テイクケアオブユアマウス

月に1度くらい歯医者に行ってクリーニングをしてもらう。虫歯の雰囲気はなく、ありがたいことだが、出張が増えると歯茎が腫れる。ブラッシングでいきなりブシャブシャ出血するわけではないしリンゴも丸ごとかじれる(かじる機会はない)のだけれど、ただ、歯科衛生士に拷問器具(比喩)でちくりと触れられたときに、ああ腫れてるなーということがわかる。微弱に痛むのである。口のあちこちがそうなっているというのではなく、なんとなく右の上の内側がなりやすいという傾向があって、やはり歯ブラシのクセとか圧の問題もあるのかもしれない。そして最も相関があるのは出張の回数と移動距離と睡眠時間と懇親会で飲んだ酒の量で、つまりは私の生活が乱れると歯茎も乱れる。バロメーターである。近年は、出先でもなるべく食事のあとには歯磨きをするようにしている。ただ、さすがに学会会場や研究会会場のお手洗いで歯間ブラシとかフロストまで使って完璧なケアというのはむずかしい。どうしてもおざなりになる。仮に出先で朝昼晩ねんいりに歯磨きをしても結局はふつうに仕事の圧によって歯肉もダメージを受ける。歯科衛生士に「出張したんですね」と言われて口を開けたまま「んい」とか「んん」とか答える。歯ブラシ強く当てすぎてないですか? ないですよね。ほかのとこはちゃんとできてますもんね。んい。ん。んんう。なんでこちとら口開いたまんまなのに返事させんの? 鼻息でモールス信号しろと? ンッフッフー、フー、フー、フー、ヌッフッフー。


だいたいこれくらいの壊れ方。文体のことではない。人体のことだ。学会ではしだいに前のほうに座るようになる。偉くなってマイクのそばですぐにしゃべれるようにスタンバイしているからではない。目がかすんでスクリーンが見えないからだ。しかしあまりスクリーンに近すぎると今度は頸椎症のくびが悲鳴をあげる。膝はまだ大丈夫だ。腰はもうだめだ。腹は出る。内臓ははがれる。肺はやる気がなく心臓はおびえている。脳は浮気者だ。ほんらい考えるべきではないことばかり考えるようになっている。肌が割れる。さけてひびが入る。腎臓はどうした(キャベツはどうしたのメロディで)。そういった不調の数々にはバイオリズムがあり、同じ会場、同じ場所で、同じように体験しようと思ってもいつもより調子がよい日もあればぜんぜんだめな日もある。波がある。うねりがある。そういったものを歯茎から感じる。かつて「皮膚は愛の臓器だ」と言った皮膚科教授(故人)がいたが、口は愛憎入り交じる臓器だ。私の内側はどこまでか。私の外側はどこからか。私とそれ以外とを疎隔する場所。境界で内外が互いに侵入し合う場所。口内炎は口外するな。それは露出狂と相似形である。

大人はわかってくれない

田島列島『みちかとまり』の3巻が出ていたので読む。遠野物語を読んでいるような気持ちになるマンガ。それでいて田島列島だなと感じる色味が豊かで、なんというか、清貧な贅沢さがある。ふしぎな創作物である。4巻で完結するのかなあと思う。また1年くらい待たないといけないんだろう。そのころには私はこのブログで3巻に対してこのような感想を書いたことも忘れていると思うけれど、おそらく、田島列島のマンガを読んで感想を書かないというのは無理なことであり、4巻を読んだ未来の私は、このブログを忘れていようとも、誰に催促されずとも、またきっと必ずどこかに感想を書くだろう。

決して他を貶める意味で言うわけではないのでそこはわかってほしいのだが、これまで、なんらかの続き物の創作物について、「新刊が出てもきっと感想を書くだろう」と確信までしたことはたぶんない。それは読んでから決めることだからだ。それは読む前に決めてはいけないことだからだ。しかし田島列島『みちかとまり』の4巻については、まだ読む前どころかその物語はいまのところおそらく田島列島の頭の中にしか存在しないし頭の中にもあるいはまだ存在していないかもしれないのだけれど、おそらく、私はそれを読んだら感想を書き留めておきたくなることだろう。田島列島とはそういう稀有な作家なのである。そういう希少な作家というのはほかに誰がいるだろうか。名前をあげはじめると、名前をあげ忘れた人に失礼だから書かないことにする。

感想を書くというのは、自分がその瞬間ひたっている無形の感情を言語によって腑分けして解析する病理解剖のような行為である。ただ、今は、「個人の感想を誰もがみられる」という余計な社会の修飾によって、だいぶゆがんでしまった。「推し」とか「推し活」というのはつまり広告塔ワナビだ。「自分がなにかについてよい感想を述べる(目的)ためによい作品を読みたい(手段)」と公言してしまっている人間もいる。そこは本当にどうにもゴテゴテといろいろ飾り付けられてしまっている。さらに踏み込んだことを言えば、私は人間というものはおそらくワナビ的であるときにかなりいいバランスのホルモンやらケモカインやらをクラインするのではないかと思っていて、感想を書くことでいっそクリエイター以上にいい店で飯を食いハイエンドiPnoneで自撮りをする大手広告代理店営業係長の塗りすぎた日焼け止めで照り焼きのように輝く肌艶が保たれるという側面はたしかにある。何ワナビでもいいのだが広告塔ワナビくらいならほかにも喜ぶ人を生み出すことができるからまだかわいいほうだ。まあその理屈だと救世主ワナビと似たりよったりなのだけれど。

医療機器メーカーの営業からメールが来た。どうしても先生のお役に立ちたいのでZoom会議でよいので少し時間をくれないかという。詳しい内容を書いてこないので判断のしようがないがひとまずZoom会議を断る理由はないので日時をメールで返信すると、それに対する返信が毎日とどく。「お引き受けいただきありがとうございます」「明日になりましたがご確認のほどお願いいたします」「本日これからどうぞよろしくお願い申し上げます もし急なご用などございましたらぜひお教えください 先生のお邪魔にはなりたくないと思っております」。たったひとつの会議のために3通ものメールにいちおう目を通しておかないといけない時点でものすごく邪魔になっているのだが、この人はつまり、クライアントの役に立ちたいという目的のために行動しているのではなく「自分が誰かの役に立っていると実感できる状態でいたい」という家政夫のミタゾノワナビみたいな状態なのだ。それが悪いことだとは思わない。それが結果的に誰かの役に立ち本人にも納得の給料が入るのだからよいではないかと私も思うし社会もたいていそのように思っている。

広告メソッドでいろいろ動いている場所がどんどん嫌いになっていくのは私の性格にも問題があるのだろう。それこそ仙人ワナビなのかもしれない。ファッション霞食い。

うまさを星でカウントするスタイル

昔、「お湯以外でカップメンを作る、そして食う」のようなタイトルのホームページ(テキストサイト)があって、ここはまあ私と同年代のインターネッターたちであれば知らないことはあんまりないんじゃないかってくらい有名なサイトだった。私も好きでよく見に行っていた。やっていることは極めて単純で、というか、ホームページも極めて単純で、センタリングされた文章がやたらと改行の多い感じで並んでいるだけでたまにフォントがでかくなったり下手くそなイラストが申し訳程度についていたりするのだけれどたぶんサイトの容量はいつまでもKBレベルにとどまっていたのではないかと思う。いわゆる企画型のテキストサイトの走り、超初期ではないがアーリーアダプターぎりぎり、くらいのものであった。

内容はまさにタイトルどおりで、お湯以外のものを沸かしてカップメンを作って食ってその感想を述べるというだけのものだ。後に「爆裂!カップメン」のようなサブタイトルがついたのだったか、最初からヘッドコピーが冠されていたのかはもう記憶が定かではないし、おぼろげには「みんなきてKOIKOI」というホームページ名だった気もするのだけれど(たしか作者が小泉とか古伊万里とかそういうタイプの名字でハンドルネームがKOI2(こいこい)なのである)、まあ、とにかく、私は「お湯以外でカップメンを作る。そして食う」という名称をかたくなに覚えており本日急に思い出してもやはりこの名称でしかまずは思い浮かべることができない。

コーンポタージュを作ってカップメン(というかあれはたぶんカップヌードルだったのだと思うが忘れてしまった)に入れて3分待ち、フタを空けて食うとやたらとうまいが異常に濃厚で喉が乾くとか、トマトジュースで作るとお湯で作るよりだいぶいいとか、うまく行くときもあるにはあるのだが、基本的には苦いとかまずいとか失敗するパターンのほうが多い。リポビタンDとかドクターペッパーのような栄養ドリンク・清涼飲料水系、カフェインが入っているものは軒並み厳しかったように思う。晩期にはどこだかの貯水槽にたまった水みたいなチャレンジもしていたのであれは平成の終わり頃であれば有名YouTuberとして名を馳せていた可能性もワンチャンある。

そのホームページの中で今でも忘れられないのが、たしかKOI2の友人である誰かが「これでカップメンを作れ」と言って彼に荷物を送ってきたときの、宅配便かなにかの表に書かれていた差出人の名前だ。それはたしかこうだった。

「株式会社シャドルー ギース・ハワード」

私はこれが妙に気に入ってなんだか頭の中に大事にしまったのであった。餓狼伝説のラスボスの名前なのだが私も誰かになにかくだらない荷物を送るときにはこういう洒落た(????)ペンネームでそれとなく送ってやりたいなと心に決めたものであった。今にして思えばこの感性は、小学校の低学年のときによく学校から一緒に帰っていたヨリタケイスケくんという友達に刷り込まれたような気がする。彼はある年の年賀状において、私の住所の欄に、

