野球のピッチングや守備を教えるときには、肘を張れとか張るなとか、腰を落とせとか落とすなとか、進行方向に踏み出した足の先を向けろといったように、「言語化」による指導を行うことがある。しかしそれよりも、「実際にうまく投げて見せる」ことのほうが大事だ、という話をたまに聞く。
ただし言うまでもないことだが、テレビでプロ野球を延々と見ていれば野球がうまくなるといった夢物語のことではない。「うまく投げて見せる」というのは「うまく投げるところを勝手に見せる」こととは違う。
コーチは、見るほうが理解しやすいようなデフォルメやスピードの変化を加えた動作を取り入れて学習者に映像的な指導をする。「肘はこのような角度で用いるのか、なるほど」、「思ったより上半身はひねらないんだな」、「自分とはグラブを持った方の腕の使い方が違うな」。これらは指導者が学習者と「対話しながら、しかし言外の部分で」やりとりをすることで伝わっていくニュアンスである。ニュアンスというかアフォーダンスと言ったほうがよいか?
こういう話をずっと続けると、「映像とか音楽のような非言語的なツールのほうがより多くのものごとをまとめて伝えることができるよねー」といった話に落ち着く。しかし、話をそこで終えずにもう少し先に進みたい。
学習者の前で実際にやって見せる指導者は、ときに、学習者よりもその競技がうまくなっていくことがある。高校生が友達と一緒に勉強すると「教えるほうが勉強になるよな」みたいなことを気軽に言うが、そういうことは学校の勉強だけでなく、非言語的な指導においてもあり得る。私は剣道を長年やっていたが、人に教える立場になってからのほうが確かに実力が伸びた。
これはなぜか。
指導をするたびに自らの動作を確認して反復することが上達につながるのか。
それはそうかもしれないが、それだけではないようにも思う。
指導する側は、言葉だけでは伝わらないものを説明しようと奮闘する。しかしいきなり言葉を置き去りにするのではなく、まずは、「それをなんとか言葉にしようとする」ものである。ここにカギがあるのではないか。より正確に言えば、「言葉で伝わるものは伝えておいて、それ以外の、言外の部分をなんとか動作で伝えようとする」という、試みの試行錯誤、言語と非言語の往還が大切なのではないか。
言葉を選び、言葉になりそうな場所を探し、言葉で伝えられるものならば伝えたいと奮闘し、それでも言葉からすり抜ける部分を行動で示す。このとき示される行動はすでに言語とタッグを組んでいる。タッグを組んでいるというのはリングサイドでロープをわしづかみにしながら相方の挙動に目を光らせるということである。レフェリーの目を盗んでツープラトンで浴びせ技やスープレックスをかける機会を虎視眈々とうかがうということである。
天網恢恢疎にして漏らさず、言葉の網目は粗だから漏れる。しかし、言語の粗い網目をすりぬけて、ネガとして浮き上がってくる部分を意識する。それはつまり、言語を間接的に特徴抽出に用いているということでもある。
なぜこんな話をしているかというと、病理診断学のことをずっと考えているからだ。大枠としては「医学を学ぶこと」「医学を教えること」、つまり医学の伝達に興味がある。そのジャンルのひとつとして病理診断学を学び教えることについて、細かい違和感が生じ始めておりそのことを毎日思っている。
「病理(形態)学の教科書は、医学一般の教科書的なにかとはあるべき姿が違うのではないか」という予感が私の中で大きくなっている。あまり主語を大きくしてもだめなのだが。
医師が医学をアップデートするにあたっては、最新の知見を常に取り入れて、診断や治療や維持管理における最善を、「科学(その時点での暫定解を常に求めて代謝しつづけていく仮固定のアーカイブ)」的に取り入れる。それはおそらくWindows updateよりも頻繁であるべきで、投資家が株の値動きを見ながらあれを買えあれを売れと毎秒気を張っているくらいの執拗さが求められる。となると「書籍」の形では不都合も多い。
