちに小さなラッキーをもたらすための体の機能なんだということを私は知っている。ただときおりそれらを「買ったばかりのスマホにデフォルトで入れられている要らないアプリ」のように感じることもあって、さっさと端末から消してしまって2年後くらいに「しまったあれ入れとけばよかったのか」と後悔したりする。

雷雨のほとり寝泊まり暮らし明日への扉の開く方向のこと

先日、SNS医療のカタチが神田にあるほぼ日ビルで公開収録を行った。当初は私も出演する予定だったのだが諸般の事情に鑑みて私は不参加となった。もともと私はインターネットをはじめた10代のおわりにすぐにほぼ日を読み始めて「真っ白いカミ。」に心を撃ち抜かれ……という、こうして文章にしてみると顔が赤面を通り過ぎて虚式茈面になってしまう幼弱な思春期の香りが半端ない経歴の持ち主だが、要はそのころからほぼ日を毎日読んでいたので、今回ほぼ日に行けることをすごく楽しみにしていた。参加できなかったのはひどく残念だ。もうこんな機会はないだろう。先日読んだ「ちはやふる」の中に、チャンスの扉にノブがついているのは大学入試のときまで、みたいなことが書いてあって本当にそうだなと思う。この歳になるとチャンスの扉はこちらから開けられず、向こうから開けてくれるのを待つばかりだ。まれに扉をぶっ壊して突進するタイプの異常者もいるが私は極めて正常でおとなしく温厚な草食動物でありもそもそと草を食んだり鋭いツノで闘牛士をぶっとばしたりするタイプだから今回チャンスの扉をこちらからパタンと閉めてしまったことには悔いが残る。

東京の宿は高騰していたがSNS医療のカタチのスタッフがあちこち調べ回ってくれて、もうすぐ改装が決まっているある有名な宿を格安で押さえてくれていた。それも泣く泣くキャンセルした。残念極まる。ブラック・ジャックの中に出てくるセリフで読んで以来、「残念極まる」というフレーズをいつか使ってみたいと思っていたが今回ようやく使えた。その意味ではよかった。よくない。

そもそも6月から11月まで土日祝ふくめて一切休みがない状況だった。しかしこうして7月27日、28日の予定がポカンとなくなって、はからずも私はこの日休日を手に入れた。当日のポストを振り返ると、たしかに私はこのあたりでちはやふるの全巻を読み直している(だからさっきの話もぽんと出てくるのだ)。実際にちゃんと休めていたということだろう。ただしこの日、まるまる休んでいたわけではなく急遽別な予定が入った。このことはまだ誰にも言っていない。結局わたしは東京に行くことになったのである。正確には埼玉県に行くことになったのだが、宿泊したのは都内なので東京に行くことになったという書き方でまあいいだろう。私から見れば関東甲信越はぜんぶ東京だ。新潟も東京である。うそだ。新潟は新潟だ。でも群馬くらいなら東京でいいだろう。故・長嶋和郎教授は群馬大学を出て東大の院に行ったから私の中で群馬大学は東大である。あと千葉は千葉だ。牛久市の人口は8万人ちょっとで市原市の人口が27万人くらいいて、市原市のほうがだいぶ人気であり、消化管病理における人気とは逆だなと思ったりする。何の話かわからない人はそのままわからないままつつがなく一生を終えてほしい。

つくづく、SNS医療のカタチで取った宿にそのまま泊まりたかった。自分で金を払うのだから目的が別でもそのまま宿の予約を残しておいてもらえばよかった。しかし今回、SNS医療のカタチへの出演をやめた理由がストーカーを避けるためで、SNS医療のカタチのほかのメンバーに迷惑がかかってはいけないから、つまりメンバーの近くに私が出没してはだめなわけで、となれば当初の宿の予約はキャンセルして正解だったろう。とにかく神田(ほぼ日)からなるべく電車1本ではたどり着かない場所に宿をとる。同じ日に仲間たちが都内にいるのにそこを避けなければいけないという縛りが私の術式を強化し効果の範囲は拡張した。都内全域の宿を検索するのにはだいぶ時間がかかった(拡張できてない)。