「札幌市◯◯区◯◯条〇〇 Aぎんの近く」

という宛名を書いて私や親はそれを見て笑った。Aぎんというのはとある地方銀行の略称で(今ならば北海道銀行→どうぎん のようなやつだ)、住所にこんなふざけたことを書いても郵便屋さんはちゃんと届けてくれるのだなと、感心しつつヨリタくんの小ネタのサイズ感に「ちょうどよさ」を感じて私は彼にあこがれたのだと思う。

今や私は息子もだいぶ大きくなり、小学生の子どものギャグセンスに触れる機会も激減しているけれど、親戚の小さな子どもとポケモンやらゼルダやらをして遊ぶ最中、「この子は友人に年賀状を出すときに宛名でちょっとふざけたりするものだろうか」とひそかに想像をふくらませたりもする。しかしいまどきそんなイタズラみたいな真似をすると、テレビ業界人でもないくせにそのへんの大人がコンプライアンスがどうとか炎上がどうとか言って止めてしまうだろう。時代にそぐわない。イタズラっ子が世の片隅にはばかる時代はとうに過ぎ去ってしまっている。私が今ダジャレを言ったり軽口を叩いたりする相手はもっぱら目上、年上、リスペクトしなければいけない対象であって、形式的に自分より「下」になりがちな部下とか後輩などにはなるべくふざけたことを言わないようにしている。SNSなんてものはぜんぶ私より上にあるものだと思って接するべき場所だからダジャレを投げるにはちょうどいい。私はみんなのことをリスペクトしているからこそダジャレくらいしか投下するものがなくなってしまったのである。

みんなきてKOIKOIはその後ホームページを閉じた。彼はテキストサイトの内容を本にまとめて売ることになり、内容が掲載されているホームページの公開を中止するという判断をした。今ならば相乗効果を狙うためにホームページを残すのが鉄則だと思うが彼のホームページはこうしてあっさりと、印税程度の小銭のためにデジタルタトゥーすら残さず電子の海の藻屑となって消えた。作者はXで探すとすぐ見つかるがもちろん今はテキストサイトなどは運営しておらずよくいる元2ちゃん前ツイッタラー現一般人といった雰囲気である。書籍となった「爆裂!カップメン」は古本で2700円も出せば手に入るが、私はこれをときおり買おう思うのだけれどなぜか今のところ買うところまでは至らずにいる。有線の、ホイールのついていない、ボールにホコリがよく貯まるタイプの旧式のマウスの感触と共に、南極の氷を溶かして作ったカップメンが一番うまそうだったことをもうノイズ混じりになった記憶のかたすみに見つける程度であとはそこにそれ以上踏み込めないでいる。

レビュー

猛烈に忙しいのだがおもしろいことを言う人があちこちにいておもしろいことをばんばん言うので、仕事をしながら、移動をしながら、目をこすりながら、おもしろいことを言う人のおもしろいことをおもしろく聞いている。そういう人の話はできるだけ「お化粧」しないほうがいい。口語・文語のバランスであるとか方言であるとか、言い淀み・フィラーの部分であるとか、重複表現やちょっとした誤字などもあまり矯正しないほうがいい。すべてに理由があるなんてことは言わないが、偶然の振動が伝わるによってかえってプルプルとシズル感が増すということが文章にもあって、そういう文章をすぐに校正してしまうと最終的に私たちの心にはなんのとっかかりもなんの傷もできなくなってしまい、ツルツルとお互いに触れずひっかかれず孤独のままに耐用年数を過ぎて砂になって消えてしまうだろう。

一方で文章をできるだけ読みやすくするのをなりわいにしている人というのもいるわけで、そういう人のおかげで世にはスッと目のフィルターをくぐり抜けて入ってくる文章がたくさん産まれる。というか、「ひっかかりを失わず、しかし余計な誤解は生まない、ぎりぎりのラインに文章を調整していく」というのが本来の校正とか編集の仕事だということで、そのプロの技術にはいつも敬意を払っている。文章というものを磨いてプロの作品にすることで読者の裾野はまちがいなく広がるのだ、なんでもかんでも前衛芸術みたいな文章ばかりになってしまっては業界がとがりすぎて受給のバランスも保てなくなるだろう。

つまり何が言いたいかというとそれは何も言わないほうがいいということなのである。誰かの書いた文章を直して世に出すのも尊いし、まったく手を触れずにそのまま出すのもやっぱり尊いということだ。こういった八百万の尊さみたいなものを最近はとにかくよく意識する。あっちもこっちもいいよね、人みなそれぞれ事情ありだ、と、訳知り顔の人ですっと後景に下がっていくシーンが増えた。

けっきょく私は読みたいものしか読めていないし書きたいものしか書けなくなった。インターネットが自分の知らない世界を次々に運んできてくれたのはたぶん数年前の話で、いまやAIの力で私にフィックスされすぎた私向けのオーダーメード情報しか飛び込んでこないから毎日SNSをチェックしていても目新しい情報なんて何も得られない。個人の発言の内容はどんどん研ぎ澄まされて刃のようになっていきネットニュースの信頼性は地に落ちており速報といってもそれはけっきょく大手の報道担当部門がオールドメディアに載せたばかりの情報を「速報」とかいってリンクで拡散しているだけなのだからあきれる。カスタマーがクリエイターの、ファンがアイドルの日常に直接アクセスできるようになって恩恵を得たのは畢竟ストーカーくらいのものである。みずみずしくてプロの手が入っていない情報の多くは偏向と勘違いのまぶされたプライベートコメントでしかなく、校正の入った情報のほとんど金もうけのアルゴリズムによって脳内麻薬の放出スイッチとの親和性が高い形にごりごりに整形手術されている。間はないのか。間は。口コミで本を探してアマゾンで注文する瞬間この本との出会いも結局は魔窟のようなSNSにお膳立てされたものなのだよなという事実に慄然として少し涙ぐむ。おかげでドライアイが防げて私にとってはかなりのメリットがあったと確信していますので納得の★5です。

イッツマイボイスあふれるおもい

一昔、二昔くらい前の随筆などを読むと、たまに「腹がくちくなる」という表現が出てくる。瞬間、汁やご飯粒などがちょっとずつ残ったどんぶりがたくさん食卓の上に重なって、それを前にお腹をバランスボールのようにふくらませた(なんなら服の下から肌が出ている)、顔面がチャーリー・ブラウンのように上を向き鼻の穴しか見えなくなった、全体のフォルムがとにかく球で構成されている人が、「く、くるちい……」とうめいている映像が思い浮かぶこれはもうしょうがないそういう反射なのであるやむをえないことなのだ。くちい≒くるちい。語源のにじりよりに関しては調べていないし知らない。どうでもいい。イメージの重なり合いが私の頭の中で「ここはもうこういうことでいいですよね 完」みたいに争いを終えて平和を手に入れた人形劇三国志の雑な町並みの描写みたいなことになっている。


先日、ドクターGに出演していた研修医のアカウントを見つけた。その方いわく、女性が医者をやっていると、特に若いうち、患者からよく看護師さんと間違われるのだそうだ。私も知人医師から似たようなエピソードを聞いたことがある。逆に患者の立場だった方からも、「今日すっごくやさしい看護師さんがたくさん話を聞いてくれて、最後に看護師さんありがとうって言ったらニコニコしてたんだけど、あとで聞いたらあの人主治医だったらしい笑」みたいな話を聞いたことがある。いろいろとニュアンスのある話である。かくいう私は外来横の廊下を歩いているとたまに患者から道を聞かれる。「あっすみません、エコー室? 超音波室? ってどこですか?」「あのすみません、ATMってありますか?」「ええと皮膚科ってのはこの階だって聞いたけどあってるのかな?」はいちょっとお待ちください、えーと、この廊下を……あっいいや、一緒に行きましょう、私もそっちにたまたま用があるんです。説明するのがめんどうになって用のない方向に用を作って歩いていく道すがら、「この病院の電話ってぜんぜんつながらないのね」とか、「病院ってローソンが多いのなんで?」とか、「病院のマスクってタダで配ってんの?」のように追加の質問をされたりもし、「ほんと電話つながらないのないですね、すみません、上司に言っておきます」とか、「なんでなんでしょうね、忖度ですかね、ローソンタクですね」とか、「タダなんですけどあまり頻繁に変えてるとマークされます」などと、答えて歩いて案内して、それじゃお大事になどと普段使ったこともない言葉を告げて別れるのだけれど、その途中ですれちがった研修医に目を丸くされ、「先生、ぜったい事務の人と間違えられてますよ」と言われる。しかしそれもおかしな話だ。病理医だって大きなくくりとしては「事務作業を行う人」なのだから、別に大きく間違ってはいない。病院の中で書類や文面と日々格闘している私は事務員。事務員Y。本名にYなんて一文字も使われてない。Itchyhara(かゆそう)。ともあれ、患者から見れば、私は病院に勤めていてワイシャツの上にカーディガン、足元は中国製のクロックスもどきを履いてマスクにぼさぼさ頭で外来のすきまをとことこうろついている中年男性で、それ以上の弁別など患者の人生になんの影響も及ぼさない。私が患者に対して医師免許を持ってるんですよと表明したところでそれが患者の病気や健康をいいほうにずらす効力があるわけでもなく病院満足度グーグル口コミが上がるわけでもない。私が誰かに医者っぽいと見られることが私以外の役に立つことはない。ただ、これは、私(病理医)に限った話かもしれない。いわゆる普通の医者は、患者から「医師であるなあ」と見られることを説得力にむすびつけたり、「医者から言われたことだから守ろうかな」という生活習慣への圧の部分で役立てたりもするだろう。何を言われたかよりも誰に言われたかだ、の、誰の部分に医者という言葉を代入すると、多くの場合はそれなりの効力がある。臨床医が患者に医者っぽいと見られることには少なからぬメリットがある。そして病理医にはそういうのはない。

