大量最終回

2024年をあとからふりかえってこんな年だったよと説明するときみんなが一番「あー」となるのはなんだろうか。パリオリンピックがあった年です、というのが無難だろう。しかし大谷翔平が打者としてすごかった年ですと言えなくもないんだよなと思った。まったくすごいことだ。問題があるとしたら、来年以降さらに大谷翔平が活躍するかもしれないという、わりとありえる更新の可能性だけである。世界中がやっきになって盛り上げるスポーツのお祭りよりもいちアスリートのホームランや盗塁のほうがあとから振り返ってその時代を象徴するかもしれないというのは本当にすさまじいことだと思う。

「大きな物語」の主人公。

子どもの見る夢。

一方で私は小さい物語、断片化した物語、コマ肉のような物語をひとつひとつ瞬時に、小範囲で、あまり荷重をかけず、そっと、解決しながらクレペリン検査のように「次。次。」と毎日を過ごしている。重心をゆらゆらと移動させながら総体としての私をぼんやり成り立たせている。、畏怖するように大谷翔平の活躍を眺めながら、私は私の小さなたくさんの物語を次々と演じては引退してを繰り返している。



とある製薬会社に小学校時代の同級生がいて、お互い肌ツヤや髪質はあのころからだいぶ変わったのだけれどなんとなくおもかげも残しており、ここんとこたまたま彼はうちの病院が担当範囲になったということで、病院内で会って談笑したりする。この話をすると牧歌的だねえと言っていろんな人に微笑まれたり、わずかに微妙なリアクションをされたりする。製薬会社の人間と医療職の人間とがホイホイ顔を合わすというのはコンプライアンス的に・コンフリクト的にNGというのが世の趨勢だからだ。近年、どこの病院も、営業・MRの方々に対して冷たくなっており、どの医者もアポイントメントなしの飛び込み営業は受けない。一方で、製薬会社が私(病理医=投薬をしない職業人)に営業をかける意味は基本的にないので、私の部署は昔からそのへんの管理がゆるく、私が在室しているならそこそこ気軽に入ってきてよいよという方針でこれまでやってきた。するとおもしろいもので、どの会社の営業も、入っていいと言っているのに入ってこない。事前に手紙で確認をとり、メールで連絡をして、「セミナーのパンフレットをお持ちしてもよいですか」みたいにすごく念入りに許可を求めてくる。別にいいのにな、とは思うのだけれど、「病理医のところだけはゆるいよ」みたいな個別の物語をいちいち捌くほうが脳と指の負担になるから、医者だというくくりで全員まとめて慎重対応ということにしているのだろう。


ある日、同級生が、我等よりちょっとだけ若い営業を引き連れてデスクにやってきた。世間話でもするかあというムードをいったん棚上げにしてまずはその若い営業の話を聞く。最初は良かったのだが途中から雲行きがあやしくなってきた。

「◯◯(自社製品)専用のコンパニオン検査と、△△(他社製品)専用のコンパニオン検査がありますが、ぜひ〇〇用の検査をお出しいただけませんか!」

あまりに直球のビーンボールが来ると打者は避けられないというが私は衣笠並の鉄人なのでふつうに避けた。

「いやそういう検査は病理医の一存でこっちにするとかしないとか決めたらだめですよ」

そして避け終わったあとに、ああそうか、彼は病理医という「臨床医に比べると突破しやすい穴」を見つけたと思って、投薬の権限がある臨床医を抱き込むよりも「投薬の前段階で、自動的にその後の投薬に影響があるような検査に口出しできる病理医」を味方につけようとしているのか、と少し遅れて構造を理解する。

私はむらむらと怒りが湧いてきた。こいつはもう出禁だなと瞬時に思い、しかし次の瞬間、いや、このようなぬるい対応を検査室に許していた私がそもそも甘いのだということに気づいた。ありとあらゆる製薬会社は商売でやっているのであって究極的には患者のことなど考えてはいないのだ。患者のことを考えている医者のことをよく考えて、彼らがあるいは、なにかのさじ加減によって自社の製品をちょっとだけ本来よりも多く使ってくれたらそれに越したことはないという営利企業の大きな物語、あって当然のプロットを私が知っていたはずなのに知らないふりをした、あるいはその物語は私にとってまったく無関係だと鼻をくくった態度で後方指組み前方小石蹴りに勤しんでいた、そういう私のうかつなガードのゆるさがそもそもの原因なのだ。

私はとりあえずその若い営業がしゃべり終わったあとに同級生としばし歓談をした。彼もまたすべてをわかっている。私たちはそれでも「35年前に同じクラスにいたガキ同士が5分かそこらで近況をやりとりする」という小さな物語を終えることに今の体力を振り分ける。

彼らが退室する(完)。10分の間にやってきたメールに返信をする(完)。電話がかかってきて問い合わせに答える(完)。手術検体の病理診断のチェックをする。胃癌(完)。肝臓癌(完)。肺癌(完)。乳癌(完)。生検が上がってきていたので研修医や専攻医にマッペを振り分ける(完)。学生見学の問い合わせに電話で答える(完)。同級生の顔を思い出し、彼と会うことはもうないかもしれないということを考える(完)。

まだやってるよ編集会議

Zoom会議に出ている、そして、なんとなくブログの編集画面を開いたところだ。あまり大きな声では言えない。まあミュートだから大きな声を出しても聞こえないけどな。そういうことじゃない。

サボりじゃねぇかと言われると、うーん、まあそういうわけでもないんだけど、そうだな、ペン回しみたいなもんだよ。ペン回し。あんたも長時間カンファレンスに出席してるときとか、手持ち無沙汰になってペンくるくる回したりペン先をカチカチ出したりしまったりするでしょ。しない? するよね? それといっしょだよ。カチカチキータッチしてるだけ。かんべん。かあちゃんかんべん。

議論は白熱しているようで沈静化している。しゃべる役割の人がずっとしゃべっていてほかの参加者は地蔵。私は、PCのモニタにしっかり正対してこのようにブログを書いている。ほかの参加者からはまじめに画面を見つめているように見えるだろう。会議のようすはサブモニタに開いているので、私がもし本気で会議に出ているならばZoomの画面上、私は横を向いて映ることになる。正面視しているということはサボっているということ。でも他の参加者がそれを知るすべはない。

ぶっちゃけ、病理医が会議に出るときは、これくらいの「気の散ったやりかた」でもいいではないか。うわっ主語大きくしちゃった。とはいえ、ここで主語を病理医じゃなくて病理医ヤンデルにしたところで、なあ、うん、その、ぶっちゃけ、おもしろくないじゃんけ。だから病理医ってことにしといて。そこはなんかうまくやっといて。

そもそも、臨床医だらけの会議に病理医が混ざる理由とはなにか。医療現場で病理学という狭隘でありながら恢恢としてもいる専門知識が求められる場面、まれにというほど珍しくもないがしょっちゅうというほどありふれてもいない「ここぞ」で、裂溝潰瘍的に鋭く切り込ん/刈り込んだり、粘膜逸脱的に絞り上がっ/引っ張り上がったりする「奇行」がおもいのほか臨床医たちの役に立つということだと思う。飛び道具だ。秘密兵器だ。ディレードスティールだ(?)。

そういう担当はそれなりの「孤高」性をかかえていないとだめだ。

むしろ周りとシンクロしてメジャーな心情を共有してしまうほうがよくない。臨床医とよくコミュニケーションする病理医なんていうのは結局のところ病理医としてのうまみを失うのだ。どんなおかずでもカレー粉を混ぜるとカレー味になってしまうのだ。だからこそ私は病理医であるために必ずある程度は臨床医と違うことをしなければいけない。これは本当に大変なことだ。手間がかかる。覚悟も必要だ。会議に出ているふりをしてブログを書いたりスイカゲームをしたりと気を散らばらせるためにはちょっと信じられないくらいの胆力が必要である。「片足だけ参加している」くらいで、分人の一部だけコミットするくらいで、ちょうどいい、覚悟して半分はみだすのだ。腹をくくって主戦場から離脱するのだ。それが病理医として会議に出席することの意義なのだ。どうだ!


どうだじゃないが、ここまで書くのになんと1時間20分かかっている。ふだんそんなにかからない、やはり集中できないのだろう。会議に出ながら文章を書くというのは効率が悪い。まったく迷惑である。会議がなければブログがもっとすばやく書けたのに。

豚トロを網の上に放置してだんだん焦げていくさまをトントロピーの増加と呼ぶ

いつのころからか日中も夜もずっと考えているようになった。思考は電気信号のはずだから、本来は瞬時に終わってもよかろうものだが、PCであっても演算に時間を要するように、我々の脳内の信号もネットワーク上でいったりきたりするのに時間がかかる。きっちり5分とかたっぷり2時間考えることで解決していく案件がそれなりの頻度で存在し、それらを石積みのごとく積み上げて、すきまの部分に砂的な思考やセメント的な思考を流し込んで、人格という名前の城の、石垣部分がようやくできあがる。

むかしの城趾には土台だけが残っていることがある。私たちが生きた跡というのもあるいはそれに似ていて、今こうして誰それとやりとりをしている関係とか、周りから見た私のイメージのようなものは、言ってみれば城郭そのものであり天守閣のように飾られておっ立てられているわけだけれど、そういう派手な部分はさっさと風化するしときには戦火で焼かれたりゴジラになぎ倒されたりしてあとかたもなく失われる。一方で、時間のかかる思考を積み上げて強固にした土台の部分は跡として残ることがある。ただしそれは端から見るともはや城でもなんでもなくなっており、地図上の記号に由来を残すだけとなっていたり、近所の親子がフリスビーをする広場になっていたり、犬の散歩やドッグランに格好の草原になっていたり、酔っぱらいが花見の跡に立ちションをする人気スポットになっていたりもするのだが、とにかく、昔なにかここに建てようとした人がいたのだなという雰囲気だけは、地域の弱い記憶として残ることがある。でも最終的には世の中のありふれた凹凸としてとくさの茂みに紛れて消えていく。


考えるために考えるとか、しゃべるためにしゃべるといったムーブメントに巻き取られそうになる。ポストするために考える、みたいなのがそうだ。でも、そういうのではなく、なにか、城を建てるための「一積み」になるような思考ができないか、対話ができないかと、考える。自分を残したいとはそんなには思わないけれど、広場の土台になるというのは悪い話ではないだろう。


先日出席したかなり大きな研究会で、そうそうたるベテラン病理医たちが、ときに臨床医の疑問に鋭く答え、ときには誰もそんなこと聞いていないのにしゃべりたいからただしゃべるといった風情でえんえんと時間を食いつぶしながら発言しているのを見た。そうそう、感染症禍より前の研究会ってのはこういうところだったよな、と少しうれしくなった。臨床医たちが多く集まる研究会で病理医がしゃべるとき、それが城の土台のような荘厳な印象を与えることがある。しかし毎回きちんとした圧と威厳が感じられるわけではなくて、こいつはシャチホコばりたいだけだなとお里が知れることもある。聞かれたことにまっすぐ答えない病理医。問われていないことを語る病理医。考えているように見えてじつはそれほど考えていない病理医。みなひとりひとり何事かのいしずえにはなっていて、でも、戦闘に強い城を建てるタイプの病理医と居住に向く城を建てるタイプの病理医とではやはりどこか石の積み方というか固め方のようなものが違う。自分以外の病理医がたくさん出席する場にいるとおもしろい。みなさまざまに築城をしているように見える。そして兵どもが夢の跡だ。



日々は猛烈な勢いで過ぎ去っていくし私の肌は目に見えてぼろぼろになってきているのだがカレンダーの予定は遅々として前に進まず常に準備するプレゼンが山積。半年先にしゃべるものまで作り終わっている一方で明日しゃべる予定の内容をまだ細かくいじっているのだから結局なにもかもが未完成だ。診断はいつも暫定解であり所見は瞬間の仮止めにすぎない。正義は脱構築されないが正義を目指すところの法は未来永劫脱構築されつづけていく、という話を読んだとき、つまりはサイエンスじゃんと思ったが、サイエンスも法も考えてみれば気楽なものだ。変化し続けようが残り続けるのだからそれはつまり不死ではあるわけだ。一方の私、うたかた、さて、どこまで残すことと残らないこととのバランスをとっていくかという極小範囲の懸念に今日も悩まされることになる。