宿は死ぬほど高くてアパホテルでも20000円くらいした。ドーミーイン、リッチモンド、京王なんちゃら、よく目にするビジホの数々は一切空いていない。印旛日本医大のちかくの宿をうんと高い値段で取ったらインバ・ウンド高い! なんていうギャグになるなあと考えたけれど京急のはしっこまで行って泊まる意味がわからなかったので冷静にやめた。

夏休みのはじまった都内にたかだか10日前に宿泊の予約をしようというのがそもそも間違っている。いっそ埼玉県での仕事が終わったらそのまま新幹線で仙台あたりまで移動してみてはどうかと思ったりもした。新幹線代を加えても都内より安く泊まれる可能性もあるのでは? しかし仙台も普通に高かった。日本全国インバ・ウンド高い。

ラブホが空いていればそれが一番安かっただろう。かつてエリックがよく「ひとりラブホ」というのをやっていて、あれは確かに楽しそうだなとひそかにあこがれていた。オリンピックをラブホの巨大テレビで見るというのもオツなものだし、うっかり写真なんか撮ればかなりインスタ映えするだろうなと思ったけれど、メンヘラ臭が強すぎてまた新たなストーカーを生んでしまうからやらないほうがいい。そもそもこの日は花火大会かなにかがあるのでラブホが満室になるリスクも高く現実的ではなかった。都内の漫画喫茶はもはやどこにあるのかわからなすぎて泊まる気もしなかった。結局一泊20000円を超える宿を楽天トラベルで取った。宿泊前からどっと疲れた。

航空券もうんざりするほど高い。往復で57000円以上する。札幌市内や都内での移動にかかるお金を入れると70000円。宿代とおやつ代をあわせたら10万円。先方のご厚意により一部が補助されなかったら腰痛が悪化したことは間違いない。まあ結局腰痛は悪化したのだが金銭的なストレスがなくても今回の腰痛は悪化しただろう。

行動範囲を書けば書くだけつきまとわれるので何も書かないに越したことはない。しかしこの日は考えることが多く残しておきたいと思えるできごとにもたくさん出会ったので慎重に書いておく。

まず行きの飛行機に乗る直前にばったりと旧知の間柄の教授に遭遇した。びっくりした。彼にかかわらず医療系の人間は札幌でばったり出会うと「いつも快速エアポートから先生の病院に手をふってるよ」のように私の勤め先のことをまず言う。それだけ印象的なのだろう。新千歳空港から36分電車に乗り、34分くらいのタイミングで左手に見えてくる建物のどこかに私がいるという連想は些細であり、ほかの人に言うべき話でもないからなんとなく海馬でこねくりまわしてから長期記憶の棚には入れずに捨てるのだけれど、海馬の中ではある程度の存在感があるから私というトリガーと出会うとついそれがぽんと出てくるといった塩梅だ。大変よくわかる。

飛行機の機内ならびに都内の移動の間に、京極夏彦『鵼の碑』を読破した。すでに4/5くらい読んであったが最後はあっという間だった。医療系の本だったらこの厚さのものを読むにはもっと何倍も時間がかかるのだがやはりエンタメというのはすごい、スルスルと麦茶の寝ゲロが出るように読み終えてたくさんの読後感が残った。京極夏彦をいちから読み直すのとワンピースをいちから読み直すのだと、かかる時間はいずれもそんなに変わらないかもしれない。ワンピースの連載開始が1997年、京極夏彦の姑獲鳥の夏が1994年の発売。蓄積されたエンタメの層状分化のすごさを思う。