ない? まったくない? 白状すると私も昔はけっこう気にしていた。かつて、病院の中でふつうにケーシーやスクラブを着て歩いて研修医とか専攻医の「ように」見られるのがいやで(実際に専攻医レベルだったわけで、「ように」もなにも、専攻医「だ」けれど)、もし私が頼りなさそうな姿をしていると、私の書いた報告書を読んだ上級医が「こいつの書いた病理診断はほんとうにあてになるのかな?」と要らぬ感情で内容が頭に入ってこなかったりするとコトだ。そこで私は対策として、毎日スーツで出勤し、いつも背筋を伸ばして、早足で歩き、はきはきとしゃべり、「なんとなく頼りになる病理医」としての見た目をきちんと演出しながらカンファに出たり研究会に出たりしていた。今ふりかえってみるとそれはおそらく「スーツを毎日着てそれっぽく見せようとがんばっている若者」以外の何者でもなかった。そんなことを何年も続けているうちにいつしか肌はおとろえ肉はたるみ唇の色はうすくなり黒髪はどこか「染めている黒」のように見えてきて私は立派な中年になり誰が見ても専攻医には見えないが果たしてそれが頼りがいのよすがになっているのかどうか、上級医だった場所には次々と同級医がおさまったが私たちの世代が若者を見て「頼りないから報告書も信用できないな」なんて感じることはまずないのでつまりこれは単に考えすぎだったのである。今やスーツがめんどくさくなってジャケット・パンツのスタイルに変わってユニクロの生地がよれよれになるまで毎日座って働いている姿は熟達した事務員さながらで、したがって、スタッフも他科の医師も私のところにたくさんの書類をどさっと置くことに一切の躊躇もなくその意味で私のアンレコクナイズド・セルフ・ブランディングは見事成功した。


見た目を寄せることでいつしかその雰囲気をまとう。しかしだんだん当初の目的からずれていき、最終的にははじめの姿もいずれなりたかった姿とも違うあさっての方向の姿に「うっかりたどり着いてしまう」。こんなきわめてありふれた話を私もまた20年くらいなぞってきたんだなというだけの話であってブログくらいにしか書けない。今の私にやれることは「これはもうこういうことでいいですよね 完」とエピソードをまとめて馬が走り尾崎亜美が歌うエンディングにきちんとつなぐことくらいのものだ。

献本もお歳暮も滅べばいいという時代の声だと思う

バレンタインデーはお菓子屋の陰謀、みたいなフレーズは以前にはよく目にしたが最近は見ない。茶化すどころか本当に、事実上、間違いなく、陰謀というよりも陽謀的にそういうシーズンになったように思う。1月中旬から2月中旬にかけて専門店やパティシエたちが1年分の稼ぎを得るために新商品を一斉に世に出して百貨店の1階特設ブースに行列ができ、老若男女がひとつぶ400円くらいするチョコ的なにかを買い求めて「年に一度ならこれくらいの贅沢はゆるされる」などと言い訳しつつ地下鉄に乗って帰宅してさっそく自分でそのチョコを食べてコーヒーなど飲むわけだ。たのしい。私もこの時期になると普段買わないコンビニスイーツをこっそり買ってみたりする。

興味深いのはすでに「贈り物としてのチョコ」という文化が後景化してきていることだ。「自分へのチョコ」という言葉が特別感を失って、「自分へのご褒美」という言葉とあわせて「何当然のこと言ってんの?」的に急速に死語になってきているように思う。そのうち、パートナーにわたすチョコのことを逆に特権視するようになり、「ピチョコ」のような名称が与えられるかもしれない。桃の節句や端午の節句のように、かつては意味を有していたであろうひなあられや柏餅といった食べ物が、もはや祭礼的な手続きを一切経ずに純粋に旬のお菓子としてある時期だけに流通しているのと、バレンタインデーのチョコとは、構造が同じだと思う。猪口の節句(1月15日~2月14日)とか書いてデジタルスペースに残しておけばそのうちAIが拾ってそれっぽい歴史を作ってくれるだろう。

世に新たな何かが根付くための条件みたいなものがおそらくある。ただしその条件はチェックリストのようにひとつひとつ順を追っていけば満たせるというものではなく、たぶん、複雑系の曼荼羅をパチンコ玉のようにあちこちに衝突しながらヴァガボンドしていって、結果的にたまたますっと穴凹に陥って安定する、それをあとから振り返ったときに、「あそこのクギにぶつかって左に方向を変えたのが結果的には大きかったね」などとコメントできる程度のものだ。経済学といっしょで未来を予測する役にはほとんど立たないが過去を解釈することはなんとかできる。さて、世に新たな何か、今回の場合は「プチぜいたくチョコ文化」が根付くための条件であるが、後方視的にふりかえると、「静止慣性を乗り越えるだけの衝撃と、選択圧を乗り越えるだけのデザイン」、すなわち「チョコというほどよい非日常が、定着する程度にはおしゃれだった」ということなのかなと思う。

バレンタインデーがチョコを贈る日になり、うまくてやや贅沢なチョコがたくさん売り出されて小鼻をふくらませた中年たちがプレゼントとは関係なく買い求める日にまで変遷した過程。「モロゾフが上手な新聞広告を作ったから」というきっかけが大きかったというよりも、チロルチョコをはじめとする安価なチョコが普及し始めていた時期に思春期のガキめらが背伸びをしてプレゼントをするという「かぶきかた」が振り返ってみればちょうどよかったのではないかという気がする。コソコソワイワイ型(集団のイベントというわけではなく多分に個人の体験的なのだが、でも微妙に誰かと共有したいという絶妙)の新習慣に火を付けたのは生徒や学生だったろう。時期が6月とか9月とかではなく、クラス替えが迫っていて少しセンチメンタルな気持ちになる2月だったというのもわりと大事だったのではないか。さらには、女性から男性に物を贈るという当初の(今は死につつある)風習が、よく「米国とは違う」「男性から女性に贈ったっていいはずだ」などと言ってやりだまにあげられる、この、「差別」がある状態からスタートしたことが、毎年多くの人に「このイベントの若干の炎上性」を思い出させるきっかけになっていて、あくまで結果的になのだけれど、たとえば恵方巻を食べるのが男性だけだみたいな習慣があったとしたらやはり各方面から微妙に意図を付けたり引いたりされて習慣が少しずつ変わっていくだろうと思うが、それがチョコだったからなんかうまく生き残ったんだよな、という気がするのである。繰り返すがこれは最初から狙ってできることではない。結果的にここに流れ着いたのだろう。

バレンタインデー。ちょっといいチョコが世に出る日。すばらしい。私も含めた多くの人間はいまや、人から物をもらうのが苦手になりつつある。いっそ嫌いになっている。みずからを寿ごう。言祝ごう。私たちはほしいものくらい、自分で用意する。そういう文化が適者生存の掟の先にこうして残っていることに、私は自己がマイルドに肯定されたという感覚がある。

夜戦

”そこに欠けているものがある。解釈であり、解釈者だ。「解釈者の位置は疎隔にある」そして「解釈者とは……彼自身と権力の〈絶対的要求〉とのあいだにひとつの疎隔を支持しうるものとしておのれを示すもののことだ」。われわれは既に見た、五百年前のイスラーム法学者が提示したあのあえかな絶句を。「どう解決すべきか」を。この根拠律を代理するという困難な務めを果たそうとする者、それがここで「解釈者」と呼ばれているものに他ならない。個々の事例を丁寧に見て行き、法に照らし合わせては判例を積み重ねる者。これ以上なく禁欲的な博打打ちという、この異様な姿。決疑論とは個々の事例の学であり、そこで決して法を直接的に適用してはならないのだ。だから根拠律があるだけでは十分ではない。それは外在しなくてはならない。あらゆる社会野において、根拠の外在性のみならず根拠律の外在性が打ち立てられなくてはならない。つまり根拠律との疎隔が。だからそれはイメージの危うい演出として構築されなくてはならないのだ。”

『定本 夜戦と永遠/佐々木中』より




病理学は、長く臨床医にとって外在的に存在してきた、もしくは逆に、かえって、だから、内在的すぎるほど内在的に存在してきたのかもしれないということを思いながらこのくだりを読んでいた。なんでもかんでも自分の専門に引き付けて本を読むほどつまらないことはない。しかし、ときに、どれほど、日頃、常駐している、いつもの、例の、思考を紛らわせたいと願っても、思い出の手紙を読む声がだんだん読み手から書き手の声にフェードしていく安いドラマの技術のように、本を読んで著者の声に耳を傾ける私の脳内に、文字よりもはるかに大きな声で伴走/伴奏するかのように語りだす、物悲しくも自己顕示欲の強い私の、内在的すぎてかえって外在しているかのような悩みの人格。鎌首を擡げる。

私はルジャンドルのいう解釈者でありたいのだろうか。そうすればどうにかなるのだろうか。

私は病理診断というものが本当に存在すべきなのかどうかをいぶかしんでいる。AIによって取って代わると言われればこの仕事のどこをどう見たらAIで代替できるのかと鼻で笑う一方で、むしろ今のAIなどではない、もっとはるかに強力な別種の人工の知性であれば、病理診断の上位互換として、仕事の内容は従前とはまったく違うが主治医や患者にフィードバックできる内容量が今よりはるかにべらぼうに多い、なにかあたらしい仕事を生み出すことができ、それは結果的に、病理学というものが冷蔵庫に対する氷屋のように好事家以外にとってまったく不要になってしまう未来、に対する、期待と諦念と慟哭の感情を持て余している。だから私は本を読むといつでも指の汗でページをしわしわにしてしまい著者の用意した言葉を追えなくなって自分の脳内に響いた声との間で往復書簡をやりとりしてあだのような時間を過ごす。なかなか読み終わらない。なかなか読み終わらない。