日常回

ちょっと深酒をしてしまい、朝起きると、首が寝違えたか寝違えてないかぎりぎりのラインの痛さを発している。ぎりぎりである。左側の側頭部だけ髪の毛が増えたような寝癖もついている。髪の毛をぬらしてからご飯を食べて食器を洗ってふたたび鏡をみると寝癖は少しおとなしくなっており「起き癖」くらいにはなっていたのでまあこれなら出勤してもよかろうと判断する。職場に付くと天井の蛍光灯が1箇所切れていた。たった1箇所だけでこんなにも暗く感じるものなのかと思う。ふだんが明るすぎるのだろうか。窓から朝の光が入っていても検査室内はどことなく薄暗く、でもその暗さはたった1箇所の蛍光灯が切れていたというだけのことなのだ。ふだん、たくさんの要素によってバランスを取っているものがあったとして、その1箇所が急に仕事をしなくなると全体が一気に不調っぽくなるというこの現象、なんというか、人間の体みたいなもんだなと思う。ただし実際のところ、世の中のものはなんでもかんでも人間の体にたとえることはできる。株価が乱高下するのも同級生の三角関係もサッカーの戦術もおかたづけの秘訣もすべて人体にたとえることができる。あっぱれ人体。あっぱれ人体というのは山本健人の本の名前です。


フォカッチャの母親はふぉかあちゃんである、というポストをした。クソ引用がいっぱいつく。フォカッチャの赤ちゃんはふぉかあかちゃんか(ふぉかちゃんだろう)、光粒子の父親はふぉとんか(それはそうだろう)。ちなみに、おとうさんをオトン、おかあさんをオカンと呼ぶルールを拡張するとあかちゃんはアカンになります。


新しい講演のスライドを作らなければいけない。記録によるとこれまで肝臓にかんする講演は22回ほど行ってきたが、そのどれとも異なる話を今回はしたい。講演するのは半年くらい先。でもなるべく早くプレゼンを作ってしまいたい。仕事というのは前倒しにするに越したことはない。「明日できることは今日しない」というポリシーは、昨日も今日も明日も基本デフォルト急な予定でてんてこまいほぼ確の私にはうまく適用できない。どうしてこんなにいつもばたついているのだろう。長年ひとつの病院で暮らして完全に最適化された行動しかとっていないのにこの体たらく。午後3時ころに仕事が一段落してあとは文庫本でも読んで終業を待つ、みたいな働き方を一度くらいやってみたかった。


病理診断の標本をいくらみても、その臓器や細胞が体の中で生きていたころのダイナミズムはわからない。わからないというと語弊がある、推測は可能だ。しかし推測しか可能ではない。そこがはがゆい。推測の確度を高めるにはふたつのやり方がある。ひとつは統計学的な処理だ。こういうときはこうだよねというデータをばんばん蓄積することで、このパターンならたいていこうだよという類推が切れ味のよいものになる。もうひとつは神になることだ。神だから何でもお見通しである。理屈が途中すっとばされていても神ならばしかたがないしそれが当然だ。デウス・エクス・デウスである。そんな言葉ないわ。


だいたい書けた書けた。今日もブログがだいたい書けた。あっ、でも、数字をぜんぶ漢数字に揃えようかなあ。まあいいや。そういうのは校正とか校閲の人が仕事でやることだからな。ウルトラマンの歌の「ひかりのくにから ぼくらのために 来たぞ われらの ウルトラマン」を聞いて編集者や校正者は「ぼくらとわれらで表記揺れしてんじゃん……」と落ち着かなかっただろうか。でもあれは、合唱曲なのだ。子ども合唱団が「ぼーくらのために」と歌ったあとに、大人合唱団が「来たぞ われらの」と歌って、そこから「ウルトラマン」を全員で歌うのだ。だから表記揺れではないのである。まあ今考えたウソなんだけど。あっ、でも、ウソは嘘って漢字で書いたほうがふんいきがいいかなあ。

iPhoneこそは家族のためのツール

iPhone 16が発表になったので買い替えるだの見送るだのいう話題がタイムラインを流れている。スマホってそんなにほいほい買い替える必要ないだろうとかいうのは野暮で、これはいわば「正月」といっしょの風物詩だ。定期的にめぐってきたらそれに向かい合って労力や金銭を投入してみんなでワイワイ言うことが大事。昼はたまにしか会わないよその家の子(比喩)のめんどうを見て、夜はたまにしか会わない親族(比喩)と酒を飲んで、ふだんはむしろ仕事や学校やバイトや趣味で会話もなくなっている同居の家族(比喩)とも珍しくだらだら話し込んでしまったりして、決め事に追われつつもいつもと違うという中途半端に気だるい時間、ハレでもないケでもない宙吊りの半祭礼状態にほうりだされる。それが正月、そういう古き日本の定例行事が、家族単位の変化と共に失われつつある昨今、人間の本能が求める互酬……というか「互いに無駄をおしつけあうコミュニケーション」の代替として浮上したのが、Apple製品の定期的なアップデートとそれにまつわる大騒ぎなのだろう。たまにしか会わないF/F外の子のポストを見て、相互フォロー同士でいいねを酌み交わし、エアリプ以外でやりとりのない古参とも珍しく直リプをやりとりしたりする。iPhone買い替え騒ぎイコール正月理論。

みんな好きに楽しめばいい。かくいう私はそういう定期的な祭礼は正月だけで十分だと思っているのでこれからもApple製品は使わないけれど、ジョブズを毛嫌いしているわけでも黒のタートルネックが生理的に無理なわけでもないし、iPhoneを買い替えたといって楽しそうに自撮りする人の写真がTLにあふれてもみなさんの想像以上に優しい目でそれを見ていて何なら心から応援しています。

テレビ番組で「有吉の夏休み」というのがあって、有吉弘行は毎年似たような芸能人(田中、吉村、みちょぱ等)を集めて夏休みと称して数泊の長いロケをするのが定番になっている。これぜんぜん休んでないよね、みたいなことをテレビのこちら側でだらだらつっこむところまでがワンセット。そしてiPhoneの新作が出るたびに盛り上がる人間というのは有吉の夏休みのディレクターと似たような思考回路なのだろう。それはさぞかし楽しいだろう。金はかかるし合理的な意味もないんだけどたまに集まってワイワイ言うだけで心が洗われるような気持ちになるだろう。ちなみにくだんの番組はたぶんけっこう視聴率がいい。テレビというコンテンツを見るのはもはや45歳以上が中心で、それより若い人がたまにテレビを見るのは「コンテンツを放映した場所がたまたま今日はテレビだった」以外に特に意味はないように思うので、視聴率という数字もまたほとんど意味をなさなくなっているのだけれど、ともあれ45歳以上はコンテンツがなくてもとにかくテレビに正対することにまだ意味を感じている。何を見るかを決めずにテレビをつけてザッピングしているときに有吉の夏休みをやっていると思わずそこで止まってみてしまう、それが「視聴率が高い」のリアルな意味合いだろう。思えばiPhoneとテレビも似ている。ほかにいろいろある中でたまたまiPhoneというのではなく、とにかくiPhoneの前に正対してそこからどうするか考える。iPhoneの新ナンバリングの発表というのはそういう人たちにとって「有吉の夏休み」的、祭礼的、焼き芋屋さんの巡回的、箱根駅伝的に視聴率が高そうだ。値段が高額だから45歳以上だけ盛り上がっているということだけではないように思う。後期中年はテレビ的マインドの残滓をiPhoneにさし向けているのだろう。

ところでレギュラーメンバーを「ファミリー」と呼ぶあらゆる企画・番組・仕組み・しきたりが嫌いだ。「火曜日レギュラー」とかも気持ちが悪い。番宣で入れ替わる俳優以外に毎回固定で出演するタレントたちを「ファミリー」と呼んでなれなれしくセットにするあれ、どこがファミリーなんだと思う。毎週仲良くいっしょに働く関係なんて家族でもなんでもないだろう。家族というのは、一緒にいすぎると居心地が悪いとか、効率のためにしかたなくセットになっているけれどお互いの心まで癒着しているわけではないとか、もっとずっとドライで容赦ない概念だ。「ずっと仲良し」というのはカップルであってそれは家族ではない。「仲良しなこともけっこうあるよ」くらいがリアルで平均的な家族の姿ではないか。そういう意味でいうと、まさに「iPhoneの新作が出たらTLで自分と同じくらい騒いでるやつ」なんてのは、本当の意味でのファミリーの距離感かなと思う。そのへんでうろうろされても別に不快だとは思わないがとりわけいつもチェックして追いかけているというほどでもない、長年連れ添ったパートナーや親子兄弟のような相手が、iPhone新作だといって妙にテンション上がっているのを見て、ったくしょうがねぇなーみたいな気持ちになるこれって家族に対する感情でいいじゃないか。もっとも、「iPhone 16出ましたね! もちろん買いますよね! 買わないなら盃を返すということですからそれはつまり切腹です」というマフィア的ファミリー感覚で盛り上がっている人もいるにはいるがそれは少数派だろう。iPhone新作に仁義のあるなしを語る人間は減ってきた。iPhone新作はもっとずっとファミリアだ。いつもはお互いにわりと積極的に無視していて、なんなら軽くいがみあっているような間柄でも、iPhoneの新作が出ると同じ話題で盛り上がっているのがわかって、ああそれって家族みたいなすてきな関係ですねと思ってほっこりする。今、私はiPhoneの話をしながら家族愛の話もしている。iPhone、なんてすばらしい商品なんだろう。iPhoneは令和に生きる私たちが忘れかけている家族のぬくもりを思い出させてくれる。正月の宴会で玄関に吐き散らかして親戚の子どもの靴を汚したことを何年経ってもねちねち言われてつらいから正月には実家に帰らないことにした、と言いながら、親に内緒で仕事をやめて投資で生計を立てている元同級生のことを思い出す。彼はiPhoneの新作が出るたびに買ってFacebookに毎回自撮りを載せる。彼だけが年をとりiPhoneの見た目は基本的にサイズとカメラの個数以外あんまり変わっていない。変わらないものを真ん中に据えて「また進化した!」と騒ぎながら本人ばかりどんどん老けていく。ああ、家族みたいだ、ほっこりする、iPhone、なんてすばらしい商品なんだろう。

ユニクロのサブスクがあれば残りの人生のストレスが半減するはずだ

内田百閒の『ノラや』は中公文庫にたくさんの古本があるのだが(新刊もあるだろうが)、最近、中央公論新社より『愛猫随想集 ノラや』として2000円超えの単行本になって再販された。再販というか、サザエさんに対する「よりぬきサザエさん」みたいなもので(このたとえが令和に通用するのだろうか)、元本のどっぷりみっちり猫猫したエッセイの中から8編を選んで掲載したものであり、商魂たくましくお得感のない割高本である。しかしそれでも装丁や口絵(なにを載せているかは秘する)がよくて私としてはわりと満足している。まあ金を出して買ったからひいきをしているのかもしれないけれど私は今回の買い物に満足している。

内田百閒をこれまでぜんぜん読んでこなかった。そもそも昔の作家をほんとうに読んでいない。「教養のなさ」である。昔の文章というのは、往々にして、昔のマンガの絵面とおなじで、今となっては読みづらい。すぐれた先達に影響を受けてさらに洗練された作家に感銘を受けてそれをさらに超えるべく努力の末に生み出されたものが今の本屋のラノベ棚に並んでいる。そっちのほうが読みやすいし平均的なことを言えば含蓄だってあったりする。古典名作は当時読むから名作なのであって今読んでもだめ、みたいなことはたしかにある。しかし、やっぱり、内田百閒の書くものはしみじみ心に桃の皮みたいに刺さってきて、私は思わずバスの中で読みながらもらい泣きをしてしまった。人がいいと言っているものをもっと素直に読むべきだ。古典はいい。小説を読んだことがなかった32歳がはじめて本を読む企画が先日本になってホクホク読んだがそこでも同じことを思った。太宰も芥川ももっと読めばいい。これまで読んでこなかったといって後悔する必要はない。これから読めばいい。青空文庫でだっていくらでも読める。とはいえ私の性格的にはちょっとでもいいから金を出して入手したほうが読む気になるんだろうな。



西日本新聞というおよそ今の私となんの関係もないローカル紙のオンラインを有料購読している。月額1100円。Spotifyは無料で使い続けているしNetflixにもまだ金を払ったことがないのに西日本新聞は購読している。理由はもともと豆塚エリさんの文章が読みたかったから、なのだが、豆塚さんの文章が載っていなくても、遠い土地の新聞を購読するという歯がゆさがそれなりに楽しくて、今も契約を続行したままだ。偏差だなとは自覚している。

西日本新聞からはときどきメールマガジンが届く、あらゆるメールマガジンの担当者は空間のクレバスに落ちて別次元にふっとばされればいいと日頃から真剣に願い神仏に懇願しているが、西日本新聞のメールマガジンだけはたまにヘッドライナーを読んだりリンク先を読みにいく。重ねて言うまでもないことだがこれはべつに西日本新聞が特段優れているからとかメールマガジンに伝説の書き手がいるからといった前向きな理由ではなく、「人生の太い幹とは別になんとなく間引きせず残しておきたい脇芽」という風情で残しているだけのものである。