埼玉県での仕事が終わった後すぐに都内に戻らずにさらに移動した。急な仕事の依頼だったがさらにそこに急な用事を付け足したのである。前日の夜はスケジュールを頭に叩き込むのに時間がかかってなかなか眠れなかった。結局、この日の午後には栃木にいた。新幹線を使いたかったのだけれどうまく時刻があわず、在来線でちんたら移動。目の前の席にはひまわり畑の似合いそうな女性が座っていてちらちらこちらのほうを見ているのでまた新手のストーカーかと思って気が気でなかったのだがどうやら見ていたのは私ではなくて車窓の風景のようだった。すでに背景化した中年であっても視線を感じるとあいかわらず自分が主人公のような気持ちになってしまう。恥ずかしい話だがこのような自意識は年齢とともに減るかというとそうでもないようだ。ただそのような意識に対する恥ずかしさだけは年々増していく。自己肯定感でも自己効力感でもなく自己羞恥感が私の姿勢を正し顎を引かせる。

栃木ではオンラインのイベントに参加した。オンラインのイベントなのだから私もオンラインで参加すればよかったのだが、せっかく近くにいるのだから挨拶でもしに行こうかと思って顔を出したところ私のためにカンファレンスルームひとつがあてがわれ、該当施設のドクターたちは全員自分のデスクからオンラインでアクセスしていたので本格的にこの場所に来た意味が薄れたが、それはともかくこれまで自施設のほか、私は北海道大学と旭川医科大学以外の大学の病理検査室や病理カンファレンスルームを見たことがなかったので、はじめての大学の病理部屋にいられることだけで十分に楽しかったしデスクの配置とかモニタや顕微鏡の値段など興味深く見ることができた。職歴が長くなってくると施設見学した際に目をつけるポイントもだいぶ変わってくるようである。楽しかった。

一通りの用事が終わったあとは都内に移動してワインを飲んだ。気持ちのいい店でふだんあまりシャンパンだとかワインを選んで飲まない(もっぱらビールばかりの)私も自然とワインを飲みたい気になり、料理も手が込んでいるのに箸で気楽につまめるという二刀流感があってとてもよかった。隣の席の人間たちがすわ医療関係者なのかという話題を大声でしゃべっていたのが少しだけ気になったがどうも聞こえてくる単語の端々が素人っぽかったのでおそらく体のことが気になる非医療者たちだったのだろう。あるいはマスコミ関係者だったのかもなと思うころには私の内心をあらいざらいぶちまけており彼らの手によってそろそろ私の秘密が開陳されるかもとおびえていたけれどあれから数日経っても未だにネットに私の名前は出てこない。

移動の最中、職場とは別の県に住むということについていくつかの知見を得た。北海道ではなかなか存在しない話題なので興味深かった。都内に職場があって隣県から通うというパターンはこれまでもよく見聞きしてきたが、逆に東京ではない土地に職場があるのだけれど家は東京にあるという住み方についてはあまりこれまで気にしてこなかった。東京なんて家賃も高いし住むメリットがないのではと思ったけれど四方八方に出張する可能性がある人からすると、住む場所をうまく精査すれば移動という面では東京ほど便利なところもないわけで、なるほど具体的に聞いてみるとそれはそれでうまくやっているなあという感心の気持ちが勝った。ちなみに北海道でも函館に暮らして青森に出勤する人は少ないながらもいるという。夏だけ避暑のために釧路に住むという都民の話も聞いたことがある。まあ私の場合はそこまで給料が高くないのでそんなセレブな暮らしにたどりつくことはないだろうし札幌は職住接近でやっていけるいい街だ、それでもまったく別の生き方というものについて想像力と現実との差を埋めていく作業はやっていていろいろと心の隅を刺激された。

思い返すと千歳を後にして羽田に着くまではSNS医療のカタチを途中で放りだしたことに対する自責の念とかほぼ日に行けなかった悔しさなどで頭がいっぱいであったが、都内や都外をぶらぶらとうろついているうち、スコールのような雷雨を窓のこちら側から見ているときには、そういう話をすっかり忘れて住みづらい首都圏の穴場を探すような目線になっていろいろと人の暮らしや働き方についてばかり考えていた。私の人生は他人との距離感をはかりつつ避けたり逃げたりしながら今の場所におちついているのだけれどこれからあと20年弱働くにあたってまた何か変化するのだろうか? 今の私が最終的にしのびこんでいくドアの向こうでノブを回すのは誰なのだろうか?