私は学者である必要はなく医者である必要もなく、形態を言語に置き換える「だけ」のことに汗と血を失うつまらない戦争の尖兵である必要もなく、ただ、疎隔の位置で医療を解釈しつづける存在の門弟なのかもしれない。そうか、私が本当にやるべきは法学の理念の無情さに涙を流すことなのかもしれない。

複雑系には因果がなく根拠がない。論理的な帰結としてカスケードを追うことができないというだけで実査には因果も根拠も高次元において存在するはずなのだけれど、私たちは少なくともそれをランガージュの支配のもとにラングとして伝達することはできない。だから私は細胞形態を見てそれを言葉にしようと思っても、言葉にした瞬間から漏れ出て、にじみだし、しみこみ、「語られたもの」と「語った言葉」とはあいまいに癒合する。無理に離そうとすると汚い肉芽を作りながら茶色い液体を撒き散らして辺り一面を昨日とは違ったテクスチャに変える。疎隔にいながら疎隔を試み疎隔の破れる力を産毛で感じてこそばゆいと身を捩る。そのような存在の門前に立って、敷居を踏み越えるかどうかを、毎日のどをならしながら、迷っているのが、今の私だということだ。私は哲学者ほど分類に対しての冷めた目線を持ち合わせていない。腑分けと言分けの相似と差異についてのひねた韜晦を持ち合わせていない。

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表彰状をもらった。しかし「◯◯賞」というタイトルと、本文の「あなたは△△に大きく貢献したのでこれを賞します」とが合っていない。たぶん誤植だ。うわあ誤植か。私は生まれて初めて「ミスのある表彰状」をもらった。飾ろう。大事にしよう。うれしい。

しかしあれだな、46歳になって使う「生まれて初めて」は、なかなかパンチがある。パンチがあるという言葉、日本ではいつから使われるようになったんだろう。たぶん明治時代にはなかったはずである。ボクシングが街頭テレビあたりでやっていたころに日本に導入されたんだろうか。まてよ、街頭テレビのころはボクシングじゃなくてプロレスか。空手チョップっていう言葉があるくらいだからパンチよりチョップのほうが昔から人々にはなじんでいた可能性が高い。モンゴリアンチョップってすごい、すさまじい、傲然たる差別の香りを感じる。そもそも空手にチョップという技はない。あるか? 手刀? クリスマスに食べるお貸しを切るにあたって包丁がなくてしかたなく手刀で連続で切り分けたら手刀連シュトーレンだ。私は何がしたいのだ。

話をパンチまで戻す。ウェブで語源を調べるとだいたい痛い目に合う。でもまあ、今回は間違ってもべつにかまわない(なにせこんなクソブログ)。だからウェブで調べる。パンチ 語源。Punchは、フランスの古い言葉で「殴る」を意味するponchonnerから来ているとのことだ。ポンチョナー! ポンチョナー! かわいい! これからはパンチがある発言とかパンチの効いた見た目と言いたいときにはポンチョナーを使おう。ポンチョナーな見た目の人にポンチョを着てもらえばポンチョナーポンチョ。ヨイヤサーノヨイヤサ。ヘブライ語に「ヨイヤサ」という言葉があって、お祭りの「ヨイヤサー」の語源らしい。うそくせー。もう少し調べてみると、お祭りのヨイヤサーの語源は弥栄(いやさか)、ってのも出てきた、やっぱりーうそくせー。踊りの掛け声にそんなかっこいい語源があるってのがうそくせー。ウソクセーノウソクセ。ボンジュールケツクセ。ケツクセじゃなくてケスクセです。「これはなんですか? 間違いをすぐに消去する癖があるんですよ。」→(フランス語)→「ケスクセ? ケスクセ」。どこまで脱線する気だ。さておき。ヨイヤサーの語源が弥栄ということも、あるかもしれない、なぜなら、踊りもまた書き換えられ続けるテクストなのだから。


猛烈に忙しくて毎日下痢をしている。ちょっと困っている。先日、出張直前の午前中に、あまりに仕事ばかりでうんざりしたので思い切ってバッティングセンターに行ってきた。これでもかこれでもかと腰を回してまるで昼休みの雑巾のように自らを絞って牛乳臭い汗をかいて結局すっきりはしなかった。家に帰ってシャワーを浴びて出張に出かける。オシゴトーノオシゴト。夜。ホテルで死んだように寝る。まじで記憶がない。買っておいたスーパードライ3本がそのまま冷蔵庫にも入らず袋の中で朝まで放置されていた。スードラーノスードラ。翌朝も早くから仕事の続き。ああ、もう、ぜんぜんストレス解消にならない、終わりなき旅、byミスター・チルドレン、今にして思うとミスター・チルドレンっていう名前超絶中二病だな、まあそれがいいのか、いい人には、いや待て、ちょっと待て、今朝はやけに快便じゃないか! どうした! ミスチルのことを考えていたらすごく形のいい大便が出た。いやミスチルは関係がない。そうか、私はたぶん普通に運動不足なのだな、と思った。たぶん昨日のあの雑巾しぼりが効いたのだ。一切仕事の役に立たない骨格筋はもちろん、各種のインナーマッスルも、あるいはおそらく心筋とか腸管の筋肉とかもやせおとろえているのだ。それで腸はもはや余力がなくすっかりあわててしまって、なんとか中身を撹拌しなければいけないと思って痙攣をくりかえして、それが毎日続く痛みのもとになったり下痢になったりしていたのだ。医者だから特権を行使する。診断! 過労! 過労らつーに乗って買い物に出かけたら財布ないのに気づいて無免許ドライブ。違うよ、無免許じゃなくて、免許不携帯だよ。知ってるよ。でもそれだと語呂が悪いじゃん。いいじゃんべつに。小沢健二が書きそうな歌詞じゃん。書かねーよ。オザケンに怒る人「おざけんなよ」。目覚ましじゃんけんに出る小沢健二「おざましじゃんけん おざけんぽん」。受験に出る小沢健二「おじゅけん」。なんで今小沢健二のギャグ3つも言ったの? 違うよ、言ったんじゃなくて、書いたんだよ。小沢健二が書きそうなブログじゃん。書かねーよ。

先生という代名詞

ママ―、マーガリンどこー? そこの角を右に曲ーがりん! というダジャレがあるのだけれど、台所どんだけ広いんだよ、というツッコミをこないだはじめて受けた。むしろなぜ今までこのツッコミがなかったのか不思議である。なので今日からはこのようにアレンジする。店員さん、マーガリンどこの棚? そこの角を右に曲ーがりん! いや客にタメ口はだめだろ。条件設定が厳しい。リアルにありえる風景が自然とギャグになっているというのが理想なのだがマーガリンだとなかなかそれがうまくいかない。ガガーリンってどうやって宇宙に行ったの? そこの角を右に曲ががーりん! 言われるがままに角を曲がった私はそこで驚愕の光景を目にすることになる。かねてより研究中と言われていた新型H9ロケットの試作品ではないか。えぇーっ! これから私、どうなっちゃうの~~!!?!? どうもならんわ。曲ががーりんってなんだ。


と、いうようなブログは、前にも書いた気がする。特にマーガリンのくだり。でも探し出せない。検索しても出てこない。病理医ヤンデル マーガリン で検索している自分がアホっぽい。予測検索の欄に「病理医ヤンデル 終了」と表示されて笑ってしまう。人間に対して終了という言葉を使っていいのは自称のときだけだろ。


「これは何度か言っていることなんですが」ではじめるポストがあまり好きではない。前にも言ったという先見性、繰り返し説明してやっからなという上から目線、当然性を高めようとするいやらしさみたいなものがパツンパツンに詰め込まれた言葉だから瞬間的にウッと思って左足から飛び退いてしまう(剣道の名残り)。それはともかく最近、これに似て非なる表現でしゃべらざるを得ないことがあって、困っている。

「これは何度か言っているかもしれないんですが」。

ぼんやりしている。ふんわりしている。言ったか言ってないか覚えていないということだ。せつない。なんか前にも言ってるっぽいなとは自分でもわかっている。でも言ってなかったらここで言うべきかなと思って言うのだ。しかしやっぱり口に出してみると相手がニヤニヤしているので、ああ言ったことがあったんだなと思って落ち込む。たとえばこうである。


「これは何度か言っているかもしれないんですが……シリンダーに! 何をしりんだー!」


いやちがう。ダジャレじゃない。


「これは何度か言っているかもしれないんですが……私は小学校1年生のころ、近所のグラウンドで、自転車に乗った同級生3人に周りをぐるぐる回られながらネズミ花火を足元に投げつけられるといういじめをうけまして……」


いやちがう。供述を繰り返してどうする。


「これは何度か言っているかもしれないんですが……顕微鏡で組織像を見るときにはアーキテクチャだけではなくテクスチャを言い表すようにするといいですよ」


そうそうこういう感じ。指導の現場で何度も同じことを言ってしまうのである。できれば相手ごとに「どこまで教えたか」をきっちり覚えていられたらかっこいいのだが、私はその、かっこよくないのである。何度も同じことを説明する私を見て若い人は基本的にニヤニヤしている。おじいちゃんテクスチャはもう言ったでしょみたいな顔でこっちを見ている。くやしいがもう覚えきれない。あのな、教え子にな、藤田も藤巻も藤浪も藤川も富士川も藤も夫人もいるわけよ。無理だよ。ごっちゃになるんだよ。今のはあくまで例え話で私の教え子たちが藤かぶりしているというわけではありません。しょうがないから毎回エクスキューズを頭に付ける。「いつも同じこと言ってるおじさん」というあだ名を甘んじて受け入れるフェーズ。


こんなに覚えられなくなっているのなら。

今なら、『君の名は。』を見返しても新鮮に驚けるかな?

