ポジティブな間違い探し

これまで地方のとある病院にたまに診療応援に通っていた。ちかごろは別の地方の病院や大学に診療応援に行くことも増えてきた。そういう年齢である。あちこちにご奉公している。

違う病院を見て回るとしみじみ思う。同じ病理医といっても働き方は人それぞれだなということ。人手が足りないのはどこもいっしょだが足りなさの種類がそれぞれ違うということ。場にあわせて応援の仕方を変える。応援といってもフレーフレーするのではなく、私が各々の病院ごとに困りごとをよく理解して働いて助ける。



最近よく行っている施設には人がいっぱいいる。しかし若い人が多いし、難解な診断をたくさんしなければいけない施設でもあるので、ダブルチェック=ひとりの病理医がしっかり診断したあとに別の病理医があらためて診断をしてふたり以上で意見をすり合わせる体制を取り入れている。

ダブルチェックを採用すると人がいくらいても足りない。患者に正確な診断をくだすためになるし、病理医の安心のためにもなるが、とにかくマンパワーを食う。


病理医ひとりが誤診なく仕事をできる量は平均して年間3000~4000件程度だ。300床くらいの中規模病院だと病理診断は年間だいたい4000を越えるので、地域ごとにそこそこ名のある病院だと病理医ひとりに責任を負わせるのが大変になってくる。病理医としての実感でいうと、がんばれば年間6000件くらいは診断できるが、正直きついと思う。そもそも病理医の仕事は診断だけではない。年間6000件を越えるほど診断しなければいけない病院にいると研究も教育もたいてい猛烈に忙しい。

したがって中規模病院では病理医をふたり以上置くのが鉄則だ。しかし理想はそうだが現実はなかなかそうもいかない。

さらにいえば、病理医がふたりいれば診断件数を半分にできるかというとそうではない。ここでダブルチェック制度が効いてくる。6000件のうち3000件をまず自分が見て診断を書き、もうひとりの病理医にチェックをたのみ、チェックしてもらっている間にもうひとりの病理医が書いた診断3000件のチェックをする。ということは結局6000件すべてに目を通すことになる。ダブルチェックを採用すると必要な病理医数は2倍になるということだ。


ほかの科の医者はダブルチェックなんてしない、なぜ病理医だけがそんなに慎重を来さなければいけないのか、専門医資格を持っているのだからひとりで診断を出せばいいではないか、と言う人がいる。病理医の中にも「結局はひとりがしっかり診断することだから」とダブルチェック制度をとりいれずにひとりで診断をし続けている人間はいる。

しかし病理医の仕事はほかの臨床医たちとちょっと違うと思う。

多くの臨床医は「仮固定」を上手に使う。患者を診て暫定的な診断を下しつつ、さまざまな治療介入をして患者の状態を流動させ、診断を随時動かしていく。究極的には診断が何であっても治療がはまって患者が回復すればよい。

一方で、病理医が診断名を文章の形で残すというのは強力な「固定性」を示す。病理ががんと言ったら臨床がどう考えていてもその患者はがんだ。治療を加えて経過を見るごとにだんだんと患者の全貌が明らかになっていくような時間軸を使った診断を、病理医はあまり多くは施さない。

ある時点で病理医が建てた灯台はその後何年にもわたって患者と主治医を照らし続ける。診断というものの重みが強いとも言えるし、取り返しがつかないほど患者と主治医をしばる呪いの言葉だとも言える。



私が出張応援に行っている病院の診断数は年間10000前後だ。病理専門医は4人くらいいるからダブルチェックをかけてもひとりあたりの診断数は5000くらいである。しかし彼女ら・彼らは診断だけをしているわけではない。いまどきの病理医はカンファレンスが多いし、人がいれば教育だってしなければいけない。そういうところに私のような市中病院の昼行灯が応援に行き、ダブルチェックを担当する。


ダブルチェックをすると自分以外の病理医の診断をつぶさに見ることになる。これがじつにおもしろい。同じ細胞を見ても感じ取ることが違うのは当たり前だが、その、人それぞれに異なる感性から、結果的にどの病理医もが納得するような「最大公約数的所見」をきちんと抽出して、共有性の高い病理診断として言語化をしているのがおもしろい。この細胞のこんな異常を見ているのが偉いなあ、文章の書き方がだれにもわかりやすい構成、論調になっていて読みやすいなあ、句読点、改行の使い方がこなれているなあと、本当にさまざまに感動しながらダブルチェックをする。