病理学でいうならば、コンパニオン診断のための遺伝子検査や予後と関係するサブタイプ分類などは、おそろしいスピードでブラッシュアップされ続けていて過去の分類や検査はあっという間に使えなくなる、というか具体的に患者の不利益につながる。これらは、編集やデザインの末に刊行され簡単には改版のできない「書籍」には担当し得ない作業であり、最新の論文等でキャッチアップしなければならない。誰かが「総論」としてまとめたものが日本語訳されたあとに教科書になり、それを読んだ医療系Vtuberがわかりやすく解説したものが部分的にバズってそれをさらに切り取ったショート動画が出回って医学生が閲覧する、なんていうプロセスを経てしまえばそれはもう信じられないくらいに古びてしまってまるで使えない。
しかし、病理形態学の教科書は、必ずしもすべてがそういうスピード感を期待されているわけではないと思うのだ。
なぜなら病理形態学とは、ときに、「もうそこにあるもの」「前々から言われているもの」を何度も何度も語り直す営為だからだ。
これもまた医学なので常に最新のものが求められることに代わりはない。しかし、それは時代と並走するほど早い必要はない。
「常に新しい文学が生まれてくる」のと似ている。文学は時代と寝る。しかし基本的には文学は創造という死の激突が何度も何度も繰り返された先に飛び出てくる破片のようなものである。新しく出てくるものは以前のものと似て非なるものであるという意味ではたしかに「最新」だ。しかしそれはキャッチアップしてインストールして自分を新しくするという意味合いからは少し逃れている。「いつか誰かによって語り直されることで、本当はそれまでずっとそこに存在していた光にあらためて目が行く」ことを文学は成し遂げる。そして病理形態学もまたそういう成し遂げ方をすると思うのだ。
病理形態学もまた、真実を明らかにするための遠回しな行動である(医学とはだいたいそうである)。しかし、病理形態学のすべてが「まだわかっていない相関関係を見出すこと」には用いられない。「ずっとわかっている真実を過去よりももっとわかりやすく言い表す」ことに病理形態学の独自性がある。文学や芸術を経由した科学へのみちのり。
話を元(?)に戻す。
病理形態学を人に伝えるために一番有効なのは百の言葉を重ねることではない。「最高の写真を撮る」ことだ。言葉を尽くした先の部分でニュアンスが一発で伝わるようなピューリッツァい(造語:ピューリッツァー賞的な説得力がある、の意)写真を1枚載せることで世界中の病理医が「なるほど、これがこの病変を診断する際の勘所なのだな」とわかる。それはおそらく、野球のコーチが「実際に捕って投げて見せる」こととよく似ている。
このとき、本ブログ冒頭の語りを念頭に置いてさらに言うならば、「最高の1枚の写真を撮る前にまず千の言葉で試行錯誤をする」ことが望ましいし、「写真を撮る前に言葉を用い、写真を撮ってからもなお言葉を用いる」というタッグ関係が必要だ。細胞質と核の濃淡とか不同性を語るだけで満足しては「病理学の教科書」は成り立たない。いつもと構造の密度が違う、間質に存在する役者の頭数と上皮の相関が狂っている、下層に生じた乱れが上層に波及している……細胞の異常や違和をあらわす言葉は尽きることがない。それらを片っ端から試して、ああでもないこうでもないと自分の中で網をさんざんっぱら張って、そこから漏れ出してくるニュアンスをまるごと映像で引き受けて写真を1枚バシャーと撮る。さらにそこからまた語り直す。そういったプロセスを記載したものが病理学の教科書であるべきだ。
病理形態学の教科書は「昔書かれたことがある」からといって古びるものではないし、「最新の論文ほど早くない」からといって蔑まれるものでもない。病理形態学は「道具」であり、ハサミやボールペンやペーパーナイフが今日もなお改良を重ねられてヒット商品が生まれているごとく改良され続けていくべきだし、なんなら「思いもよらなかった新しい道具」だって発明されるべきである。そして医学の一端を切り開くためのツールとして用いられ続ける。ここに私は病理形態学が書籍の形で語り直され続けることの必要性を感じる。
しかし本当にそうなのだろうか、みたいなことを、毎日思っている。もっと語れるのではないか。ブログ記事にまとまったものを読んで「言葉では伝わらない感覚があるなあ」という印象を新たにしている。