でもそういうのはむりなんだよな。

たぶん、大事なことがぜんぜん覚えられなくなったのではなくて、私の中にはもう、「そんなことより大事なこと」がいっぱい詰まっているのだ。もう入る場所がないのだと思う。学生? 研修医? すまん、全員、もう、「先生」って呼ぶことにしている。「学生なんだから先生って呼ばないでください」? うるせえ名前わかんねぇんだよ。さっき聞いたけど。

涙腺から飛び出る透明答ゼウス

meta社がファクトチェックやめるんだってさ。ゲラゲラ。あれでファクトチェックしてたのそもそも。へんな動画しか流れてこないじゃん。うける。へんな動画を選んで私に流し込んでくれてたのチェック付きで。どういうこと。うける。うけない。どっちなんだい。

ちかごろ、よくわからない政治団体とか宗教団体にのせられて幸せそうにしている人たちを見る。のせられるが早いか次の広告塔となって世間をまどわす流言飛語の担い手になっていたりすると当然がっかりするのだけれど、中には、特に人を巻き込んだりせずに自分たちの金だけを注ぎ込んで生活がボロボロになって、でも精神だけはちょっと豊かさを取り戻していたりする。まあ、この程度の騙され方なら、むしろ薬の苦さみたいなものなのかもなと、ちょっとあぶないことを考えるようになった。私はたぶん疲れている。どぐされ政治団体も巨悪宗教団体も、毛穴という毛穴のすべてにマチ針を叩き込んでやりたい気持ちはやまやまだ。しかしよくよく顕微鏡観察してある一側面だけをクローズアップすると「一部の独特な人々の孤独やいらだちをケアできている」ということもまたおそらく事実であり、それに対しては同じ人間としてちょっとだけ感謝してもいいのかもしれない、とまで思う。私はたぶん弱くなっている。

それにしても。

正論と科学とマジョリティの圧でただしいことだけ言っていれば、世界がどんどんよくなっていくというなら、どれだけ簡単だったろう。

ただしさの光を当てれば必ず影ができて、「絶対に救われようがない人」が絶対に置き去りにされる。そういう人たちのほうを向く人間が世の中には必要だ。そしてそれは本質的に善意のボランティアではありえなくて、平均的な善人の思考が理解できずむしろ傷つく人間というのもいるのであって、往々にして、詐欺師、守銭奴、遅効性の毒をばらまく集団殺人者たちが、代わりに彼らの受け皿となっている。それが世界の真の多様性。天国が気に食わない人間たちを拾ってケアする地獄。その存在を確信し始めた私は血の涙でシャンディガフを作って酔っ払う。ちゃっかりビール持ち込んでんじゃねぇよ。

笑いで行けるか。コミュニケーションで行けるか。そういったネアカな取り組みだけなら学生サークルのほうが得意だ。世界にはすでにやさしさが満ち溢れている。そういうやさしさに傷ついてしまう人のために、かつて社会がいやいやながらに許容したのが、ヤクザやら暴走族やらという犯罪集団であった。今はそれがより一部の人間の私欲を満たすために特化してモンスター化して、だれも支持していないような政治団体、誰も信者がいなそうな宗教団体、あきらかに世の敵である特殊詐欺グループ、そういった、通り一遍の「普通」の価値観からすればどうしてそんなところにだまされるんだとしか思えない場所へとメガシンカしている。そんな属性:あくのEXポケモンみたいな振り切った場所「だけ」に受け入れられて、はじめて瞬間的なケアを受けて命をつないでいる人間というのが、間違いなくいる。



だから私がそっちの場所を担当するかと思ったら大間違いだ。私は私と同じように世をはかなみ、ただしいだけの科学者をぶんなぐることも、虚構の二枚舌をひっこぬくこともできずにどこかでひとり泣きながらブラッディ・メアリで酔っ払う孤独な同志のために、ただしくもまちがってもいないダジャレ中年という居場所を続ける。ウオツカ持ち込んでんじゃねぇよ。

石田

「筋書き」という表現がある。最近はあまり聞かない。「現実は筋書きのないドラマ」という言い方も、昔はたまに目にしたけれど、鼻につく表現であるからか、淘汰されたように思う。

人はウソをつくときほど筋を気にする。逆に、体験をそのまま語るときは、仮にフリが効いておらずオチがなくはじまりとおわりが確定していなくても、つまりは「筋」が通っていなくても、あまり気にしない。「でもほんとうにあったことだもん!」の一言で押し通せるからだ。

「現実は筋(書き)のないドラマ」というよりも、「筋(書き)があるととたんにフィクションくさくなる」ということなのかと思う。「よくできた話だなあ!」と言われたら、それはウソくさいなあと言われているということだ。

展開が都合よくつながっていて説明がしやすい話ほどウソっぽい。筋の通った話は脳にとってのサプリメントのようなものだ。ダイレクトに栄養をもたらすとされるが舌触りという概念がなくありがたみもなく費用対効果も悪く長い目で見るとじつは滋養強壮にも美容健康にも効果がない。あるいは枝葉末節をすべて刈り込んだ盆栽のようなものだ。わびさびがなく趣もなく悲しみも喜びももどかしさも投影できずサナギの駐屯地くらいの役に立つのが関の山という悲しき彫琢物だ。

現実に起こるものごとは、パチンコ台を通り抜ける銀の玉のように、バチガチあちこちに衝突しながら意図しないポケットに入り込んで、こちらが感知できない演算の結果、玉を出したり引っ込めたりする複雑系の報酬である。複雑系の応酬である。複雑系の郷愁である。複雑系の房州さんである。


「筋を通す」という言葉もある。責任を取るという意味で用いられたりもするがどちらかというとアメリカの消防車が現場に急行するために駐車車両をがんがん跳ね飛ばして進むようなイメージがある。道のりを歩むというのは、本来そういうものではないだろう。路地を縫いながらひとつひとつ丁寧にポストを探って新聞を入れていく少年の新聞配達のようなものだろう。新聞を注文していない家には近寄らないけれど前を通って犬にほえられて小さく飛び退いたりもする、カメラも視聴者も森口博子もいない毎日のおつかいだ。筋を通すというのはそうではない。苦学生のアルバイトよりもはるかに暴力的で強権的だ。筋を通すためにはある種の建前というか集団幻覚を必要とする。無理が通れば道理は引っ込み、筋が通れば数理が引っ込む。





診断という行為は、筋のないところに筋を通す行為ではないか、と、考えた。今日は、じつは、それだけの話だ。





NON STYLE石田がはじめたポッドキャストの第1回ゲストに元・和牛の水田が出ていた。漫才を語るというコンテンツなのに漫才をしなくなった水田を呼ぶなんてパンチが効いている、と出演者たちが何度か言う。ディレクターが言わせたいのかなと感じる。筋が通っている話だと感じる。石田(というか番組側)が、水田にいくつか質問をするのだが、その中に、「ひとつのネタが完成するまでにどれくらい時間がかかりますか」というようなものがあって、水田がそれに「答えられない」と言った。答えられないということはないだろう、分散が高すぎるという意味だとしても適当に中央値言っとけばいいじゃん、と思って続きを聞くと、

「漫才のネタというのは、演っているうちにどんどん変化していく。劇場にかけるたびに細かく調整が加わっていく。だから完成するまでにどれくらい時間がかかっているかという質問には答えづらい」

みたいなことを言うわけだ。そもそもいつが完成なのか本人たちもわからないという意味だった。なるほどそれはすごく納得できる話だなと思った。なんだか科学と似ているなとも思った。「筋書きを用意する」ことのウソくささからきちんと距離を取っている姿だとも思えた。リアルにお笑いをやっている人たちの心象のようなものを見る思いだった。

絶対に許さない

学生からメールの返事が来ない。まあそんなものか。私が考えるビジネスマナーと学生が考える中年への忖度のあいだにだいぶ差がある。しかしまあそんなものか。

自分も20代のころはこれくらいの距離感で大人と付き合っていたのでは、ということを、がんばって思い出そうとする。当時、どれだけの大人に支えてもらっていたのか、記憶をひもといても、なかなか恩人の顔が思い浮かばない。そんなわけはない。絶対にたくさんの人々に助けてもらっていたはずだ。しかし私は自分の20代を陰に日向にささえてくれたはずの大人たちのコミットメントを一切思い出すことができない。当時の私は今の学生よりもはるかに無礼で傲慢で視野狭窄で幸せだったのだろう。中年なんて目に入らないよな。じゃまだしうっとうしいよな。自分がまさにいまそういう存在になっているのだということをひとひらひとひら、かつおぶしを削るように、念入りに言語化していって身が細る。

「はじめてのおつかい」を見ている。4歳くらいの子どもがお使いに行った先で高齢の女性に頭をなでられてほめられている。子どもは仏頂面で、特に喜んだ顔をするわけでも達成感をぶちまけるでもなく淡々と緊張している。それでも女性はとてもうれしそうにして目頭をおさえたりして、子どもにジュースを渡す。途端に子どもの表情がわずかにやわらかくなり、女性から目をはずしてジュースを一気に飲む。笑顔を浮かべるわけでもないのだがその姿からはなぜか「うれしい」という感情がしっかり伝わってくる。子どもは女性に対して最後まで感謝の言葉を述べないのだけれど、私は、自分がこの女性だったとしたら、子どもからどれだけたくさんのものを受け取った気になるだろうと思った。