で、今日、そのメールがさきほど届いて、タイトルに

「まれに見る大ホームラン」

とあった。大谷翔平かそうでなければ今の時期だと山川穂高あたりの話だろうなと思っていると続く言葉が「北九州市の資さんうどん、240億円大型取引の舞台裏」だったので不意を突かれて大笑いしてしまった。

https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1256600?utm_source=daily_newsletter

そうかそうか。そういうホームランもあるよな。本文はきわめてふつうの経済×社会ニュースであり特段おもしろいことはない。おもしろいことはないのだが私はなんだかこういうのを毎日でなくともたまに金を出して読むというのは案外いいものかもしれないなあと感じた。まあ金を出して購読しているからひいきをしているのかもしれないけれど。


なんでも無料で読める時代になぜ金を出してわざわざ読むのかと考えると、うーん、なりゆきというか気まぐれという理由が大きいなとこれまでは考えていたし、たぶん私の心の底から引き出される理由は今もそれと大差ない。ただ、意図とはべつに、結果的に役に立っていることがある。それは、「金をかけてコンテンツを入手することで、ほかにあるたくさんの無料コンテンツを間引き、自分が向かう先を『限定』することができる」ということだ。SNSでだらだらとウェブ漫画を読み漁り、YouTubeでお気に入りのVtuberを延々と検索していると、いつしか摂取する情報が脳の一日のキャパを越えていて、翌朝目覚めると結局昨日はなにをしたんだっけ、タタミイワシみたいに敷き詰められた情報が色彩をうしなって真っ黒につぶれて見えるような気がして、ああなんかいっぱい見たな~、まあ時間はつぶれたからよかった、チャンチャン、となってしまう。一方、金を払ってなにかを入手すると、ほかに無料のコンテンツがたくさんあっても、「とりあえずもったいないからここから読むかな」というように、自分の中に優先順位が生まれ、無限の情報がキュンと刈り込まれて有限化され、360度に張り巡らさなければいけなかった視野が前方30度くらいにしぼりこまれる。それは端的に言って「いいこと」なのかもしれないなと思った。資さんうどんのニュースなんてちょっとも興味なかったけれど私はあの記事を読んでよかった。ただ書いてて思ったけどサブスクはその意味では、金を払うことで自分の持ち物にするという感覚を半減というか10分の1くらいにしてしまうよな。サブスクってほんと堕落した仕組みだよな。

ところかわればそめかわる

バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについているのだ。

染色する技師や機会や試薬が変われば、プレパラートの見た目も変わる。核が濃く見えたり、細胞質と核のコントラストが違って見えたり。染色液なんて統一化して合わせればいいじゃん、というほど簡単ではない。細胞を染色する前には「薄切」という行程があり、組織を4 μmくらいにかつらむきして、ペラッペラにしてガラスに乗せて染色をするのだけれど、この薄いペラッペラが4.2 μmなのか3.9 μmなのかによって微妙に見え方が変わってくるのだ。厚みがあればそれだけ染色によって染まる部分にも違いが出るから当然であろう。

薄切を仮に全自動機械化したとしても、厚さは変わってしまう。組織そのものの硬さによって薄切の微妙な具合が変わってくるからだ。組織の中に固いもの(例:石灰化成分)などがあれば薄切のときにそこにブレードがひっかかることで厚さのむらがでてしまう。これを手作業で整えていくのはまさに職人作業である。そして職人であっても標本ごとの染まりの違いを完全に揃えるのは不可能だ。

この染色性の違いをAIで補正するという動きもある。病院ごとに異なるプレパラートの色味をAIが読み取って毎回おなじ見え方に修正してくれるというのだ。一部のバーチャルスライドでは実装されている。でも、はっきりいって、その補正はまだまだ甘い。

贅沢をいえばきりがないのだけれど、プレパラートの差はどうしても出てくる。同じ施設の中でもあるくらいだ。したがって、私たちは、「ある程度、幅がある細胞の見え方」というものに慣れていく必要がある。

毎回すこしずつ色味が違うにもかかわらず私たち病理医がある程度のクオリティを保てているのはなぜか? それは、脳の補正機能がAIを超えるくらい優れているから……と言えばかっこいいのだけれど、実際には違うと思う。正解は、「濃ければ濃いなりに、薄ければ薄いなりに診断するメソッドを手に入れている」からである。色味を揃えるのではなくて異なる色味ごとにどう対応するかを微調整しているのだ。

「濃く見える施設のプレパラートでは炎症性の異型が癌っぽく見えるから注意する」とか、「粘液が青っぽく見えない施設のプレパラートでは細胞外に漏出した粘液そのものを見落とすことがある」とか、「うちの病院ではH&E染色でピロリ菌が見えるけどそれがいつもどのプレパラートでも可能だと思うな」とか……。

「胃底腺粘膜を観察するときには必ず壁細胞と主細胞を見分けたほうがいいですよ」というと、「えっ、主細胞ってよくわからないんですけれど……」と返事されることがある。いやわかるでしょと思ってそのご施設のプレパラートを借りてみると、たしかに、染色のあやによって、主細胞と偽幽門腺化生の細胞の色味がよく似ていたりする。

ああほんとですね、このプレパラートだと色味では判断できないですね、と納得しつつ、「色がだめなら形で見ればいいんですよ」とばかりに、そのプレパラートを使う際の細胞の見かた、みたいなものをきちんと伝授していく。



先日ある場所で聞いた話で、いずれ原稿になるので詳しくは書けないのだけれど、病理学的にとある細胞を見極めるためには「5つのヒント」があるとおっしゃっている先生がいた。私はそれを聞いて、「5つか! 5つは多いな!」と感じた。私自身がその細胞を日常的に判断するにあたっては、おそらく3つくらいのヒントですばやく細胞の判定をしてしまっている。しかし、残りの2つを見てみると、それは「色身」のようなプレパラートの条件によってかなり変わるものではなくて、もっと一般化しやすい、検者間格差のあらわれにくい、「はっきり言語化しやすい形状について」言い表しているのだ。なるほどと私はうなった。その先生は、つまり、いろいろな施設のさまざまな染色にあわせて、どんな病理医であってもこの細胞を間違いなく判断できるようにヒントを5つ用意することにしたのだろう。自分の慣れた場所、ホームグラウンドで診断するなら5つも要らないのだ。しかし、病理医は、たまに自分の施設以外で作られたプレパラートも見なければいけない。そういうときに、「チェック項目が多い人」のほうが、異なる染色条件にスッと適応できるのだろう。




バイトに来てくださっている若い病理医は「大学とは見た目の違うプレパラート」を見てご苦労なさっている。診断を終えて私がチェックするとき、メモ欄に、「大学とは見え方が違うので自信がないですが……」などの注意書きがたまについている。私はそれを見るたびに、いずれこの方も、どんな病院のどのようなプレパラートを見ても判断ができるような病理医に育っていくのだろうなと思って、少しでも研鑽のお手伝いをできればなという気持ちになる。

しゅげい思考

目が覚めてから午前中いっぱいくらいは、腰が固くて曲がらない。靴下を履くにも苦労している。車に乗るときもウッと声が出る。そういうものだとみんなが言う。なるほどそういうものなのだな。午後くらいになると少し体が曲がるようになる。いつもより早起きをしてストレッチなどすれば少しはましになるかと思って試しているのだけれど、朝はストレッチをしようにも腰が90度より曲がらないので、力を入れる入れない以前にストレッチ感のあるポジションを保つことができない。そういうものだとみんなが言う。なるほどそういうものなのだ。

髪の毛を染めたら色が少しうすすぎて、朝や夕方のように陽光が斜めに入ってくる時間帯には私の頭はだいぶ茶色く見えてしまうようである。病院勤務するからには黒髪以外は患者に圧迫感を与えるからよくないだろうと思って、勤務し始めてからずっと黒髪以外で暮らしたことがないのだが、ファッションで茶髪にするのではなく染髪の失敗で茶髪になってしまった自分を見て、つくづくままならなさを噛みしめる。ヒゲや鼻毛や眉毛にも白髪が混じり始めており髪だけ染めたところでもうどうしようもないのだということもわかっている。



使い古しの体を毎日だましだましホメオスタシスに持っていく。

それでいて脳だけが年を取れば取るほど新しいことを次々と考えつくかというと、もちろんそんなことはない。



おそらく脳も、それが為す果実である思考も、ブランニューでクリエイティブな活動ができたのはせいぜい20代までで、今はあちこち固くなったり痛くなったり、取り繕うことに失敗したりしてツギハギなのである。

ボロ布のような思考の抜け落ちを補完するために、追加の布地をアップリケのようにピタピタ貼り付ける。あるいは古民家を直しながら住む、みたいな感じだ。補修、張替え、添え木、再塗装、その先に、見たこともない肌理の思考ができあがる。その思考は、理路整然と、一列に並んで因果がしっかり示されているようなものとはちょっと違う。

そのツギハギのテクスチャが見た目には珍しいから、「なにやら中年というのは若者とは違うことを考えているようだ」と勘違いされている。まあ、実際に、違うことは考えているのだけれど、その違いは、「朝は腰痛がひどくて立ったまま靴下が履けないから座って履くようにしました」みたいに、しょうがなく、その場しのぎで、だましだまし、補修的に生まれたものではないかという気がする。




先日、「言葉がなければ思考はできない、言葉に制限される範囲で思考も制限されている」と言っている人たちを眺めていた。たしかに私も単語を用いて思考はするけれど、はたして私の脳内で、単語がきちんと文章になっているのだろうか、ということが気になった。「単語がきちんと文章になっているのだろうか」というように、口に出したりキータッチをしてブログに書きつけたりすると、それは確実に文章のかたちで思考したことになっているので、この感覚は少し説明がむずかしい。けれどもおそらく、私の思考は必ずしも文章に規定されているわけではないのではないかと思う。

私は単語を頭の中の原っぱに撒き散らしている。それらを高台から眺めたり、同じ地面の高さから(サッカー選手がお互いの距離や移動の方向や加速度を測るようなかんじで)眺めたりする。この状態は、なるほど「単語に規定されている」ことは間違いないけれど、文章ほど単語同士が順番に並んでいるわけではないし、文法的なものにも必ずしも則っていない。思考がこのような状態をとっている時間は一日の中でもけっこう長いと思う。

マンガで登場人物がよく「ひとり語り」をする。食べ物を見たり風景を見たり人を見たり過去を見たりするにあたって、ふつうのフキダシではなくひとり語り用のフキダシにあれこれつらつらと思うところを述べる。しかし、私たちは本当にああやってフキダシの中に文章を入れる形で思考をしているだろうか。いつもではないにしろけっこうな確率で、フキダシ以前の、文章以前の状態がけっこう長く続くのではないか。

単語を意味がわかるようにつなげてしまうと、そこにはたとえば主語や述語といった「要素わけ」がはじまるし、連体とか修飾とか因果といった連環が生じる。しかし思考の最中に主語がないことはしばしばある。「今日はいい陽気だなあ」と文章にしてしまうともうオリジナルの思考とは違っている。「今日は」なんて思っていないし「だなあ」も後付けだ。まして英語のようにIt's a nice breazeなんて言ってしまった時点でそのitどこから出てきたんだよとかbreazeだけじゃねえよとかいろいろずれていく。とはいえ、「いい陽気だねととなりにいる人と噛み締めたい」と思った気持ちをスッと人に説明してコミュニケーションに用いようと思った瞬間に、文章になる、というか文章にせざるを得ない。



思考そのものを共有することはすごく難しい。

特に、非文章的な思考を共有するには、単語を選んで順番に並べるという形式では不可能であり、たとえば絵画や動画などの力を借りないとだめなのではないか。音楽ですらだめだ、だって音楽は音符が順番にならぶことで何かを語るものだから。でも、まてよ、音楽のように、楽器がユニゾンして違うメロディを重ね合わせてひとつのコードに持っていくような表現には、線形の情報とは一味違う何かが含まれているのかなあ。

ともあれ思考を共有することは、少なくとも文章の形ではすごく難しい。しかし私たちは文章を一番多く使う。話すにしても、聞くにしても、書くにしても、読むにしても。

まとめると、「思考が言葉に規定されている」はまだいいとして、「思考が文法や文体に規定されている」というのは言い過ぎではないかと思う。しかし、その思考を「共有」する段になると、とたんに、猛烈に文法や文体による介入がはじまる。

そしてテクスチャ的だった思考は後景にひっこむ、というか、マスクされてしまうのかな。

たとえば誰かとのやりとりの中で思考を練り上げていく、ブレインストーミングみたいな会議を頻繁にやっている人は、事実上、「文章で思考する」ようになってしまうのかもしれない。「なってしまう」なんて悪いことのように書いたけれど良し悪しではない。けれどもそれはつまり「テクスチャ的だった思考」の持っていた質感とか肌理感を失うことにつながるのではないか。