日曜日に帰宅。移動中ずっとちはやふるを読んでおりそのまま帰宅してからも読んでいた。そのむねをXにポストしたところ末次先生から「なんで今 暑いのに」とリプライが来ていてそりゃあ首都圏の熱にうかされた人間は涼しい北海道でかえって熱を求めるんですよと返そうかと思ったけれどなんかそこまで心うちを明かすとまたストーカーにいいね付けられたりしていやだなと思って適当なことを言ってお茶を濁した。

ずれたままおさまる

腰の付け根のところが痛い、という説明でいちおうわかってはもらえたのだが、冷静に考えると「腰の付け根」とはなんだ。むしろあらゆるものの付け根が腰なのではないかという気がする。大殿筋の浅層の起始部が腰背腱膜を引っ張っていてそこが痛いのだと思うから、正確には尻の筋肉の付け根(であるところの腰)が痛いというべきなのである。しかし日本語としてよりよく伝わるのはおそらく「腰の付け根」という一言のほうであり、たぶん「腰の付け根」と言って多くの人が思い描くイメージは私が今こうして痛がっている場所とそんなに差はなく、つまりニュアンスもわりと過不足なく伝わっていて、さらに言えばこの場合の「の」はおそらく「of」として用いられているのではなく「as」として用いられている。


なにかをどうやって言い表すか、についてはさまざまなバリエーションがありうる。それはたとえば物量を調査してエビデンスに仕立てれば暫定的に正解を仮固定できるというものではない。脳という複雑系が再帰的なネットワークの中で情報を処理していく過程で、主たる解そのものではなくむしろ副産物的にぺっと吐き出すものが感情の「地」になっており、表現とはその「地のテクスチャ」をどう言い表すかという話であるから、正解がどうとか統計学的有意差がどうとかいった話でははかれない。

たとえば病理診断の世界では「花筵状」という言葉が用いられる。ただしこの花筵状とされる模様は、本来の花筵(はなむしろ)とはわりと違ったものだ。個人的には公民館の子どもがごろごろできるスペースのマット(それもそこそこ汚れているやつ)に目をおもいきり近づけたときに見えてくる模様に一番似ていると思う。検索しているとけっこうおもしろい画像が見つかったので提示する。さいしょが「病理医が花筵状の線維化と呼んでいるもの」、つぎが「本来の花筵」だ。


参考1: 花筵状線維化

参考2: 倉敷の花筵


1と2は別に似ていないと思う。いや、まあ、似ていなくはないのだが、病理学的な花筵状線維化は家内制手工業で作った昔ながらの花筵を屋外で花見のときなどに敷いて毎年使ってぼろぼろになったものに似ているのであって、現代の機械製造された花筵とはニュアンスが違う。

病理学的な花筵状線維化とは、細長い線維が錯綜して増殖している状態だけを指すわけではなく、線維芽細胞、膠原線維、さらには炎症細胞という微妙に異なる成分が混在していること、さらにはこれらの成分のうち「有核細胞の密度が(普通の線維化と比べて)それなりに高いこと」が必要である。「混在と密度」を含んだ概念であり形態が似ているかどうかだけで言い表してはだめだ。

単に目が細かく模様が錯綜しているだけの模様は花筵状の線維化とは呼ばない。カーペットの上で遊ぶ幼児たちがこぼすお菓子のクズであるとか衣服の線維であるとか汚れのたぐいが絡みついているさまのほうが私にとっては花筵状線維化との類似性が高い。しかもそれはあくまで「似ている」というだけで「そのものずばり」ではない。