子どもはおそらく1年もしないうちにこの女性のことを忘れるだろう。あるいは、周りの人と何度か会話する中で、数年くらいは覚えているかもしれないけれど、20年も経てば、自分が子どもだったころに、女性、親、村のひとびとにどれだけたくさん支えられて暮らしていたのかをすっかり忘れてしまうだろう。それの何が悪いのだろう、と、私は瞬間的にこの高齢女性の気持ちになって子どもを一緒に愛でた。

それはそれとしてメールの返事すらまともにできない医学部の学生は空気椅子を6時間くらいやってもらいたいものだと思った。

みのきわ

死ぬことばかり考えて生きるのがおろそかになってはいけないよ、みたいな、中身がありそうでない言葉のこと、そして、こういうスカスカのスポンジみたいな言葉に救われる場面もたくさんあるという悲しい現実のことを考えていた。何についても言えることなので応用が効く。たとえば今まさに忙しそうに来週の会議の準備をしている人に向かって、「会議のことばかり考えて会議の準備をしている今この瞬間をおろそかにしてはいけないよ」と言えば、聞いた方はなんだかちょっと撃たれたような気になるかもしれない。実際にはなにも言っていない。

「実際」ばかり考えている人間はつまらない。ところで「実の際」とはなかなかよい言葉だ。それってつまり皮ではないか。実際には、とは、皮には、ということだ。皮にはなにも言っていない。それはそうだろう。

言語化のすばらしさを語るウェブ記事が流れてきてすぐに『言葉なんか覚えるんじゃなかった』のことを思い出す。逆張りは多様性の要だから、私はなににつけても反対のことをとりあえず考えて中間地点を探そうとする。そうやって中庸がどうとか言おうとする。ものごとがなんでも線分の上に乗っていて、右と左、奥と手前、上と下、その間のどこかにあるはずだという一次元的思考の浅さ。本当に多様な価値は互いにねじれの位置にあるベクトルとして交わりもせず比べられることもなく、そもそも同じ時間軸にも存在しないから視界に同時におさまることもない。言語化のすばらしさを語るウェブ記事が流れてきてすぐにやるべきことは石狩市にある温泉施設の入口付近でカピバラが温泉に入っていることが見られるという北海道ローカルTVの報道を愛でることである。カピバラがのぼせないようにお湯の温度は体温よりも低い33度に設定してあるとのことだ。それって体温奪われてしんどいんじゃないの? 毛がたくさん生えた生物はそれくらいでちょうどいいのかな。でもニホンザルって普通に我々と同じような温泉に入るはずだからそんなこともないんじゃないのかな。

野菜や果物を調理するときに「皮にも栄養があるんでぜんぶ入れちゃいましょう」という料理人を見るたびに正直ちょっとうっとうしいなと思う。加熱すると栄養が逃げるとか表面を焼いてビタミンを閉じ込めるとか、決まり文句と曇りのないマナコでPVを稼ぐ姿を見ていると料理の味がだんだんしなくなっていく。サプリメントにも栄養があるんで一瓶入れちゃいましょうと言われる日も近い。

「大河ドラマに裸が出てきて叩いている人」が朝からずっと裸の話ばかりしていて下品だなと思った。ほかにも見るとこあったんじゃないのか。裸に気を取られすぎなのではないか。まあ人間だから裸には気を取られるよな。服を着るという文化によってかえって強調されてしまった「対側」としての裸体。こういう思考のしかたってたしかにべんりなんだよな。



なにかを対置せずに語ることのつまらなさと、何かを否定してper seとやって語ることのつまらなさ、これらを比較している時点で、もう、圧倒的に、逃れられていない。パカリと脳のフタが開くような思考のありようを探す。それは画家や音楽家が長年とりくんできた話とオーバーラップするのかもしれないと思う。皮をむいて皮ばかり食うような思索が実際的だとは思えない。

吃逆の擬音ではないということにもちょっとびびる

こ、こ、これは……ってくらいの頻度で出張がある。つまりそれだけ自分のデスクをカラにしているわけであって、あまりほめられた話ではない。毎日目の前にある仕事をじゃんじゃん片付けていって、仕事がなくなれば終わる、というのが私のつとめであれば、べつにどれだけ出張しようが、早くこなせさえすれば/時間外などで埋め合わせをすればよい。でも、たぶん、そうではない。「窓口としてそこに存在する」ことが給料のうちに求められている。仕事があってもなくてもある程度の時間はここにいなくては。いなければ。そういうタイプの仕事。警備員とか案内員などと似た勤務体系が病理診断科にもある。それはたとえば、通りすがりの臨床医がふと感じた疑問をたまたま顔が見えた私にぶつけるという形で顕現するし、あるいはモンゴルの病理医がふと感じた懸念をメールでちろっと送ったら15分くらいで私から返事が来てなんかちょっと解決したみたいな形で実益となる。「フレックスではたらけるから家庭と仕事との両立にべんりですよ」みたいなことをいう病理医はたいてい30代くらいだ。彼らはまだ実力が伴っておらず「そこにいるだけで仕事になる」レベルには達していないので、たぶん、「いないと困るタイプの病理医」という存在にはまだ気づいていない。おろかなことだ。未熟であるな。フレックスではたらくような病理医ばかりでは困る。定時にきちんといるからこそ頼られるのだ! 私はそのことを十分に承知している! なぜなら、病理医としての経験も実力も十分に育ってきているからだ! すなわち私は職場にしっかりいなければいけないことを十二分に理解しているにもかかわらず最近出張ばかりしているという悪逆非道の輩である。未必の故意ではすまされない。情状酌量のない有罪である。原罪を引き受けてなお実直に日々をつむいでいく覚悟がある。いやそこまではない。すみませんなにからなにまで。

気が散りながらも集中している。したいと思っている。あちこち気になることはあるし手帳の予定はしっちゃかめっちゃかでWorkFlowyは際限なく伸びていき私は世界のアソビ大全51で息子と花札などして正月を過ごした。今この瞬間にもデスクにいれば誰かは救われるのではないかという懸念はもちろんあった。しかしほっぽらかしてバックギャモンなどして新年をとろかせた。ここでプレゼンを作っておけば1月の中旬から下旬にかけてもっとゆったりと仕事ができるだろうという推測は容易だった。しかしうっちゃらかして「ラストカード? ウノやん笑 これまんまウノやん笑」などと言いながら9連休をほろぼした。陪審員制度で全員一致の有罪である。人の業の悲しさを背負ってそれでもすったんばったんやっていくしかないということなのさ。からくりサーカス履修済みだからそれっぽいセリフは出るけれど行動にはつながらない。ごめんなさい一から十まで。



年が明けてさっそく猛烈な勢いで学会発表の準備依頼が来ている。臨床医のいう「学会シーズン」というやつはまだ先だと思うが複数の科の医療従事者から相談をうける当科にとっては学会シーズンも忙しいし学会シーズンと学会シーズンの間にはさまる「学会準備シーズン」も忙しい。今日、私がこの電話に出なければ、主治医たちは学会発表の準備が数日遅れたけれどまあさほど問題はないのでふつうに学会に間に合いました、となるだろうし、今日、たまたま私がこの電話に出たおかげで、主治医たちは学会発表の準備が数日早く進んで、でもほかにもやることはあるので学会だけのために日々を過ごしているわけではないからもろもろの事情にかかりきりになって結局さほど変わらず学会までにはなんとか間に合いました、となるだろう。私、別に、常時いなくてもいいのでは、と思わなくもない。だからつい出張にでかけてしまう。なお先程から出張出張と書いたが、別にお金をいただけるタイプの出張ではなくて自分で金を払い有給休暇を消費して学会やら研究会やらに出かけていくだけなのだから本当は出張ではなくて旅行と書いたほうがしっくりくる。しっくりっていうオノマトペすごいよな。鎌みたいだ。それはシックル。

ゆくすえを振り返る

路面の光沢感が増している。前の車のテールランプがしょっちゅう横にずれているのが見えて、車間距離を広く取る。いつもならとっくに家に着いている時間だがまだ半分も来ていない。渋滞は粘り強く、podcastは早くも二つ目の番組に切り替わっていた。

がんがんに炊いたカーヒーターのせいで車内の乾燥が強く鼻がパキパキする。空気が澄んでいるから12個くらい遠くの信号まで見える。横断歩道をわたる人たちが「あぶない! あぶないね!」と注意しあっているのが聞こえる。

冬は車の中にいる時間が長い。スマホを触る時間は短くなり、誰かの語りを聞く時間が増える。手指の先はかさつき、目の周りも黒くなるが、大声でがなりたてる人々から遠ざかり、軽い笑いや薄いささやきによって、心はむしろ乾かない。

縁側で湯呑みを片手に庭を愛でる日々はおそらくこの先もおとずれない。しかし、あるいはこの、長い車中でradikoやspotifyをずっと聴いている時間が、後に振り返ったときに癒やしの記憶として浮かび上がってくるのかもしれないと思う。



縁遠いところから仕事の依頼が来た。

CPCに参加してくれという。

そんなことがあるのかと耳を疑った。手帳を見て提示された日程の中に空きを見つけてロックする。

私は他院のCPCに出ることになった。

CPC、クリニコパソロジカルカンファレンス。

主治医と病理医、そして関連各科の医療従事者や研修生などが参加する、「症例振り返り」の会。

主治医は、ひとりの患者について、経過や診察時のあれこれ、検査の内容、どのように対処したか、そしてその患者がどのような転帰をとったかなどを、参加者たちに丁寧にプレゼンしていく。