コミュニケーションとは無縁の場所で、ひとり考えているときだけ非文章的な思索が支配的になる可能性が残る。

でもどうかな。自分と会話し出したらもうだめだってことかな。自分と会話するってそんなに文章で会話してるかな。子どもはわからない。でも大人はしてるだろうな。

「子どもの発想はおもしろい」のではなくて、「大人の発想はコミュニケーションの過程で文章化されているから文法や文体や単語に規定されざるを得なくてある程度狭い範囲にまとまりやすい」ということなのではないか。




「文章という、時間軸に沿って連綿と情報をつなげて何かを伝える形式のもの」の可能性や限界に向き合い続けてきた文学者や哲学者があちこちにいる。

彼らはそのすばらしい思考の成果を文章によって世に残すことにジレンマをびんびんに感じて、その都度たくさんの表現方法とか体系とか構造とかポスト構造主義みたいな話をとっくにたくさんやっている。私が生まれる前にも生まれた後にもそのあたりはきちんと話題になっていて、思考とはなんなのかということを私よりもずっと考えている。

そして、そういう人たちが世のどこかにいる状態で、世に出てくる文章は、全部ではないにしろ少なくとも一部は、そういう文学者や哲学者の影響で「そっちの考えに基づいた洗練」に向かっている。

日常の何気ない会話とかSNSのくだらない一文とかも、文学や哲学がどこかにある世の中では、知らないうちに「文章で思考すること」に支配されて変形済みなのだろうなとも思う。

私の目の前に流れてくる文章は、発する人も受け取る人も知らないうちに、先人たちの試行錯誤を経た社会によって、沢の水が土壌にろ過されるがごとくに影響を受けていて、「こういう文章が伝わりやすい」とか「こういう文章だと誤解を招く」といった先達の経験の恩恵を受けている。そして、「文章に規定された思考」がますます当たり前になっていく。

思考が社会化することで、思考が文章という様式に支配されるのか。

でもなあ。細胞を見てこれは癌か癌じゃないかと考えているときの思考は本当に文章であるべきなのかなあ。

癌か癌じゃないかを誰か(例:臨床医)と共有したいがために文章の形式で思考するようになってしまっているだけで、ほんとうは、文章の形式で思考して癌かどうかを判断しているわけでは、ないんじゃないかなあ。

文章にすることはとても大事だし、文章にできないテクスチャを共有する方法が、生活や人生においてはもうないかもしれないけれど、細胞のようすを共有するという狭い範囲だけでも、達成できないものかなあ。

うーん。行間で語るというのはなあ。幅のある解釈を許すということが、医学において許されるかという話にもなるからなあ。

AIにまかせられる話でもないよな。演算の過程はともかく、出力の過程は人間の文体を学習してしまっているからな。

となると……そうだなあ……。

あとからツギハギしていく、ってことかなあ。絵画的、補修的に、一度線形化してしまった思考に注釈を付け加えていく。一度提示した因果をぼやけさせる。コピック重ね塗り。

でもそれは『病理トレイル』でもうやったんだよな。あれはひとつのメソッドではあるけれど、すべてではないんだろうな。

ああ、そうか、『病理トレイル』で私はそれをやりたかったのか。そうか。

トレイルランニングは「一本の長くくねった思索」のモチーフなんだけれど、そこを私はテクスチャに戻したかったのか。

なるほどそうだったのか。金芳堂さあん、そういうことだったみたいです。言語化できてなかった。いいのか。言語化してはだめなのかもな。

彫琢のゆるキャラちょうたくんはセオリー的にはたぶん豚っぽいデザインになる

なんか、あんまり仕事がない日というのが1年に何日かある。ずーっと忙しいほうが自分らしくていいのに、今日は、ぽつりぽつりとしか仕事がない。電話はばんばんかかってくるけれど、その都度わりとさっさと解決してしまう。学会や研究会の準備は来年の1月の分まで終わっていて、2月以降の講演プレゼンはまだ作っていないけれどさすがに先の話過ぎる、今プレゼンを作っても話すころには内容が古くなっているだろう。仕事中だけど勉強に回すか? こういう日に限って読むべき資料とか教科書の類もあまり残っていない。ウィッチウォッチの最新刊でも読むか。仕事中にそこまで割り切れるほど私は遊び上手ではないのだ。

こういう日だとわかっていれば夏休みにしたのにな。こういう日だとわかっていれば早朝から指定席自由券をにぎりしめてJRに飛び乗って釧路経由で根室まで6時間半かけて移動して、季節によっては花咲蟹の食える店で入荷している刺し身を適当に食ってビールをあおってさっさと寝たりできたのにな。でも私はおそらく、そうやって急に休みをとってもよい職場にいたとしても、なんだかんだ理由をつけてもったいぶって、結局は出不精の才能をいかんなく発揮して正々、堂々、職場で呆然とし続けているであろうことを誓います。


私はいつも口だけだ。

あり得なかった現在を夢想するばかり。

手に入らなかった過去とかではなく、

これから突撃していく未来とかでもない、

今にもあと一歩足を踏み出せば、あと1センチ指を伸ばせば届くかもしれない「ぎりぎり未達のほぼ現在」を、

その場でじとっと見据えて「あー行ってみたかったな」「あーやってみたかったな」とさっさと完了形にして後悔を前景化させて話をおしまいにしてしまう。




こんな文章をいくら書いても読む人には何もいいことがない。




先日、あるnoteを読んだ。それは「人に読まれるための文章」についてああでもないこうでもないと持論を述べるものだった。「読んで読者が得をする文章でなければだめだ」みたいなことを書いていた。まあそうだね。クリックしてもらってなんぼだね。いいタイトルをつけなきゃね。最後まで読み切ってもらってなんぼだね。途中何度も感じ入ってもらわなきゃね。文章内で宣言していることを文章内で達成しなきゃね。読み終わったら満足してシェアしてもらってなんぼだよね。ほんとに、そういうことを、異口同音にあちこちから振りかけられるインターネットになってしまったつっっまんねぇなああ。

近頃は一切合切何を読んでも「文章を読んでもらった総数が金銭として自分に返ってくることを成功とみなす文章」ばかりで、飽きてしまった。

「めっちゃくちゃ読みやすくてすっごくひっかかることを書いててほとほと感心するんだけどぜんっぜんバズってない文章」を読ませてほしい。そういうのが読みたい。吉増剛造の詩集みたいなのが読みたい。渡辺哲夫の診療記録みたいなのが読みたい。『これやこの』はよかったなあ。

「結局文章なんてのは読まれなければ意味がないのだから、少しでもたくさんの人に読んでもらうためのお化粧をする努力を怠ってはいけない」みたいな説教ばかり聞くようになった。解答編の最速ネタバレみたいなノリでみんなが我先に「読まれるべき!」「読まれなきゃ無駄!」とうるさくてうるさい。まあそう思うんならそう思って暮らしていけばいい。極めて当たり前で普通の結論だからつまらないけれどそう信じている分には勝手だ。けれど、10代、20代の若者が、それはなんかおかしくないかと感じて、「いや、誰にも読まれなくても価値のある文章というのはあるはずじゃないですか」みたいにナイーブな反論をしたときに、鼻で笑って「だめだろ笑、なら人前で書かずに自分の部屋でノートに書いてなさい笑、そうしないのなら結局あなたの中にも人に読んでもらいたいという欲望があるってことだ笑」みたいにマウント取る人間がうじゃうじゃいて、うんざりする。知恵がオーバーヒートした人型の猿。まったくしんどい。

そうか? ほんとうにそうか? 読まれない文章、もっと書いたほうがよくないか? いやマジでそうやって若者を足蹴にして笑っているけれどほんとうにそうか? 逆張りという意味でなく、自分の心の唇をサンドペーパーで研磨するような作業が世の中全般にぜんぜん足りてなくないか? さりさりコツコツじりじり、こすったりひきずったりちょしたり、誰もこっちを見てなくても、感性の神経終末にノイズを与え続けるだけの「読まれない文章」を、もっと書いたほうがよくないか? マイルドな自傷だよ。まんねりの自虐だよ。それをさも「サブカルクソ野郎の失敗メソッド」みたいにまとめてしまっているけれどそこ本当にそうやって失敗パターンに全部入れちゃっていいのか? 成功者を自認しながら内向を否認する40代、50代のモノカキたちはすぐ、「人に読まれることから逃げちゃだめだ」とか「読者から逃げちゃだめだ」みたいなことばかり言う、そういうのにわりと飽きた。何に圧をかけようとしてるんだ。どこを押さえつけようとしてるんだ。作家になりたい半チク半グレに覚悟が足りないといって「プロの編集者的なにか」が説教をする構図がさすがにちょっと流行りすぎだ。あんたら、ほんとうにこの先、「誰にも読まれない文章を書きたい人生だったなあ」と後悔苦渋で鼻うがいする人生を歩まないと自信持って言えるのか?

「人に読まれない文章を書いて投稿するなんて破綻している、投稿するならば投稿先にいる人のことを考えて、どうやったらその相手に読んでもらえるかをもっと本気で悩んで絞り出せ」

いや、うん、そう言わないとやっていけない業界の人がいるってのはわかる、ていうか飽きるくらいに承知、でも、「書いて生きる」ことを自分の狭い常識の中に押し込んでしまっているとは思わないか。



私たちはたまに指先や舌先で自分を彫琢して、自分という木石から観音様をほりだすようにする。ただし観音様がきちんと全身掘り出されてくることはなくて、観音様の一部分だけ、つま先とか服のすそとか慈悲の断片とかが見えたり見えなかったりする程度で、削ってるうちにたまたまいい形だった部分がポロッととれてしまってまたもっさりとした流線型に戻ってしまったりもする。鏡とかレーザー測定機とかを使わず自己認識が客観的でないから、自分を振り返らず仰ぎ見ずに彫り続けるから、偶然自分の一部からいい形が出現してもそれに気づくことなく、彫り終わることがなく、安定せず、観音様は観念してくれない。でもそういう彫り方、そういう書き方が、私は今でもあると思う。あり得ると思う。読む人になにもいいことがない文章。誰にも届かない文章。自分がけずれる文章。そういうのを読みたいと願う奇特な人間はたいして金も持ってないし支払いもしぶいから書いて食っていくことはできないよ。で? 食っていくために書く人々の言うことがかっこよく聞こえる側にいる人間だったんですか?

丸く掃く領のひとびと

予定をスマホと紙の手帳の両方にきちんと書いておいたのにデスクのカレンダーに書き忘れていた。おかげで看護部の研修に立ち会うはずだったのにすっぽかしてしまった。なんで病理医が看護部の研修に立ち会うんだよ、というツッコミもあるだろうがそれはいいとして、約束を守らなかったのはよくない。こういうとき、必ずといっていいほど、その予定がすっかり終わった瞬間に予定があったことに気づくので頭を抱える。「13時半~16時半のどこかで会議室に来てください」。この予定に気づいたのが16時25分であった。も、も、もうどうしようもない! 手遅れと書かれたネオンサインが座右の銘みたいに脳内社長室に燦然と掲示される。いっそ全く気づかなければ罪悪感を抱えることもなかったのに。各方面に頭を下げる。あーあーこういううっかりは年を経るごとに減らしたかったのにむしろ最近増えてきたなあ。

スマホと紙の手帳とカレンダー。念のため念のためとあちこちにリスクをヘッジしたせいでかえって穴が空いてしまっている。過ぎたるは猶及ばざるが如し。猶って野趣あふれるおつまみで雑に酒呑んでるみたいな漢字だね。

綿密な下準備。きちょうめんな手配。効率の良いメソッド。そういったものを四方に張り巡らせておきながら、の隙間から大事なものだけ落っことす。本末転倒。一番だいじなもの、本質的なもの、メインルート、木でいうと幹の部分だけをガッと掴んで話さないタイプの人間にあこがれるがそれはおそらく来世チャレンジとなる。私の仕事も生活も、たいてい主幹ではなくて末梢の枝葉のところにうまみや滋味があるので、「要点」とか「勘所」だけを抑える君主とか教授みたいなやり方ではぜんぜん「私らしさ」が出ない。細部。すみっこ。裏。ドーナッツの穴。

四角い部屋をマルク伯。誰だマルク伯って。四角い部屋を丸く掃くという言葉がある。掃除がへたくそな人を揶揄した言葉だ。しかしほとんどの場合、丸く掃いても生活に支障はないわけで、真ん中だけでもきちんと掃除しておけばそれなりに暮らしていけるものだ。一方で、私の場合、四角い部屋の隅だけを掃除して真ん中のほこりはルンバや猫にまかせる暮らし方をしている。優先順位という言葉と相性が悪い。四隅を巡回するほうが性に合っている。ただ、部屋の隅っこの数がいつも四とは限らない。どういう立体をしているのかよくわからないが、隅の数がたぶん十六個くらいあるときもあって、その十六すべてをきれいに掃くつもりが十四か所目くらいで最初に掃除した一箇所目に戻ってしまって、残り二箇所をすっぽかしてしまう。