「そのものずばり」は細胞そのものだ。言い表せば必ずずれる。しかし、この話はおそらく、「腰の付け根が痛い」といっしょなのだ。言葉は微妙にずれていても、ブラックボックス内での加減乗除が加わった結果、同じような情景を多くの人の脳内に再現できる場合があって、そういった言葉はすでに病理学用語として私たちに頻用されている。「クロマチンの増加」は実際にクロマチンがaneuploidyの結果増えている場合と単にヘテロクロマチンの量が減って可視化されるユークロマチンの量が増えているだけのときと両方あるのだが、どちらにしてもなんか伝わる。「紡錘形細胞」はほんとうは細胞が紡錘形なのではなく核が紡錘形なだけのときはけっこうあるがだいたい必要な情報としては伝わる。乾酪壊死は現在の日本で売られている乾酪(チーズ)にはさほど似ていないがあれを乾酪以外にたとえてもおそらく今以上のニュアンスは出せないだろう。


形態学と戯れ続けると思考と統計学との折り合いが悪くなるような気がする。ほんとうはそれではだめだ。このような病理所見があるときに患者はある薬に対してこのような反応を示しやすい、のように、統計学的な処理を常にバックグラウンドに走らせた状態で細胞を見て言い表すことが病理診断の役割である。統計を用いて世の事象を切り分けていくことには時間がかかり、人体のあらゆる現象は今日もまた昨日までとは違う統計によって再解釈をされていて、それに対応してあらたな治療薬とかあらたなさじ加減が生まれるから、すなわち医学は一瞬では理想郷に到達できない宿痾を永劫背負っていて、私たちはいつも建築中の建物で暫定的に伽藍のお掃除などをする職業人だ。常に「最新の情報」に敏感でなければ医者をやれないというのは畢竟そういうことだ。しかし私は形態学を学ぶにあたってどうしても統計学ではない部分に時間をかけてしまいがちで、これはやはり医師としては欠陥というか弱点を抱えているのではないかと思う。

「たとえばこの細胞をより多くの人にニュアンスが伝わるように語るにはどうしたらいいのか」といったことを蒐集し観察して沈思する。循環器系の学会で微妙な箱ひげ図を前にproだcontだと激論がなされ、化学療法系の学会でKaplan-Meierの右端がクロスしたしないと殴り合いをしている傍らで、「免疫染色をする前に私の脳がこの細胞をanaplastic largeだとピンと来た理由はいったいなんなのか?」といったことに気を取られて、少しずつ患者からも医者からも後退りされている。剣先が触れ合わないところまですり足で下がったようですがそこだとまだ私の竹刀がぎりぎり届きます(重心を真ん中にたもったままで右足の親指の握力だけを少しゆるめて実質的な間合いを5 mmほど取り戻しながら)。

ペコちゃんは舌を噛んでいるのではなく全力を出しすぎないように拘束している

スイカゲームが事実上絶滅してから四半世紀が経過したが私はいまだに病理検査室の片隅でひそかに隔離して培養したスイカゲームをときどきやっている。あいかわらずスイカが2つできる気配はない。じつは何度か肉薄はしたのだけれど、電話応対でしばらくスマホを置いて手も気持ちもそこから離れて、後で戻ってくるとイチゴが勝手によくない場所に置かさっていて(おそらくスマホを置くときにうっかり触れてしまっていたのだろう)、それ以上どうにもならなくなって詰むといったことがあった。仕事中にダブスイ達成するのはどうしても無理だと嘆息。せちがらい。「世の知が辛い」と書いて世知辛いである。ここまで一切知性を使わずに書いている。世無知甘い(せむちあまい)。