ときには若い病理医たちが良かれと思って書いた文章にダメ出しをする必要もある。誤字脱字をひとつ見つけただけでがっくりと落ち込む病理医は多い。公的文書だから何度も見直しているのにそれでも誤字脱字のたぐいが減らないのはなぜなのだろうと、校了直後の編集者みたいな愚痴を言っている病理医にもよく出会う。そういうミスをダブルチェックで見つけつつ、「あまり気にしなくていいですよ、人間はエラーするものですから」という論調と、「こういうミスを自分で拾い上げるにはこういう技術を磨くといいでしょうね」という論調とをきちんとブレンドしてコメントする。


自分がいちから顕微鏡を見て診断をするのとはだいぶ違う能力が求められるうえに、自分が別の患者をいちから見るにあたって新たな視点・学術を取り入れることができる。ダブルチェックはとてもいい仕事だし、裏方感が強いので若い病理医に担当させるよりも私のようなトウのスタンダップした中年がやったほうがいいだろうなと思う。

わたしの老害ムーブ

たとえば乳癌の組織標本を見る際、病理医は、癌細胞が微細なリンパ管や静脈に入り込んでいるかどうかを確かめる。癌細胞が数個ずつ、直径たかだか数ミクロンくらいしかないリンパ管とか数十ミクロンくらいしかない静脈の中に入り込んでいるところを見つけて、病理診断報告書に「リンパ管侵襲陽性」とか「静脈侵襲陽性」と記載する。

このリンパ管侵襲とか静脈侵襲といった細かい所見、手間をかけてわざわざ見つけるからには、「患者の予後を鋭く予測できる」と思われがちなのだが、実はそこに巨大なエビデンスは存在しない。

リンパ管侵襲のあるなしが、治療方針にめちゃくちゃ影響するわけではないのだ。

数年後に患者の癌が再発するかどうかを予測できないのだったら、たかだか数ミクロンの所見をがんばって拾いにいく意味はないのではないか。

同じことは胃癌、大腸癌、膵癌、肝内胆管癌などについても言える。

一部の癌においては、リンパ管侵襲や静脈侵襲が「リンパ節転移の個数を予測するのに役立つ」とされている。しかし、根拠となった論文の検索方法が、日頃われわれが行っている検体の検索方法と必ずしも同じとは限らないため、統計の結果をただちにわれわれの臨床にあてはめてよいかどうかは疑問だ。

究極的なことをいうと、リンパ管や静脈の所見を細かくとるよりも、最近はやりのAIかなにかをつかって、病変をトータルで観察したほうが、よっぽど転移・再発のリスクを推測しやすい。

「患者の未来を予測するための因子」としてはリンパ管や静脈というのは決して効率のよいツールではなく、切れ味のよいマーカーでもない。




それでも病理医はこれらの所見をきちんととる。なぜか? そこんところをあまり考えずに「見ろと教わったから」と答えている若い病理医もいるのだけれど、究極的なことを言うと、「見ろと教わったから」でいいのかもしれない。というかこの姿勢のおかげで知らず知らずのうちに病理医は恩恵を受けている。

リンパ管侵襲や静脈侵襲を見逃さないレベルでプレパラートをみることは、病理医のしごとを「丁寧にする」という意味で役に立っている。

リンパ管とか静脈なんて見なくていいよ、どうせ患者には関係ないし、という人間の雑な顕微鏡の見方では、その他の所見もごっそり取りこぼすのだ。Micropapillary patternに気づかないとか、浸潤性乳管癌に浸潤性小葉癌を合併していることを見落とすとか。

リンパ管侵襲や静脈侵襲のような所見を毎日コツコツと探索している病理医にだけ見えてくる風景がある。

これらは病理医の診断のリズムと精密さをととのえるための役に立っている側面がある。



病理医に限らず医療従事者の仕事は年々増えており、むかしの医者よりも今の医者のほうがだいたいにおいて忙しい。おまけに今は働き方改革の名のもとに、もうちょっと深く仕事をしたいと思っても定時だから帰らなければいけない、みたいなことがあちこちで起こっている。

すると、病理医の場合、どうなるかというと、先達たちが「見ておいたほうがいいよ、患者にはあまり関係ないかもしれないけれど」と言っていた細かい所見を若い人がだんだん見逃すようになっていくのである。

その気持ちはよくわかる。今は免疫染色も見なければいけないし遺伝子検査の結果だって考えなければいけない。昔のように、H&E染色のプレパラートだけじっくり見ていれば仕事が終わるということはないのだ。