どうしたもんかなあマルク伯。マルク伯ってなんなの? ググってびっくりした。神聖ローマ帝国って書いてある! 神聖ローマ帝国って言ったら昔サンデーで連載してたあれだろ? えっちがう? 本気でわからなくなって「神聖ローマ帝国 サンデー」でググってたどりついた。神聖モテモテ王国じゃねぇか。ローマとぜんぜんかぶってねぇし帝国じゃなくて王国だった。ひでぇなこの記憶力。そりゃあ大事なものもすみっこもぽろぽろ取りこぼすわけだ。たまに家人に言われることがある。「運転してるときに別のこと考えてて曲がるところ間違えたりするでしょう」。するする。しかもそれほど大事じゃないことを考えてるときに限って曲がる交差点を間違えたりドラッグストアをスルーしたりするんだよな。あなたにとって大事なものってなんなの。それはもちろん世界だよ。そうだね。スルーしとるやないか。えっなにが、聞いてなかった。スルーしとるやないか。今そこ曲がるとこだったよ。ごめんなさい。

迷路を命ず

Amazonプライムビデオに加入しているのでいろいろ見放題だ。この「いろいろ」の中に、当然、私向けのコンテンツもそうとうたくさん入っているはずである。

しかしなかなかこれぞというコンテンツにたどり着かない。

私もかれこれ28年くらいはインターネットを使っているのでさすがに検索能力は高いはずだ。事実、日頃自分がほしいと思った情報は仕事だろうがプライベートだろうがわりとすぐに手に入る。しかし「Amazonプライムビデオのこれぞというコンテンツを探す能力」は残念ながらあまり育っていないようだ。かれこれ2年くらい、いいコンテンツがないかなとことあるごとに探しているのだけれど、検索にかけた労力と得たコンテンツとが釣り合っていない。みんなが言うほどAmazonプライムビデオを楽しめていない。

Amazonプライムビデオのようなネット上のサブスク的コンテンツを検索すると、「出てきやすいもの」と「出てきづらい」ものがある。そして私が見たいのは「出てきづらいもの」、「探しづらいもの」のほうにあるようだ。とはいえ、奇をてらったものばかり見たがっているというわけではない。かつての名作と言われるものが検索では出てこず、知人に教えてもらって「なんだあるのか」となったことが何度かあるからだ。「より多くの人が検索するであろうコンテンツを紹介したアフィリエイトブログ」に私の思う名作はなぜか含まれない。そこの差が縮まらない。

マニアックなコンテンツ探しといえばTwitterだ。Xになってからもわりと便利で使ってはいるが、かつてのあのオフセット衝突するかのような出会いは激減した。私が出会えるのはいかにも私っぽいコンテンツばかりである。それはうれしいことだがそれだけでは足りない。

世にオタクはいっぱいいる。そしてオタクは一枚岩ではなく、私はオタク的器質はあるけれど王道のオタクではない。オタク向けのコンテンツだからと言ってなんでも愛せるわけではない。オタクが狂喜乱舞するようなコンテンツばかり並べられても別にそういうのはいらないですという気持ちになる。




こうやって書いていて思うのだが、自分に合うコンテンツが多少の検索で出てくるはずと思いこんでいることのほうがバグなのだろう。たくさんの本屋を何年も何年もうろうろしてようやく見つけた一冊の本、くらいの打率でAmazonプライムビデオを毎日掘り進むべきなのだろう。しかしサブスクコンテンツにそこまで時間をかけて宝物を探し出すという行為はすごく損に感じる。「いくらでも見られます」と「これぞという一本に巡り会えます」の相性は悪い。

私はおそらくサブスク全盛時代にじわじわと「がまんづよさ」を失っていて、コンテンツを探せなくなってきているようである。






燃え殻さんの『これはただの夏』が文庫になった。1か月くらい前に気づいてAmazonで予約しておいたらきちんと発売直後に職場に届いた。仕事のメールが立て込んで呆然として、なんか今日はもういいかなと思った夕方、届いたばかりの本を開いてそのまま2時間で一気に読み切った。じつによかった。すばらしかった。手に入らなかったもの、通り過ぎてきたもののことを思わず考える。

そしてこの本についてはなにより、「不思議な出会いだな」ということを強く感じる。もともと、誰かに強くおすすめされて買ったわけではない。タイムラインに何度も出てきたわけでもない。かといって自分で検索して探り当てたわけでもない。そもそも私と燃え殻さんの書く世界とは、さほど重なる部分が多いわけではない。これまで私が読んできたものが必ずしも燃え殻さんの書くものと似ているとも思わない。サブスクなら私は選ばなさそうなジャンルだし、アルゴリズムなら私におすすめしてこなさそうな文学なのだ。

でも私は『これはただの夏』をウェブ連載で読んだし、単行本でも読んでいて、つまりはスジもぜんぶ知っていて、さらに今回文庫になったというのでまた購入している。これはいったいなんなのかと思う。

私は基本的に小説を二度読むことがない。『これはただの夏』は別だ。特別なのだと思う。それにしてもなぜ自分がこの本を特別に感じているのか、言語化しようと思ってもうまくできない。誤解を恐れずに言えば勝算があって買ったとか読んで後悔しないから買ったという表現もいまいちピンとこないのだ。でも私はこの本を買って読んでとても満足をしている。

つまりそういうことなのかと思う。私が気に入るコンテンツとはそもそも、探して見つけるとか、すすめられて出会うといった、経済の中で画然と概念化された理路の先にはなくて、今の私がまったく理解していないなぞの迷路のどこかに、今の私がまったく言語化できない姿勢でぽつんと立ちすくんで私を待っているのではなかろうか。だったらじたばたしても無駄なので私はこれからもうろうろしていくしかない。Amazonプライムビデオの中にもおそらく迷路があるのだ。私はまだその迷路に入り込んですらいないのだろう。

でんこうせっかと言えばうまくオチたのに

合宿のとき寝言で「ピ、ピカチュウ!」って言ってしまったばっかりにあだ名が睡眠時ピカチュウ症候群になった悲しい同窓生と酒を飲んでいたところ、なかなか意味深なことを言った。

「飽きるということを、もっと許さないとだめなわけよ」

はあそうですかその心はとたずねると、彼女はつまり仕事とか人生に飽きてきたのだという。OK許そう。ありがとう許されよう。この会話頭緩そう。ありがとう緩されよう。しかしさあ、20年以上おんなじことやったら普通は飽きるよね。まあね。あんまり言わないようにしてきたけどさ。ていうか仕事するために生きてるわけじゃないから飽きてたって別にいいんだけど。そういう会話の中でしかし途中で急に声を張る。

「いや、仕事するために生きていいと思うよ!」

「そうだ! バカにするな! 仕事一筋だ!」

これ酔ってるだろ我々。声下げろ下げろ。しかし確かに同感だ。私たちは昔から思っていた。「趣味」とかそもそも雑なラベリングだ。生きがいという言葉ひとつあればあとはそれ以上再分類しなくていいのに、人はすぐ、仕事と趣味を分けようとする。それどころか、「趣味を仕事にするのはよくないよ、趣味が嫌いになっちゃうから」みたいなことを言う。何を考えてるんだ。仕事をなんだと思ってるんだ。そうだそうだ。趣味なんかいらないよな。仕事が好き、仕事で生きていく、それで必要十分だろう。「趣味がない人生なんてつまんない」とか自分の分類基準で他領域の疾病を分類しないでください。急に医者みたいなしゃべり方するのやめてください。で? それで?

「うん、それで、仕事するために生きてきた我々がさ、ここにきて、仕事に飽きても、それは別にいいと思うわけ」

あーそういう話かあー。

えー話複雑じゃない?

いや言いたいことはわかるけど。

あ、いや、めちゃくちゃ言いたいことわかるな。

そうなんだよな私たちには仕事しかない。しかしその仕事に飽きてくることはあるんだ。それを許そうって話だろ。そうそう。で、それは許されないよな。そうそう。なんで許されないのかな。それは、仕事の鬼だからさ、周りも「あいつは無限に仕事するからどんどん頼もう」ってなってるからじゃないの。それって依存じゃん。うん共依存だね。

で、あれだろ、ここにきて仕事に飽きたら、次は趣味に行くとかそういう話ではないわけだろ。

「そう! そう! 仕事に飽きたら次の仕事! そういうムーブが許されたらいいと思うんだけどなかなかね」

それは許されづらいよなーと思う。すぐ虫が湧いてくるんだよな。壁の穴の奥とか床下とか蜘蛛の巣のむこうから。虫がな。うん虫。「ほらだから趣味のひとつでも持っておけばよかったのに」。クソ虫め! 潰せ潰せ! えっ汁が飛ぶから汚いよ。そういうときどうするか知ってる? えっ虫? 知らない。どうするの。あのータッパあるじゃん。タッパ。小さいやつ。100均でまとめて売ってるようなちっちゃい丸いやつ。丸い? 球? いや半球っぽいやつ。ああなるほど。フタついてるやつ。そりゃタッパだからな。うんそれが? うんそのタッパをな、まず、壁とか床を歩いてる虫にパカってかぶせるのよ。えっなにそこで虫が窒息するまで待つってこと? 違う違う、そのかぶせたタッパの下に、クリアファイルを滑り込ませるわけよ。どういうこと? ああこういうこと(テーブルにあるお通しの小鉢の下に割り箸のふくろを滑り込ませる)? そうそうそういうこと(テーブルにある店員呼ぶボタンの下に割り箸のふくろを滑りこませる)。あっそれでふたして持っていくってこと? そうそうそうやって持って歩いて外で捨てる。うわぁ殺生を避けてやがる……。来世も人になるための功徳だから。えっもう人はよくない? 来世は朝顔局員っているよな。ポッド許可局でしょ。そう。


「仕事一筋の人生だけど仕事が何種類かあってもいいよねって話だよね」


まあな。でも俺らみたいなタイプは結局ずっと同じことをしてる。それはそうだ。何をしているか。何をしているか。そうだなあ……紆余曲折をしてる。自問自答をしてる。切磋琢磨をしてる。そんな大層なもんじゃないよ。淡々自若とかどう? おっすごいよくそんな言葉知ってるね。黙々奉公とか? えっなにそれすごいね。そんな四字熟語ある? あったよほら。Poeかよ! もう私たちが考えるよりAIに聞いたほうが早いよ。そうだね。じゃあ聞いてみよう。「仕事に飽きてもいいんだよね?」



えっ待って一行目で飽きてその後ぜんぜん頭に入ってこない。わかる~

料理診断

スタンプだけのリプライを送ってくる人間が生理的に無理なのだが、そういえば、生理的に無理であっても調理すると食える食べ物というのが世の中には存在する。調理といってもそんなにガンガンに熱を通すとか切り刻むとかまでしなくても大丈夫で、たとえばウニ・ホヤ・ナマコあたりは器や盛りつけを工夫すれば、さほど本質的な見え方は変わらないのにグロさは激減する。そういうことなのだ。つまり生理的に無理というのはそれ自身の有する性質・器質に対して与えられる評価ではなくて、組み合わせ・関係性・アーキテクチャではなくテクスチャに対して与えられる感情なのであろう。SNSという場所で、愛玩動物や木石のアイコンと下の名前をもじったような中途半端なアカウント名をひっさげて、さほど関係性も構築していないはずの私にスタンプだけのリプライを送ってくる人が無理なだけで、同じスタンプを中学校の同級生が送ってきたら別に嫌でもなんでもない。そういうことなのだろう。そういうことなのだと思う。



珍しい症例を1例見つけたので、論文を書こうと思う。医療の世界ではいわゆる「1例報告」ではもはやどうにもならない、というのはよく言われることだ。Letterとかcorrespondenceと呼ばれるミニ論文もしくは論文もどきならいけるのだが、大学とかで偉くなるために必要な「研究業績」としては認められないのだという。しかし私がやりたいのは業績を高めたいのではなくてこの症例の珍しさを世に問いたいのだからこの際、アカデミックに認められるかどうかはいったんおいて、この症例をいかに多くの人に共有できるかというところを純粋に考えるべきなのである。

しかしここにはジレンマがある。情報を多くの人に信頼度を保ったまま届けるには「論文もどき」よりも「ちゃんとした論文」のほうが圧倒的に有利なのだ。もどきはもどきの手続きだけでヌルっと出してしまえるから、読むほうからすると、「まあもどきで我慢する程度の人間が書いた報告だってことだよな」という先入観がぬぐえない。「1例報告では論文にならないのだが、論文にならないと1例のすごさがうまく伝わらない」ということなのである。そこでいろいろと考えを巡らせる。1例だけをピックアップしてそれについてのみ語るのではなくて、「たくさんの症例の中から浮かび上がってきた1例」という形式にすることでなんとか論文としての体裁をととのえる。何十例も何百例も検討したように見えてじつはある1例を届けたいがために書かれた論文、ということを、読者は読む前には気づかず、読み終わったあとに「そうかそういうことか」と気づくように書くということだ。めんどうくさいなあ。今まで私はそういう1例を結局letterのかたちでしか投稿してこなかった。けれど今回はもうちょっとがんばってみようかなと思う。素材そのものをただぽんと出しても病の理(ことわり)としては認められない、すなわち「病理的に無理」なので、丁寧に丁寧に調理することで、それそのもののうまみだけではなく組み合わせ・関係性・テクスチャとしてのおもしろさを引き出してやるということなのである。そうかそういうことなのか。そういうことなのだろうな。