みんながそれを聞く。

ここで、患者は良くなり家に帰れました、よかったね、という、喜ばしいほうの症例が選ばれることはまずない。

CPCで扱われる症例の転帰、すなわち結末は、「死亡」である。

それも、「医者が納得しきれていない死亡例」だ。


医者、患者、家族の予想を越えて、謎を残したまま、患者が死亡したあと、病理解剖が行われることがある。

病理医は、「腹を開けて患者に何が起こったかを直接見るという奥の手」を通じて、主治医の見立てがどれほど妥当だったかを病理学的に振り返る。そして、現場で生じた数々の疑問にコメントを挟んでゆく。

答えを出す、とまでは言わない。そうではない。

一部の医療従事者は、CPCのことを、「わからなかった症例に病理医が答えを出す会」だと把握している。しかし微妙に違う。

「病理医の目線という追加情報を得てもなおわからない症例」というのはある。また、「病理医はよくわからないままに解剖をしたのだけれど、その結果を聞いた主治医が『あっ、なるほど!』と理解してくれる」ということもある。

わかるとは限らない。しかしとにかく振り返ることが大事なのだと思う。

病理解剖やCPCはしばしば「手遅れの医療」と呼ばれる。実際、手の施しようがなかった患者のことを後から振り返るというのはやるせない気持ちになるものでもある。

でも「不思議」や「理不尽」や「ブラックボックス」を解き明かそうとする試みは、無駄でもなければ無力でもない。



失った患者を振り返ったことのある医者は、目の前でまだ元気でいる患者をみながら、「もし、将来、この患者が失われてしまうとして」という、わりと縁起でもない想像をふくらませる。

くやしい未来、ありえる将来に心を先回りさせて、ゆくすえを振り返る。

これがCPCの効能だ。すぐには効かない。長期にわたってじっくり服用しているとじんわりと効いてくる。


ゆくすえ(未来)を推し量り、来し方(過去)を振り返ることは、誰もがする。

けれども、「これから起こる未来を振り返る」には訓練が必要だ。技術が要る。

その技術とは、過去にありえたであろう「if」に思いをめぐらせること、すなわち「来し方を推し量る」ことで磨かれていくのではないかと思う。

CPCは、過去に思いを飛ばして「ありえた別の道」を推し量っていく行為である。

それがたぶん、ゆくすえを振り返るための力にもなる。

時間軸の上で自由になる。

そういう医療従事者を育てる。

そういう病理医になる。



CPCにはたくさんの後悔とほんのすこしの希望が渦巻く。主治医はみずからの見立てと共に当時の感情を思い出す。共に患者を担当したメディカルスタッフたちも、CPCに参加しながら、在りし日の患者のようすや会話などを思い出したりする。

それはある種のグリーフケアになっているようにも思う。

CPCはときおり、学会や学生勧誘の会などで、イベント的に扱われる。まるで医学雑誌の症例報告論文のように、「病」を、医学的にふりかえっていく。解剖までなされている症例であれば(※解剖はしておらず手術臓器だけを相手にするCPCというのもある)、扱う臓器の数も多いし、システマティックに病態を見直していく過程は極めて教育的だ。

ただし、院外の医療従事者に情報を共有する以上、病気以外の「患者のアイデンティティの部分」は個人情報として消去する。

そのためか多施設参加で行うCPCはどこか演劇めいていると感じる。フィクションのように思える。ほんとうはその裏にひとりの患者が亡くなっているのだけれど。

学問に邁進する上でときには必要な、「人ではなく病を見る」ことを、どちらかというと積極的にやっていく。

そして、だからこそ、私はCPCの本領は「院内CPC」にあると思っている。

「病理・夏の学校」で行われているCPCは学ぶことが多くて楽しい。しかし、院内で行われるCPCほどに感じることは多くない。

身内同士でやるCPCには独特の「感じ」がある。

病を振り返っているはずがいつしか人のことを考える時間にすりかわっている。

患者を担当した主治医や、患者に近しい人たちの、錯綜する思いが再現されて展開されて増幅されていく。

CPCの本領である。医療の本丸かもしれないとすら思う。

そのような場でなお、少なくとも一人、病理学に徹する。そのバランスブレイカー的、「空気を読まない感じ」が必要なのかなと。




このたび「他院のCPC」に招かれたことをプレッシャーに感じる。

やることはいつもと一緒だ。臨床医ほどの当事者感覚をもっているわけではない。そこから一歩引くのが役割である。第三者目線というやつだ。

しかし、それでもはじめて訪れる病院のCPCほど「完全に他人」だと、緊張する。


かつて、大学院にいたころ、関連病院のCPCに出かけて、症例の解説をさせられた。

病理医としてコメントを発すると、当地の医者たちが、「実際に患者を見ていない病理医がえらそうによく言うよ」という表情を浮かべることがあった。「細胞はそうかもしれないけれど実際のニュアンスはもっと複雑なんだよ」という非難の圧を感じることがあった。

そういうCPCは盛り上がらなかった。

大学院を出て、市中病院で働き、17年が過ぎた。

日常的に対話のある臨床医たちとやるCPCは、あのころとは段違いに盛り上がる。

私は、生前の患者と直接接することはないが、死にゆく患者を診ている最中の主治医をよく見るようになった。そして彼らと対話するようになった。

それが昔との一番の違いだ。

しかしこのたび、呼ばれた先で、カンファレンスを行う相手は、私と一度も一緒に働いたことがない医者たちだ。

「その患者を診ていたときの主治医」と私は会話をしていない。




車のセンサーが反応した。気づくと前方の信号は青になっていた。いつしか対向車は減り、後続車もなく、黒光りする凍結路面の上で私はアクセルを踏み込むがタイヤがキュルキュルと滑って車のテールが少し横に流れる。いったんアクセルを戻してゆっくりと踏み直す。路面をスタッドレスタイヤのゴムがしっかり噛むように、ほとんど動いていないのではないかというくらいのスピードでじんわりとアクセルを入れると、車の重量が回転摩擦と噛み合って、そろそろと車が前に進んでいく。

やり直すならばアクセルは緩めに踏む。テクスチャを感じてすべりを避ける。考え込んでいるときほど意図して視界を広めに確保する。Podcastは知らないお笑いコンビの聴いたことのない番組に切り替わっていて私は家についたら彼らの名前を検索してみようと思った。

ツギハギ

ゴシップと自虐と生きづらさの話しか聞こえてこない世の中に惑溺している程度の人間が、多様性を語らないでほしいよな。トータルでAMラジオくらいの情報量でやっていくのがいい。インスタグラムにやってくる知らない人のリクエストを却下する。距離感も熱量も努力の方向性もふくめて、君たちはぜんぶまちがっている。正解のない世界、まちがっているよと伝えることはせず、まちがっているよなと自分で自分に確認するだけのひとりごと。そもそもひとりごとをどこかに置くムーブがはじまった時点で私たちの文化が袋小路に入ったんだと思うよ。袋小路大好き! だって穴熊だから守備力高いじゃん! 今のプロ棋士で穴熊囲いを使う人っているんだろうか。いたらカッケーな。素朴なのに強いっていうのが強キャラの黄金パターンだと思う。これも現代のステレオタイプの一型か。

使い古した雪かきのスコップを捨てよう。これって燃えるゴミの要素あるか? ないよな?  プラごみだけでなんとかなるかな? むりだな? 粗大ごみにしないとだめかな? 検索。「大型ごみ」だって。へぇ今って粗大ごみって言葉はないんだ。いや、あるけど、お役所とかは大型ごみっていう言葉を使うようにしているみたい。粗大の「粗」が言葉狩りされたのかな。でも、たしかに、雪かきのスコップが粗大であるかというと、そこまでではねぇなって思うし、大型くらいのほうがニュアンスが正しく伝わるのかもな。粗大っていうと……そうだな……だいたい……桐のタンスとかを捨てるなら粗大ごみって感じだ。粗大なんていやな言い方やめてください! わかる。大型ごみという言葉のほうがぶなんだ。こうして銀河の多様性がまた1ページ(破られて捨てられる)。

H&E染色標本をすみからすみまで丁寧に見る後輩病理医の仕事の丁寧さにはほれぼれする。最近、「じっくり丁寧に時間をかけながらもTAT(turn around time)が早い仕事」というのにあこがれている。TATの遅い仕事に感じる価値の大部分にわりとうっとうしい偏愛の香りを感じ取っている。自分でいつまでも抱えているとろくなことはないよ。自分が律速段階になるほど傲慢なことってないんだよ。でも、自分の思ったことをすぐに人に投げつけるとSNSみたいな人間になるよ。どっちなんだ。どっちもやっていくんだ。だってぼくらにはあれとこれを一緒にやるためにあらゆる臓器が2つずつあるんだから。えっ心臓は1つだろうって? ばかだな。ハートは俺達の心の中にもあるだろ(瞳孔を開きながら)。どうして人間の目は前についているかわかるか? どうして人間の腕はふたつあるのかわかるか? 前者は「目がついているほうを前と認識する」がアンサー。馬みたいに両側についている動物の話はしていません。後者は「宇宙人からみると足も腕だと思われているよ」がアンサー。そんなのアンサーじゃねぇよ。ダンサーだよ。ネイティブダンサーだよ。いつかあの空が僕を忘れたとしてそのときはどこかで天地創造して次の空を作ってやる。そしてその空に鍵をかけてラジオ職人だけにフォローしてもらうんだ。燃え殻さん元気かなあ。