ここんとこかなり重めに腹を下した。何か悪いものを食ったろうか。庭のきゅうりを適当に洗って切って雑にオーロラソースをつけてぼりぼり食いながらビールを飲み散らかしたことが体に悪いとは全く思えないのでたぶん何か別の理由だ。そういえばと思い立ってここんとこ毎日食べていた朝のお茶漬けをやめて卵ご飯に戻してみたところ翌日から腹の具合がぴたりとよくなった。お茶漬けのもとの粉にダニでも紛れ込んでいたのだろうか。買ってからまだそんなに時間も経っていなかったのだが。「いや、それ、きゅうりじゃないの?」と言われたがそんなわけはない。私が精魂込めずに作って収穫のいいタイミングを逃して大きくなりすぎてズッキーニみたいになったきゅうりが私に牙を剥くはずがない。昨晩は庭で作ったミニトマトを食べた。皮から想定以上の弾力が歯に伝わってきて、まあ、この薄皮はミニトマトにとってのATフィールドみたいなものだからしょうがないよねと大人の顎の力で容赦なく粉砕した。シンジの目の前でダミープラグにトウジ/アスカを握りつぶさせたゲンドウの言動を思い出した。あれから12時間、いまのところ、腹の具合は正常。この世には正常なんてものはないのだよ関口君、なぜなら個体差があるからだ。実際、血液検査には現在「正常値」という概念がなく、かわりに「基準値」という言葉を使う。欺瞞。どっちでもけっきょくやってることはいっしょじゃねぇか。腹が痛くなってくる。昨日腹筋をしすぎたからだろう。ちなみに腹筋はここ数年一度もやったことがない。庭には次にナスがなっている。ヒビが入り始めている。

プリンシプルという言葉があるけれど「シ」だけ異物だ。

週末に東京でワインを飲む予定がある。そこで誰と何を話すかによって来年私がどういう働き方をしているかがわりと変わる可能性があるからけっこうやきもきしている。同席予定の3名のうち1名の素性がいまだにわからない。誰だろう。「あともうひとり、来たいと言ったので呼びました」と雑に紹介してはもらったのだが氏名がわからない。きちんとたずねておくべきだった。食事内容とか店の雰囲気とか会話内容とかよりも「もう一人はいったいだれなのか」ということがいちばん気になる。早く知りたい。昨日は学校の用務員さんとご飯を食べる夢を見た。これが予知夢だったらおもしろい。おそらく用務員さんの格好をしたどこかの大学教授とか学長とか理事長とワインを飲むわけである。アニメの見過ぎである。アニメなら栄転が決まる。今の私にとっての栄転とはなんなのか。転じないことこそが栄誉だろう。

ワインというお酒はディナーのメインというかトランクというかドライバーであって、食事はあくまでワインを引き立てるための存在だと聞いたことがある。これに対して、日本酒はどちらかというと料理を引き立てるほうの存在であり主ではなく従なのだという。……昔はこういった建付けのエピソードを覚えるのがわりと好きだったし、なにかの折に口に出して場の話題を支配しようというふらちな心があった。しかし思い返してみればこれらの話は、場を荒れさせつつ支配するための「釣りエサ」にすぎないわけでどうにも下品だ。「残りの人生であと何回食事をするか考えたことある? 私は一食も無駄にしたくないから絶対にコンビニでは食べない」とかと一緒。

ポリシー、アジェンダ、座右の銘、これらはぜんぶキャンプの文化焚き付けみたいなものである。湿気た薪に火を付けるイニシエーターでありいったん安定した火が得られたら炭も残さず消えてなくなる。誰も訪れない部屋に座右の銘を額装してもだめだ。人生を投影するに足る書は応接の場にこそふさわしい。つっこみどころがなければだめ。クソリプを集めるくらいでちょうどいい。「あらおいしいワインが食事のメインです私とあなたはどちらもおまけ」縦書き画像方式の短歌がポストされているのをたまにみる。かぁ―ッ! かっこつけてからにィ! 今のは28年前、甲子園球場に野球を見に行った際、外野でケーッと叫びながら応援の旗を振りまくっていた60代男性の声真似です。「ワインなんてそんなに偉そうなものじゃないですよ、テーブルワイン的なものを手酌でついで飲むくらいでも人生はこんなに豊かになります」みたいなことを言うソムリエおまえマジで鼻につくんだよそれやめろ。


今日はぜんぶ食べ物の話だ。お腹が空いているのかな。下しているから空いてもいるだろうな。