でんでん太鼓脳

PCの向こうの壁には付箋を数枚貼ってある。付箋のノリはだんだん弱くなるのであとからセロハンテープで補強しているのだがそのセロハンテープ自体もだんだん剥がれそうになってきている。そうまでして、毎日目にして覚えたかったものとはなにか。

・数→性質→大小→新旧→形→色→年(起源)→材質: two benign large new round white peripheral chondroid tumor
・mixed (composite)とcollisionとamphicrineの違い
・cancer patients × / patients with cancer ◯

たとえば最初の「語順」は、これ、ビックリマンのヘッドを第1段から順番に覚える(スーパーゼウス→シャーマンカーン→スーパーデビル→聖フェニックス→……)とか、ワンピースで仲間が増えた順番(ゾロ→ウソップ→サンジ→ナミ→……)とかといっしょの単なるオタクムーブである。Benign peripheral chondroid tumorをperipheral benign chondroid tumorと書いたからと言って日本国内で殴られることもない。しかしかつての私はこういうところをちゃんとできる自分でいたかった。

次のもなかなか意味深だ。

Mixed (composite):ある単一のものから別様のものに分化して混在しているようす
Collision:衝突、もともと別のものが同一箇所に混在しているようす
Amphicrine:基からふたつの性質を併せ持つ成分があってそれが増殖して混在するようす

すなわちこれらはcombined tumor(混合型腫瘍)の細分類である。混合型といっても何種類かのパターンがあるんだよという概念を整理するためにこれらの分別は必要だ。しかしぶっちゃけ日常診療の場面では細かいことを言わずに「combined」と書いてしまえば用が足りるとも言える。

英単語のニュアンスを細かく覚える必要がどれだけあるかは疑問だ。でもなんかそういうのが見分けられる・使い分けられる自分でいたいと思ったのだ。



いつしか付箋が貼ってあることを忘れて背景放射となっていた。毎日目にするせいでかえって忘れてしまっていた。横丁の中華料理屋の横が更地になっていたけれどあれ? あそこって前は何が建っていたんだっけ? 毎日見ていたはずなのに思い出せない……のアレといっしょであった。そしてこれらは結局のところ、私が何を苦手としており、何をひけめとしているのかを如実に現している。

私は英語とコミュニケーションと人間が苦手だ。そして見分けがつかない自分を恥ずかしいと思っている。「見分けがついていない状態で何かを一絡げにして語った結果、それを他人から指摘されるとしんどい」と思っているのであろう。




そうだろうか?




私が知りたがっているものは本当に私の内部にある恥や引け目を反映したものなのだろうか? 私の行動は言語化できる程度の無意識によって駆動されているのだろうか? どうもそれも都合の良すぎる想像ではないかとうたぐってしまう。うたぐって? うたがっての誤記? ああ、「勘ぐって」とcollisionしているのだ。そうか。

どうも私には自分のかつての行動に意味があると信じたいふしがある。意味もなく泥酔して酔った勢いであまり理屈の整っていない失敗をした、みたいなことがとてもいやなのだろう。そうだろうか? 私は根本的に何が好きで何がいやで、だからこういう行動を選ぶ、といえるほど合理的な人間だろうか? その都度たまたまタイムリミットに迫られて不十分なシンキングタイムの末に暫定的に選んでしまっただけ、その都度たまたま腕の届く範囲にあるものを握力でつかめる範囲で拾い上げてしまっただけ、ということはないだろうか?

とはいえ何もかもが複雑系のカオスの末の一期一会だと達観できるほど私の視線は上空にはないしそういうのも最近ちょっと苦手になってきている。



思い起こせば私はずいぶん長い間、理想の、なりたい、こうでありたい自分というものに囚われていて、そうなるための努力をし続ける自分でいたいとも思っていたような気がする。そうだろうか? 私の生き方はそうやって一本の太い芯の周りにあったと語りたいだけではないのだろうか。そうだろうか?

妄想人類諸君に告ぐ我々は今日も酔っ払った半透明だった

そうとは直接書いていないことを想像して、頭の中で情景をふくらませていく。小説を読むときには誰もが自然とそうなるものだ。

王様の体格や口調はどうなのか、彼女の撒き散らしている香水のにおいはどんなものなのか、誰が誰に目配せをしていたのか、それは昼なのか夜なのか、誰がどこに皮肉を感じ誰が誰をうっとうしく思っているのか。

これらは勝手に巻き起こってくる。書いてないことを補正しようと意図して考えるようなものではなくてふわっと思い浮かんでくるのだ。書いてないのに。

「行間を読む技術がなければ小説は楽しめない」みたいな話をしたいわけではない。それよりももっと手前の話。「私たちは、いつのまにか、勝手に行間を読んでしまうカラダになっている」。




話は猛烈な勢いで変わる。内視鏡(胃カメラとか大腸カメラ)を持つ医者が患者の胃腸を覗き込んで、そこにあるものが病気なのか、病気だとしたらどんな病気なのかを考えていく過程のこと。

そこになにものかを見つけた医者は、見たものを見たまますべて言語化したり誰かに説明したりすることなしに、「ああこれは幽門腺腺腫だな」とか、「うーむこれはリンパ球浸潤癌だな」といったように、ある程度ブラックボックス的な思考を経たうえで、診断名をぽんと思いつく。

文字通り「思い浮かぶ」という言葉がしっくりくる。ふわっと、ぽこんと、浮かんでくるのだ。思考の深淵からもやりと立ち上ってくる霧のようなものがきゅるんと渦を巻いてだんだん実体化するようなかんじで診断名がいつの間にか「やってくる」。

ただし、医者はそれを、「経験と勘によって幽門腺腺腫という診断名が半ば自動的に思い浮かびました」と患者やまわりのスタッフたちに吹聴したりはしない。だってなんかそれはいかにも雑ではないか。誤診も多そうだ。

そこで理屈を用意する。後から理屈を付けていくというよりは、エンジンを有するバイクの横にサイドカー的にぴったりくっついて伴走するみたいな感じで、「あっ幽門腺腺腫っぽいな、なぜそう感じるのだろう。それは今までに見てきた幽門腺腺腫とどことなく似ているからだ」とか、「おっリンパ球浸潤癌っぽいな、なぜそう思えるのだろう。それはたぶんここで見えている毛細血管のパターンは下から癌とリンパ球によって上に押し付けられているような形態を示していると私が解釈しているからだ」みたいに、ブラックボックスと付かず離れずの距離で言葉を自転させながら公転させる。


で、私は、そのように医者が判断し、治療を行って取ってきた病変を、顕微鏡で見て確認をする。

そういう仕事だ、病理医とは。

そこではときに、不思議なことが起こる。


医者が自信満々に「幽門腺腺腫ですよね」と思って取ってきた病変が、幽門腺腺腫ではないということがある。えっ、それって誤診ですか!? いや必ずしもそうやって目くじらを立てるべき案件でもない。幽門腺腺腫に似ているけどちょっと違う腺腫、みたいなかんじで、治療方針はどのみち一緒なので患者にとっては別に悪いことではなかったりする。

ただ、医者は動揺する。間違いは間違いだからだ。

「えー……あんなに理論武装したのになあ……」。

病変の姿をきちんと言語化し、理屈を立てて、根拠をしっかり揃えているのに、それでも診断を間違う。直観だけで診断して間違うならまだわかる。でも理屈を揃えたはずなのに。

医者の診断を、病理医が細胞を見ながらひっくり返すというのはそういうことだ。向こうも素人ではない。必死で考えて念には念を入れた結果、それでも間違えていることがあるのだから大変だ。

であれば、私たち病理医は、「なぜその医者は正しく診断できなかったのだろうか」ということをたくさん考えるべきである。



「見た目が似ている別の病気とまちがえた」というのが一番シンプルな理由だ。そこをぐっと広げて細かくする。似ていますからねーで終わってしまってはだめだ。

見た目が具体的にどう似ているのか。上皮成分の形態が似ているのか。間質の量が似ているのか。血流の量が似ているのか。炎症の加わり方が似ているのか。

さらに、「似ているかいないか」だけではなくて、「なぜ、結果的にまちがった推論を立ててしまったのか」まで踏み込んで考える。「最終的にはまちがいだったわけだが、病理診断がなされる前はあたかも完璧に理屈がつながっているように見えたのはなぜ?」というところを解析する。


これには本当にたくさんのバリエーションがある。

マリオとルイージは色や背丈が違うから普通は見間違わない。しかし、帽子やヒゲの形は似ている。カラーリングと身長を見比べるということに思考が及ばないまま、帽子やヒゲといったパーツの形だけで判断をすると間違うかもしれない。「推論が狭い範囲で回されている」と間違う。

ポケモンとデジモンはまったく違うコンテンツだ。アニメポケモンでやっていることは収集と成長。アニメデジモンでやっていることはサバイバルバトルだから本当にぜんぜん違う。しかし、少年少女がたくさんのモンスター的なものとかかわるという概念自体はまあ似ている。「要約のしかたが偏っている」と間違う。

昔、ある英語教師が「ドラえもんはよくないアニメだ、なぜならのび太は努力しないでドラえもんの道具にばかり頼って楽をしようとしているからだ」と言ったとき、私は思った。こいつ見てないな、と。さほど見てないのに自分の中で想像をふくらませてストーリーを作り上げている。「観察結果から導ける推論を越えて妄想をふくらませる」と間違う。

診断のエラーにおいて特に無視できないのが最後の「妄想をふくらませる」というやつかなと思う。妄想? やめなよ! と言えるほど私たちの脳は冷酷にはできていない。

冒頭で小説の話をしたことを思い出してほしい。私たちは、そこに「ストーリー」が読みとけそうな雰囲気を感じると、自動的に物語を組んでしまう。病変の表層が一部ゴツゴツしていて、一部は光沢があるのだが一部は形態が乱れているとき、「癌であれば不整な増殖をするからゴツゴツになるし形態が乱れる、だから癌だ」と、推論を猛スピードで伸ばしてしまう。

ほんとうはそこまでは言えないはずだ。良性だってゴツゴツすることはある。炎症だって形態を乱す原因になる。でも「癌というストーリーに乗っけてしまう」。そこまで具体的に書いてないのに、行間を深読みしてしまう。

自分がそのような思考をしていることに自覚的でないと、診断の精度はなかなか上がらない。




病理医がやるべき仕事は「ブブーその診断は違います。こっちです」と正解を提示することだろうか。私はそれだけではないと思う。あなたがなぜ正しい推論にたどり着けなかったのか、そのわけをセットで説明してなんぼだろう。病理医が、顕微鏡で細かく細胞を見られることをいいことに、「私の診断は正しい、なぜなら私はこれこれこういう細胞を見てこのように理屈を組み立てたからだ」みたいに胸を張ったとしてそれがなんの役にたつのだ。医者は、「お前が正しく推論したのはわかったけど、じゃあなんで、我々は正しく推論できなかったんだよ……」という不満を残す。それではいけない。

「人は生まれながらに妄想気質である」ということとまじめに向き合ってその対策を立てることは、病理医の大事な仕事なのではないか。「この所見だけでこっちの推論に飛びつきたくなるのは人情ですけどちょっとまってください。この人は特殊な炎症が背景にあるんです。だったらこういう所見が出るにはただひとつの筋道だけじゃない、ほかの可能性も出てきますよ」。

人情と戦う。人の性と戦う。どうもそういう仕事のような気がする。

アリスかわいい

病理診断の報告書を書くというのはそこにいる人の名前を当てる作業とちょっとだけ似ている。

今あなたの目の前に交差点があり、横断歩道の向こう側で信号を待っている人がいます。よく見てください。それはだれですか? 着ているもの、体の大きさ、立っている姿勢、首の角度みたいなものを総合して、「ああそれはヒロセスズさんです」と即答する。理屈ではない。パッと見てガッと思いつくことに理屈はない。目が大きいからですとか髪が長いからですという断片的なヒントを積み上げてヒロセスズだと考えているわけではない。ヒロセスズという「診断」はトータル・総体として、さまざまな理屈を巻き込みながら猛然と脳内に飛び込んでくる。