仕事という長い鼻

「感慨深い」みたいなことを書こうとしたら、このPCがまず肝外と変換するのを見てお前はまあそれでいいよとなぐさめる。だって論文とか書くから仕方ないよな。でもこのPCはそろそろ買い替えだ。LAVIE, intel core 7だが、メモリがいまいちで、ちょいちょい挙動がスローモーになる。いい買い物だったけれどあまり長く持たなかった。4年くらいか。まだ使えるけれど、次を見据えておくのもいいだろう。

研修医たちはmouseというメーカーのオーダーメードPCをよく使っているようだ。アレンジがしやすく値段も安くていいという。他社のPCとスペックを揃えた状態で見比べてみると、値段がそこまで安いかというとそうでもない気もするのだが、まあ、ちゃんと選べば安くなるのだろう。

ただ、私は元来、こういう場面で細かくお得な道をえらびとるのが苦手だ。ポイントカード、利率、サブスク、セット価格、競合他社とのコンペ、キャベツが10円安いスーパーまで自転車を飛ばして買いに行くムーブ、すべて不得意である。多少高めでも今そのとき視野に入っている既製品をそのまま買うほうが早くストレスから開放されて精神的に安定すると信じており実際にそうやっている。人生を送っていくうえでわりと不利な気質だと感じる。

こういう話をすると、「それは金があるから言えることだ、庶民は何を買うにしてもよく考えて少しでも安いほうを選ぶものだ、お前はぜいたくだ、ごうまんだ」みたいなことを言う人もいる。しかし私は学生時代に金がなくて一日二食オール冷凍うどんで過ごしていたときからこうなので、これはもうそういうめぐり合わせ、こういう星、こういうキャラ設定なのだと考えるべきであろう。

堅実な貯蓄、丁寧な運用、そうやって得た金銭を用いて何かをしたい人は、これからもそうやっていけばいいと思う。しかし私は結局のところ「なんらかの手段で期待値より多く得た金」を使って何かをやりたいと感じる機会が多くないので、「なんらかの手段で期待値より多く金を得ること」に対する頓着がない。一番やりたいことが仕事である以上、一番やりたいことに時間を注ぎ込んでいくと金は減らない(むしろ増えていく)という現実もある。金の使用方法にそこまでリソースを割いて考える気がしない。まさかのために備蓄する、くらいのことはするが、安いほう、お得なほう、もうかるほうを選んで浮いたお金をまさかに備えてとっておく、みたいなことは思考の俎上に載ってこない。

同じ家電でもちょっとでも安いほうを買えばそのぶん次に別のものが買えるんだ、みたいな価値観もピンとこない。そんなに家電を買わない。次が思い浮かばない。たまに買うときくらい気に入ったかどうかでさっと買って、その一瞬の「選択」という挙動に消費する精神的MPを温存し、数年間ずっと「気に入ったから買った」というシンプルな方針を自分で気に入り続けていれば損も得もないように思う。ポイントがたくさん付けば次の買い物でお得だよ、というのも、次の買い物が頻繁に訪れる人には有効だろうが、私にとってはそもそも次の買い物が遠いし同じ店に行くつもりも別にないので響かない。

しまむらで厚手のタオルケットを1枚買った。メルカリで探せばもっと安いのがきっといくらでも転がっているだろう。でもしまむらがあったのでそこで買った。冬、ふとんの上にかけたり、居間で床の上に座ってテレビを見るときに尻の下に敷いたりするタオルケット、使い倒すだけのもの、少しでも安いものにしようとネット中探し回って1日、2日過ごして、その選択の最中に寒い思いをするくらいだったら、即日購入できて今日からすぐに温かい思いを手に入れる、体験をすばやく獲得したほうがよっぽどいい。そんなことだから要らないところでお金が出ていって、稼ぎのわりにお金がたまらず、いまだに安っぽい服とか靴とか上着しか着ていないんだと言われたところで、まあそうですね以外の感想がない。

ゾウが「翼がない自分のことをなんとも思わない」と言うのに近い。ポイ活やネットでの値段の検索というのは私にとって、ゾウにとっての翼、鳥にとってのエラ、魚にとっての長い鼻のようなものだ。そのような便利な機構、適者生存の末に獲得した解剖学的構造があれば、それを有効活用して餌をとったり敵から逃げたりするが、ないのだから惜しいとも思わないし損をしているとも考えない。ゾウは飛ばず泳がず、長い鼻で陸地を歩んで生きていくものだ。鳥に生き方を変えろと言われたところではあそうですね以外の感想がない。

実質0円

空からブリブリ雪が落ちてきて世の中の肌理という肌理がぜんぶ覆い隠されてしまった。片側二車線の左側を走行していると路肩からもりあがった雪に車輪が乗り上がって瞬間的に右側車線のほうに押し出されてしまう。危ない。つまり冬は二車線と言っても実質ゼロカロリーなので気をつけなければならない。体重計に乗ったら69.5キロと出た。今そんなに体重があるのか。笑う。毎日ゼロカロリーのものしか食ってないのに不思議だ。聞くところによると腸内細菌が何億だか何兆だかいるという、たぶんそいつらが倍々ゲームで増えて体重に寄与している。気持ちはいつもシュッとしている。すなわち私は69.5キロと言っても実質5年ほどまともに旅をしていない。とはいえ出張であるとか家族といっしょに里帰りなどは何度かしているのだけれど、私の考える旅らしい旅の最後の記憶は、今手元にある「しまうまプリント」で印刷したフォトアルバムのタイトルを見ると2018とあるのでかれこれ6年以上前のこと。息子と共に日本を縦断した。東京から那覇、福岡、広島、京都、金沢、名古屋、岩手、札幌と移動しているのだがこの前年には四国にも行っているので、これで実質47歳を迎えることになる。さほど思い入れのない年齢でだからどうしたという感じだ。ただしこの間、家族も友人も同じだけ年を取ったのだと考えれば多少は感慨深い。そしてさらに言えばある時点から年を取らなくなった友人のことも少しは考える。とはいえ我らの道のりは最期はみな平等で実質一車線なので冬に免許を取ると冬道の走行には慣れるけれど大きい道での車線変更を練習する機会がないのだと聞いてなるほど人みな苦労があるなとしみじみした。


mixi2ではコミュニティを作って管理人になると、コミュニティ内限定のリアクションスタンプを作成することができる。新刊書評(出版半年以内限定、リプライ禁止)、ほりだし書評(古い本でもOK、リプライOK)というふたつのコミュニティで使えるスタンプをパワポで作成した。














ポストアポカリプスオタ活

だいぶ遠いところに住んでいる知人はめったに連絡をしてこないが、先日ひさびさにLINEが来たと思ったらいわゆるオタ活報告であった。すごく詳しく聞いたわけではないのであくまで私の想像だが、彼の場合、「なにかのファンです推してます」という雰囲気ではなくて、どちらかというと、作品背景や作品世界のルールが気に入っている、という感じだ。

推し活という言葉がそぐわないオタ活というのがある。私はそういうほうが馴染む。「推しは◯◯です」と言っている自分や他人をみるのが気恥ずかしいような気持ちがあるし、それだけではなく、「ほれたはれたのほうの好きばかりが好きじゃあるまい」ということ。

省略をしすぎなのだ。包括をしすぎなのだ。ひとつの言葉がもつ複数の意味のあいだで反復横跳びしながらすり足で距離を詰めていくような、じりじりとした感情の言語化を、日単位どころか何年もかけてじっくりじんわり成し遂げていく、そこにおそらく私たちの考える「オタ活」の主軸があって、この世界のどこがどう心地よいのか、この関係性のなにがどう気持ちいいのか、直感的に大事にしたいと思ってそこはまあ前提とするにしても、そこからずっと長い時間をかけて、「どうして」の部分を緻密に詰めていく作業こそがいわゆるオタ活だ。それを「推し」という言葉でくくられてしまうと、少なくとも私は、どうも雑だなと思う。あるいは知人もそういう気持ちでいるのではないかと私は勝手に想像している。彼の気に入った作品の話を聞いていると、「このキャラが好きなのか」みたいなことはデフォルトでは思いつかないし、まして「推し」という観念で彼の行動をはかることはむずかしい。

まあすべては私の想像でしかなくて、彼に直接そうだと聞いたわけではないのだが。




各種のSNSがどんどん気味の悪い場所になっていって、それでも掃き溜めに咲き乱れる一年草のような輝きを、日々なんとか探り当てては、やっぱりSNSがなかったころよりも今のほうが豊かだよねと、自他に言い訳しながら使い続けているのだけれど、昨今、SNSの明るい面、楽しい面、救いとなる面の多くが「推しに便利」という言葉で強調されすぎているような気もして、それはそれでなにか違うんだよなという感じだ。何かが好きだから推す、エールを送る、買って支える、そういった活動の尊さを私もよく理解しているし、そうやってSNSが使える方々はぜひそのまま人生をゆたかにひらいていってほしいと本気で願っているけれど、私は最近気付いた。私は何かを推したいからSNSを使っているのではたぶんなかった。たまになにかを応援するときにはやはり便利だなと思うけれど、そればかりではなかった。私は何かをずっと考え続ける場所としてSNSを使っていたかった。それがどんどん叶わなくなっていくのは、SNSのプラットフォームの責任ではないし、SNSユーザーの責任でももちろんない。エントロピーがそうやって増えていると言えばそれまでの話だ。しかし、どうにもやりきれない。さみしいものだ。好きと推し以外でドライブされているオタ活がこうまでないがしろにされていくなんて、SNSを使い始めたころは、思ってもいなかったのだ。