しかし、病理所見の多くを「今はそれ、エビデンスで見ろと言われていないから省略しますね」とばかりにスルーしていくと、顕微鏡を用いて細胞をじっくり見る力がだんだん削がれていく。結果として、エビデンスが推奨している項目だけならばAIに判断させたほうが優秀だ、みたいな話がボンボン出てきて自分たちの首を絞めることになるのだ。


先達にくらべて少しずつ我々の手技が雑になっていくのはしょうがない。令和には職人が育ちにくいと思う。かわりに平均的な実力を持った人たちが増えて、天才が生まれにくくなり、全国津々浦々で同じような医療が提供できるようになって、ワークライフバランスも保たれる。いいことづくめではないかと思う。しかし、それはそれとして、そうは言っても。

病理組織像をとことん深く見る訓練をしないまま病理医としてキャリアを積んでいくのはもったいないのではないか、と私は思う。もっとみんな顕微鏡ちゃんと見たほうがいいよ。おじさんはそう思うよ。

ドナドナ通過後の轍の探索

出張の翌日の朝、メールチェックの最中に爪を切ることが多い。理由がありそうだなと思う。土日に移動している間はあまりキータッチをしないので、金曜日から3日ぶりにキーボードに触ることで爪の感触がいつもよりぐっと変わるのだろう。それがきっかけになって爪を切る。でもそれだけではないようにも思う。疲労を引きずった朝、足先もまぶたも指の先端もひとしくむくんでいて、キータッチがいまいちうまくのらないので、せめて爪だけでも万全な状態に……という理屈をつけて仕事から早々に離脱するための爪切り、ということもある。爪が伸びているから爪を切るという順序だけではない。手をキーボードから遠ざけたいから爪を切るという順序も存在するのだ。


行動には複数の理屈がある。その理屈たちはたいていの場合行動に少し遅れてついてくる。サイドカーのように、行動のエンジンの推進力を拝借して横にぴったりと並走するのが理屈であり、サイドカーとは異なり、ひとつのバイクの前後左右上下あたりに登場席がたくさんくっついているのが理屈なのだ。そもそも理屈というのはそこにあるものではなくて私たちが解釈するものである。そしてたとえばなにかの出来事の理屈を解説するにあたって、日本語とフランス語とインドネシア語ではまったく同じ現象をまったく同じ学術で言い表したとしてもニュアンスは異なるのではないか。どれが正しいというわけではなく物事の理屈というものは受け手の状態によってある程度うごめいてしまうものではないか。それらは互いに違うことを言っているように聞こえるときもあるし同時に成立する可能性もあるのではないか。


本質とか理屈とか理由みたいなものを一義的に定めることへの抵抗がある。絵画や音楽みたいなものだ。読み方はひとつではない。だれもが納得する強い理論を有する現象ですらその語り方には幾通りかのバリエーションがありうる。彼岸に存在する「本当のすがた」をそれぞれ違うところに立つ人間が別の角度から見ているという意味ではなく(形態学などをやっているとたまにこの考え方に戻ったほうがコミュニケーションが簡単になるよなと短絡してしまうことはあるのだけれど)、ほんとうに、見た人の数だけ、見えたかたちの数だけ、言い表した言葉の数だけ確固たる理屈が存在するのかもしれないという気が今はしている。


同接280人くらいのYouTube、ライブが終わった後に視聴者数を見たら110人くらいまで減っていた。ふつうはライブ中に出たり入ったりするはずだから終わったところでだいたい1000再生くらいになっているものなのだが今回は減っていた。アクセスしている人間たちがF5更新を繰り返したりしたせいで不審なアクセスと判定されて視聴数がいったんリセットされたのだろう。しかしこの解釈が「正しい」のか「まちがえている」のかはわからないし確定もできない。このレベルの現象であれば「正しい」答えはひとつに決まるものだと思いがちだが実際確定できるものではないのだと私は思う。世の中のたいていのことは「正しさ」を追求しきれないうちにシュンと過ぎ去っていくものなのではないかと強く思っている。放送終了後のアルゴリズムによって同接者数のいくつかを真の視聴者数としてカウントしないという処置が入っていたとして、ではそのアルゴリズムが働くときと働かないときの差はなんなのか、どうしたらもっと再生数が高くなっていたのか、でもこの動画のキモは再生数ではなくて脳内への浸透率の高さのほうだろうとか、とはいえ伝えたかったメッセージは基本的には「正しく」は伝わらないだろうしみんなは牛の出荷のことにしか興味が残っていないだろうな、みたいなことをふわふわと考えていた。