細胞もいっしょだ。これは肺腺癌だということが飛び込んでくる。


それがヒロセスズであることは、たいていは秒でわかる。ただ、場合によってはちょっと時間がかかる。しかしそれは決して「ヒロセスズである理屈を述べるのに時間がかかるから」ではない。もうちょっとぼんやりとした時間の経ち方をしている。

あーあれ誰だっけ……その……ハマベ……いや違うそのあれ……そうだヒロセスズ! となっている途中の「……」のところ。ここはすごくぼんやりしている。あなたにも経験があるだろう。何かを思い出すとか何かを思いつくまでの間の脳は、ハードディスクのようにカリカリ音を立てるわけでも放熱するわけでもないが、しかしなんというか、ごちゃごちゃもやもやと動いているような感覚がある。そしてそれは言葉で言い表すことがとても難しい。

私たちは日頃、それがヒロセスズであると判断するに足る理屈をいちいち言語化していない。言葉になっていない思考によって生じる「……」は、あとから振り返っても何を考えていたのか再現できない。したがって実際に私たちが「……」のところでどう判断をぶん回していたのかはよくわからない。

細胞もいっしょだ。この異型上皮は悪性ではなくて良性……うーん……良性……? いや、やっぱり悪性! と判断するときの「……」のところで、おのおのの病理医が何を考えているのかはとてもわかりにくい。


ヒロセスズの診断と腺癌の診断は何が違うか。

ヒロセスズはしゃべる。「ブブー私は綾瀬はるかではありません。ヒロセスズです。まあ綾瀬千早なこともあります笑」。そんなしゃべりかたはしないと思うがあくまで例え話だ。大事なことは、ヒロセスズは誤認されても自ら訂正してくれるということだ。

いっぽう、腺癌はしゃべらない。「ブブー私は腺癌ではなくたんなる良性の上皮です。治療はいりません。治療すると訴えられます」。こうは言わない。病理診断は「判断が間違っていたときに本人(?)が直してくれない」。

ヒロセスズを違う人の名前で呼べばそれはそれで社会的なダメージがあるとは思うが、まあ、それはなんとかなる。一方、病理診断を間違うとそのままたくさんの不適切な診療プロセスが進んでいく。ここが違う。


ヒロセスズが自ら語るようには細胞は語ってくれない。その怖さをおぎなうために、私たちは病理診断において、人を当てるのとは少し違う思考システムをむりやり外挿する。「所見を積み上げる」。核が大きい、クロマチンの量が多い、核膜が不均質である。核と細胞質の比が大きい、細胞同士の結合性が弱い……。これらを羅列して理屈でつなぐことで、「だから腺癌です」というように病理診断報告書を書く。

ぶっちゃけ、これは、わりと欺瞞だ。

私たちが横断歩道の向こうに立っているヒロセスズをヒロセスズと認識するのに理屈を使っていないのと同様に、本当は、細胞をこうだと判断するのに理屈をいちいち積み上げるようなことはしていない。でも理屈で診断したんだぞという話を仕立てる。

脳はそんな思考過程をたどらない。しかし、迷いながら病理診断をする過程の、「……」の部分がブラックボックスのままでは同僚や仕事相手とコミュニケーションがとれないし、合っているか間違っているかの保証が何もなくなってしまう。だから「……」の部分を具体的に穴埋めする。それは、未来形で診断したものを過去完了形で書き直す作業だ。「ああ、なるほどね、だからそれを腺癌と判断したんだね」とみんなに思ってほしい。「なるほど」の部分をいかに本当っぽく組み上げるか。本当は直観で診断しているものをそうじゃないと言い張るだけの胆力がないと病理診断は書けない。


細胞の性状を診断するにあたって、所見をだらだら書くのは「うそつき」であり、「言い訳がましい」。しかしそれを程よく引き受けることで、「方便」が機能し、「指差し確認のように慎重な病理診断」が達成される。


ところで、病理診断というのは名前を書いてそれで終わりではない。それは私たちがヒロセスズを認識したあとにそれで思考を止めないのと似ている。

私たちは横断歩道の向こうにいるヒロセスズを認識したら次にどうするだろうか。ほとんど無意識に、「そのヒロセスズが何をしているか」を目で追うだろう。友達としゃべってる。スマホ見てる。歩き出した。向こうに渡っていった。どっかお店入った。挙動を見てしまうだろう。

細胞もいっしょだ。その細胞はひとところに固まっているか? それとも散らばって好き勝手に動いているか? 何か栄養を確保するための手段を周りに持っているか? 本来あるべきものを壊しているか? 挙動を見るのだ。これは「見てもいい」とかではなくて「見るべき」である。病理診断の役割は名前を付けることだけではないのだ。ヒロセスズのプライベートは放っておいてあげたいが、細胞の挙動はすべてチェックして報告するべきだ。

名前を付けるときは「直観」がメインだった。挙動を追う段階では「描写」をする。これらはおそらく脳の働きとしては微妙に違うものだと思う。挙動を追う段階でもまだ直観は作動していると思うのだけれど、「その細胞の名前がなにか」に比べると、「その細胞がどうふるまっているか」のほうはすごく言語化しやすい。ブラックボックス感はない。

浸潤の度合いはどうか。線維化や血管の増生はいかばかりか。壊死はないか。炎症細胞を伴っているか。これらも私たちは「所見」と呼ぶ。



ヒロセスズの髪の毛の色や目の大きさ、服のセンス、全体に醸し出されるかわいらしさみたいなものが、イコールヒロセスズであると結びつけられるか? それはすごく難しいだろう。なぜヒロセスズがヒロセスズなのか、髪が長いからヒロセスズなのか、目が大きいからヒロセスズなのか。違う、それはヒロセスズだからヒロセスズなのだ。しかし、ヒロセスズが歩いた、スマホを見た、走った、コートで3 on 3をはじめた、みたいな描写は、言語化することで確かにヒロセスズの様子をきちんと伝える。これらは欺瞞ではない。

病理診断における所見にも同じことが言える。なぜそれが腺癌なのかを語っているときの「所見」は多少なりとも欺瞞を含んでいるが、その腺癌がどう振る舞っているかの「所見」はまさにそのまま必要な描写である。

以上を踏まえて、私たちは、病理診断を書くときに、所見をどれくらい書くかに頭を捻る。


ヒロセスズがいたよと人に伝えるときに、「本当にヒロセスズだった?」と聞かれると困ってしまう。だってすごいかわいかったよ、と言ったら、「ヒロセスズ以外にもかわいい人はいるよ」と返されるかもしれない。病理診断における「診断のための所見」にもそういうところはある。けれども言ってしまうのだ。実際にヒロセスズを見たら書いてしまうのだ。「かわいかった」と……。病理診断における「診断のための所見」も、まさにそういうニュアンスを含んでいる。実際に腺癌を見たら書いてしまうのだ。「構造異型がある」と……。そして、「ヒロセスズ何してた?」と聞かれたら、嬉々として「こっち向いて笑って手を振ってくれたよ」と伝える。これはもう絶対に言いたい。病理診断における「挙動を表す所見」も同じだ。絶対に書きたいのである。「あっち向いて浸潤してリンパ球と戦ってた」と……。

問題は私が道端でヒロセスズに会ったことがないので以上がすべてかなり痛々しい妄想で書かれているということだ。ヒロセスズは存在しない。病理診断は存在する。そこは大きな違いである。

宇宙開拓史を1/3くらいカットしながら放送した例の特番

知性というものを数値とかステータスとかポイント的に考えると、それはあたかも大富豪と平民の差みたいなもので、たくさん持っている人間ほどそれを元手にさらに荒稼ぎできるという絶対的な性質があるために、いつまでもその差は埋まらない。頭が良くなりたいと思ったら頭が良い状態になってください。かしこくなるためにはかしこい必要があります。ひでぇ話じゃないか。

となればせめてこのブログに「知性というのはそうやって人と比べるものではないです」みたいな言葉を書きつけて、一瞬くらい自他を安心させられるかというと、やっぱりそんなこともない。残酷なことに知性というのは実際にステータス感をまとっている。「受験の点数で人間は測れない」という言葉がほんとうに世のみんなに納得されていたら逆にこんなに言及されないだろう。この世は持たざるものに厳しく、点数を出せない人に冷たい。世の中は、少なくともこうしてインターネットを介して日本語を読み書きする私たちの周りに展開する程度の世の中は、知性をポイント制にして順位を競うことを日常のデフォルトにすえている。

知性というものはスカラーというよりベクトルっぽい概念であって、絶対値だけでなくてそれが向いている方向を内包した概念だ。だから他人と自分の賢さはそう簡単には比べられない……とはいうが、たまたま同じ方向を向いている矢印の間ではやっぱりその長さを比べられる。「知性ってのはベクトルだから数字にこだわらなくていいですよ」とはならない。

漢字を知らなければ本が読めないし音符を知らなければピアノは弾けないし頭が良くなければ生きていけない。「頭がいいというのにもいろんなパターンがあるんで、ほら、受験だけが頭の良さをはかる手段ではないですから」。ほかの手段ではかってるだけのことだろ。「そんなに頭良くなくてもいいんですよ、東大を出なくたってほら、立派にこうして生きていけるんです」の「立派に」というのがどういうものかと考えてみる。職業に就いて、お金を稼いで、そこそこ自分の裁量で買い物をできるという条件が「立派に」揃っているということだ。その「お金を稼いで」のところにこれまたスカラー的な評価がまとわりついている。「買い物」のところにもだ。年収何億もいらないけれどひとまず月に手取りで◯万あればどこどこに住んで何を食ってときどき旅行にも行けるじゃない。そのためには超絶頭が良くなくてもいいけど最低限これくらいの常識は知っていて、損をしない程度に暮らす知恵はいるよね。ステータスの上限は見ないけど下限というか予選通過順位は気にしてますよ。いっしょだ。いっしょである。けっきょく知性はステータス扱いされている。

「いい大学を出ていなくても、いわゆる受験脳は持っていなくても、すごく頭のいいことを言う人がいますよね」みたいなフォローをちらちら目にするがそれもどうかと思う。それはつまり「評価方法を変えればこちらの人のほうがステータスが高くなります」と言っているだけだからだ。芸術家の◯◯さんは小学校までしか出ていませんがその人生訓は◯◯万部を超えるベストセラーとなり多くの人に受け入れられています。在野の賢人ですよね。誰目線で何を評価しているのか。

頭の良し悪しという言葉の呪いは強力だ。私たちはバカなままでは暮らしていく資格がない。頭の良さというのは「負け額の2倍をベットし続ければいつかは勝てる、金持ち勝つの法則」のように、賢い人ほどその知性を使ってより大きな賢さを手に入れられるという身も蓋もない強者の原理によって担保されている。私たちは賢くなければいけないし、賢くないならどうやってもそれ以上賢くなれないとキッパリ言われてしまっている。





へんな宿に泊まってしまった記憶に限っていつまでも覚えている。事前に予定をしっかり立てて、移動、観光、食事、寝具とこだわった旅程は、他人の旅の思い出とまぎれてしまってどれが自分の思い出だったのかわからなくなってしまったりするが、今を去ること10年近く前、忙しく過ごしていたある日、「2日後なら家族の予定が合うようだ」と気づいてそこから大急ぎで楽天トラベルで宿泊地を探し、かろうじて見つけた内陸の格安温泉宿を予約して、これで今年の夏休みも形式上は休んだことになるぞと胸をなでおろしたのもつかの間、行ってみるとやっぱり建物はボロボロで、大浴場の湯加減こそよかったけれど壁も天井もヒビと虫ばかり、メシもふつうでなんならちょっと変な食材も混じっていて、家人もちょっとあれはイマイチだったねと帰りの車で首を傾げるような、そんな残念な旅の思い出が、ふしぎなくらい脳裏に焼き付いていて、おそらく一生忘れることはないだろう。写真を撮るでもなくお土産を買うでもない失敗談のことをふと父母に話すと、私たちのころもあったわよね一度、そうそうあればひどい宿だったねと、まだ私が小さくて覚えていない旅のことを少し悔しそうに、でもどこか楽しそうに思い出すのだ。なるほどこれは血筋というものかと最初は思ったが、いやこれは血筋というかそもそも人間というのがそういうものなのではないかと思う。

これは「氏名」と同じ発音の「知性」の話ではなく、知というものの性質について、すなわち「地名」と同じ発音の「知性」についての話だ。私たちの知の性質というのは、なかなかままならない。そんなもの覚えていたところで決していつかなにかの役に立つことはないだろう、という記憶がなぜか蓄積されている。よなかんばって、どんばんは。ヒャド、ヒャダルコ、ヒャダ……いてて、舌をカンダタ。♪な~にを 小癪な 木っ端役人~。これらが仮に走馬灯で出てきたとしてもそれが私の今際の際を救う可能性はゼロである。ステータス的な意味ではいっさい賢さに寄与しない脳のデブリ、これこそは、地名と同じ発音で高らかに宣言されるべき知性ではないか。知というのはステータスではなくて頑固な油汚れみたいなもの。知というのは持てば持つだけ増えるものとかではなく故意性ゼロでうっかり見えてしまうパンチラのようなもの。3倍録画を繰り返したビデオテープでノイズまみれに保存した「『大長編ドラえもん のび太の恐竜』の公開直前テレビ朝日特番」に出てきた、素人に毛が生えた程度の出演者たちのセリフ「いい男~~~!!」を今でも再現することができる私の脳に知の性質のようなものを垣間見る。役には立ちません。それはただそうやってあるだけのものです。ブログ1本くらいなら書けるけどね。

人を信じてないから言い訳がましくなるのだ

窓を開けて寝ていたら夜中に雨が降ったらしい。さほど風はなかったようで室内に雨が吹き込んでくることはなかったが、和室の畳がすこししっとりとしており夜半に湿度が高くなっていたようである。体を起こして畳を少しさわり、近くに落ちている髪の毛を拾って立ち上がり、洗面所に向かって軽くうがいをしたあとに冷蔵庫を開けてお茶を飲む。寝ている間に口の中にたまった細菌をそのまま飲まないほうがいい、みたいな話をだいぶ前に聞いて、なるほどありそうなことだなと思って寝起きの習慣にしているのだけれど、菌ってこんなうがい数回くらいで動くものでもないと思う。実質的な意味はほとんどないだろう。どちらかというと口の中のゆがんだ空気を入れ替えるような感覚。そう、これは感覚的なものでしかなくしきたりとか迷信に近い。物性とか化学とかの理屈でなにか意味のあることではない。そんなことはわかっている。理屈ではないところが習慣化していると妙に言い訳がましくなる。私は比較的言い訳がましくなる。


ずいぶんと長くかかった原稿をようやくまとめ終えた。編集者には「こんなに時間がかかったのははじめてかもしれませんね」と言われる。確かにそうだ。1か月くらいかと思ったが実際には7週間。ほぼ2か月かけてたった13000字である。しかしそれだけ思慮深くまとめあげたということだ……ほら、また言い訳をしている。どうも細菌じゃなかった最近言い訳が多い。家族にもたまに指摘される。なぜだろう、どうして今更、おそらく私は世間からのずれを気にするようになってきているのであろう。「しかたなくずれてしまう」ということ、「ずれを直す気はある」ということを、前よりも口に出すようになった。口から出すようになってきた。口の中にあったもの。夜の間にねばついたもの。


Spotifyで畑亜貴・サンキュータツオ両氏による「感情言語化研究所」を聞く。畑亜貴さんは先日の台湾旅行の話を持ちかける。朝のビュッフェで、フロアスタッフがおかわりのパンを持って自分のテーブルにやってくると、「別にもうパンはいらないのに、ついパンを受け取ってしまう」という話をする。あいかわらず【人の期待に応えちゃう病】が発動するのだと言って苦笑する。

その流れでタツオさんが言う。「はたさんはそこ、難しいところがあって、お人好しで人間不信で頑固っていうね」。お人好しで人間不信で頑固! すごい! 語感だけだとなぜこの3つが同居しうるのか不思議でしかない。お人好しなら人を信じそうなものだろう。でも人間不信。お人好しなら人に流されそうだろう。でも頑固。いったいどういうことなのか。

畑亜貴さんは「他人が自分と違う考え方をしている可能性を信じていない」とタツオさんは指摘する。目の前にいるこの人(例:フロアスタッフ)が自分だったら、今ここにいる私に向けてパンを渡したいはずだ、だからその期待につい応えてしまう……という話を、「つまりそれは相手が自分とは異なる考えを持っている可能性を信じていない、人間不信だってことだ。相手はパンなんて別に渡したくないかもしれない。バイトで仕方なくフロアを歩き回っているだけでいちいちパンを受け取られたらめんどくせぇと感じているかもしれない」というのだ。私はこれを聞いてうなってしまった。「世の中の人間がみな自分と同じような考え方をするだろうと無意識に前提してしまうこと」は人間不信なのだ! 人を信じるというのは自分の考えと異なる正解を許容するということ。人間の多様さを信じていないからこそ、自分に接するように人にやさしくしてしまう、それがつまりはお人好しということなのだ。びっくりした。

しかもそれを指摘されても「そんなことないんじゃないか、だってパンを受け取ってもらって悪い気はしないはずでしょう」と意固地になるというのがつまり頑固ということなのだ。お人好しというのは人間不信と頑固に支えられている。これまで考えたこともなかった。そして私は我が身を振り返った。言い訳がましいというのはつまり自分の中に流れている理屈を開示すれば相手は私をまちがいなく理解するはずだという「人間不信」に基づく行動ではないか。私は徹頭徹尾人間を信じていないよなあ、と腑に落ちる。ねばついた細菌が腑に落ちて腸活が滞る。

限定的なものいい

学会発表の共同演者数は20名までなのに、21名になってしまった。ケースシリーズだから症例提示にかかわった人みんな入れたかったんだけど、そういうわけにもいかない。まいったな。話を聞いてくれそうな旧知の医師にはずれてもらうようにお願いするしかない。一度演者に入ってくれと言っておいて「やっぱり上限超えちゃったから抜けてね」とはどうにも情けない。これまでの関係性があるからおそらく私が失礼なおねがいをしても聞いてくれるだろうけれど。

いい人ほどババを引く構造を作り出してしまっている。申し訳ない。なにについても言えることだが。


フライトが遅れに遅れて駐機場についたのが21時45分。タクシー以外で街中に移動できる唯一の手段であるバスの発車時刻が21時45分。いくらなんでも飛行機が遅れたんだから待っていてくれるだろうと思ったけれどなんだかいやな予感がして、飛行機を降りてから競歩でさっさかゲートを越えたらバスの運転手が心配そうにこっちを見ている。あっよかった、やっぱり待っていてくれるんだと思ったが、私とあと2,3人のお客さんを乗せたらバスは容赦なく出発してしまった。えっ、だって、私たちは荷物を預けていないからいいけど、あとのお客さんはどうするの? 私はなんだかほかの客を出し抜いたような気持ちになってしばらく落ち着かなかった。まあ、臨時のバスがもう一台くらい出るのかもしれないし、先に乗っていたお客さんをこれ以上待たせるわけにもいかないのだろう、でも、これ、私のように、たまたま飛行機の前に乗るクセがあり、たまたま荷物が身軽でいいくたびれた男性出張者が、たまたま早足でせかせか生きるのが好きだったというだけで、たまたまバスに乗れて日が変わる前にホテルに着けたということになるけれど、もっとじっくり人生を味わい気味に暮らしている立派な人たちとか、あるいは家族や周りの人が降りるのを手伝っている気のいい人とかがバスに乗れなかったことを申し訳なく思う。なにについても言えることだが。


業績はすごいのにいまいち業界で人気がない医者といっしょに仕事をする機会が先日あった。15分くらいでピンと来た。自分のことしか考えていないんだなということが言葉の端々、というか、目の配り方みたいなものからびんびんに伝わってきた。講演時間は守らないしほかの人の発表は聞かないし周りをもり立てるような発言をしようという発想がそもそもない。それだけ自分に注力していればそりゃあ多少はいい仕事ができるだろうな、という強めの「なあんだ」におそわれる。意図的に視野を絞る感じと、馬でいうところのシャドーロール(馬の司会を限定して前だけ向かせるためのぼんぼりみたいなやつ)を自分に装着しているようなふるまい、「自分の仕事に責任を取れるのは自分だけなのだからほかの人物コトにかかずらっているヒマはないんですよ私何か間違っていますか感」みたいなもの。そういう厚顔なふるまいを今の私くらいの立場の人間が真っ向からきっちり否定することで、この先この人に迷惑をかけられる人の被害を未然に防ぐことができるだろうか、としばし考えた。結論としてはまあ無理だろう。申し訳ない。なにについても言えることだが。


心の中で謝ってばかりいるが実際にそんなこと言われても困る人のほうが多いだろうから直接謝る機会は思ったよりずっと少ない。押し付けの謝罪で気持ちよくなるのは謝ったほうばかりであり、謝られた方はどぎまぎしたりフォローの必要性に迫られたりと、とにかく、「謝られるほどいやな目にあったのに謝罪そのものでまたいやな目にあう」みたいなことが世の中にはたまに発生すると思う。「贈与」という言葉をブログで書くタイプの人全般に言えることで、そういう人たちは自己の快感を惹起するために「利他思考」でいようとする変質者だ。そうそう「利他」もやばいと思う。これらのキーワードをどれくらい日頃から自分のために使っているか、それでいい思いをしているか、みたいな推し量り方はわりと有効である。やるせない。なにについても言えることだが。

時の先に棲む相方

二泊分の着替えを入れてもトートバッグひとつで済んでしまうことを「出張上手」と呼んで胸を張っている。しかし、化粧水とか折りたたみ傘とか本当は必要なものを無視しているから荷物が少ないだけで、何か足りないものがあっても現地のコンビニで買えばいいやとあきらめたりやけになったりしているのであって、本当は出張上手でもなんでもなくてただのずぼらなのだ。革靴にキズが目立っている。いい靴を買っていい歩き方をすればいつまでもピカピカなはずだがいつも靴を買い替えて出張を一度すると履き古したような靴になってしまう。そういった、物に対する気配りのようなものが全般的に足りていない。今回の出張では、稼働時間も長くしゃべる内容も多彩なので、ジャケットにパンツのスタイルのほうがマッチしたかもしれないのに、必要以上にフォーマルなスーツを選んだのも「これだけかっちりしておけば少なくとも誰かから無礼だと言われることはない」という消極的な理由に過ぎない。

生活・身のこなし・ファッション・おしゃれという部門が全般的に苦手である。年齢や社会的関係性に照らすと不相応に無頓着で、いろいろと欠落している。これによって失った信用もあったのではないかと思う。こだわりのようなものがないわけではない。しかしその自分のこだわり、あとで振り返ると何を意固地になっていたのか、なぜ人びとの背中を見て真似しようと思わなかったのかと不思議に思うことばかりだ。昔かけていたメガネの形、昔着ていたパーカーの柄、すべてが当時の時代に即してもどことなくずれていて、私はずっとこうだったのだということをしみじみと感じる。

今週は毎日眠りが浅く、今日はとうとういつもより一時間以上も寝坊してしまった。のそのそ支度をして朝ご飯もゆっくり目に食べて出勤すると、始業時間の一時間半前。もそもそメールの返事をしてすっかりやることがなくなって、始業まであと10分というタイミングでブログを書いている。一時間寝坊しても業務に支障がないほど早朝出勤している理由はそもそもなんだったのか。がんばって思い返そうとするが心当たりがとんとない。これもいらないこだわりだったのではないかという気持ちが拭えない。早出・居残り・自己研鑽。

生活のあれこれをさらすとストーカーたちが私の居場所を特定して追いかけてくるのでSNSで居場所や行動について書くことは減った。「いいじゃない、普通の人はSNSに自分のことなんかあれこれ書かないよ。むしろなんでも書いていた今までのほうがおかしかったんだよ」という意見はよくわかるし、まあそうなんだよなと思って、最近はずっとSNSを減らしたまま過ごしている。特に支障はない。ただ今日、このブログを書いていて、ふと思ったのは、「私がこうして自分のやっていることをどこにも書き残さないようにすると、数年後に今のことを振り返るのが難しくなり、結果、あのころの私が実はこれくらいずれていたということを認識する機会も減るんだろうな」ということだ。さほど大切ではない決め事、自分ルール、そういったもののせいで道を外れ、外れたことを指摘されて困惑し、を繰り返している私の人生は、「だいぶ丸くなったよ」と言いながら(自称)、おそらく相変わらずやらなければいけないことをほっぽりだして誰もやろうとしないことをちまちまやっているわけで別に本質的な部分はさほど変わっていない。今日の様子を記録しておいて数年後の私に「あの頃もやっぱりずれていたんだ」と肩を落とさせ修正をかけさせ人の世で恥ずかしくないように矯めさせるためのツールが私にとってはTwitterだった。それなのに私はうっかり、12年以上続けていたアカウントをばっさり消去してしまった。それは本当に残念なことだったし私はあのアカウントを失ったことで昔の自分のズレやオイタをうまく認識できなくなり、毎日、あたかも「普通の人間ですよ」「平均的な反応をしますよ」という顔をしてのらりくらりと生きている。たぶんぜんぶ見透かされているのに私はうまく逃げ隠れることができているような顔をしてぬらりひょらりと生きている。だからこうしてブログを書くのだ。読み返すことはめったにないけれど、私は今日も、自分があのときもちょっとずつずれていたんだなということを認識するために何かを書く。そして、「いつか未来の自分がつっこんでくれるから、今多少ずれていてもそれは未来の自分が気づいてくれることだから」と、どこか安心したりしているのである。